山角定勝とは? わかりやすく解説

山角定勝

室町後期武将定吉三子。政長・定助紀伊守と称す北条氏政及び氏直に仕える。徳川家康と氏直が講和の時、家康の娘督姫が氏直に嫁したが、その時媒酌勤める。小田原没後、氏直に従って高野山上るが、氏直死後家康仕え相模国で千二百石を領した慶長8年(1603)歿、75才。

山角定勝(やまかく さだかつ) 1529~1603

定助 政長 紀伊
◇父:山角定吉 兄:山角康定 子:山角政定、盛繁、長定、正勝
 山角定吉三男相模・北条氏評定衆小田原開城後、当主直に従い高野山登る翌年氏直が死ぬと、井伊直政召し出され相模に封を得た

山角定勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 16:51 UTC 版)

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山角定勝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄2年(1529年
死没 慶長8年5月8日1603年6月17日
別名 刑部左衛門尉
戒名 宗覚
墓所 相模国厚木の法雲寺→江戸正泉寺[1]
官位 紀伊守
主君 北条氏康氏政氏直徳川家康
氏族 山角氏
父母 父:山角定次
松田康長の娘
政定、盛繁、長定、正勝、娘(松田康郷室)
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山角 定勝(やまかど さだかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士後北条氏徳川氏の家臣。

略歴

享禄2年(1529年)、山角定次の子として誕生[1]。刑部左衛門尉、後に紀伊守と称した。

北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した。永禄4年(1561年)から天正18年(1590年)まで間に彼が奉じた虎朱印状が多数現存している[1]。また、元亀2年(1571年)には相模足柄城の普請奉行を務めている[1]

天正10年(1582年)、徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に媒酌を務め、天正14年(1586年)には家康への使者として派遣されている[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐小田原城が開城した後は、氏直に従い高野山に上った。翌19年(1591年)に氏直が没した後は、徳川家康に仕えて相模国で1200石を与えられている[1]

隠居してのち慶長8年(1603年)、死去。墓所は相模国厚木の法雲寺、のちに江戸正泉寺に改葬された[1]。嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた[1]

山角氏所縁の鎌倉大長寺に、定勝の室が釈迦涅槃図を寄進した記録が残る。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 下山治久『後北条氏家臣団』東京堂出版、2006年、pp672-674。ISBN 4-490-10696-3

出典

  • 『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168
  • 歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X



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