駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化とは? わかりやすく解説

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駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)

西上作戦」の記事における「駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化」の解説

永禄11年1568年)に武田今川氏手切となり、武田氏三河徳川家康共同し駿河今川領国への侵攻開始する駿河侵攻)。駿河侵攻武田相模後北条氏との甲相同盟破綻させ、後北条氏では越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国圧力加え、さらに武田徳川氏とも今川領国割譲をめぐり対立関係となった武田氏駿河侵攻に際して信長同盟関係にある家康武田との協定再考もちかけているが家康は独自勢力として動いており、信玄信長通じて将軍足利義昭介した越後上杉氏との和睦甲越和与)を行っている。 元亀元年1570年4月信長朝倉義景討伐のため越前遠征を行うも妹婿浅井長政の裏切りにより大敗する金ヶ崎の戦い)。これを皮切りに各地の反信長勢力決起し第一次信長包囲網形成されるこの後姉川の戦い野田城・福島城の戦いが行われるも、まだ信玄動き見られなかった。しかし、同年12月信玄義理の弟にあたり信長包囲網一角担っていた顕如より援助要請する書状送られている(また翌年5月には大和松永久秀からも同様の書状送られている)。 元亀2年1571年10月北条氏康死によって甲相同盟が再締結されたため、武田氏駿河確保し三河徳川領国への侵攻も可能となった

※この「駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化」の解説は、「西上作戦」の解説の一部です。
「駿河侵攻と甲斐・尾張関係の変化」を含む「西上作戦」の記事については、「西上作戦」の概要を参照ください。

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