西上作戦
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西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。
注釈
出典
- ^ a b c d 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』37号、2007年。
- ^ 渡辺世祐『武田信玄の経論と修養』更級郡教育会、1928年。
- ^ 奥野高廣『武田信玄』吉川弘文館〈人物叢書〉、1959年。
- ^ 磯貝正義『武田信玄』新人物往来社、1970年。
- ^ 染谷光廣「武田信玄の西上作戦小考-新資料の信長と信玄の文書-」『日本歴史』360号、1978年。
- ^ 小和田哲男『三方ケ原の戦い 武田信玄上洛への大戦略!!』学習研究社〈歴史群像シリーズ 合戦ドキュメント 2〉、1989年。
- ^ 柴辻俊六『信玄の戦略-組織・合戦・領国経営-』中央公論新社、2006年。
- ^ 平山優『武田信玄』吉川弘文館、2006年。
- ^ 高柳光寿『三方原之戦』春秋社〈新書戦国戦記 5〉、1977年。
- ^ 須藤茂樹「武田信玄の西上作戦再考」『武田氏研究』3号、1988年。
- ^ a b 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』〈岩波新書〉2007年。
- ^ 鴨川達夫「武田氏滅亡への道」『山梨県史 通史編2中世』2007年。
- ^ 丸島和洋 著「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」、柴辻俊六 編『新編 武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。
- ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』第74号、2017年。/所収:久野雅司『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版、2019年、176-190頁。ISBN 978-4-86403-326-8。
- ^ 柴裕之「長篠合戦再考-その政治的背景と展開-」『織豊期研究』12号、2010年。
- ^ 武田氏研究会 編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年。
- ^ 平山優『新説 家康と三方原合戦-生涯唯一の大敗を読み解く-』NHK出版〈NHK出版新書688〉、2020年。
- ^ 平山優『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA〈角川選書664〉、2022年。
西上作戦
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元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始した。 山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したという。軍勢は5,000人とされる。9月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。 秋山虎繁(信友)は、信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)の城代で、「下伊那郡司」として信濃下伊那郡から美濃・三河・遠江方面の軍事・外交を担っていた。『当代記』によれば、秋山は山県隊とともにほぼ同時に居城・高遠城より岩村遠山氏の領地を通って、徳川氏の本拠地の三河へ攻め込もうとしたため岩村遠山氏と徳川氏との連合軍との間で上村合戦が勃発した。秋山隊の軍勢は2,500人とされる。秋山隊の勢いに押された徳川方は殆んど戦わずして退却した。秋山隊は、織田方の岩村遠山氏の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)山県隊と。11月初旬に攻略。 武田信玄率いる22,000人の本隊(うち北条氏の援軍2,000人)は10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。 総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川氏の動員兵力は最大でも15,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田氏は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった。
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