小笠原秀清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 04:12 UTC 版)
小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原少斎[注釈 2]の名で、細川ガラシャを介錯した人物として知られる。
注釈
- ^ a b 享年からの逆算。
- ^ 勝斎、松斎、尚斎などの表記も見られる。
- ^ 「永禄六年諸役人付」に申次として小笠原備前稙盛、小笠原又六の名がある。
- ^ 木下は、父の稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられた永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書が残されており、稙盛・秀清父子は永禄の変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している[4]。
- ^ 細川氏の丹後支配は天正8年(1580年)以降。
- ^ もと明智氏家臣。ガラシャ輿入れに従い細川家に。ガラシャの味土野幽閉にも供した。子の代で河喜多と改姓[6]。
- ^ 『明治十五年に至り、時の当主小笠原長厚の代で、旧細川氏の守護神である出水神社(水前寺公園)に小笠原流最後の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた。 しかし、その装束・伝書故実等は、現在鎌倉の武田流司家に保存維持されている。』(「武田流弓馬道」の旧ウェブサイト より引用。)
出典
- ^ a b c 常楽寺跡 「小笠原家累代之墓所 小笠原尚斎之墓」 案内板
- ^ a b c 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原七郎の項
- ^ a b 「小笠原家のこと」.
- ^ 木下.
- ^ 「ありのままの熊本アーカイブス」
- ^ 「河喜多家先祖附」
- ^ 二木.
- ^ 蜷川家文書之四 附録四九 「射禮私記」など
- ^ 『弓術・馬術』
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原夫五郎、小笠原勘助長義の項
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原宮内少の項
- ^ a b カトリック中央協議会 2007b, p. 2.
- ^ 「新・肥後細川藩侍帳」小笠原玄也の項
- ^ カトリック中央協議会 2007a.
- ^ カトリック中央協議会 2009.
- 1 小笠原秀清とは
- 2 小笠原秀清の概要
- 3 生涯
- 4 武家故実
- 5 脚注
- 6 外部リンク
固有名詞の分類
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