開戦までの行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:55 UTC 版)
白鳥は9月2日に帰国を命じられ、同月中旬にナポリから出発し、10月13日に帰国した。白鳥は「独ソ不可侵条約で我が国ではドイツが裏切ったと非常に憤慨しているらしいが、ドイツをとがめるのは酷だ。詳しい事情を知れば同情すべき点もある」「日本にも責むべきところがある」とドイツを擁護した。日本では白鳥が交渉を誤ったことが非難されたが、独ソの接近を事前に警告していたことを主張し、活発な講演・執筆活動を行った。またボルシェヴィキも同盟可能な相手に変質していると主張し、以前からの反共主義者としての立場を翻した。この言動には白鳥と近い主張をしていた者達の間からも批判が出た。また第二次世界大戦に関しては当初からドイツ有利との見方をしており、講演ではこうした希望的観測をこめた発言を行っていた。 第二次世界大戦の緒戦でドイツが快進撃を見せると、白鳥は「新秩序」が到来すると主張し、ドイツと同盟を組むべきと強く主張し、「我国上層部」を批判するようになった。1940年(昭和15年)7月には米内内閣が倒れ、第2次近衛内閣が発足した。米内内閣末期に近衛が首相となり、白鳥が外相となるという噂を米内が聞いていたように、白鳥外相を待望する声は多かった。しかし天皇が白鳥の外相就任に反対したため、外相となったのはかつて白鳥の上司だったこともある松岡だった。松岡は白鳥の後見人だった森とも親しかったが、森が松岡の恩人山本条太郎との関係を絶ったため、白鳥との関係も悪化していた。近衛や陸軍は白鳥を次官にするよう要望したが、松岡は大橋忠一を次官とし、白鳥には外務省顧問の地位を与えた。白鳥の言論は次第にユダヤ陰謀論的となり、イギリスが参戦したのはユダヤ資本家のせいであると唱え、やがてユダヤ人に支配されているアメリカとも戦わねばならず、日独伊三国同盟はアメリカを戦争に引き入れるためのものだと主張するようになった。またこの頃文化親善団体「イタリア友の会」が外務省の外郭団体となり、白鳥が会長となった。 1941年4月、白鳥は躁病の治療のために顧問を辞任、以降一年間は入院と療養の生活を送ることになった。
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