三河刈谷藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
刈谷城は勝成の手によって近世城郭へと改修され、徳川家康の故郷である三河国の重要拠点となる。勝成が築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流し海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した平山城で、その姿から別名で亀城と呼ばれた。慶長6年(1601年)に勝成は従五位下に叙任され「日向守」を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、それ以来名乗るものがなかったが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし、逆に日向守を欲したという。以後はその勇猛さから「鬼日向」と渾名されることもあった。慶長7年(1602年)8月28日、勝成の伯母にして、家康の母・於大の方が亡くなる。慶長13年(1608年)、勝成は備中国成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せ、同年勝俊は徳川秀忠に仕えることになった。 慶長13年(1608)12月、宮本武蔵から勝成に剣術の奥義が伝えられる。
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