清浦内閣
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清浦内閣 | |
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国務大臣任命式後の記念撮影
(1924年1月7日) |
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天皇 | 第123代 大正天皇 |
内閣総理大臣 | 第23代 清浦奎吾 |
成立年月日 | 1924年(大正13年)1月7日 |
終了年月日 | 1924年(大正13年)6月11日 |
与党・支持基盤 | (超然内閣) 政友本党(閣外協力) |
施行した選挙 | 第15回衆議院議員総選挙 |
衆議院解散 | 1924年(大正13年)1月31日 懲罰解散 |
成立事由 | 大命降下 |
終了事由 | 第15回衆議院議員総選挙 |
前内閣 | 第2次山本内閣 |
次内閣 | 加藤高明内閣 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
清浦内閣(きようらないかく)は、子爵・枢密院議長の清浦奎吾が第23代内閣総理大臣に任命され、1924年(大正13年)1月7日から1924年(大正13年)6月11日まで続いた日本の内閣。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
1924年(大正13年)1月7日任命[1]。在職日数157日。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
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内閣総理大臣 | 23 | 清浦奎吾 | ![]() |
枢密院 子爵 |
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外務大臣 | 37 | 松井慶四郎 | ![]() |
(外務省→) 貴族院[注釈 1] 男爵 |
初入閣 | |
内務大臣 | 35 | 水野錬太郎 | ![]() |
貴族院 無所属 (交友倶楽部) |
帝都復興院総裁 | |
大蔵大臣 | 24 | 勝田主計 | ![]() |
貴族院 無所属 (研究会) |
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陸軍大臣 | 17 | 宇垣一成 | ![]() |
陸軍中将 (陸大14期) |
初入閣 | |
海軍大臣 | 10 | 村上格一 | ![]() |
海軍大将 (海兵11期) |
初入閣 | |
司法大臣 | 27 | 鈴木喜三郎 | ![]() |
貴族院 無所属 (研究会) |
初入閣 | |
文部大臣 | 33 | 江木千之 | ![]() |
貴族院 無所属 (茶話会) |
初入閣 | |
農商務大臣 | 32 | 前田利定 | ![]() |
貴族院 無所属 (研究会) 子爵 |
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逓信大臣 | 28 | 藤村義明 | ![]() |
貴族院 無所属 (公正会) 男爵 |
初入閣 | |
鉄道大臣 | 4 | 小松謙次郎 | ![]() |
貴族院 無所属 (研究会) |
初入閣 | |
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内閣書記官長・法制局長官
1924年(大正13年)1月7日任命[1]。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣書記官長 | 25 | 小橋一太 | ![]() |
衆議院 (立憲政友会→) (無所属→) 政友本党 |
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法制局長官 | 21 | 松本烝治 | ![]() |
民間[注釈 2] | 事務引継 1924年1月10日免[2] |
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22 | 佐竹三吾 | ![]() |
(鉄道省→) 貴族院[注釈 1] 無所属 (研究会) |
1924年1月10日任[2] | ||
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勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
出身 | 国務大臣 | その他 |
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貴族院 | 7 | |
衆議院 | 0 | 内閣書記官長 |
軍部 | 2 | |
官僚 | 1 | 法制局長官 |
その他 | 1 | |
11 |
内閣の動き
1922年、高橋内閣が与党内の抗争を収められずに総辞職に至った後、後継の首相選任を担った元老会議は、当時の二大政党(立憲政友会および憲政会)の内の一方を選択するのを避け、次期総選挙までの間は非政党人による政権(中間内閣)を続けることとし、加藤友三郎内閣、加藤の病死後は第2次山本内閣が組織される。1923年12月27日、虎ノ門事件の責を負って山本内閣が総辞職すると、次なる選挙管理内閣として、清浦奎吾枢密院議長が選任される。清浦は、貴族院の一大会派である研究会の出身で、政友会とは原、高橋の政友会内閣時代からの付き合いがあったことから、研究会と政友会を与党とする算段であったが、元老会議および平田東助内大臣より、上述の経緯から、政党とは距離をとることを条件とされ、やむなく、研究会をはじめとする貴族院各派から閣僚をそろえて、1924年1月7日、発足した[3]。
しかし、大臣の人選を巡って、貴族院各派の中でも研究会に偏重した配分であったことから他各派の反発を招き、更に衆議院各党も、中間内閣が三代続いたことに対して反発、"反清浦"で連携をする動きが強まる(第二次護憲運動)。その最中、政友会は清浦内閣と護憲運動との間での立ち位置を巡って真っ二つに分裂、清浦支持の勢力が結成した政友本党が、政友会の残留組や他党を上回って第1党となったことから、とりあえず研究会と政友本党を権力基盤として確保した清浦首相は棚ぼたでの長期政権樹立の可能性にかけ、1月31日、衆議院解散に踏み切る[4]。
しかし第15回衆議院議員総選挙(5月10日投開票、定数464)の結果、政友本党は33議席減の116議席となって第2党転落、憲政会が48議席増の151議席となり、第1党の座を奪取。政友会、革新倶楽部をあわせた護憲三派の合計は281となり過半数を獲得、清浦首相の目論見は失敗に終わる。結局清浦内閣は選挙管理内閣としての当初の役割を全うし、6月11日に内閣総辞職、在任157日は当時としては歴代最短記録となった。後継には第1党党首の加藤高明が就任する(加藤高明内閣)[5]。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
清浦内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:05 UTC 版)
「清浦内閣」および「第二次護憲運動」も参照 1923年(大正12年)、第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下した。1月1日に大命を受けた清浦は75歳という老齢と枢密院議長という職責から拝辞したい意向を1月3日に奏上するが、摂政宮裕仁親王より「此際の事であるから務めてやれ」という優諚を受けたため、清浦は組閣を行うこととなった。 清浦は組閣にあたって自らの支持基盤であった研究会を中心としたため、内閣の構成は貴族院に大きく偏重していた。貴族院からの入閣は研究会が3、交友倶楽部が2、茶話会が1、公正会が1という配分であり、陸海軍大臣のほかは外務次官であった松井慶四郎が入閣したのみであり、政党からの入閣者はなかった。ただし、西園寺が清浦推挙にあたって「政友会を尊重せしめ、政策により助けさせるが宣し」と述べたように西園寺は清浦内閣と政友会の協調が行われると考えており、清浦の側では政友会を敵とする意図は持っていなかった。また研究会は伝統的に政友会との協調関係を持っており、組閣にあたっても政友会との調整が行われていた。また内閣書記官長として政友会の衆議院議員であった小橋一太を招き、政友会との連絡も保持されていた。清浦は後に貴族院で「過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣ガ憲政ノ常道に背クモノトハ思イマセヌ」と答弁している。 ところが山本内閣の後は政友会内閣であろうと考えていた政友会の派閥はこれに反発し、総裁高橋是清を辞任させようという動きが強まった。高橋派が主導権奪還のために清浦内閣との対決姿勢を強める一方、1月1日の夜には反高橋派である「改革派」の会合が行われ、清浦内閣に対し「積極的援助の方針を取る」ことが申し合わされている。 1月11日には都内の新聞各紙が清浦内閣に反発したこともあり、議会内外での倒閣の動きがはじまった。1月18日に枢密顧問官三浦梧楼の仲介で政友会総裁高橋是清、憲政会総理加藤高明、革新倶楽部犬養毅の会合が行われ、「特権内閣を一日も早く打倒」するという申し合わせが行われ、いわゆる護憲三派による倒閣活動「第二次護憲運動」が本格化した。 これを受けて1月22日の衆議院本会議では清浦首相が施政方針演説と普通選挙法案提出を行う予定であったが、裕仁親王成婚を控えた中で政争は慎むべきであるという政友会の小川平吉の動議により、29日までの休会が議決されたため、行われなかった。一方、研究会の勢力拡大とその党派性の強い議会運営に反感を抱いていた「幸三派」と呼ばれる反研究会勢力による貴族院内での清浦批判も勢いづいた。 また護憲三派が2月1日に内閣不信任案を提出する意向を固め、これを察知した小橋書記官長はそれ以前の解散を進言した。清浦はこれを容れ、1月29日の本会議で解散を行った。これは「懲罰解散」と呼ばれ、各層の反感を買った。1月29日には政友会から「改革派」であった床次竹二郎一派149名が政友本党を結成して分裂し、清浦内閣の準与党となった。 5月10日に行われた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で準与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はすでに敗北を予期しており、投票日の当日には辞任する意向を漏らしている。西園寺は「清浦は辞する必要はないと思ふ」と述べたものの、現実には議会運営は不可能であった。5月15日に清浦内閣は総辞職した。5か月間の短命内閣であった。清浦は憲政の常道に従い、第一党となった憲政会総裁加藤高明を推挙したいという意向を西園寺に伝えたが、西園寺は拒絶し、元老としての西園寺が改めて加藤を奏薦した。
※この「清浦内閣」の解説は、「清浦奎吾」の解説の一部です。
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