細谷安太郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 経営者 > 日本の実業家 > 細谷安太郎の意味・解説 

細谷安太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/22 01:52 UTC 版)

ジュール・ブリュネ大尉陸軍奉行並松平太郎通訳田島応親アンドレ・カズヌーヴ伍長ジャン・マルラン軍曹福島時之助アルテュール・フォルタン軍曹
前列左から細谷安太郎、ジュール・ブリュネ松平太郎田島金太郎、後列左からアンドレ・カズヌーヴジャン・マルラン、福島時之助、アルテュール・フォルタン。ともに函館戦争に参加(1869年)。画像中の人物にカーソルを合わせると名前が表示され、クリックでリンク先に飛びます。

細谷 安太郎(ほそや やすたろう、1851年4月27日嘉永4年3月26日[1]) - 1921年大正10年)8月5日)は、幕末幕臣横浜仏語伝習所生。伝習隊隊士、砲兵差図役。後、砲兵隊頭取。フランス人によるあだ名はヤス

生涯

旗本細谷喜三郎の長男に生まれる。

慶応元年(1865年)に新設された横浜仏語伝習所で田島応親らと共にフランス語を学び、卒業後幕府陸軍に入隊し砲兵差図役(砲兵中尉)に任命される。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、強硬な抗戦論者であり、榎本武揚らの江戸脱走に従って、箱館戦争に身を投じた。

箱館戦争にでは、中島三郎助の配下として砲兵隊を率いて奮戦するが、戦闘中に負傷し、その傷が後々にも古傷として残った。

敗戦後、久留米藩に捕虜として預けられたが、明治3年(1870年)頃に釈放され、明治5年(1872年)、語学力を買われ横須賀造船所に技官として勤務。退職後はドイツの製鉄会社クルップの代理人を務めたり、高田商会に勤務したりしていた。一時期パリに滞在していたとされる。

晩年は鎌倉で過ごし、大のフランス好きだったため洋館に住み、フランス製の家具をたくさん揃えていた。最期の言葉は「フランスの美味いパンをもう一度食べたい」。享年71。

参考文献

関連項目

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 富田ほか 125頁




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「細谷安太郎」の関連用語

細谷安太郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



細谷安太郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの細谷安太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS