駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去とは? わかりやすく解説

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駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:38 UTC 版)

秋山虎繁」の記事における「駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去」の解説

永禄11年1568年12月武田氏駿河国今川領への侵攻開始する駿河侵攻)。武田氏駿河侵攻に際して三河国徳川家康同盟持ちかけていたが、『三河物語』によれば徳川方同盟締結国分において駿河国武田領、遠江国徳川領と理解していたと考えられており、虎繁が伊奈衆を率いて遠江侵攻すると、これに対して抗議している。晴信は虎繁を撤退させることを約束しているが、この事件以後武田徳川同盟崩壊している。元亀元年1570年12月、虎繁が率い甲斐信濃軍勢が、徳川氏本拠地である三河攻めようとして進軍している途中で東美濃豪族遠山氏領地恵那郡上村現在の岐阜県恵那市上矢作町)へ侵入したために、遠山氏徳川氏傘下山家三方衆三河衆連合軍衝突し合戦となった勝利した(上村合戦)。しかしその後織田信長から派遣され明知光廉(三宅長閑斎)の軍勢小田戦い信濃伊奈郡へ撤退した元亀2年1571年2月には下伊奈郡諸郷の人足動員し大嶋城普請命じられており、大嶋城城代であったことが確認される元亀3年1572年10月信玄は「西上作戦」を開始する。『当代記によれば、虎繁は山県昌景とともに別働隊率いて奥三河侵攻する。虎繁は三河奥平氏菅沼氏らの国衆諸城陥落させた後、信玄本隊合流している。同年末には東美濃国衆遠山氏織田信長から離反して武田氏帰属すると、虎繁は美濃方面担当する元亀4年/天正元年1573年3月6日信玄の命で東美濃向かい前年武田方に寝返っていた岩村城岐阜県恵那市岩村町)に入城した以後、虎繁は大嶋城代と岩村城代を兼任する立場となる。「武田法性院信玄公御代人数事」『甲陽軍鑑』では虎繁は岩村在城で春近50騎を率い、他に坂西氏・知久氏座光寺氏ら下伊奈国衆指揮し305騎を統率したと記しており、この時期の虎繁を指すと考えられている。 なお、『甲陽軍鑑『三河物語』によれば、虎繁は開城に際して城主遠山景任未亡人信長叔母に当たるおつやの方岩村殿)を正室として迎えたとされるが、これは誤りであることが指摘されている。また遠山家養子として送られていた信長の五男・御坊丸(後の織田信房)を保護して甲斐送っている。 同年4月12日武田信玄信濃伊奈駒場において死去し武田勢甲斐へ撤兵した。

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