遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復
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「武田信玄」の記事における「遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復」の解説
詳細は「駿河侵攻」を参照 詳細は「三増峠の戦い」を参照 詳細は「二連木城の戦い」を参照 永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。 永禄12年(1569年)6月、大宮城を攻め、降伏させる(第二次駿河侵攻を参照)。 永禄12年(1569年)10月、碓氷峠方面から信玄による小田原城侵攻。撤退の際に、三増峠の戦いが発生。この結果、後北条家は北条氏信(綱重)率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、蒲原城が落城した(駿河侵攻の為の二正面作戦と見れる)。 元亀元年(1570年)1月、武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城。この結果、海に面した地域を手に入れたので、武田水軍を編成。徳一色城(田中城)を攻め落とす。 元亀元年(1570年)8月、駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けて韮山城を攻略、攻め落とせず。 元亀元年(1570年)12月、武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍が小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破った。 元亀2年(1571年)2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。
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