三河侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)
三方ヶ原で勝利した信玄は、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部で越年した。刑部は三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点である。 詳細は「野田城の戦い」を参照 年が明けて元亀4年(1573年)1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲する。野田城は小規模な城であり、400ほどの城兵しかいなかった。城主の菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦を選択した。信玄は野田城攻めは力攻めで行わず、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。2月10日野田城は降伏した。
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