島村式蚕室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 07:31 UTC 版)
田島弥平は当初、気温の調節をほとんど行わない自然育(清涼育)によって蚕を育てていたが、火気によって室内を暖める温暖育へと転換した。しかし、これがうまくいかないとなると、試行錯誤を重ねて独自の「清涼育」を確立するに至った。 弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に納屋を改造して2階建ての蚕室とし、その年の失敗を踏まえて、翌年に換気のための窓(ヤグラ)を屋根(屋上棟頂部)に据えつけた。これが好成績に結びついたことから、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にした。また、主屋(母屋)も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にした。この2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)は、弥平の「清涼育」が確立した年とされる。 生糸だけでなく、蚕種の輸出が解禁されたのは、弥平が清涼育を確立した翌年、元治元年(1864年)のことであった。それにあわせ、島村でも蚕種製造業者が増え、その家屋に弥平の蚕室構造を取り入れる者たちが急速に増えていった。かくして、弥平が確立したヤグラのある養蚕家屋は「島村式蚕室」と呼ばれるようになった。そして、島村式蚕室は、島村にとどまらず、弥平の著書を通じて全国に普及した。 「清涼育」に適した田島弥平旧宅は、1869年にイタリア駐日全権公使ラ・トゥール、駐日イギリス公使館書記官アダムズらが相次いで蚕種や生糸の高騰を受けて産地の巡視を行なった際にも、高い評価を受けている。 明治時代半ば以降、清涼育は高山社によって普及した「清温育」(清涼育と温暖育との折衷育の一種)に取って代わられるようになるが、清温育にとっても換気は必要であり、ヤグラを特色とする島村式蚕室の規範としての地位は揺らがなかった。
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