立藩
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戦国時代、米子は尼子氏、毛利氏が奪い合いを繰り返す戦略上の重要拠点であった。豊臣氏時代、伯耆国は東西に二分され、西部は毛利氏の所領となり、毛利一族の吉川広家が月山富田城を拠点に支配していた。天正19年(1591年)、吉川広家は新たな拠点として米子の湊山に米子城の築城を開始した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍につき、戦後に大幅減封処分を受けた。広家も周防岩国藩に移ることとなった。 伯耆国17万5000石の領主として、新たに中村一忠が入国した。一忠は豊臣氏三中老の一人であった駿府城主中村一氏の子である。一氏は関ヶ原本戦直前の7月17日に病により急死しているが、死の前に駿府城下で徳川家康と会談しており、東軍に加わることを明らかにしていた。一氏の功績により、一氏の嫡子である一忠に3万石が加増されて移封が実現し、米子藩を立藩したのである。
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立藩
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元禄11年3月7日(1698年4月17日)、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。比良山麓の村々は、堅田藩のほかに三上藩(野洲郡三上に藩庁を置く1万石の藩)や幕府直轄領・旗本領が入り組んでおり、たとえば同じ堅田(中世の「堅田四方」)のうちでも、本堅田村と衣川村は堅田藩領であったが、今堅田村は三上藩領であった。 藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。 第5代藩主・堀田正富の時代、安永8年(1779年)には、御用金賦課に反対した百姓たちが大規模な代表越訴型一揆をおこした。多額の御用金賦課は、藩主が抱えた多額の借用銀の返済が直接の理由であったが、地元商人によって藩経済が掌握された構造や、安永7年(1778年)の水害被害も背景として存在する。領内29か村中、17か村の代表者29名が江戸に赴き、堀田家の本家(佐倉藩)に要求を掲げて駆け込み訴えをするという激しいものであった。この一揆は、代表者から1人の処分者もなく(在方役人側に処分者を出した)、一揆側が要求を貫徹しているという点でも珍しい事件である。
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立藩
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元禄6年(1693年)11月28日、正勝は大坂定番に任じられた際、新たに摂津国・河内国の7郡内において1万石を加増され、1万6000石の大名に列した。居所は赤沼村に置かれた(『寛政重修諸家譜』では「武蔵国比企郡赤松村に居所を定む」とある)。しかし正勝は翌元禄7年(1694年)8月7日に大坂で死去した。 元禄7年(1694年)10月6日、子の正友の家督継承が認められるが、この際に大坂周辺の領地が収公されるなど知行地の再編が行われ、常陸国信太・真壁・那珂郡、下総国香取郡、上総国長柄郡、武蔵国大里・入間・比企郡、上野国山田郡の5か国9郡内にまたがる所領となった。同年12月11日に領知朱印状が交付され、元禄10年(1697年)にはじめて領地入りの暇を得ている。 『寛政重修諸家譜』には、居所の移動についての記載はない。『角川地名大辞典』によれば、元禄8年(1695年)に「赤松藩」は常陸国高森に移封されて廃藩とある。『大和村史』(大和村役場、1974年)や『藩史事典』(秋田書店、1976年)によれば、正友は常陸国那珂郡高森村に陣屋を構えた。高森村には、慶安年間に土浦藩(朽木稙綱)の飛地領を管轄する陣屋が置かれており、内藤家はこれを引き継いだとされている。『角川地名大辞典』の高森村の項目では、土浦藩領となったあと「幕府と旗本大木氏の相給」になったと記しており、「幕府領になってから元禄16年まで陣屋が置かれた」「陣屋廃絶後代官知行所となった」との記述がある。 正友は元禄16年(1703年)8月14日、信濃国岩村田藩への移封が命じられ、領地は佐久郡内にまとめられた。高森陣屋は内藤家時代を最後に廃絶し、陣屋跡・陣屋堀などの地名が残るという。
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立藩
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条征伐で前田利家の率いる北国勢によって川越城は開城し、後北条氏(城代は大道寺氏)の時代が終焉した。徳川家康が関東に移封されたのに伴い、掛川の戦い以来の三河譜代最古参で雅楽頭酒井家の祖・酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した(親藩格)。重忠は入封すると諸役免除を実施、楽市政策をとって領内の経済的確立に努めた。重忠は文禄の役では留守居役として家康不在の江戸城を治めた。また家康は、高麗郡鯨井(現在の川越市鯨井)の5千石を重臣の戸田一西に与え、近江国膳所藩に移封になるまで10年間、鯨井藩となった。
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