田島弥平旧宅とは? わかりやすく解説

田島弥平旧宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 21:42 UTC 版)

田島弥平旧宅
所在地 群馬県伊勢崎市境島村甲2243番地、乙2243番地
位置 北緯36度14分47秒 東経139度14分20秒 / 北緯36.24639度 東経139.23889度 / 36.24639; 139.23889座標: 北緯36度14分47秒 東経139度14分20秒 / 北緯36.24639度 東経139.23889度 / 36.24639; 139.23889
類型 養蚕農家
形式・構造 木造2階建て、切妻桟瓦葺き、総ヤグラ[1]
敷地面積 4,009.91 m2[2]
延床面積 566.357 m2(主屋1階310.113m2、2階256.244m2[3]
建築年 文久3年(1863年
文化財 史跡(国指定)
世界遺産構成資産
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田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)は、群馬県伊勢崎市境島村にある歴史的建造物。明治初期に大きな影響力を持った養蚕業者田島弥平が自身の養蚕理論に基づいて改築した民家である。「近代養蚕農家の原型」[4]とも言われるその旧宅は、2012年に国の史跡に指定され、2013年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。

田島弥平

田島弥平

田島弥平(1822年 - 1898年)は『養蚕新論』(1872年)、『続養蚕新論』(1879年)を刊行した佐位郡島村(現伊勢崎市境島村)の養蚕業者、蚕種製造・販売業者である。明治初期に広く行われた蚕の養育法である「清涼育」を確立し、自宅の主屋2階および納屋を蚕室として改築し、その実践に努めた。彼は単に育成法を確立しただけでなく、それに適した蚕室構造も確立し、著書などを通じてその普及にも寄与した。そうした彼の近代養蚕業への貢献に対し、1892年に緑綬褒章が授与された[5]

島村式蚕室

田島弥平は当初、気温の調節をほとんど行わない自然育(清涼育)によって蚕を育てていたが、火気によって室内を暖める温暖育へと転換した。しかし、これがうまくいかないとなると、試行錯誤を重ねて独自の「清涼育」を確立するに至った。

弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に納屋を改造して2階建ての蚕室とし、その年の失敗を踏まえて、翌年に換気のための窓(ヤグラ[注釈 1])を屋根(屋上棟頂部)に据えつけた[6]。これが好成績に結びついたことから、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にした。また、主屋(母屋)も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にした[7]。この2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)は、弥平の「清涼育」が確立した年とされる[8]

生糸だけでなく、蚕種の輸出が解禁されたのは、弥平が清涼育を確立した翌年、元治元年(1864年)のことであった[9]。それにあわせ、島村でも蚕種製造業者が増え、その家屋に弥平の蚕室構造を取り入れる者たちが急速に増えていった[10]。かくして、弥平が確立したヤグラのある養蚕家屋は「島村式蚕室」と呼ばれるようになった[11]。そして、島村式蚕室は、島村にとどまらず、弥平の著書を通じて全国に普及した[12]

「清涼育」に適した田島弥平旧宅は、1869年にイタリア駐日全権公使ラ・トゥール、駐日イギリス公使館書記官アダムズらが相次いで蚕種や生糸の高騰を受けて産地の巡視を行なった際にも、高い評価を受けている[13]

明治時代半ば以降、清涼育は高山社によって普及した「清温育」(清涼育と温暖育との折衷育の一種)に取って代わられるようになるが、清温育にとっても換気は必要であり、ヤグラを特色とする島村式蚕室の規範としての地位は揺らがなかった[14]

建物概要

田島弥平旧宅の主屋(母屋)

現存する田島弥平旧宅の主屋(母屋)は文久3年(1863年)に上棟され、同年11月の棟札が残っている[15]。主屋は瓦葺きの総2階建てで、主体部の桁行は1、2階とも25.380 m、梁行は9.4 mである[3]。その屋根には「総ヤグラ」と呼ばれる形式の風通し口が設けられているが[16]、総ヤグラを採用したのは、この旧宅主屋が最初であったという[17]。ヤグラは風通しをよくし、板葺きや茅葺きの屋根に比べ、熱がこもるために養蚕農家には向かないとされていた瓦葺きの住居を可能にするものでもあった[18]。ヤグラの存在は清涼育にとって特に重要な点であり、弥平自身、自負心を持ってそれが自分の発明であると主張していた[19]

かつては主屋に隣接して、寄棟造瓦葺で総ヤグラを備えた総2階建ての「新蚕室」が建っていた[20]。これは『養蚕新論』(1872年)では言及されていないが、1875年の松ヶ岡開墾場蚕室(山形県鶴岡市)のモデルになったとされていることから、その3年間のうちに建てられたものと推測されている[21]。これは1952年頃に取り壊されたが、その基壇と、主屋2階東側の新蚕室とつながっていた渡り廊下の一部は残っている[22]。なお、1952年頃には主屋の一部も撤去されており、現存する屋敷の景観はこの時期に最終的に固まったと見なされている[23]

主屋に先立って改築された納屋をもとにした蚕室は、かつて「香月楼」と呼ばれたようだが、これも現在では基壇が残るのみである[21]

このほか、1896年に建てられた桑場(桑の葉の貯蔵場所)や、主屋と同じ時期に建てられたが、1885年に再建された種蔵(たねぐら。蚕種の保存場所)なども残る[24]

文化財保護

田島弥平旧宅は現在も弥平の子孫が暮らしており、代々保存に尽力してきた[25]。公的な調査としては、1986年から1988年にかけて、当時島村が属していた境町の町史編纂事業の一環での調査が行われた[26]

2003年以降、富岡製糸場世界遺産にしようという動きが起こり、2006年に群馬県富岡市などが関連する文化財も含めて共同で推薦書を提出した。この2006年度には群馬県庁世界遺産推進室による近代養蚕農家調査の一環として、田島弥平旧宅の調査も行われたが[26]、この時点では、田島弥平旧宅は構成資産候補に含まれていなかった。しかし、文化財保護に関して田島家および伊勢崎市の体制が進展したことから推薦候補に加えられ[27]、「近代養蚕業の展開を知る上で重要である」という理由で[28]、2012年9月19日に国の史跡に指定された[29][30]

2013年1月に正式に提出された世界遺産推薦書では、高山社跡荒船風穴と共通する優良品種の開発・普及のほか、「近代養蚕農家の原型」といえる蚕室構造を残していること、田島弥平が「清涼育」の開発を含め、明治初期の養蚕業では主導的役割を果たしたこと、直接販売による海外交流を行なったことなどを理由として[31]、構成資産に含まれた。

観光

田島弥平旧宅案内所

最寄り駅はJR伊勢崎駅もしくは本庄駅だが、いずれからもタクシー等で20分ほどかかる[32]

日本政府の推薦書を踏まえたICOMOSの登録勧告書では、年間の観光客数は数千人程度とされていた[33]。しかし、ICOMOSの登録勧告が公表されると、直後のゴールデンウィークには観光客が急増した。2014年4月26日から5月6日の累計訪問者数は3,192人、5月4日には1日で550人が訪れた[34]

田島弥平旧宅は、今も人が住む民家であり、庭先までの見学は可能だが、屋内への立ち入りはできない[35]。代わりに、伊勢崎市は田島弥平旧宅案内所を設置し、模型やパネルなどの各種資料によって、資産価値を解説している[36]

田島弥平旧宅の周辺には養蚕の農家群や養蚕に関わる史跡が多く存在する[37]。その中には1894年(明治27)年に弥平の娘のたみ(民、多美)が建立した「田島弥平顕彰碑」がある[37]

脚注

注釈

  1. ^ 弥平自身は「抜気窓」(ばっきそう)と呼び(鈴木 2011, p. 27)、現代の境島村では「櫓」(ヤグラ)と呼ばれる。

出典

  1. ^ 文化庁文化財部 2012, p. 6
  2. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012例言
  3. ^ a b 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, pp. 50–51
  4. ^ 文化庁 2012、f. 14
  5. ^ 群馬県経済部農産課 1951, pp. 134–135
  6. ^ 鈴木 2011, p. 27
  7. ^ 鈴木 2011, pp. 27–28
  8. ^ 鈴木 2011, pp. 24, 28
  9. ^ 鈴木 2011, p. 29
  10. ^ 鈴木 2011, pp. 29–30
  11. ^ 鈴木 2011, p. 30
  12. ^ 群馬県企画部世界遺産推進課 2013, p. 10
  13. ^ 今井 2012, p. 79
  14. ^ 文化庁文化財部 2012, p. 5
  15. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, pp. 51, 53
  16. ^ 千葉 2009, pp. 261–263
  17. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, p. 51
  18. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, p. 46
  19. ^ 鈴木 2011, p. 28
  20. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, p. 44
  21. ^ a b 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, p. 82
  22. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, pp. 50, 84
  23. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, pp. 49–50
  24. ^ 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, pp. 83–84
  25. ^ 「富岡製糸場 世界遺産へ / 受け入れ態勢に課題も」『毎日新聞』2014年4月27日朝刊27面
  26. ^ a b 伊勢崎市教育委員会文化財保護課 2012, p. 1
  27. ^ 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第22回) 資料7-1 (PDF) 、ff. 27-29
  28. ^ 文化庁文化財部 2012, p. 6より引用。
  29. ^ 平成24年文部科学省告示第145号
  30. ^ 田島弥平旧宅パンフレット」裏面(伊勢崎市)(2014年5月11日ダウンロード)
  31. ^ 文化庁 2012、f. 14。かぎ括弧部分は引用。
  32. ^ 今井 2014、巻頭グラビア末尾
  33. ^ ICOMOS 2014, p. 147
  34. ^ «絹の国 4遺産世界へ» 来場数更新GWに6万人 備え万全に(上毛新聞ニュース、2014年5月8日)(2014年5月10日閲覧)
  35. ^ 田島弥平旧宅の見学(伊勢崎市)(2014年5月11日閲覧)
  36. ^ 田島弥平旧宅案内所(伊勢崎市)(2014年5月11日閲覧)
  37. ^ a b 島村の養蚕農家群と史跡散策マップ”. 群馬県. 2024年1月8日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク


田島弥平旧宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 20:27 UTC 版)

富岡製糸場と絹産業遺産群」の記事における「田島弥平旧宅」の解説

詳細は「田島弥平旧宅」を参照 田島弥平旧宅(北緯3614分47.7秒 東経13914分20.6秒 / 北緯36.246583度 東経139.239056度 / 36.246583; 139.239056 (田島弥平旧宅))は伊勢崎市に残る古民家である。最寄り駅JR伊勢崎駅もしくは本庄駅だが、いずれからもタクシー等で20分ほどかかる。田島弥平は『養蚕新論』(1872年)、『続養蚕新論』(1879年)を刊行した島村養蚕業者であり、「清涼育」を開発した人物である。彼の育成法は明治初期には高く評価されており、当時島村養蚕業者が「宮中養蚕奉仕」を命じられときには弥平がその指図役を務めたこともある。 また、外国人貿易商による輸出中心だった時期にあってイタリアへ直輸出模索し実際にミラノわたって直接販売こぎつけている。これを実現した会社蚕業に関する会社としては日本初となった島村勧業会社1872年設立)であり、弥平はその副長副社長)に就任していた。社長務めた田島武平弥平親族であるとともに渋沢栄一とも交流があり、島村勧業会社蚕種販売目的とする会社として、渋沢勧め設立されたものである当時ヨーロッパ微粒子病一段落していたことから日本蚕種価格暴落しており、ヨーロッパ商人売り込んでいた横浜商人は、値崩れ抑えるために大量蚕種廃棄していた。しかし、自らの蚕種品質自信誇り持っていた島村勧業会社廃棄には与せずミラノでの直売踏み切ったのである1879年から1883年まで4度試みられイタリア直売赤字続きで、目立った成果を挙げるには至らなかったが、こうした外国との交流島村キリスト教自由民権思想広めることに貢献した現存する田島弥平旧宅(1863年)の母屋総二階建てで間口は約25 m、奥行きは約9 m、その屋根には「総ヤグラ」と呼ばれる形式風通し口が設けられている。ヤグラ存在は、彼が確立し著書通じて広めた清涼育」の手法と結びついている養蚕の手法には、火気によって室内暖める温暖育」の手法が存在していたが、弥平逆に原則として火気用いず、仮に用い場合にも通気配慮すべきことが勧められていた。母屋はかなり広いものであるが、そこや関連する建物には、パサ呼ばれる養蚕業日雇労働者たちの居住空間として使われていた部分存在する。「清涼育」に適した田島弥平旧宅は、1869年イタリア駐日全権公使ラ・トゥール駐日イギリス公使書記官アダムズらが相次いで蚕種生糸高騰受けて産地巡視行なった際にも、高い評価受けている。そして、その構造島村地区養蚕民家建築大きな影響及ぼしただけでなく、彼の著書通じて全国普及した。田島弥平旧宅は現在も弥平の子孫が暮らしており、代々保存尽力してきた。これは、地元地方公共団体所有していない唯一の構成資産である。 推薦資産加えられ理由は、高山社跡荒船風穴共通する優良品種開発普及のほか、「近代養蚕農家原型といえる蚕室構造残していること、田島弥平が「清涼育」の開発含め明治初期養蚕業では主導的役割果たしたこと、直接販売による海外交流行なったことなどである。

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