清浄院 (加藤清正室)とは? わかりやすく解説

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清浄院 (加藤清正室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 16:48 UTC 版)

清浄院(せいじょういん、しょうじょういん、 旧字体淸淨院天正10年(1582年) - 明暦2年9月17日1656年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。加藤清正継室水野忠重の娘。名はかな。

生涯

天正10年(1582年)、三河国刈谷城主・水野忠重の娘として誕生。

その後、いとこの徳川家康養女となり、慶長4年(1599年)、18歳で加藤清正と結婚し正室として大坂屋敷に入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを前に清正の待つ熊本へと脱出。同地で八十姫(瑤林院)を生む。

清正死後も熊本城にあって、化粧料1万石(加藤家侍帳)を与えられ、幼年の2代忠広を支えて重きをなす。忠広の室に江戸幕府将軍徳川秀忠の養女・崇法院蒲生秀行と家康三女振姫の娘)を熊本に迎え、清正の長女・あま姫(本浄院)を徳川譜代の重臣・阿部正次嫡男政澄の室に出し、夫の家康との生前の約束である八十姫(瑤林院)と徳川頼宣の結婚を履行させるなど、加藤家と徳川家の絆を結ぶことに尽くす。

加藤氏改易後は、清正の京都の菩提寺である本圀寺門前に住み、清正の菩提を弔って余生を過ごす。明暦2年(1656年)に死去、享年75。本圀寺の清正廟[1]の隣に埋葬される。八十姫は深く悲しみ、両親墓に並べて自身の逆修墓(生前墓)を建て、墓前に池を掘り加藤家墓地として整備、両親の戒名を並べた父母位牌(和歌山報恩寺蔵)を作り、日夜供養したという。

脚注

  1. ^ 本圀寺の寺伝によれば、文禄元年(1592年)、加藤清正は朝鮮出征の際、本圀寺に自身の肉歯・毛髪を石室に納め、生き墓「真生廟」を建立して出征したとされている。

参考文献

  • 水野勝之・福田正秀『加藤清正「妻子」の研究』ブイツーソリューション、2007年

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