開戦までの経過
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「ペレンノール野の合戦」の記事における「開戦までの経過」の解説
ミナス・ティリスの攻囲は予想されていたため、非戦闘員は退去し、ゴンドールの諸封土から兵が招集され、10日までには到着していた。また、ローハン軍やアラゴルンの一行もそれぞれミナス・ティリスを目指して進軍していた。
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開戦までの経過
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後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。 一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親や宇喜多秀家、九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。毛利輝元には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。これに秀吉に恭順した佐竹氏、真壁氏、結城氏、宇都宮氏、大田原氏、大関氏、里見氏らの関東諸侯勢1万8千が加わった。 なお、天正18年3月当時の参戦した大名のうち、官位、石高などの上位者は以下の通りである。 豊臣秀吉 - 従一位関白太政大臣。 織田信雄 - 正二位内大臣。100万石。秀吉旧主の織田家の当主(扱い)。 徳川家康 - 従二位権大納言。130万石。小田原北条氏と親族。 羽柴秀次 - 従二位権中納言。43万石(豊臣家領内)。豊臣家後継者。 上杉景勝 - 従三位権中納言。「豊臣景勝」。50~90万石。 毛利輝元 - 従四位下参議。「豊臣輝元」。112万石(安国寺・小早川領除く)。毛利水軍は参加したが輝元本人は京都留守居。 前田利家 - 正四位下参議。「豊臣利家」。80余万石。秀吉の個人的知己。 各方面での「総大将」や、講和交渉の窓口担当などにあたるのは、およそこの力関係に拠ると推測される。豊臣政権内部での序列二位の実力者と目されていた豊臣秀長(従二位大納言。100万石。実弟。)は、当時病気がちであり、畿内の留守居となり参戦していない。 豊臣側の主だった将兵 主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、織田信包、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次、豊臣秀勝、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、宮部継潤、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正(兵のみ)、福島正則、長谷川秀一、滝川雄利、丹羽長重、金森長近、金森可重、京極高次。約17万。 水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治、菅達長、毛利水軍。約1万。 北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸、小笠原貞慶、依田康国(松平康国)、毛利秀頼、佐野房綱。約3万5千。 関東勢:佐竹義宣、佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝、多賀谷重経、里見義康。1万8千。 推定総計約21万。 後北条側の主だった将 小田原城:北条氏直、北条氏政、北条氏照、太田氏房、千葉直重、佐野氏忠、北条氏光、北条氏隆、北条直定、伊勢貞運、垪和康忠、松田憲秀、松田康郷、笠原政晴、笠原政尭、大道寺直繁、上田憲定、南條重長、山角定勝、山角康定、鈴木成脩(大学)、伊東政世、梶原景宗、由良国繁、長尾顕長、成田氏長、成田泰親、成田長忠、清水政勝、壬生義雄、吉良氏朝(喜多見勝忠)、千葉重胤、酒井康治、酒井政辰、内藤直行(内藤綱秀息)、和田信業、小幡信貞、北条康種、北条氏資、三浦浄心、潮田資忠、富岡秀長、高城胤則、高城胤知、相馬治胤、高井胤永、小笠原康広、小笠原長房、佐久間安政、佐久間勝之、大胡高繁、井田是政、白倉重家 その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規、江川英吉(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)、垪和康忠(厩橋城)、清水康英(下田城) 豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を武力で突破し、同時に水軍は伊豆半島を巡って小田原冲に展開させ海上輸送を封鎖する方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、普段は兵力に想定しない徴兵した老壮年の男などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは想定されていたが、それ以上に主力は東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での迎撃持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。氏邦は領内ではなく駿河国に大きく打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが、この野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となった。こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城などにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。
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