後北条氏
北条氏 (1487年 - 現在) | |
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本姓 | 桓武平氏伊勢氏流 |
家祖 | 北条早雲(伊勢新九郎入道宗瑞、早雲庵宗瑞) |
種別 |
武家 華族(子爵) |
出身地 | 京洛(山城国平安京) |
主な根拠地 |
相模国小田原 河内国狭山 東京府東京市 |
著名な人物 |
北条早雲 北条氏綱 北条氏康 北条氏政 北条氏直 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
後北条氏(ごほうじょうし/うじ)・後北條氏・小田原北条氏(おだわらほうじょうし/うじ)・相模北条氏は、武家・華族であった日本の氏族。
本来の氏は「北条(北條)」であるが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」、「相模北条氏」とも呼ばれる。
北条早雲を祖とし、戦国時代に戦国大名として関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。ただし、分流の氏規の子孫が存続して江戸時代には狭山藩主家、維新後は子爵家となった[1]。
概要
本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。戦国時代、備中伊勢氏から出て、駿河国の守護・今川氏親を補佐して伊豆の北条に旗を立てた伊勢新九郎入道宗瑞(早雲庵宗瑞、北条早雲)を祖とし、2代氏綱より相模国小田原城を本拠として、5代にわたり関八州に戦国大名として威勢を振るった。
北条を名乗ったのは2代氏綱からで、厳密には4代しか続いていないと言えなくもないが、狭山北条氏の寛永の呈譜でも初代は伊勢長氏[注釈 1]とされており、同じ頃(寛永18年)刊行された三浦浄心『北条五代記』の「北条早雲」が流布して、早雲も含めて5代続いたとみなされている。
早雲のとき相模三浦氏を滅ぼし、3代氏康のとき扇谷上杉氏を滅ぼし、周辺諸国を切り従えた。5代・氏直のとき織田政権に臣従しようとしたが、本能寺の変のあと、北関東での抗争を続けて豊臣政権と対立し、天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐により戦国大名としては滅亡した。
しかし、分流の氏規やその息子の氏盛が秀吉より下野国や河内国内に知行を与えられ[2]、江戸時代にも河内国狭山藩1万石を領する外様大名として存続、明治維新後には華族となり、明治17年(1884年)の華族令施行後子爵家に列した[1]。
歴史
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伊豆・北条に旗を立てる
室町幕府の幕臣(奉公衆または申次衆)であった伊勢新九郎(早雲)の姉(北川殿)は、駿河国の守護大名・今川義忠に嫁いでいた。今川義忠が応仁の乱の混乱のさなか討死した後、今川家では家督争いが起きた。早雲は駿河国に下向し、北川殿の子で甥にあたる龍王丸(後の今川氏親)を支援して家督を相続させた。六巻本『北条記』は、早雲はこの功績により氏親から駿河国富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した、としている[3]。明応2年(1493年)、早雲は伊豆国を攻めて堀越公方の子・足利茶々丸を滅ぼし、北条に旗を立てて、韮山城に在城した[4]。
明応4年(1495年)に早雲は、大森氏から相模国の小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦義同を滅ぼした。
北条改姓
初めて北条氏を称したのは早雲ではなく、2代氏綱とみられている。早雲は、『備中伊勢氏系図』に、伊勢備中守貞定の子・盛時で、伊勢駿河守貞雅の養子になり、伊豆に下って北条氏の祖になったとされている[5]。
黒田基樹は、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していたにもかかわらず、「北条」に改姓した理由として、上杉氏ら関東の旧来勢力から伊勢氏は“外来の侵略者(他国の兇徒)”とみなされており、それまで相模守護であった扇谷上杉氏に代わる相模国主としての正当性を得るために、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡を継承した、という体裁を宣言したからだとしている[6]。そして家紋・旗印もそれまでの「伊勢対い蝶」から「北条三つ鱗」に改めた。
なお、山内・扇谷両上杉家や長尾上杉家などの北条家の敵対勢力は、後年まで旧名字の「伊勢」で呼び続けた。対する北条家側も、長尾上杉家のことを旧名字の「長尾」で呼び続けた。
氏綱から名乗った「左京大夫」、氏康から名乗った受領名「相模守」も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗った古例を踏襲したものである。以後、当主が左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となった。
執権北条氏との血統的なつながりは、以下に示す通りである。
黒田は、北条氏綱の正室であった養珠院殿が、後北条氏家臣で鎌倉時代最後の北条得宗・北条高時の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している[7][8]。
小和田哲男は北条氏は京都との接触を最低限に止め、平将門以来関東にあった「中央からの半独立」という願望を具現化することを国是としていたとする。関東管領職の継承に固執したのもそのためで、関東の地に関東公方を盟主とした独立国家を目指していた、としている[要文献特定詳細情報]。
佐々木健策は、氏綱が継室(近衛殿)を近衛家から迎えていること、相模国の守護所を目指していた小田原の城下町形成の過程で京都や奈良の職人を積極的に招聘していたことなどを挙げ、関東公方はもとより室町幕府や朝廷との関係を自らの威信として利用することで、関東における主導権を確立しようとしたと説いている[9]。
なお、北条への改姓の正確な時期については、箱根権現の宝殿の修造完成を機に作成された大永3年(1523年)6月12日付の棟札が「伊勢」の名乗りで記され、同大永3年(1523年)9月13日に書かれた公家の近衛尚通(後に娘が氏綱の継室となる)の日記『後法成寺関白記』の記述には「北条」の名乗りが登場していることから、その3か月の間に行われたと推定されている[10]。また、永正15年(1518年)7月に小弓公方として自立した足利義明を、共に支援することで同意したために成立した伊勢(北条)・扇谷上杉両家の和睦がこの時期に破綻して、山内・扇谷両上杉家の同盟が成立し、さらに伊勢(北条)・扇谷上杉両勢力の境目にあった小机城一帯が直後に北条領になったと推定されることから、北条改姓は扇谷上杉家との関係破棄の一環として行われた、とする見方もある[11]。
領国拡大
北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に4代続いた。
氏綱の代に関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦において小弓公方を滅ぼした。この功により古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。三浦浄心『北条五代記』や[要検証 ]「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)などでは氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家の家督と管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。
氏康期の天文22年(1553年)には甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立し、信濃において山内上杉家・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。永禄11年(1568年)末には武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻し、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなり、北条管領は消滅した。また、この際に北条氏に亡命した今川氏当主の今川氏真(正室は氏康の娘の早川殿)に迫って、氏政の子である国王丸(後の氏直)を養子として今川氏当主の座を譲らせたことによって駿河今川領国を支配する大義名分を得た。しかし、越相同盟は次第に形骸化し、国王丸を今川氏当主にして駿河を併合する計画も駿河を占領する武田軍に敗れたことで失敗に終わったため、氏真と国王丸の縁組は解消されている。
天文15年(1546年)の河越夜戦により扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には関東公方足利氏を追って古河城を治めた。後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。局所的な戦闘においては敗退することもあったが、着実に支配を広めた。
氏政が実権を掌握した元亀2年(1571年)には甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年(1578年)の越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する徳川家康と結び、織田信長に接近し、氏直の嫁を織田氏から迎えようとしたが、縁組は実現しなかった。
天正10年(1582年)、武田攻めにより武田氏を滅ぼした後、織田氏は重臣の滝川一益を関東入りさせ、上野国を中心に主に北関東の諸侯がこれに従った。後北条氏は織田氏との同盟関係の維持を模索していたが、同年6月に本能寺の変が起き、信長が死亡すると、神流川の戦いで滝川を破り、織田氏の旧領を領有。甲・信・駿地方の領有を争い対立した徳川氏とは同年10月に和睦して同盟関係となったが、天正11年(1583年)以降、北関東で抗争を続け、織田政権を継承した豊臣氏と対立した。
天正14年(1586年)時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野南半・下野西半、駿河・常陸の一部に及んだ[12]。
小田原合戦
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小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐を経て日本をほぼ統一した豊臣秀吉に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に恭順の意思を示していた。しかし、天正17年(1589年)に上野国名胡桃において、かねてより真田家との間にあった領土紛争が拗れ、北条家家臣の猪俣邦憲が独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領した(名胡桃城事件)。この事件は豊臣政権が諸大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとされ、天正18年(1590年)に豊臣秀吉は諸大名を動員し小田原征伐を号令した。これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。
この時点まで秀吉は明智光秀や柴田勝家を滅ぼしたとはいえ、毛利・長宗我部・島津・徳川・織田といった大名家に対しては、領地削減などはあれどこれらを廃することなく処していた。徳川氏や島津氏・長宗我部氏などは、豊臣政権と一度は交戦に至ったものの、最終的な殲滅決戦が行われるより前に、当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓うことによって本領が安堵されている。ゆえに、豊臣政権が目指していたのは、北条氏らを滅亡させることではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって領土紛争に対する裁判権を豊臣が掌握することにより、全国の諸大名を支配することにあった、とする説もある。真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初、仲裁者の立場に立っており、北条氏有利の裁定を下している[注釈 2]。
小田原開城以後の豊臣政権下で
小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田利家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国丹南河内2郡において6,980石余を給う[2]。その子・氏盛も天正19年(1591年)に下野国内で4000石を拝領しており、慶長5年(1600年)の氏規の死後に氏規の遺領も次いで都合1万1000石の大名となった[2]。
江戸時代
狭山藩主家
元和2年(1616年)に狭山陣屋を本拠とするようになり河内狭山藩が生まれた[2]。以降後北条氏は12代にわたって狭山に在封し、明治維新を迎えた。この間、領地はたびたび変動したが、5代・北条氏朝以降は近江、河内の両国内にまとまった[13]。
だが、11代の北条氏燕(先代の養父は先々代の娘婿で氏燕は先々代の甥)の代で北条氏綱以来の北条家の血は絶え次代以降は他家の人間が北条家を継承していく(現存しているもう一つの家である北条新蔵家も既に5代・氏庸の代で絶えている)。
狭山藩主家以外の後北条氏
- 傍系の北条綱成の子孫で鎌倉衆を束ねていた氏勝があり、彼は小田原征伐の際に守城の玉縄城を開城し降伏し、以後は徳川家康に家臣として仕え、家康の関東入国後には岩富1万石を与えられていた[14]。これが江戸時代前期に譜代大名の岩富藩となっている。保科氏から迎えた養子・氏重が後を継ぎ、下野富田藩 → 遠江久野藩 → 下総関宿藩 → 駿河田中藩 → 遠江掛川藩と加増移封され、最大で3万石を領するようになったが、彼の死後に無嗣廃絶となっている[15]。
- 氏勝の甥にあたる氏長は北条流兵学の創始者となり、幕臣として大目付まで出世し、5000石の大身旗本となった[16]。
- 氏直の弟の直重は、千葉邦胤の養子となって千葉直重と名乗っていた。小田原征伐では千葉氏を率いて小田原城に籠城した。合戦後は妻と離別して兄の氏直に従い高野山に隠棲し、のち阿波の蜂須賀氏に仕官した。その後苗字を大石 → 伊勢 → と改めながら、幕末まで続いた。
- 北条氏忠の正室と娘の姫路は毛利輝元に預けられ、のちに長門国に知行1000石を与えられた。正室の死後、輝元の家臣の出羽元盛[17]の次男が姫路の婿となり北条就之と名乗った。この家系は江戸時代を通じて長門国萩藩士として存続し、幕末には大坂留守居役北条瀬兵衛(伊勢氏華)・北条源蔵(伊勢煥。幕府咸臨丸の訪米団に参加した。)の兄弟を出した。
- 北条氏光の子の北条氏則(-1636)は、小田原落城後は母や姉と共に京都大徳寺に蟄居した。氏則の娘は北条氏長に嫁いでいる。
明治以降
最後の狭山藩主北条氏恭は、明治維新後に華族に列し、1869年(明治2年)6月の版籍奉還で狭山藩知事に転じたが[19]、軍費と藩債がかさんでいたことから同年に廃藩置県を待たずに藩知事を辞任し、藩は堺県に合併された[13]。
廃藩置県の際に定められた家禄は547石[20][注釈 4]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、2万3953円60銭9厘(華族受給者中197位)[22]。明治前期の氏恭の住居は東京市麹町区下二番町、当時の家扶は早川義太郎[23]。
氏恭は華族令施行後の1884年(明治17年)7月8日に旧小藩知事[注釈 5]として子爵に叙され[1]、侍従や宮中顧問官を務めた[25]。その息子で爵位を継いだ北条謙吉子爵は陸軍軍人となり、歩兵中佐まで昇進し、皇族付武官を務めた[25]。その後に爵位を継いだ弟の北条雋八子爵は帝室林野局に勤務した後、貴族院の子爵議員に当選して務めた[25]。戦前から日蓮正宗を信仰しており[25]、戦後には創価学会の推薦を受けて参議院議員となり、公明党結成に参加した。その甥(氏恭の孫)の浩も公明党の参議院議員を務めた後、創価学会の第4代会長となった[26]。
系譜
凡例 - 実線は実子、点線は養子、太字は当主
後北条宗家・久野北条家(長綱)・牟礼高橋(北条)家系統
*早雲本人は北条を名乗っていないが、通常北条氏の初代と数える。
早雲 (伊勢盛時)1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏綱2 | 氏時 | 氏広 | 長綱(幻庵) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏康3 | 為昌 | 氏尭 | (高橋)綱高 | 氏隆 | 綱重 | 長順 | 三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏政4 | 氏照 | 氏邦 | 氏規 | 氏忠 | 氏秀(上杉景虎) | 氏光 | (高橋)康種 | 氏隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏直5 | 源五郎 | 氏房 | 直重 | 直定 | 氏盛 | 氏則 | (高橋)氏資 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏盛 狭山藩主家へ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※明治時代に、後北条氏の末裔を自称する元仙台藩士・桑島政貫が、氏直の子であるという北条氏次なる人物の墓碑を早雲寺に建立した。しかし、史実において氏直の子として確認されているのは女子2人のみであり[27]、氏次なる人物は氏直の子とは見られていない。
玉縄北条家
- 氏時と為昌、為昌と綱成は、その立場の全てもしくは一定部分を継承した後継者と言える[注釈 6]。
氏時 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
為昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱成 (福島氏から 養子入り) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康成(氏繁) | 康元(氏秀) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏舜 | 氏勝 | 氏成 | 直胤 | 繁広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁広 | 氏明 | 氏重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏長(正房) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏平 | 元氏(泰繁) | 氏如 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏英 | 松前勝広 (松前嘉広養子) | 氏如 (元氏実弟) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏庸 | 氏孝 (小川保願の子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏応 (京極高甫の子) | 義氏 | 氏紀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏興 (板倉勝清の子) | 氏紀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏乾 | 氏統 (北条氏紀養子) | 渋川興紀 | 知恭 (赤松恭富の子) | 氏泰 (八木補道の子) | 氏統 (北条氏興の子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏征 | 乾晴 | 乾任 | 氏富 (鳥居忠継の子、 初名:鳥居成美) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
狭山藩主家
氏盛1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏信2 | 氏利 | 氏重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏宗3 | 氏治 | 氏清 | 氏澄 | 氏朝 | 氏成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏治4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏朝5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏貞6 | 民部 | 氏副 | 氏従 | 氏比 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏彦7 | 正喬 | 氏格 | 恭順 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏昉8 | 氏幹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏喬9 | 氏迪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏久10 | 氏燕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏燕11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏恭12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家紋
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定紋の三つ鱗は執権北条氏に由来し、同じ桓武平氏惟将流氏族を称する伊勢氏、後北条氏ともに使用がある。後北条氏の三つ鱗は高さを低くした二等辺三角形を組み合わせてあり、これを特に「北条鱗」と称する。替紋は平家の「対い蝶(北条対い蝶)」「隅切り折敷に二文字」など。
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北条鱗
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三つ鱗
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対い蝶(北条対い蝶)
評価
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軍事面
早雲の代に上杉配下の幕僚だった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的だった。
後北条氏は、小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行うという近代的な制度だった。
最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能とした戦力があった。この軍事上の優越とともに、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親などとの外交上の連携をもって、後北条氏は関東自立を目指していた。
内政面
後北条氏は内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
また、家督を継承するにあたっては、正室を重んじることにより、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらにその結果として宗家のほとんどが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴った。ただし、近年の研究では系譜上は正室の子とされていた者が実際には側室の子であったことが判明しているケースも多いことに注意を要する(北条氏邦・千葉直重など)。
東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血統を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年には家督を代替わりすることによって徳政令を出すという施政も見受けられた。
主な一族
数字は当主継承順位
- 伊勢宗瑞(北条早雲)【一】
- 北条氏綱【二】 - 宗瑞長男
- 北条氏時 - 宗瑞次男
- 北条氏広(葛山氏広) - 宗瑞三男
- 北条幻庵 - 宗瑞四男
- 北条綱高 - 氏綱養子(妻は宗瑞娘)
- 北条綱成 - 氏綱(または為昌)婿養子(玉縄北条家)
- 北条為昌 - 氏綱三男
- 北条氏尭 - 氏綱四男
- 北条氏康【三】 - 氏綱長男
- 北条氏親 - 氏康長男
- 北条氏政【四】 - 氏康次男(長男夭折のため長嫡子)
- 北条氏照(大石氏照) - 氏康三男(大石氏を継承)
- 北条氏邦(藤田氏邦) - 氏康四男(藤田氏を継承)
- 北条氏規 - 氏康五男
- 北条氏忠(佐野氏忠) - 氏康六男(氏尭長男とも、佐野氏を継承)
- 北条三郎(上杉景虎) - 氏康八男(上杉家へ養子)
- 北条氏光 - 氏康九男(氏尭次男とも)
- 北条氏直【五】 - 氏政次男(長男夭折のため長嫡子)
- 太田源五郎(実名不詳) - 氏政三男(武蔵太田氏を継承)
- 北条氏房(太田氏房) - 氏政四男(源五郎を継承)
- 千葉直重(北条直重) - 氏政五男(下総千葉氏を継承)
- 北条直定(氏定) - 氏政六男
- 北条氏繁 - 綱成長男
- 北条氏秀(沼田康元)- 綱成次男
- 北条氏舜 - 氏繁長男
- 北条氏勝 - 氏繁次男
- 北条氏成(直重) - 氏繁三男
- 千葉直胤(北条直胤) - 氏繁四男(武蔵千葉氏を継承)
- 北条繁広 - 氏繁五男
主要家臣
御家中衆 御馬廻衆 足軽衆 水軍
|
伊豆衆 小田原衆 三崎衆
玉縄衆 津久井衆 |
小机衆 江戸衆 江戸衆←伊豆衆 滝山衆 松山衆 鉢形衆 不明・その他 |
影響下 |
後北条氏の主な城
- 居城
- 主な支城
家臣団
カッコ内は人数
- 江戸衆(103)
- 小田原衆(34)
- 御馬廻衆(94)
- 御家門方(17)
- 玉縄衆(18)
- 他国衆(28)(千葉氏佐倉衆)
- 小机衆(29)
- 伊豆衆(29)
- 松山衆(15)
- 三浦衆(32)
- 諸足軽衆(20)
- 津久井衆(57)
脚注
注釈
- ^ 近年の研究では諱は長氏ではなく盛時であったとみられている。
- ^ ただし、この強引な仲裁がのちの名胡桃城事件の伏線となったことも否めない。
- ^ 純長の養子入りの際に伊丹氏から付けられた家臣の一人、とされるので、それまでは伊丹氏の家臣であった可能性もある。
- ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[21]。
- ^ 旧狭山藩は現米5470石(表高1万石)であり、現米5万石未満の旧小藩に該当[24]
- ^ 綱成は為昌の養子とされているが、現在では為昌の追善は行っていたものの養子では無いとする説もある。また、為昌の追善に関しても後に北条氏規が継いでおり、その意味では氏規も為昌の後継者と言える[28]。
出典
- ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 335.
- ^ a b c d 新田完三 1984, p. 377.
- ^ 六巻本『北条記』巻2(4)早雲蜂起之事『北条史料集』21頁
- ^ 六巻本『北条記』巻2(4)『北条史料集』22頁
- ^ 栗原信充『先進繍像 玉石雑志』続編巻5
- ^ 黒田 2012, pp. 72–75.
- ^ 黒田 2013, pp. 16–17, §. 伊勢宗瑞論.
- ^ 黒田 2016, pp. 8–12, §. 北条氏綱論.
- ^ 佐々木 2008, p. [要ページ番号], §. 相模府中小田原の構造.
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参考文献
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- 黒田基樹 著、黒田基樹 編『戦国北条氏五代』戒光祥出版〈中世武士選書 8〉、2012年。ISBN 9784864030564。
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- 佐々木健策『戦国期小田原城の正体-「難攻不落」と呼ばれる理由』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2024年。ISBN 9784642059848。
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関連文献
- 佐脇栄智『後北条氏の基礎研究』吉川弘文館、1976年 オンデマンド版[1]2021年 ISBN 9784642725392
- 佐脇栄智『後北条氏と領国経営』吉川弘文館、1997年 ISBN 9784642027540。オンデマンド版[2] 2021年 ISBN 9784642727549
- 小和田哲男『後北条氏研究』吉川弘文館 1983年 ISBN 4-642-02573-1。オンデマンド版[3] 2013年 ISBN 9784642042468
- 黒田基樹『小田原合戦と北条氏』[4](敗者の日本史 10) 吉川弘文館、2012年 ISBN 9784642064569
- 山口博『北条氏五代と小田原城』[5](人をあるく)吉川弘文館、2018年 ISBN 9784642067966
- 小和田哲男監修・小田原城総合管理事務所編『戦国大名北条氏の歴史-小田原開府五百年のあゆみ』[6] 吉川弘文館、2019年 ISBN 9784642083676
- 簗瀬大輔『小田原北条氏と越後上杉氏』[7](対決の東国史 7)吉川弘文館、2022年 ISBN 9784642068734
- 石橋一展『古河公方と小田原北条氏』[8] (対決の東国史 6)吉川弘文館、2025年 ISBN 9784642068727
- 則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』[9](動乱の東国史 6) 吉川弘文館、2012年 ISBN 9784642064453
関連項目
外部リンク
後北条家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
『天正記』から存在は言及されていたが『権兵衛』にて正式に登場。相模国を拠点に関東一円を支配する戦国大名家。 元は幕府申次衆伊勢氏出身の初代・伊勢盛時が、窮乏する民を憂いて、禄寿応穏を旗印に独立国建国を志向する。関東の戦乱に乗じて伊豆国、相模国を獲得し、二代目の氏綱の代において鎌倉幕府家宰「北条氏」を継承。関東の諸勢力から他国之凶徒と蔑まれ、北条包囲網を形成されるに至り、三代目の氏康が「河越夜戦」において管領上杉家を破り、隣国の今川・武田両家と三国同盟を結び、関東の支配権を決定づけた。 四代目の氏政の代においては長尾景虎の小田原侵攻という危機に見舞われながらも体制を盤石なものとし、織田家の甲州征伐においては同盟国として多方面侵攻に協力するなど良好な関係にあったが、織田信長が横死すると旧武田領を巡って徳川家や上杉家と「天正壬午の乱」を戦う。この乱において真田家との間に沼田の領有・帰属について問題を残すことになり、後に天下人となった豊臣秀吉により裁定が下されたが、これを不服とする北条家臣が「名胡桃城事件」を起こし、総無事令違反により小田原征伐を招くことになった。 他国之凶徒とされた経緯から領民には善政を敷いており、領民からの支持はすこぶる高い。北条包囲網との長年の戦いから籠城戦術に秀でており、小田原の街全体を覆う総構えを始め、関東特有の「赤土」を利用した土塁を駆使した堅牢な城を数多く有する。 伊勢盛時(いせ もりとき) 通称は新九郎、後に出家して宗瑞。幕府申次衆伊勢氏出身ながら後に後北条氏の家祖となり、北条早雲と称される大人物。醜男ではあるが妙に女性にモテる人柄で、大柄な体格から五十貫もの神輿を持ち上げる怪力に加え、有職故実を網羅し、知略・戦略にも長けるが、妻から「生存力が強すぎる故、礼法が下らないと思うのでしょう」と苦言も呈されていた。武将となってからは”室町武士的な豪放な決断力と東山文化を体現する繊麗な政略”を併せ持つ稀代の名将となった。 自身を慕う悪党足軽(後の御由緒六家)の面倒を見て、荒廃した京の民にも施しを与えていたため、常に金欠で従兄の伊勢盛頼に借銭する代わりに盛頼の知恵袋となって土倉との抗争など困難な案件を処理してきた。それらの経緯から「この世は文武に長けた者より銭に賢しき者が牛耳っている」と世の真理に気付いており、後年になっても土倉のことを嫌悪した。新九郎の存在に気付いた時の管領細川政元から関東の騒乱を鎮めるべく、縁戚関係にある駿河守護・今川家に下向、今川氏親の後見人として駿河の安定に寄与する。その矢先に「明応の政変」が起こり、京の混沌ぶりから天下の自浄作用は失われ、下剋上の世の到来を察し、天下の鎮定ではなく関東で独立王国を作り理想の国家を作ることを模索するようになる。諸将が欲するものを見極め、大国に対抗するため小国と手を結び、大国が衰退すればその大国と手を組んで代わりに栄えた小国を討つ、という大政略の下、政元の対立分子を討つとの大義名分を持って伊豆乱入を決行し、領土を得るとそこを足がかりとし関東管領上杉家の対立で巧みに立ち回り、相模国を獲得して後北条家の基礎を築く。 晩年は嫡男・氏綱に家督を譲り、「禄寿応穏」(万民の「財」と「命」を応に穏やかに保つこと)を家訓として掲げ、また氏親との会話で乱世を「遊び」と称し「楽しみを民と共有する」ことを目指すなど民本位の仁政を敷くことを生涯の目標とした。その一方で「理想を掲げてばかりでは悪に勝つことはできない」という現実的な視点を持ち合わせており、「当主一代につき一度限り非道を為すことを許す」とする「虎印判」の掟を残した。「乱世を遊び場」とする思想は、「桶狭間戦記」で氏親から太原雪斎を通じて子の義元に受け継がれていく。 外見のモデルは、ソクラテス。 北条氏綱(ほうじょう うじつな) 通称は新九郎。当初は伊勢氏を名乗っていたが、伊勢家二代目当主にして北条姓を名乗った最初の当主であるため「後北条家初代」とも扱われている。宗瑞からは”守成の才”があると評されており、醜男であった父・宗瑞と違い美男子で民からの支持も厚いが、すべてにおいて勝者であった宗瑞と比べてそれを引き継いだ自身は全てにおいて劣る敗者たる気持ちと卑下していたが、後に北条への改姓を強行するなど家臣団を「先代に劣らぬメチャクチャさだ」と唖然とさせた。後年には「手前が唯一、父に勝るのが執拗さである」と北条包囲網との戦いに耐え抜いた。 宗瑞の言葉を代々に残すため、「碌寿応穏」と刻んだ虎印判を作成し、「当主一代につき一度限り非道を為すことを許す」と取り決める。父の死後、家臣団の制止を振り切って鎌倉幕府の家宰であった「北条」への改姓を強行し、「関東の民に慕ってもらい、鎌倉公方を支え、公的承認を得る」という政策を掲げる。しかしこの政策を機に関東管領上杉家などを筆頭とする旧勢力が新勢力である後北条家の台頭を危惧し、扇谷朝興の主導で上杉家や武田家による第一次北条包囲網が結成されることとなった。父の遺訓である「一度限り非道を為す」を実行し、段銭を徴収したうえで武蔵に進出して包囲網勢力との戦いに生涯を費やすこととなるが、公正さと民の安堵を心がけ、後北条家を真の国家へと導いていった。 北条氏康(ほうじょう うじやす) 通称は左京大夫。後北条家三代目当主。父・氏綱よりも更に端正な顔立ちで思慮深すぎる性格で、「臆病で悩んでばかり」と揶揄されることもある。口癖は思案時の「うーむ」や「ふーむ」。 先代・氏綱の晩年には古河公方と誼を通じ、武蔵、駿河にも領土を拡げるなど後北条家は拡大の一途を辿っていたが、継承より4年後の1545年、さらに大規模な第二次北条包囲網が結成され、かつてない危機に見舞われる。これを受け氏康は先代が心血を注いで獲得した駿河の河東地域を割譲することで今川・武田両家との和睦という英断を下す。そして長年の抗争の決着とより大きな版図を手に入れるべく、「一度限り非道を為す」を実行し、上杉家に偽りの降伏を申し出、奇襲をかける”騙し討ち”を慣行する。「河越夜戦」と呼ばれたこの戦いで後北条軍は大勝し、扇谷上杉家は当主・朝定の討死により滅亡、山内上杉家も当主・憲政が越後に亡命、その後も古河公方を体制に組み込み、名実ともに関東の支配者となった。 今川家の提案で善徳寺にて義元、信玄と会談、甲相駿三国同盟を締結するが、義元には武田、北条両家で長尾景虎に当たるべきとの助言を受ける。その後、1559年の飢饉により碌寿応穏能わず、天才の物忌を自身の代で引き受け、氏政の代による徳政令の実施を見越して隠居を決意したが、氏政には「国事の独断まかりならぬ」と言い含めていた。氏康の懸念通り、義元の横死による三国同盟の破綻、秋の収穫期という時期に”他国凶徒伊勢討伐”を掲げる長尾軍率いる十万もの大軍が小田原に来襲、氏政は民を守るべく決戦を主張したが、氏康は武田軍の援軍来るまでの籠城戦を徹底させ、自身は村が一つ焼き払われる度に代償として顔に一つ傷をつけ、耐え忍んだ。その後、氏政によれば晩年は心労がたたり、子供の見分けもつかない有様であったという。 北条氏政(ほうじょう うじまさ) 通称は新九郎、隠居後は截流斎。後北条家四代目当主。父・氏康に似ず、恰幅の良い体格。次代の氏直からは「公儀となりて、民衆を気高きものと導いた」と評される。 1559年の飢饉を受けて先代・氏康が隠居したが、「国事の独断まかりならぬ」と言い含められており、実質的な両頭体制となった。氏康の懸念通り、1561年に長尾軍率いる十万もの大軍が小田原に来襲、氏康からは籠城戦を厳守されていたが、民から続々と届く保護の嘆願を受け、民衆の信頼に応えるべく出陣しようとするが、「慈しみによりて悪逆に立ち向かうには、敵に倍する智勇を要す」と氏康に諫められる。「一度限り非道を為す」を実行して民衆からの救援要請を悉く無視して籠城を決め込み、長尾軍の放火・略奪(小田原城から誘い出すための挑発であった)の報が届くたびに涙を流して父子ともに耐え忍び、敵将・長尾景虎に「他国凶徒にしては折り目正しき国」と敗北を認めさせた。 時は流れ、天下人となった豊臣秀吉から再三に渡る上洛要請を受けていたが、これを拒否して豊臣・後北条家の関係は悪化の一途を辿っていた。既に実質的な当主職は氏直に譲り、両頭体制を敷いていたが、名胡桃城事件により小田原征伐が始まると、氏直を呼び出し、自身も疲労困憊の有様であることを話し、豊臣家との徹底抗戦を条件に国事に係る虎印判を引き渡した。 北条氏直(ほうじょう うじなお) 通称は左京大夫。相模国の戦国大名で後北条家五代目当主。日頃の激務からやつれ気味で北条家と縁のある和尚からは「大名のように見えぬご様態」と言われるが、その深謀遠慮から「宗瑞公に適うやもしれぬ名君」とも評される。 「政と法の『公正さ』こそ国力の源」と考えており、当主自ら裁定や調停などの所務を取り仕切っている。それ故に”万民が正しさへの努力を怠った故に織田や豊臣が跋扈する世になり果てた”と豊臣家を認めてないものの、氏直自身は豊臣家との合戦を望んでおらず、逸る家臣団を抑えられない現状を苦々しく思っている。父・氏政との会談でも籠城戦は民に加重の負担を強いて不幸にする、とその心中を指摘されるが、「北条四代が築き上げた広大な城よりも”大事なもの”」を見てから決断するよう説得される。身分を隠して城下町を見聞し、民衆が我が家の大事とばかりに北条家のために団結して戦いに備える様に考えを改め、氏政から虎印判を受け継ぎ、「一度限り非道を為す」として民衆を守り抜くために豊臣家との徹底抗戦を決断した。 外見のモデルは、セーレン・キェルケゴール。 笠原正巌(かさはら しょうがん) 北条家の武将。父親は、重臣・松田憲秀。本名は政晴だが、主君・氏直に罵られて武田家に出奔した過去があり、北条家に帰参した際に僧名「正巖」を号した。 確かな戦略眼の持ち主で、小田原征伐時には小田原城早川口の守将として攻め寄せてきた仙石隊を迎え撃つ。兵数で劣る仙石隊を虎口奥深くまで誘い込み、付け入りに警戒しつつ、搦手門や”第三の門”の仕掛けで権兵衛の首級を狙う。仙石隊を殲滅すれば自分達も殲滅される危険性を訴え、「折り目正しき北条の合戦」を兵達に命じるも、血気盛んな民兵達は各門から出撃しての総攻撃の気勢を上げ、仙石隊を包囲すべく打って出た第三門より逆に付け入りを許すことになり、自ら権兵衛と刺し違える覚悟で一騎打ちを望むが、側近の須田伊奈介に生き延びるよう諭され、虎口より逃がされる。兵数に勝りながら自身の過信によって敗れたと虎口陥落の責任を一身に担うことを決意し、氏直に面会。虎口を一時占拠されただけと処罰しない意向であった氏直に対して、懸命に戦った北条兵の名を貶めないために、虎口は陥とされたのではなく、自身が敵と内通して引き入れたことにして北条兵に報いることを懇願する。対話の中で共に悪名を一身に背負うとしていることを境遇から氏直から「友」と呼ばれ、かつての非礼を詫びられる。その後、正巖の願い通り、内通の嫌疑により憲秀は監禁(後に秀吉より切腹の命)、正巖は死罪とされたが、伊豆蔵六寺を開山、僧になったとの異説もある。 外見のモデルは、バルトロメウ・ディアス。
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