海軍大臣
海軍大臣
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吉田は部下の使い方があまり上手ではなかった。同期の山本五十六は、吉田の大臣就任に際し、吉田の将来を危惧し海軍次官留任を申し出たが、山本は連合艦隊司令長官として海上に出ることとなった。しかし後任の住山徳太郎は山本や井上成美のように強力に吉田を補佐できるタイプではなかった。 第2次近衛内閣発足以後、日独伊三国同盟締結に向けた動きが加速し、海相である吉田はその対応に苦慮する事となった。外相松岡洋右は熱心な三国同盟推進派であり、松岡は「アメリカ国民の半数はドイツ系なので、日独同盟を結べばドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動き、アメリカとは戦争にならない」と自説を展開。これに説き伏せられた吉田は日独伊三国同盟締結に賛成する。吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したものの、内閣の予想に反し米軍は軍備に着手。吉田は心配のあまり強度の神経衰弱にかかった。周囲に辞任を勧められたものの、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避け、職務に励み続けた。しかし、限界を超えた吉田はついに自殺を図り、日独伊三国同盟締結直前、1940年(昭和15年)9月5日に海相を辞任した。後任の海相及川古志郎も前任・吉田が三国同盟に賛成した以上、自身が反対する訳にもいかず、同27日、日独伊三国同盟は締結された。なお在任中吉田は消極的ではあったが、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」や「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」、出師準備の発動を認めている。
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海軍大臣
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「イワン・シェスタコフ」の記事における「海軍大臣」の解説
1868年ヴィルノ県知事に任命される。1870年辞任するが、1872年オーストリア及びイタリアに海軍武官として駐在する。1881年、海軍技術委員会造船班長を経て、翌1882年ロシア帝国海軍大臣に就任する。海相としては、黒海艦隊の再建に尽力したほか、バルチック艦隊とシベリア小艦隊(戦隊)の増強に努めた。この他、シェスタコフは海軍将校の人事に関して新制度を設けたほか、戦艦、装甲巡洋艦などの大型重装艦を増強した。1888年には海軍大将に昇進した。 1888年12月3日クリミア半島のセヴァストーポリで死去し、同地の聖ウラジーミル教会に埋葬された。
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