第2次近衛内閣
第2次近衛内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
その後ドイツとフランス、イギリスの間で戦闘は起きなかったが、1940年に入りドイツがベルギーやオランダに侵攻しすぐに降伏するなど、枢軸国の勢力が拡大しヒトラーの快進撃が伝えられるようになると、日本でもマスコミが騒ぎ出し、右派の朝日新聞も「バスに乗り遅れるな」という言葉で国民と軍とを積極的に煽った。 そのような中、1月には日米通商航海条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。悪化しつつある日米情勢の打開が求められたが、後の祭りであった。同年7月には参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により、親英米派の米内内閣は辞任に追い込まれた。 日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日に誕生した第2次近衛内閣では、勢いのいいドイツやイタリアなど枢軸国との提携を再度主張する外相松岡洋右らの声が高まった。 同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定され、日独伊の関係はより密接になってゆく。
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