駿河下向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:39 UTC 版)
文明8年(1476年)、今川義忠が遠江の塩買坂において西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる。 残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家督争いで家中が二分された。これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌が兵を率いて駿河国に出兵した。範満と上杉政憲は血縁があり、道灌も史料に範満の「合力」と記されている。龍王丸派にとって情勢は不利であった。 北川殿の兄弟でもある宗瑞は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、宗瑞と道灌は同年齢であった。道灌も長尾景春の乱への対処のため、帰国を急ぐ必要があった)。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は北川殿と共に小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せた。 従来、この調停成功は宗瑞の知略による立身出世の第一歩とされていたが、今日では幕府の命により駿河守護家今川氏の家督相続に介入すべく下向したものであるとの説が有力となっている。一方で、黒田基樹は新説による推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『鎌倉大草紙』に宗瑞の名が見えないことから考えて、この説の信憑性に疑問を呈している。 今川氏の家督争いが収まると京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。 文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。 長享元年(1487年)、駿河へ下向した宗瑞は龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月に兵を起こし、館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となった。 宗瑞は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城もしくはそのまま石脇城を居城とした説がある。また、駿河へ留まった宗瑞は今川氏の家臣となり、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。 また、同時期に堀越公方足利政知の直臣となって(恐らく奉公衆として)出仕し、伊豆国田中郷・桑原郷を所領として与えられている。しかし、延徳3年(1491年)4月の政知の死に伴い、5月には再び申次衆として室町幕府に復帰した。 この頃に幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ、元続の祖父、元続の子・康広と細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれている。 なお、この時期において興味深い話として宗瑞が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が宗瑞に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったというものである。この問題がどう決着したかは不明であるが、このことが駿河および東国下向となった一因の可能性がある。
※この「駿河下向」の解説は、「北条早雲」の解説の一部です。
「駿河下向」を含む「北条早雲」の記事については、「北条早雲」の概要を参照ください。
- 駿河下向のページへのリンク