三河吉野朝の終焉とは? わかりやすく解説

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三河吉野朝の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 21:39 UTC 版)

三河吉野朝」の記事における「三河吉野朝の終焉」の解説

三河吉野朝の終焉は、最終的に明徳の和約成立した元中9年/明徳3年10月27日ユリウス暦1392年11月12日ということになるが、実質的に天授5年1379年)秋から天授6年1380年)の春に掛けて行われた武家方攻撃よる。 青木文献によると、天授5年1379年9月20日長慶院法皇崩御したと記録されている。南朝史学会藤原石山は、天授5年1379年)の長慶院法皇崩御については、1385年元中2年/至徳2年9月太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に納めた宸筆願文存在する事から、後醍醐天皇皇女懽子内親王」が身代わりになった考察している。 また、地元の伝承によると、山名氏清甲斐軍兵2800騎を率いて東三河進撃して来たため、三河吉野朝の東の防塁であった和田城拠点としていた青木和田尉盛勝天授6年1380年1月6日戦死した。また翌天授6年1380年)には、三河赤坂落合合戦楠正儀戦死したその時期は「稲の植え付け時」と伝承され正勝の子孫・小久保家伝承され楠正儀位牌には「明徳院全大士、天授6年5月9日楠正儀51才」と記録されている。

※この「三河吉野朝の終焉」の解説は、「三河吉野朝」の解説の一部です。
「三河吉野朝の終焉」を含む「三河吉野朝」の記事については、「三河吉野朝」の概要を参照ください。

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