清涼育の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:44 UTC 版)
田島邦寧は文政5年(1822年)8月15日、上野国佐位郡島村の田島弥兵衛(たじま やへえ、1796年 - 1866年)の長男として生まれた。字は子寧(しねい)、号は南畭(なんよ)。父の弥兵衛は養蚕で財を成した人物であり、養蚕長者としてその名を知られていた。のみならず、若いときから学問に熱心で、天保元年(1830年)に頼山陽を訪ねて門前払いを受けた際には、「僕かつて吉野に遊ぶ。桜花われを拒まず。先生の門、吉野にしかざるは何ぞや」と豪語し、山陽を驚かせた。弥兵衛は自宅を「遠山近水邨(村)舎」(えんざんきんすいそんしゃ)と称したが、それはこの時に家の中に招き入れた山陽の揮毫に由来するという。邦寧は後年、この父の名を継いで「弥兵衛」と名乗り、次いで「弥平」を名乗った。 島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。弥平が生まれた文政5年は利根川大洪水のあった年で、彼はまさにその最中に生まれたと伝えられている。島村では19世紀初頭に蚕種製造業が始まっており、文政5年の大洪水を機に河原が開墾されて桑畑へとなり、さらに発達した。 田島弥兵衛の家は、田島武兵衛家の分家であり、ともに富裕な蚕種商人として、文化的素養も高かった。田島弥兵衛家の瓦葺き蚕室は天保7年(1836年)に焼失した後、再建された。それは弥平が15歳のときで、このころから、弥平も蚕種製造業に従事した。 田島弥兵衛が当初実践していたのは、自然のままの温度を重視する自然育(清涼育)であったが、蚕室の再建後、奥州などで広く行われていた温暖育に切り替えた。温暖育は火気によって蚕室を暖める生育法だが、田島親子の場合、このやり方ではうまくいかず、さまざまな地域を渡り歩き、生育法を研究した。そして、米沢の養蚕農家の自然育に着想を得て、再び清涼育に切り替えた。弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に納屋を改造して二階建ての蚕室とし、その年の失敗を踏まえて、翌年に換気のための窓(ヤグラ)を屋根(屋上棟頂部)に据えつけた。これが好成績に結びついたことから、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にした。また、自身の居宅も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にした。弥平はこの2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)にそれらを「桑柘園」(そうしゃえん)と命名した。一般にこの文久3年をもって、弥平が独自の清涼育を確立したと位置づけられている。 元治元年(1864年)に蚕種の輸出も解禁されると、島村でも蚕種製造業に従事する農家が増えた。そうした農家たちは弥平の清涼育を取り入れ、蚕室もヤグラを備えたものにした。このことから、弥平が確立した蚕室のことは、「島村式蚕室」と呼ばれるようになった。また、当時の代官所への訴状などから、弥平が島村の蚕種家の中で中心的人物の一人となっていたことが指摘されている。 この清涼育およびそれに基づく島村式蚕室は、明治初期には岩鼻県が、勧奨されるべき養蚕法として位置づけていた。また、明治6年(1873年)には熊谷県管内蚕種優等者(第一等)として表彰された。そして、桑柘園には全国から伝習生が集まり、その労働を通じて清涼育を学び取った。明治6年から7年の伝習者は130人を超えており、その中には酒田県の士族もいた。彼らは帰郷後、松ヶ岡開墾場の蚕室を作ることになる。また、のちの話になるが、明治15年(1882年)には、「清温育」の高山長五郎が訪れている。長五郎が具体的に何を学びとったかには不明な部分もあるが、彼の「清温育」は折衷的な育て方のため、その蚕室構造には通気のためのヤグラが備えられている。
※この「清涼育の確立」の解説は、「田島弥平」の解説の一部です。
「清涼育の確立」を含む「田島弥平」の記事については、「田島弥平」の概要を参照ください。
- 清涼育の確立のページへのリンク