立藩から廃藩まで
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寛永10年(1633年)4月、大番頭を務めていた松平重則(能見松平家)が4000石を加増され、合計で1万500石の所領を領することとなったことから、諸侯に列することになった。重則は、百首村に陣屋を構え、ここに百首藩が立藩した。重則の陣屋は、のちに白河藩が建てた竹ヶ岡陣屋とは別の場所にあったと考えられているが、位置ははっきりしない。 寛永17年(1640年)、松平重則は下野国皆川藩に移封された。このため、百首藩は廃藩となった。
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立藩から廃藩まで
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「坂本重治」も参照 坂本重治は、弟に分知したため300石の知行取として幕臣としての経歴を始める。第4代将軍徳川家綱に仕えて忠勤に励み、家綱死後の延宝8年(1680年)、常陸国鹿島郡内で500石の加増を受けた。第5代将軍徳川綱吉のもとでも信任厚く、大目付を務め、天和2年(1682年)4月21日、上野国勢多郡・山田郡内で1000石を加増される。 天和2年(1682年)10月16日、寺社奉行に昇進、このとき一挙に7800石を加増され、1万石の大名として深見藩を立藩した。領地は相模国高座郡、常陸国志太郡・鹿島郡、下野国那須郡、上野国山田郡・勢多郡・群馬郡の4か国7郡にまたがった。翌年から重治は領内の検地を実施、さらに35か条からなる藩法を制定して藩政の基礎を固めた。 貞享元年(1684年)9月21日に領知朱印状が出される。なお、大名であった期間は寺社奉行であったために定府であり、藩主居館としての陣屋も設けられなかったとみられる。 貞享4年(1687年)5月14日、重治は相役の本多忠周と共に職務怠慢があったとして綱吉より咎められ、寺社奉行職罷免の上で蟄居を命じられた。元禄2年(1689年)6月4日に蟄居を解かれたが、先に加増された7800石が収公されて2200石の旗本身分に戻された。深見藩は7年足らずの短期間で終焉した。
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