駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去
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「秋山虎繁」の記事における「駿河侵攻・西上作戦から信玄の死去」の解説
永禄11年(1568年)12月、武田氏は駿河国今川領への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏は駿河侵攻に際して三河国の徳川家康に同盟を持ちかけていたが、『三河物語』によれば徳川方は同盟締結の国分において駿河国を武田領、遠江国を徳川領と理解していたと考えられており、虎繁が伊奈衆を率いて遠江へ侵攻すると、これに対して抗議している。晴信は虎繁を撤退させることを約束しているが、この事件以後に武田・徳川同盟は崩壊している。元亀元年(1570年)12月、虎繁が率いる甲斐と信濃の軍勢が、徳川氏の本拠地である三河を攻めようとして進軍している途中で、東美濃の豪族遠山氏の領地恵那郡上村(現在の岐阜県恵那市上矢作町)へ侵入したために、遠山氏と徳川氏傘下の山家三方衆・三河衆の連合軍と衝突し合戦となったが勝利した(上村合戦)。しかしその後織田信長から派遣された明知光廉(三宅長閑斎)の軍勢と小田子村で戦い信濃の伊奈郡へ撤退した。 元亀2年(1571年)2月には下伊奈郡諸郷の人足を動員し、大嶋城の普請を命じられており、大嶋城の城代であったことが確認される。元亀3年(1572年)10月、信玄は「西上作戦」を開始する。『当代記』によれば、虎繁は山県昌景とともに別働隊を率いて奥三河へ侵攻する。虎繁は三河の奥平氏・菅沼氏らの国衆の諸城を陥落させた後、信玄本隊と合流している。同年末には東美濃国衆の遠山氏が織田信長から離反して武田氏に帰属すると、虎繁は美濃方面を担当する。 元亀4年/天正元年(1573年)3月6日、信玄の命で東美濃に向かい、前年に武田方に寝返っていた岩村城(岐阜県恵那市岩村町)に入城した。以後、虎繁は大嶋城代と岩村城代を兼任する立場となる。「武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』では虎繁は岩村在城で春近衆50騎を率い、他に坂西氏・知久氏・座光寺氏ら下伊奈国衆を指揮し305騎を統率したと記しており、この時期の虎繁を指すと考えられている。 なお、『甲陽軍鑑』『三河物語』によれば、虎繁は開城に際して前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたとされるが、これは誤りであることが指摘されている。また遠山家の養子として送られていた信長の五男・御坊丸(後の織田信房)を保護して甲斐に送っている。 同年4月12日、武田信玄は信濃伊奈郡駒場において死去し、武田勢は甲斐へ撤兵した。
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