加藤氏とは? わかりやすく解説

加藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/03 09:57 UTC 版)

加藤氏(かとうし)は、武家華族だった日本氏族藤原氏の一族で、加藤の「」は加賀の藤原からきたものと一般にいわれる[1]

藤原北家道長流の子孫と称する加藤家からは加藤清正が出た。藤原北家利仁流の子孫と称する加藤家からは加藤光泰嘉明が出た。後者の二名の系統は近世にそれぞれ大洲藩主家、水口藩主家となり、維新後には両家とも華族の子爵家に列している。

利仁流加藤氏

加藤氏
本姓 藤原北家利仁流[1]
家祖 藤原景道[1]
種別 武家
華族(子爵)
出身地 伊勢国[2]
主な根拠地 加賀国
支流、分家 遠山氏武家
伊丹氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士藤原景道[注釈 1]加賀介となったことから加賀の藤原を略して「加藤」を称するようになったとされる[1][注釈 2]。景道の曽孫といわれる加藤景廉源頼朝の挙兵に参加し[1][注釈 3]平家が滅亡して鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。頼朝から安田義定を討つように梶原景時とともに加藤景廉も命ぜられた。後に遠江国浅羽荘の地頭職を得たが、梶原景時が討たれた際、景廉は景時と親しかったためか所領を没収された。

その末裔としては、美濃遠山氏やその係累である加藤光泰系の加藤氏が挙げられるが、なかでも異色の経歴を持つ者は賤ヶ岳の七本槍の一人加藤嘉明である。嘉明系加藤氏はもとは岸氏を名乗っていたとされ、父である岸教明の名が文献にみえる。嘉明の祖父加藤朝明は、元来は甲斐武田氏の家臣であったが、何らかの事情があり、三河国に移住し、徳川家康の祖父松平清康、父松平広忠に仕えたとされるが、嘉明の作成した系図以外にその名は見えず、また加藤氏も加藤景泰の猶子となったことから使用をはじめたとされる。光泰系加藤氏と系図がつながるのはそのためである。父である、岸教明は三河の一向一揆に加担して松平氏を退去し、尾張織田家に仕え、後の豊臣秀吉に見出されたという。

一族

平安・鎌倉時代

藤原景道
加藤氏の祖と言われている。
加藤景廉
伊豆国武士源頼朝の挙兵に従い武功多し。
加藤景正
加藤景廉のともいう瀬戸焼の祖。

戦国時代以降

加藤光泰
蛇の目、上り藤
加藤光泰は豊臣秀吉に仕え、甲斐24万石を領した。光泰の子の加藤貞泰は文禄3年(1594年)に美濃黒野4万石に減封。慶長15年(1610年)に伯耆米子藩に移封に際して2万石加増されて6万石となり、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に移封された。以降廃藩置県まで存続。最後の藩主泰秋は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で大洲藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた[4]。明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると加藤家も大名家として華族に列した[5][6]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 4]として子爵に列せられた[8]。泰秋は貴族院の子爵議員に当選して務めた[9]。その子泰通も貴族院議員を務めるとともに宮内省に官僚として勤務した。彼の代に加藤家の住居は東京市渋谷区穏田にあった[9]
 歴代当主
  1. 加藤光泰
  2. 加藤貞泰
  3. 加藤泰興
  4. 加藤泰恒
  5. 加藤泰統
  6. 加藤泰温
  7. 加藤泰衑
  8. 加藤泰武
  9. 加藤泰行
  10. 加藤泰候
  11. 加藤泰済
  12. 加藤泰幹
  13. 加藤泰祉
  14. 加藤泰秋
  15. 加藤泰通
  16. 加藤泰同
加藤嘉明
下り藤、蛇の目
加藤教明は元々松平氏の家臣であったが、三河一向一揆で主君・松平元康(後の徳川家康)に叛旗を翻して出奔した。その教明の子として生まれた加藤嘉明は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の七本槍の1人となる。豊臣政権下では小田原征伐朝鮮出兵などで活躍する。豊臣秀吉没後は徳川家康に接近し、関ヶ原合戦では東軍に属して伊予松山藩21万石の大名となる[10]。嘉明は晩年に陸奥会津藩40万石に加増され大大名となった[10]。しかし嘉明の死後、跡を継いだ明成の代に会津騒動と称されるお家騒動により改易された。明成の庶子加藤明友近江水口藩主2万石の小大名として再興を許された[10]。後に下野国壬生藩に移封された際に5000石加増され、正徳3年(1713年)に水口藩に戻されて以降同藩主家として廃藩置県まで存続[11]。最後の水口藩主明実は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で水口藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで同藩知事を務めた[12]。明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると加藤家も大名家として華族に列した[5][6]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 5]として子爵に列せられた[8]
歴代
  1. 加藤嘉明
  2. 加藤明成
  3. 加藤明友
  4. 加藤明英
  5. 加藤嘉矩
  6. 加藤明経
  7. 加藤明煕
  8. 加藤明堯
  9. 加藤明陳
  10. 加藤明允
  11. 加藤明邦
  12. 加藤明軌
  13. 加藤明実
  14. 加藤克明
  15. 加藤久幹
  16. 加藤敏之

系図



庶家

道長流加藤氏

尾張愛知郡中村より起こった。藤原道長流(藤原長家御子左家の流れを汲む)とはされているが、真偽の程は定かではない。戦国時代加藤清正豊臣秀吉に仕えて最終的に肥後熊本の領主に栄進。また豊臣家の武断派として武功も多く挙げた。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでも東軍に属して武功を立て、戦後52万石に加増されて熊本藩主となる。

慶長16年(1611年)に清正が死去して子の加藤忠広が継承するが、寛永9年(1632年)に第3代将軍・徳川家光に素行を咎められ、改易となった。理由は嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだこととされ、他家にも火の粉が降りかかり、ともすれば乱を起こすような行為は領主の子としての資格を厳しく問われたのである。その後、忠広は出羽に1万石の捨扶持を与えられ、余生を過ごした。

忠広の末裔は大庄屋として続き、明治時代には加藤家の屋敷に明治天皇行幸した。日本人の既婚女性として理学博士号を最初に取得した加藤セチはそのときの加藤家当主の孫に当たる。

加藤忠広の改易後、加藤正見より【加藤氏】蛇の目紋。加藤正範より(筑後加藤氏)[13]

系図



上野原加藤氏

上野原加藤氏は、甲斐国都留郡上野原(現・山梨県上野原市)の国衆。都留郡上野原の上野原城(内城館)城主。上野原市大椚(おおくぬぎ)には長峰砦が所在し、『甲斐国志』によれば上野原加藤氏の城郭であるとする説がある[14]

上野原は都留郡の東端に位置し、武蔵国相模国に近い。上野原加藤氏は室町戦国期に甲斐武田氏家臣として活動が見られる。加藤景廉の後裔を称し、室町時代には加藤梵玄が武田信長に従い甲府盆地では河東郷(中巨摩郡昭和町)を領し、下河東(中央市)の永源寺は梵玄を開祖としている。また、上河東には加藤玄賀屋敷跡が残されており、加藤氏は当地を拠点にしていたと見られている。

関東では文明9年(1477年)に山内上杉氏の家臣である白井長尾氏長尾景春が山内上杉氏に対して反逆し(長尾景春の乱)、上野原加藤氏は景春方に属している。景春の乱はいったん収束するが、永正7年(1510年)に景春は再び反逆をし永正の乱が発生する。景春は同年には上野国における活動が知られるが、『勝山記』によれば景春は永正8年(1511年)に都留郡から武蔵国に侵攻しており、上野原加藤氏を頼っていたとも考えられている。

戦国時代には都留郡では有力国衆として小山田氏が台頭するが、上野原加藤氏は小山田氏との関係も深いものの自立しており、独自に武田氏に従属した国衆であったと考えられている[15]。戦国期には加藤虎景(駿河守)の存在が見られ、武田氏と甲相同盟を結ぶ相模国の後北条氏への援軍に赴いており、永禄4年(1561年)3月3日に越後国の上杉謙信の関東侵攻に際して北条氏照に援軍を要請されている[16]。虎景のその後の動向は不明であるが、子息には加藤氏を継承した景忠(丹後守)、初鹿野氏を継いだ昌久(初鹿野信昌)がいる[16]

景忠も虎景と同様に後北条氏への援軍を行い、永禄5年(1562年には武蔵国由井(現・東京都八王子市)に出陣している[15]。永禄12年(1569年)に甲相同盟の破綻により武田氏後北条氏が敵対関係に入ると、景忠は荻原豊前守の指揮下に置かれている[15]。永禄12年(1569年)に小山田信茂とともに武蔵国滝山城(東京都八王子市)を攻撃し、同年11月には後北条氏の本拠である小田原城を攻撃し、三増峠の戦いにおいても活躍したという。その後甲相同盟は回復し、景忠は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死したと考えられている[16]

景忠の子・信景(次郎左衛門尉・丹後守)は武田信虎の弟・勝沼信友の子息で養子に入ったとされるが、世代が合わない点が指摘される[16]。天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡では関東へ逃れ、武蔵国箱根ヶ崎(現・東京都瑞穂町)において後北条勢に攻められ、滅亡したという[16]

上総の上野原加藤氏

なお、武田信長(? - 1477年没)は後に甲斐から上総国に移って上総武田氏の祖になったことが知られているが、その上総武田氏の根拠地の1つで、後に後北条氏と里見氏の間で攻防の舞台になった佐貫城千葉県富津市)の付近には加藤氏という有力領主がおり、後北条氏・里見氏のいずれからも佐貫城代に起用されている(特に里見義弘が佐貫城を居城にした際に城代の加藤信景(孫五郎・伊賀守)が重臣に取り立てられている)。この上総佐貫の加藤氏についても元々土着の領主だったのではなく、上野原加藤氏の一族が武田信長に従って上総に入り土着化したとする説がある[17]

系譜

美濃加藤氏

凡例
・実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係で表記している。
・可能な限り実名()で記してある。
・基本的に男のみ記した。
・太字伊予大洲藩藩主家。
・斜字伊予新谷藩藩主家
藤原利仁
  ┃
斎藤叙用
  ┃
 吉信
  ┃
加藤重光
  ┃
 貞正
  ┃
 正重
  ┃
 景道
  ┣━━━┓
 景季  景清
      ┃
     景信
      ┃
     景員
  ┏━━━┫
 光員  景廉
  ┏━━━╋━━┳━━┳━━┓
遠山景朝 尚景 景長 景義 景経
  ┏━━━━━━━━━┛
 (略)
  ┃
 景泰
  ┣━━┓
 光泰 光政 一柳直秀
  ┣━━┳─┐┏┻━┓
 貞泰 光直 光吉  女(加藤光泰正室)
  ┣━━━━━━━━┓
 泰興       直泰
  ┣━━┳━━┓  │
 泰義 泰堅 泰茂 ─│──────┐
  ┃┌───────┘      │
  ┣━━┳━━┳━━┳━━━┓  │
 泰觚 泰恒 泰孝 泰実 小出有敬 │
  ┃  ┗━━━━━━━━━┓  │
  ┣━━┓         ┣━━┳━━┓
 泰貫 泰恒        泰統 泰都 泰広
  │            ┃  ┗━━┓
 泰広           泰温     ┃
  ┣━━━┳━━━━┓   ┣━━┳─┐┃
 泰宦 高力直泰 安西政泰 泰武 津礼=泰衑
  ┣━━┓       ┌───────┫
 泰賢 泰由      泰武       ┃
  ┃          │       ┃
  ┣━━┓   ┏━━━┳━━━┳━━━╋━━┳━━┳━━━┓
 泰儔 泰好 喜連川恵氏 泰行 溝口直英 泰候 泰豊 泰周 大関増業
  ┃          │
 泰理         泰候
  ┣━━┓       ┣━━┓
 泰令 済重      泰済 泰倫
  ┃          ┃
 泰成         泰幹
             ┣━━┳━━┓
            泰祉 泰秋 女(加藤泰令正室)
             │
            泰輔
          ┏━━╋━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
         泰治 泰通 泰俊 西尾忠方 廉之 伊達廉夫
          │
         廉之

脚注

注釈

  1. ^
    「将軍従兵、或は以って散走、或は以って死傷、残るところは僅かに六騎あり。長男義家、修理少進藤原景通」 — 『陸奥話記』、[3]
  2. ^
    「正重(加藤、左衛尉、従五下─景道(加賀介、修理少進、加賀介たるにより加藤と号す。頼義朝臣郎等七騎その一)」 — 『尊卑分脈』、[1]
  3. ^
    「加藤太、同じき加藤次あり、狩野介に従いて」 — 『保元物語』、[3]
    「加藤次景廉以下」—治承4年8月6日条、「加藤五郎景員、同藤太光員、同藤次郎景廉」—治承4年8月20日条 — 『吾妻鏡』、[3]
    「此に当国(伊豆)住人に加藤太みつたね、加藤次景かどとて兄弟二人あり。是は『都をば霞と共に出しかど、秋風ぞふく白川の関』という秀歌を詠みたりし能因入道には、四代の孫子なり。かの能因が子息に月並みの蔵人というもの、伊勢の国に下りて、柳の右馬の入道が婿になりて、もうけたりし子を加藤五景貞といいき。後には使の宣旨をこうむりて、加藤判官とぞいいける。その子供なりければ、加藤太加藤次という。本・伊勢の国に住みけるが、父景貞に敵あり。平家の侍に伊藤という者なり。かの敵を殺して、本国には安堵せず、東国に落ち下りて、武蔵国秩父をたのみけれども、平家に恐れてこれを辞退す。千葉をたのむといえども、同じく恐れて置かざりけり。伊豆国の公藤介をたのみければ、かいがいしくこれを請取り、妹に合わせて、用心のためにたのみ置く。その故は公藤介・三戸次郎という者と中悪くして、常に軍しければ、剛の者は一人も大切なり。加藤兄弟・心際不適なりと見て、軍の方人にせんと思ければ、平家にもはばからず、親しくなりたりけるが、常に佐殿へ参りてたのみ申しければ、阻てなく思し召されけり。兄弟共に兵也けれども、景廉はことさら、きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者なり。折節、佐殿にはご不審のこと・ありければ、催には漏れたりけれども、世間も怱々なる心地しけるうえ、頻りに胸騒ぎのしければ、何事のあるやらんとおぼつかなくて、宿直申さんと思いて、紫威の腹巻に、太刀計を帯び、乳母子の州前三郎を相具して、鞭を揚て馳せ参る。門外にして馬より下り、佐殿の館の内へつと入る。佐殿は小具足付て縁の上に小長刀突立たまえり」 — 『源平盛衰記』、[3]
  4. ^ 旧大洲藩は現米3万476石(表高6万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[7]
  5. ^ 旧水口藩は現米1万1710石(表高2万5000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[7]

出典

  1. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 1563.
  2. ^ 太田 1934, p. 1566.
  3. ^ a b c d 太田 1934, p. 1564.
  4. ^ 新田完三 1984, p. 146.
  5. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 24.
  6. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  7. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  8. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 330.
  9. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 224.
  10. ^ a b c 新田完三 1984, p. 806.
  11. ^ 新田完三 1984, p. 806-808.
  12. ^ 新田完三 1984, p. 808.
  13. ^ 日本の苗字七千傑《加藤氏/片岡氏》
  14. ^ 『山梨県の地名』、p.98
  15. ^ a b c 丸島(2015)、p.259
  16. ^ a b c d e 丸島(2015)、p.260
  17. ^ 滝川恒昭「戦国期の上総国佐貫に関する一考察-加藤氏・佐貫城も検討を中心に-」(佐藤博信 編『中世東国の社会と文化 中世東国論:7』(岩田書院2016年ISBN 978-4-86602-981-8

参考文献

系譜参考

関連項目


加藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「加藤氏」の解説

室町時代以来古参家臣加藤惣領家与板立藩時から家老家柄連綿小諸入封後に末期養子祇園祭りでの不祥事により、2度渡り持高減石格式降格一時期家老家柄外れるも8代〜9代藩主治世期の功労により格式をほぼ回復小諸家臣加藤氏の家系図由緒書は、詳細なものが藩庁提出されいたものとみられるが、ほとんどが散逸されているとみられ、公開されている古文書目録等には、簡約なものしか収載がないうえ、小諸藩文書などにも、記述量が少ない。ほかの四天王家と比較して、その家史を探る手がかりとなる史料乏しい。 室町戦国期に、三河国宝飯郡愛知県豊川市及びその周辺)に勢力持った牛久保六騎牧野真木岩瀬能勢稲垣山本)・地侍十七人衆』の一つ数えられた加藤氏の末裔であると考えられる地侍十七人衆のメンバーについては、諸説があるが、加藤氏がこのメンバーであったことは疑いがない。当家室町戦国期藩主牧野氏先祖が、牛久保城であった時代から仕えていた古参家臣加藤惣領家である。元和年間家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」にもその名(加藤)が見える。長岡藩中老年寄役以上に列するには不足があったが、加藤牧野康成与板立藩するにあたって支藩家老として添えられた。 明暦3年1657年長岡城から与板陣屋移転するにあたって加藤三郎右衛門は、御引っ越し万事取り仕切ったほか、元禄15年1702年)に藩主与板陣屋から、小諸城主に栄典したときにも、家臣筆頭であった小諸藩主牧野氏家老である真木氏稲垣氏は、牧野家中(かちゅう)の重鎮ではあるが、小諸家臣となった家系惣領家ではない。これに対して、加藤氏は、藩主牧野氏先祖牛久保在城期からの惣領家であるほか、与板立藩以来家老連綿家柄である。しかし小諸入封後に末期養子となり、他藩から近親者迎えたことで、家柄格式大きく下げた一時家臣筆頭勤め家柄取りあげられとみられる江戸武艦によると江戸家老就任する例が多く家老本職就任すると、通称を孫から六郎兵衛改称しているが、小諸藩文書によると、必ずしもこうした傾向みられない。 すなわち小諸入封の翌年にあたる元禄16年家禄380石、その後段々と加増され、最高時420石となるも、末期養子となり、失脚。この時代家禄は、給人地を家禄換算して組み入れていた数値である。 寛政3年1791年)から5年まで加藤六郎兵衛成昭は、在所にあって家老・家筆頭として、藩政立て直しはかったとみられるが、体調悪化により退役末期養子格式下げていた加藤氏が家臣筆頭となったとき、他の有力諸士2家が持高下げていたので、加藤氏は相対的な理由家臣筆頭になってもおかしくはない位置にあったといえる加藤六郎兵衛成昭の立て直し引き継いだ家老牧野八郎左衛門載成によって、失政が行われた。 寛政5年1793年)から、文政7年1824年)まで加藤氏の当主であったとみられる加藤三(郎)左衛門成高は、家老に次ぐ用人加判まで進んだが、小諸城下の祇園祭り不祥事乱行狼藉)をおこしたため罷免持高減石格式降格謹慎を伴う引責による強制隠居となったので、家老職就任することなく終わった。ただし、閉門となったとする記録はない。加藤三(郎)左衛門墓地碑文には、加藤三左衛門とあるが古文書類には加藤三郎左衛門との記述もある。小諸惣士草高成立時持高174石。 加藤六郎兵衛成徳分限には古高(旧持高170であったとの記述があるが、加藤氏持高推移は、次の通りである(標記変更後よるもの)。 まず末期養子格式下げ持高227石(あるいは230石)から170石に減石加藤成徳祖父である成昭の持高170であったが、その後、4石加増174石。加藤成高おこした祇園祭りでの不祥事によって持高減石格式降格となり持高130となった。この事件家老家柄取りあげられ用人家柄格式降格された。 加藤六郎兵衛成徳(孫)は、文化7年1810年)召出され、刀番や寺社奉行町奉行見習い勤めた文政3年用人であった加藤三郎左衛門成高から家督相続して、奏者持高130石)となった時に用人家柄となっていたが、その後、班を進めて文政4年番頭文政8年9月 用人見習加判 江戸引越同年11月江戸詰用人本職文政10年1月 家老見習江戸詰)。丑年56加増226石4斗、役高加増23をもって249石4斗となった文政11年8月家老本職弘化3年1846年)、持高30加増家臣筆頭城代家老となった。ここに加藤六郎兵衛成徳は、父祖等がなした2度に渡る失態を1代で取り戻した。 この時代分限2種類のものが現存し記述内容はほぼ同じであるが、持高227石としているものと、持高200石としているものがある。また本人に対して江戸家老と、在所家老城代家老)のいずれを希望するかを聴取され、それに回答している書状現存している。 幕末・維新期小諸騒動では、家臣筆頭・家老加藤六郎兵衛成徳から家督相続した加藤六郎兵衛成美は、父と同じく家臣筆頭城代になった幕末におきた小諸騒動では、成美の取計向き不行届きのため不審疑い持たれて、100石の持高減石家老職取りあげ・他藩文通禁止閉門となり、城代屋敷城下屋敷とするは誤り)から放逐され廃屋のような城下武家屋敷押し込まれた。しかし、この懲戒処分は、本藩である長岡藩調停により、後に取り消された。 加藤六郎兵衛成美は、一方旗頭となり、牧野八郎左衛門成道真木要人則道等を、朝敵となった長岡藩脱走兵を匿ったことを口実処刑し家臣筆頭として、小諸家中かちゅう)が一丸となって改革推し進めようとして、謹慎閉門中の家臣を除く、在所家臣召集し城中神前誓いをたてた。小諸市誌によると、加藤は、自派人物腹心だけを抜擢したような解説となっているが、国立公文書館太政官公文禄などによると、反対派人物もまもなく、登用して人事にも腐心をした形跡みられる。 しかし、自分腹心の徒たちを重臣大抜擢しただけでなく、権勢ふるわせ中間派・穏健派を敵にまわして専横極まり牧野真木等の処刑に無理があったため、藩内の反発強まり改革失敗して失脚した加藤牧野馬派所業を、神戸最仲によって、新政府刑法官訴願されたのが、直接の原因であった神戸最仲は、牧野八郎左衛門太田忠太に対して批判的であった言動記述した文献河井継之助伝ほか)が残っているため4名の斬首執行前は、加藤牧野馬派近かったとみられる加藤牧野馬派立場から見れば当然に神戸最仲は、裏切り者讒言であった加藤六郎兵衛成美は、明治2年9月笠間藩お預けで永禁固となったが、翌年には身柄小諸藩引き渡された。廃藩置県前に、永禁固とされながら、出獄許されて、士分上禄格式認められ小諸余生過ごした後に没した加藤六郎兵衛成美は、永禁固となり、獄死たとする誤りである。 加藤六郎兵衛成美惣領跡取りに関する記述は、江戸時代小諸藩一次史料には存在しないが、女子小諸家臣嫁している具体的な記述現存。ほかに、加藤六郎兵衛成美男子惣領とみられる姓名が、明治3年4年ごろの小諸藩一次史料見て取れるが、加藤六郎兵衛成美は、入牢時に隠居していないため、入牢時にその惣領は、登城認められる年齢以下であった可能性がある。 また幕末近くに、加藤六郎兵衛成徳庶子で、別家召し出し新恩給付となった加藤錬之助(加藤成高)は、小諸藩明倫堂の司成(頭取)に抜擢され公議人小諸藩選出国会議員)を勤めて小諸騒動では、謹慎上の処分受けず士分下禄に列した明治3年後半から4年初めごろに隠居して家督加藤高景高に相続させた(持高50石・給人格)。

※この「加藤氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「加藤氏」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。


加藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:15 UTC 版)

大溝城」の記事における「加藤氏」の解説

天正11年1583年)、羽柴秀吉賤ヶ岳の戦いにおいて勝利した後、高島郡一部秀吉直轄領になると、加藤光泰大溝城主に就かせた。

※この「加藤氏」の解説は、「大溝城」の解説の一部です。
「加藤氏」を含む「大溝城」の記事については、「大溝城」の概要を参照ください。

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