幕臣としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:59 UTC 版)
京都伊勢氏の貞親は享徳3年(1454年)に備中守から伊勢守に転じており、義兄弟になった盛定に伊勢氏にとって重要な意味のある備中守を譲ったと推定される。長禄4年(1460年)頃に備前守に転じている。備中守は貞親の弟貞藤(江戸時代以来、早雲の父と考えられていた)が継承している。盛定は備中伊勢氏惣領の兄盛富と並んで将軍申次を勤め、一族内でも重要な地位を占めていたと考えられている。 盛定の名は畠山義就との交渉(享徳4年(1455年))や近江守護六角政堯追放事件(長禄4年(1460年))、幕府から追討命令を受けた信濃国人高梨政高の赦免の交渉(寛正4年(1463年))などの記録に見える。これらの記録から、盛定は8代将軍足利義政の時代に幕政の中枢にあった貞親を外交交渉の面で補佐する立場にあったと考えられる。 文正元年(1466年)、斯波義廉の廃嫡問題を巡って貞親が将軍継嗣の足利義視と対立し、義視暗殺を企てたと糾弾されて季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らと共に京都を出奔する事件が起きた(文正の政変)。盛定はこれに同行している。この義廉の廃嫡問題に盛定が深く関与し、斯波氏が守護に就いていた遠江の国人の堀越今川氏や横地氏、勝間田氏の申次として連絡を取っており、応仁の乱が起こると遠江は早々に貞親が支持する義敏の支配下になった点が指摘されている。
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