清浦内閣とは? わかりやすく解説

清浦内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 00:29 UTC 版)

清浦内閣
国務大臣任命式後の記念撮影
(1924年1月7日)
天皇 第123代 大正天皇
内閣総理大臣 第23代 清浦奎吾
成立年月日 1924年大正13年)1月7日
終了年月日 1924年(大正13年)6月11日
与党・支持基盤 超然内閣
政友本党閣外協力
施行した選挙 第15回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1924年(大正13年)1月31日
懲罰解散
成立事由 大命降下
終了事由 第15回衆議院議員総選挙
前内閣 第2次山本内閣
次内閣 加藤高明内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
テンプレートを表示

清浦内閣(きようらないかく)は、子爵枢密院議長清浦奎吾が第23代内閣総理大臣に任命され、1924年大正13年)1月7日から1924年(大正13年)6月11日まで続いた日本の内閣

内閣の顔ぶれ・人事

国務大臣

1924年(大正13年)1月7日任命[1]。在職日数157日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 23 清浦奎吾 枢密院
子爵
外務大臣 37 松井慶四郎 外務省→)
貴族院[注釈 1]
男爵
初入閣
内務大臣 35 水野錬太郎 貴族院
無所属
交友倶楽部
帝都復興院総裁
大蔵大臣 24 勝田主計 貴族院
無所属
研究会
陸軍大臣 17 宇垣一成 陸軍中将
陸大14期
初入閣
海軍大臣 10 村上格一 海軍大将
海兵11期
初入閣
司法大臣 27 鈴木喜三郎 貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
文部大臣 33 江木千之 貴族院
無所属
茶話会
初入閣
農商務大臣 32 前田利定 貴族院
無所属
(研究会)
子爵
逓信大臣 28 藤村義明 貴族院
無所属
公正会
男爵
初入閣
鉄道大臣 4 小松謙次郎 貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1924年(大正13年)1月7日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 25 小橋一太 衆議院
立憲政友会→)
(無所属→)
政友本党
法制局長官 21 松本烝治 民間[注釈 2] 事務引継
1924年1月10日免[2]
22 佐竹三吾 鉄道省→)
貴族院[注釈 1]
無所属
(研究会)
1924年1月10日任[2]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 その他
きそくいん貴族院 7
しゆうきいん衆議院 0 内閣書記官長
くんふ軍部 2
かんりよう官僚 1 法制局長官
そのほかその他 1
11

内閣の動き

1922年、高橋内閣が与党内の抗争を収められずに総辞職に至った後、後継の首相選任を担った元老会議は、当時の二大政党(立憲政友会および憲政会)の内の一方を選択するのを避け、次期総選挙までの間は非政党人による政権(中間内閣)を続けることとし、加藤友三郎内閣、加藤の病死後は第2次山本内閣が組織される。1923年12月27日、虎ノ門事件の責を負って山本内閣が総辞職すると、次なる選挙管理内閣として、清浦奎吾枢密院議長が選任される。清浦は、貴族院の一大会派である研究会の出身で、政友会とは、高橋の政友会内閣時代からの付き合いがあったことから、研究会と政友会を与党とする算段であったが、元老会議および平田東助内大臣より、上述の経緯から、政党とは距離をとることを条件とされ、やむなく、研究会をはじめとする貴族院各派から閣僚をそろえて、1924年1月7日、発足した[3]

しかし、大臣の人選を巡って、貴族院各派の中でも研究会に偏重した配分であったことから他各派の反発を招き、更に衆議院各党も、中間内閣が三代続いたことに対して反発、"反清浦"で連携をする動きが強まる(第二次護憲運動)。その最中、政友会は清浦内閣と護憲運動との間での立ち位置を巡って真っ二つに分裂、清浦支持の勢力が結成した政友本党が、政友会の残留組や他党を上回って第1党となったことから、とりあえず研究会と政友本党を権力基盤として確保した清浦首相は棚ぼたでの長期政権樹立の可能性にかけ、1月31日、衆議院解散に踏み切る[4]

しかし第15回衆議院議員総選挙(5月10日投開票、定数464)の結果、政友本党は33議席減の116議席となって第2党転落、憲政会が48議席増の151議席となり、第1党の座を奪取。政友会、革新倶楽部をあわせた護憲三派の合計は281となり過半数を獲得、清浦首相の目論見は失敗に終わる。結局清浦内閣は選挙管理内閣としての当初の役割を全うし、6月11日に内閣総辞職、在任157日は当時としては歴代最短記録となった。後継には第1党党首の加藤高明が就任する(加藤高明内閣[5]

脚注

注釈

  1. ^ a b 1924年(大正13年)6月8日勅任。
  2. ^ 南満州鉄道副総裁。

出典

参考文献

関連項目

外部リンク


清浦内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:05 UTC 版)

清浦奎吾」の記事における「清浦内閣」の解説

「清浦内閣」および「第二次護憲運動」も参照 1923年大正12年)、第2次山本内閣虎ノ門事件総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣出現を望む西園寺推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下した1月1日大命受けた清浦75歳という老齢枢密院議長という職責から拝辞したい意向1月3日奏上するが、摂政宮裕仁親王より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚受けたため、清浦組閣を行うこととなった清浦組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会中心したため内閣構成貴族院大きく偏重していた。貴族院からの入閣研究会が3、交友倶楽部が2、茶話会が1、公正会が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった松井慶四郎入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった。ただし、西園寺清浦推挙にあたって政友会尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会協調が行われると考えており、清浦の側では政友会を敵とする意図持っていなかった。また研究会伝統的に政友会との協調関係持っており、組閣にあたって政友会との調整が行われていた。また内閣書記官長として政友会衆議院議員であった小橋一太招き政友会との連絡保持されていた。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣憲政常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している。 ところが山本内閣の後は政友会内閣であろう考えていた政友会派閥はこれに反発し総裁高橋是清辞任させようという動き強まった高橋派主導権奪還のために清浦内閣との対決姿勢強め一方1月1日夜に反高派である「改革派」の会合が行われ、清浦内閣に対し積極援助の方針を取る」ことが申し合わされている。 1月11日には都内新聞各紙が清浦内閣に反発したこともあり、議会内外での倒閣動きはじまった1月18日枢密顧問官三浦梧楼仲介政友会総裁高橋是清憲政会総理加藤高明革新倶楽部犬養毅会合が行われ、「特権内閣一日早く打倒」するという申し合わせが行われ、いわゆる護憲三派による倒閣活動第二次護憲運動」が本格化した。 これを受けて1月22日衆議院本会議では清浦首相施政方針演説普通選挙法提出を行う予定であったが、裕仁親王成婚控えた中で政争は慎むべきであるという政友会小川平吉動議により、29日までの休会議決されたため、行われなかった。一方研究会勢力拡大とその党派性の強い議会運営反感抱いていた「幸三派」と呼ばれる研究会勢力による貴族院内での清浦批判勢いづいた。 また護憲三派2月1日内閣不信任案提出する意向固め、これを察知した小橋書記官長それ以前解散進言した。清浦はこれを容れ、1月29日本会議解散行った。これは「懲罰解散」と呼ばれ各層反感を買った1月29日には政友会から「改革派であった床次竹二郎一派149名が政友本党結成して分裂し、清浦内閣の準与党となった5月10日行われた第15回衆議院議員総選挙結果護憲三派合計281名が当選一方で与党政友本党改選前議席から33減の116議席となった清浦はすでに敗北予期しており、投票日当日には辞任する意向漏らしている。西園寺は「清浦辞する要はないと思ふ」と述べたものの、現実には議会運営不可であった5月15日に清浦内閣は総辞職した。5か月間の短命内閣であった清浦憲政の常道従い第一党となった憲政会総裁加藤高明推挙したいという意向西園寺伝えたが、西園寺拒絶し元老としての西園寺改め加藤奏薦した。

※この「清浦内閣」の解説は、「清浦奎吾」の解説の一部です。
「清浦内閣」を含む「清浦奎吾」の記事については、「清浦奎吾」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「清浦内閣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清浦内閣」の関連用語

清浦内閣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清浦内閣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの清浦内閣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの清浦奎吾 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS