幕臣として
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1856年(安政3年) 蕃書調所で教授職手伝に赴任。他に任命された者は箕作阮甫、杉田成卿(以上、教授職)、川本幸民、松木弘安、東条英庵、手塚律蔵、原田敬策、田島順輔(以上、教授職手伝)。 1859年(安政6年)7月29日 外国奉行所管の外国方(翻訳局)に転じる。外交文書の翻訳に従事。常に杉田玄端、福澤諭吉、村上英俊、木村宗三と働く。 1862年(文久2年)年末 幕府が洋式に則り兵制の改革をした際、大鳥圭介らと共に当局の諮問に応じた。 1863年(文久3年)8月 陸軍所出役。 1864年(元治元年)9月16日 開成所教授並に昇格。幕臣となる。 1866年(慶応2年)12月5日 騎兵指図役勤方に転勤。 1867年(慶応3年)6月 外国奉行支配組頭となり、再び外交事務へ。翌7月、京都へ。その後、岩鼻(上野国)代官として赴任し、官軍東下の際に捕らえられる。間もなく罪なしとして釈放。家督を息子に譲り、自分は本郷森川町に隠棲。森川眉山と号した。この前後は生計頗る困難を極める。
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幕臣として
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旗本田島鍋吉の長男として江戸に生まれる。合田清は弟。 文久3年(1863年)、13歳で講武所に入所して砲術を学び、「信号用火箭」と言う新種の火薬を発明して実験を行う。慶応2年(1866年)、16歳で横浜仏語伝習所に入所。その後、幕府伝習隊の砲兵隊に所属した。 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、仏語伝習所が臨時病院となったため、そこの係員を務めていたが、榎本武揚ら抗戦派と同意し、通訳として蝦夷地へ渡った。
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