田島応親
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田島 応親(たじま まさちか、1851年4月18日(嘉永4年4月18日) - 1934年(昭和9年)4月12日)は、幕末の幕臣。蝦夷共和国通訳。日本陸軍軍人。幼名は金太郎。
人物・生涯
幕臣として

文久3年(1863年)、13歳で講武所に入所して砲術を学び、「信号用火箭」と言う新種の火薬を発明して実験を行う。慶応2年(1866年)、16歳で横浜仏語伝習所に入所。その後、幕府伝習隊の砲兵隊に所属した。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、仏語伝習所が臨時病院となったため、そこの係員を務めていたが、榎本武揚ら抗戦派と同意し、フランス軍事顧問団との通訳として蝦夷地へ渡った。
明治以後
箱館戦争降伏後、兵部省に出仕。近代兵学を知る者として重用される。晩年は史談会にしばしば出席している。
明治3年(1870年)に大坂の兵学寮に出仕。中教授としてフランス軍の教練書の翻訳等を行う。明治7年頃(1874年)に伝令使を務める。乃木希典と同僚だったが、乃木はフランス語ができなかったため事務をやり、フランス教師との交渉は田島が一任されていたと言う[1]。合田はる(治子)と結婚。明治8年に長女・ひでが誕生。明治12年(1879年)2月、参謀本部第1局第6課兼務(測量課)。この頃には少佐。同10月に総務局翻訳課長を兼務。
明治13年(1880年)に初のフランス公使館付フランス駐在武官としてパリへ赴任する。明治17年(1884年)に駐在武官の任を終え日本に帰国。同4月、参謀本部長伝令使を務める。同6月、大坂砲兵工廠御用掛を兼務(明治21年まで砲兵工廠勤務)。同7月、中佐に昇進する。参謀本部長伝令使兼編纂課長(外国、外国軍の情報収集)にあたる。
明治23年(1890年)に休職(理由不明)[2]。この頃、野戦砲兵第六連隊長砲兵大佐[2]。明治26年(1893年)には健康不良を理由に退官する。
翌明治27年(1894年)1月、妻と共にニューカレドニアへ渡り、明治28年(1895年)4月まで滞在する[3]。
明治32年(1899年)、『東京人類學會雜誌』に「佛領新加列土尼島ニ於テ拾收シタル頭骨ニ關スル説明」を発表している。
昭和9年(1934年)死去。享年84。青山霊園に葬られたが、区画整理により1937年、多磨霊園に改葬された[4]。
著書・翻訳書
- ブイヤル『兵略戦術実施学 第1編』(田島応親 訳)内外兵事新聞局、1879年 。
- 「南洋事情(特ニ ニューカレドニアニ関スル情況)」『東京地學協會報告』第18年第2号、東京地學協會、1896年12月、125-167頁。
栄典
- 1884年(明治17年)5月22日 - フランス共和国政府よりのオフィシエ・レジオンドヌール勲章の受領と佩用を允許[5]
- 1884年(明治17年)5月22日 - スペイン国皇帝よりの勲章の受領と佩用を允許[5]
- 1884年(明治17年)5月22日 - ポルトガル国皇帝よりの勲章の受領と佩用を允許[5]
- 1893年(明治26年)4月11日 - 従五位[6]
登場する作品
映画「燃えよ剣」(2021年版)
田島金太郎 :江戸幕府陸軍のフランス軍事顧問 ジュール・ブリュネが土方歳三の回想を聞く際の通訳を務める。
脚注
参考文献
- 鈴木明『追跡 一枚の幕末写真』集英社、1984年。ISBN 9784087724929 。
- 「南洋事情(特ニ ニューカレドニアニ関スル情況)」『東京地學協會報告』第18年第2号、東京地學協會、1896年12月、125-167頁。
- 富田仁、西堀昭『日本とフランス : 出会いと交流』三修社、1979年10月 。
- 篠原宏『陸軍創設史 : フランス軍事顧問団の影』リブロポート、1983年12月 。
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
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