後日譚と清浦内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:38 UTC 版)
一方、清浦とその支持勢力であった研究会はこの顛末にひどく失望した。特に研究会の議員は元は平田と茶話会が仕掛けた倒閣運動に由来するのに、清浦が組閣に失敗したのは平田が清浦に大命降下が下った事に嫉妬したからではないかと疑った。かつて、平田も1912年に元老会議で後継首班に推挙されたが、諸般の事情で辞退して大命降下には至らなかった経緯があったからである。勿論、平田や茶話会にとっては思わぬ言いがかりであり、当の清浦でさえ相手にしなかった臆説でしかなかったが、両会派が以前から貴族院内の主導権を巡って対立を起こすことが多かったために、ここに来て一気に対立が表面化したのである。その結果、かつては同じ「山縣閥」として貴族院を主導してきた両会派は決別して研究会は政友会との関係を強め、茶話会はしばらくはなお超然主義を維持したものの、研究会との対抗上遅れて国民党などとの関係を強める路線に転換する事になった。 この確執は根深く、10年後の1924年に内大臣であった平田の奔走によって清浦に再度大命が降下して今度は清浦内閣が成立した。その結果、茶話会からも江木千之が文部大臣として入閣する。ところが、外務・陸軍・海軍の3大臣がそれぞれの省から出された以外は全て貴族院議員7名が占める超然内閣にしたにも関わらず、清浦系の研究会が3ポストを占めた事から茶話会は激怒し、閣僚を出しているにも関わらず他の反研究会会派とともに「幸三派」と呼ばれるグループを結んで清浦内閣と研究会を非難して第2次護憲運動を側面支援することになったのである。
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