開戦までの経緯
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ファルサルスの戦いで敗北し、エジプトで元老院派の総大将であったグナエウス・ポンペイウスが殺害された後も、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)を中心として、プブリウス・アッティウス・ウァルス、ルキウス・アフラニウス及びポンペイウス兄弟(グナエウス・ポンペイウス・ミノル、セクストゥス・ポンペイウス)ら元老院派はウティカを拠点としたアフリカ属州へ退き、同盟関係にあったヌミディア王ユバ1世とも連携して、カエサル派へ抵抗する構えを見せていた。 東部属州での問題(ポントス王ファルナケス2世とのゼラの戦い、元老院派に組したギリシャ諸都市の戦後処理等)およびローマでの諸問題(下記エピソード参照)を解決して後、元老院派を討つべくカエサルはシチリアを経て、紀元前47年12月28日に北アフリカ・タプススの南約70キロの地点に上陸し、紀元前46年1月までに全カエサル軍も北アフリカへ集結した。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 01:21 UTC 版)
飯盛城の戦いで勝利した一向一揆は余勢を駆って大和に侵入、興福寺、春日神社を襲撃した。この動きには、飯盛城の戦いで一向一揆衆に援軍を要請した管領細川晴元も脅威を覚えた。 晴元だけではなく京都の民も脅威を抱きはじめたころ、「一向宗が京に乱入して法華宗を攻撃する」という風説が流れた。晴元方の摂津国人茨木長隆による檄文もあり、直ちに武装した法華門徒は、享禄5年(1532年)7月28日には法華一揆として蜂起した。これには飯盛城の戦いで自害し、熱心な法華信者であった三好元長の仇打ちという側面もあったと考えられる。蜂起した法華一揆と晴元は直ちに手を結んだ。 天文に改元後の同年8月2日、晴元方である木沢長政に対して一向一揆衆が押し寄せたが、木沢軍は逆に一向宗の寺々や堺の道場に放火した。これに対して和泉、河内、摂津、大和4ヶ国の一向一揆衆が一斉に立ち上がり、晴元のいる堺へ押し寄せると、木沢軍が迎え撃った。『二水記』では、この時の様子を 本願寺と細川晴元との間が不和となり、昨日すでに諸軍勢を率いて堺を囲んだ。しかし、晴元の勝ち戦で、一揆勢は数百人の死者を出したということである。(中略)天下は一揆の世になるとうわさしているが、そのとおりになっているようだ。末世のありさまが嘆かわしい — 二水記 八月三日の条 と記している。ここにある「昨日」とは8月2日の事で、「諸軍勢」とは本願寺軍を指している。証如と一向一揆衆が連帯している情報を伝え、この動きに反感をあらわにしている。 京でも法華一揆衆が8月7日に軍事行動を開始した。この時法華一揆衆を率いたのは柳本賢治の家臣であった山村正次である。 8月7日 - 10日:法華一揆衆数千兵が集結 東山、山科周辺を打廻り 8月15日:清水寺周辺の東山に布陣 8月16日 - 17日:東山山麓で法華一揆衆1万、一向一揆衆数千が激突 法華一揆衆が勝利 8月19日:摂津一向一揆衆二千が山崎に布陣、法華一揆衆が出軍し西岡周辺で激戦、法華一揆衆が勝利 このように京都・西岡を抑えた法華一揆衆は、山科本願寺への総攻撃の準備を整えた。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 06:58 UTC 版)
永禄12年(1569年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し摂津に入国、芥川山城主の三好長逸が阿波国に逃走し、松永久秀が織田軍に与すると、久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津三守護に新たに抜擢された幕臣和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。 戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津は常に戦乱の地であり、信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ1つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化した。荒木村重は元亀元年(1571年)7月に阿波から再上陸した三好長逸の支援を受けており(野田城・福島城の戦い)、この対立は三好氏と幕府軍の勢力争いでもあった。 元亀2年(1571年)5月、三好義継と松永久秀が畠山昭高の交野城を攻める。足利義昭の下で義継・久秀・昭高は身分上は幕臣扱いとなっており、幕臣同士の紛争に反発した義昭が和田惟政に昭高救援を命じると共に、これまで対立関係にあった筒井順慶と和睦をして久秀を牽制しようとした。これを知った義継と久秀は義昭に反旗を翻すと共に、長く対立関係にあった三好三人衆や阿波三好勢力(三好長治・篠原長房ら)とも和睦をして、三好長慶の没後分裂状態であった三好勢力が再結集されることになる。 元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。 荒木村重錦絵図 中川清秀像 茨木重朝、和田惟政連合軍が陣取った糠塚
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 11:11 UTC 版)
「アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)」の記事における「開戦までの経緯」の解説
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368が採択された。 この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。 この後アメリカはターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーン政権はビン=ラーディン及びアルカーイダが犯人である証拠を提示するよう求め、引き渡しに応じなかった。 9月14日、オーストラリアも太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した。9月15日、アメリカのコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。ターリバーンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランのモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟やイスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。 9月18日、アメリカ合衆国議会でテロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。 9月28日、国際組織法で初の「立法行為」とされる国際連合安全保障理事会決議1373が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。 アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。
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開戦までの経緯
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永正4年(1507年)の永正の錯乱で細川政元は養子の細川澄之一派に暗殺され、もう1人の養子細川澄元や三好之長は澄之派の追討を逃れ一旦近江の甲賀に退却したが、すぐに京都に侵攻し澄之派を討ち取った。澄元は細川氏当主の座を奪い取り之長も澄元の側近として栄達を遂げた。 このような混乱に乗じて、明応の政変で政元に追われた前将軍足利義稙が大内義興を頼って上洛しようとしていた。この動きを察知した澄元は祖父である細川成之や政元の3人目の養子細川高国に頼んで、大内義興らと和睦しようと画策していた。しかし高国は家督奪取を企て逆に義興らと通じ、翌永正5年(1508年)3月17日に伊勢参宮と称して京都を脱出、伊賀守護の仁木高長に身を寄せるという事件がおきた。 4月9日、澄元の領国だった摂津・丹波の主だった国人達は之長への不満から高国方につき、大内軍が接近しつつある情勢を不利と判断した澄元や之長は、自らの屋敷に放火をして再び近江に退避した。翌10日に高国が入京、6月9日に足利義稙は堺から入洛し、7月1日に再び将軍職につき、高国は管領、義興は管領代にそれぞれ任じられた。こうして澄元を追放した高国は細川氏当主となった。 その後、摂津の国人で澄元派であった池田貞正は討死、阿波に逃れたようとした芥川豊後守も台風で遭難、豊前守の養子であった芥川信方も高国から降伏を許すと言われて堺におびき出されて殺害され、近江からだと徴兵も困難が伴い、澄元は活路が見いだせない状況に陥っていた。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/24 00:31 UTC 版)
「パバイスカスの戦い」の記事における「開戦までの経緯」の解説
詳細は「リトアニアの内戦 (1431年-1435年)」を参照 1430年10月にリトアニア大公ヴィータウタス偉大公が死んだ。リトアニア=ルーシ系貴族はヴィータウタスの従兄弟にあたるシュヴィトリガイラを新たなる大公位につけた。ポーランド・リトアニア合同の布告に従うならばリトアニア=ルーシ国家の貴族は大公選出の際にはポーランドとの間で意見を調整させる義務があった。 シュヴィトリガイラの兄であるポーランド国王ヴワディスワフ2世・ヤギェウォはヴィリニュスを訪れて弟を次期大公とする布告に同意した。これと時を同じくして同年の秋にヴワディスワフ2世とシュヴィトリガイラとの間で、ヴィータウタス没後にポーランド貴族が1411年の和平を根拠にポジーリャ西部を占領したことに発する同地を巡る争いが勃発した。シュヴィトリガイラはヴワディスワフ2世をヴィリニュスに拘禁してリトアニアはポーランドに属しないことを宣言してポジーリャ西部の返還を求めた。最終的にヴワディスワフ2世を解放してポーランドへ帰国させるやシュヴィトリガイラは戦の準備を始めた。シュヴィトリガイラはドイツ騎士団、ジョチ・ウルス、モルダヴィアとの間で同盟を締結し、神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクからリトアニア=ルーシ国家の王号を得るという約束を取り付けることで同国との結び付きも深めた。1431年にポーランドとリトアニア=ルーシとの間で戦闘が勃発した。ヴワディスワフ2世率いるポーランド軍はヴォルィーニに遠征してヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを占領してルツクを包囲した。だが、ルツクの城塞への襲撃は不成功に終わり、ドイツ騎士団がポーランドへ侵入したことからヴワディスワフ2世はシュヴィトリガイラとの間で2年間の休戦を結ぶことを余儀なくされた。 シュヴィトリガイラが己の支配権を確立するためにリトアニア貴族に頼ったのと同じくルーシ貴族に頼ったことは、 1413年の合同で特権を与えられていたリトアニア貴族の間に不満を呼び起こすこととなった。1432年にリトアニア貴族はポーランド貴族の支援のもとでクーデターを行い、結果、ヴィータウタスの弟であるジーギマンタス・ケーストゥタイティスが新大公となることが宣言された。リトアニア貴族はジーギマンタスを承認したが、ルーシ貴族はシュヴィトリガイラを支持して«ルーシ大公»の地位に据えた。これによりリトアニア=ルーシ国家リトアニア大公国とルーシ大公国に分裂する羽目になった。戦闘は同年の12月8日にアシュマニ付近にて勃発してポーランド=リトアニア軍を主力とするジーギマンタスがシュヴィトリガイラ軍を撃破した。 1433年の1月から2月にかけてリヴォニア騎士団と同盟したシュヴィトリガイラ軍はリトアニアの地を徹敵的に荒らし回った。同年の夏にシュヴィトリガイラ=リヴォニア騎士団の連合軍は再びリトアニアを荒廃させてジーギマンタスが有する東方領土の都市を占領した。1434年にジーギマンタスは、カトリックのリトアニア貴族と正教徒のルーシ貴族を同等に扱うという特権を公布することでシュヴィトリガイラ側にいる幾つかのルーシ貴族を自営に寝返らせた。翌1435年にシュヴィトリガイラは最終決戦を行うことを決めた。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:28 UTC 版)
高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。 やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年)6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。 しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。 天正2年(1574年)2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。 この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が浦上宗景、宇喜多直家と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が備中へ差し向ける軍勢を讃岐に向かわせることに対して賛意を表している。
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開戦までの経緯
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松永久秀は三好長慶の没後は甥の三好義継を擁立し、三好三人衆と三好氏の実権を巡って争ったが、織田信長が上洛するとこれに臣従し、畿内における三人衆との抗争を優位に進め、自身は大和の支配を引き続き任されていた。ところが、室町幕府15代将軍足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると義継と共に信長包囲網に加わり、摂津や河内で勢力を振るった。結局この動きは信長に抑えられ義昭は追放、義継は自刃に追い込まれ、久秀は許されたものの、大和の支配権を塙直政に奪われてしまう。 その直政は天正4年(1576年)5月3日、石山合戦で指揮をとるも敗退し討ち取られてしまった。久秀にとって次の守護が誰に決まるのか気になっていたが、信長は久秀の宿敵筒井順慶を守護にすえた。以前の信貴山城の戦いや東大寺大仏殿の戦いでは三好三人衆と対決した相手である。信長の上洛後は両者は同格であったが、守護となったことで立場が変化した。信長としてみれば、久秀は和睦したとはいえ一度裏切っており順慶の守護は当然のことであったが、久秀にとっては当然不服ある措置であり、直後の謀反の大きな原因と考えられている。また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点であった多聞山城を破却するなど、松永氏の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと思われる。 天正5年(1577年)8月17日、石山本願寺攻めで詰めていた天王寺砦を焼き払い、息子の松永久通を引き連れ信貴山城に立て篭もった。この時「騎馬三百余其勢八千余人」(『和州諸将軍伝』)とかなりの軍勢だったと思われている。「城名人」、「近世式城郭建築の祖」と呼ばれている久秀は、翌日より信貴山城の補強工事を開始している。 久秀は2つの目算があったと思われている。石山本願寺に立て篭もる顕如、上洛を目指す上杉謙信である。 顕如画像 上杉謙信像 松永久秀像 顕如軍は先の合戦で塙直政を討ち取り、第一次木津川口の戦いで毛利氏から武器、食糧も補給し軍事力は強大、上杉軍は2万の軍を率いて上洛を目指し、顕如の命により加賀一向一揆衆はゲリラ戦法で柴田勝家軍を妨害し、上杉軍を側面から援助している。久秀が単独で信長を倒すことは難しいが、三者はなんらかの密約、繋がりがあった可能性があるのではないかとされている。 信長はこの時安土城におり謀反に驚いたのか、老功である久秀を惜しんだのか、堺の代官松井友閑を使者にたて信貴山城へ向かわせた。この時の様子は「何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由(ことの詳細についてどのようであるか、思うところをご説明されよ、一切をお耳に入れればお許しが出るでしょう)」(『織田軍記』)と記載されている。 2度まで裏切った久秀に対して異例の処置であったが、久秀は信長の説得を拒絶した。 これに憤慨した信長は同年9月後半ごろより筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍とした。同年10月1日が織田軍は信貴山城の支城となっていた片岡城を約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、森秀光(正友)らが率いる約1千兵で防御した。この時の戦いの状況を「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」(『多聞院日記』)と記載されており、筒井隊にもかなりに戦死者が出たようだが、松永軍の武将である海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城してしまう。 この時信長に、同年9月23日手取川の戦いで勝利した上杉謙信であったが七尾城から進軍が止まった、との報告が同年10月3日に柴田勝家から直接安土城に入った。謙信がなぜ進軍を止めたのか諸説あるが、豪雪を恐れたのではないか、北条氏政が関東へ出軍し本国防衛のため等が言われている。信長は謙信はこれ以上進軍することはないと判断し、総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込んだ。この時の織田信長軍の総数は4万兵と言われている。一方、前回は武田信玄の死亡によって謀反は成功せず、今回も上杉謙信が動かなかったことにより、久秀は片岡城が落城した事と伴って窮地におちいる事になる。 翌10月4日、どちらが放った火なのかはよく解らないが、「信貴山ヒサ門堂燃え云々」(『多聞日記』)と記載されており、現在の朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちた。
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開戦までの経緯
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「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の記事における「開戦までの経緯」の解説
1367年のトヴェリ大公国では ミクリン公ミハイル・アレクサンドロヴィチとカシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチとの間で領土上の問題を巡って紛糾していた。ヴァシーリーの息子であるミハイルがモスクワ大公セミョーン高慢公の娘と結婚していたことからカシン側には同大公国(当時の名目上の支配者はドミトリー・イヴァノヴィチ(後のドミートリー・ドンスコイ)であったが実質的な統治者はキエフ並びに全ルーシの府主教アレクシーであった)が付いた。他方、ミクリン側にはミハイルの姉妹ユリアナと結婚していたリトアニア大公アルギルダスが付いた。ミハイルがアルギルダスのもとへ出立したその時にヴァシーリー、ミハイル親子がドロゴブシ公エレメイとモスクワの軍を引き連れてトヴェリに攻め寄せて同都市を包囲した。トヴェリは陥落こそ免れたもののヴォルガ川右岸一帯が略奪された。ミハイルはリトアニアの軍勢を伴って帰還してエレメイ軍を撃破してカシンに攻め寄せたもののトヴェリ司教ヴァシーリーの説得により撤退した。 1368年にドミトリー・イヴァノヴィチはミハイルをモスクワに召還し、アレクシー府主教はその身の安全を保証はした。だが、ミハイルに対して行われた仲裁裁判によって身柄を拘束されて監禁下に置かれることとなったのである。思いもがけずモスクワに到来した3人のタタール貴族によってミハイルは辛くも窮地を脱することができた。解放されたミハイルであったがトヴェリには戻らずに義兄弟のアルギルダスが統治するリトアニアに亡命した。
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開戦までの経緯
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永正4年(1507年)の永正の錯乱で室町幕府管領京兆細川家の跡目をめぐる内紛が起き(両細川の乱)、永正6年(1509年)の如意ヶ嶽の戦いで細川高国・大内義興連合軍が勝利し高国が京兆家の当主になったが、澄元軍は阿波に帰国し再び上洛の機会を計画していた。 永正8年5月1日(1511年5月27日)、鷹尾城の築城をめぐる小規模な戦いが起こった。契機は高国が被官であった国人の瓦林正頼に築城を命じたことに始まる。鷹尾周辺は阿波から京に向かう進路にあたり、澄元の進路を塞ぐ意味で築城を計画したが、古来より西国との交通の要衝でもあり、肥沃な灘筋を抑える意味でもここに進出したものとも思われる。しかし、同地域近辺の灘五郷には武家の封建権力に抵抗していた惣があり、権門の所領荘園であることを口実に守護の命にも従わなかった。灘五郷には地侍が3千名とも4千名ともいたと『瓦林政頼記』には記され(誇張された表現も含まれる)、彼らが同地域を支配していた。 鷹尾城の築城により、正頼の支配を好まない灘五郷は、多年にわたり不和であった本庄衆・西宮衆と同盟を組み鷹尾城に対抗する動きに出た。この動きを察知した正頼は鷹尾城より討手20余人を出し、5月1日に正頼と同族でありながら澄元方であったと見られる中心人物を討ち取った。この時正頼は、本庄衆に対して高国の命に従わず討手に敵対した処罰として、鷹尾城の外堀を作らせ田畑を耕す用水を樋でかけるように命じた。用水を取り上げられることに納得のいかなかった本庄衆は、5月6日に灘五郷衆の応援を得て2千で攻め寄せた。鷹尾城に詰めていた23名の与力衆は神水を飲み、主力の本庄衆300名に突入し20余名余りを討ち取ると、本庄衆は敗走しこれを見た他の寄せ手は逃亡してしまった。 この報を聞いた澄元は挙兵を決断することになる。まず6月に近江に退避していた前将軍の足利義澄と呼応して、四国の兵を集めて京を挟み撃つ手はずを整え、摂津分郡守護の細川政賢と和泉半国守護の細川元常を総大将に任じ、7月7日に堺に上陸し深井城に陣を張った。これに対して高国は摂津国人衆の池田氏、伊丹氏、三宅氏、茨木氏、安威氏、福井氏、太田氏、入江氏、高槻氏の総勢2万に出陣を命じ、同月13日に深井城に攻めかかったが敗れ、澄元軍は中嶋城まで攻撃した。 「深井城#深井の合戦」も参照
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開戦までの経緯
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桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡ったが救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国に援軍を差し向ける勢力が無い中で備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。高国と村宗の関係は赤松氏の庇護下に在った足利義晴の身柄を拘束するなどの協力関係にあり、村宗は管領である高国の権勢を借りて播磨統一を果たしたいという野心があり、桂川原で敗北した窮状を打開したい高国との利害は一致していた。 享禄3年(1530年)7月に村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を翌享禄4年3月6日(1531年4月3日)を陥落、翌3月7日には、京都を警護していた晴元派の木沢長政が突然の撤退、代わって将軍地蔵山城の高国の兵が京に侵攻、京奪回した。 堺公方側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍1万5千と阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千が、摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し(中嶋の戦い)一進一退の攻防が続いていた。 ここで播磨守護の赤松政祐が高国の援軍として同年6月2日に西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えを行い同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうける。
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開戦までの経緯
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その織田信長も本能寺の変で亡くなり、賤ヶ岳の戦い後天正11年(1583年)11月、豊臣秀吉は岸和田城に中村一氏を入城させ、根来衆、雑賀衆の備えとした。中村一氏は行動を開始、泉州中の寺社領を没収していた。これに反発した根来衆、雑賀衆連合軍は、中村一氏と小競り合いが続いたが根来衆、雑賀衆連合軍は戦を仕掛けた。翌天正12年(1584年)1月1日、早朝から根来衆、雑賀衆連合軍は中村一氏がいる岸和田城を攻めたが敗れ、同月3日、逆に中村一氏は五カ所の支城を攻めた。これに危機感を覚え堺に向っていた別働隊8000兵が、救援に来たので、同月16日中村一氏軍6000兵は、近木川を挟んで対陣した。最初は鉄砲戦となり、後に槍合わせとなったが、最終的に根来衆、雑賀衆連合軍は敗れた。 その後根来衆、雑賀衆連合軍は徳川家康に使者をおくり、血判連名状を差し出し忠誠を誓ったと『太田城由来并郷士由緒記』に記載があるが、この史料には問題があるとする指摘もある。 根来衆、雑賀衆連合軍は再び兵をあげた。同年3月18日、根来衆、雑賀衆連合軍と千石堀城を含む五カ所の支城衆が加わり、陸路隊、海上隊の二隊で岸和田城に向けて進撃を開始した(岸和田合戦)。両隊は泉大津まで兵を進め、岸和田城周辺地域を焼き討ちして回った。同月19、20日は雨のため戦闘がなく、21日は根来衆、雑賀衆連合軍は130艘を繰り出し、陸路隊も堺辺りに進軍した。また別働隊5000兵が岸和田城を攻城したが、中村一氏に打ち負かされた。岸和田城内には769首が並んだ。また小木城、鳥取城、積善寺城は落城、焼き討ち、畠中城、沢城は焼き討ちされ、接収された。22日に堺に向っていた隊は引き揚げたが、その夜岸和田城に攻めかけ佐野に帰った。 この時の状況を「天下動乱の色顕わる。いかが成り行くべきか、心細きもの也。神慮に任せ、闇々として明け暮れるまで也。はしなきこと、はしなきこと」(『多聞院日記』)とし、混沌とした状況を記している。 その後小牧・長久手の戦いで同年11月になると豊臣秀吉は、織田信雄、徳川家康と和睦し、徳川家康も浜松城に引き上げると、本格的に秀吉の紀州攻めを開始する事になる。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 23:52 UTC 版)
桂川原の戦いで敗れた細川高国は、その後の調停工作も失敗し、放浪して援軍を模索していたが、備前三石城主・浦上村宗の挙兵をとりつけた。浦上村宗は播磨統一を望んでおり、高国の力を借りて成し遂げようとしたという。 享禄3年(1530年)6月29日、播磨小沢城(依藤城)へ進出していた柳本賢治を就寝中に刺客によって暗殺した。実行犯は中村助三郎(浄春)で、高国と内藤国貞より感状が贈られている。 「豊地城#依藤城の戦い」も参照 その後は別所就治に擁された。高国と村宗は、 庄山城(小寺城) 三木城 有田城 を同年7月27日までに攻略し、播磨統一を成し遂げた。 足場が固まった細川・浦上連合軍は細川晴元が擁する堺公方を攻め落とすべく播磨を出国、同年8月27日に摂津に入国神呪寺城に布陣した。これに対して晴元は伊丹城、富松城に増援を派遣したが9月21日に富松城が落城し、増援に出向いていた薬師寺国盛は大物城(尼崎城)に逃走したが、11月6日には大物城も降伏した。これは薬師寺国盛が高国軍の進撃を見て寝返った事に起因するが、堺公方に質子として差し出していた7歳の子は翌年3月に刺殺された。 この情勢を見て高国は内藤彦七に命じ、勝軍地蔵山城を築いた。京都の人々はこれに驚いたという。また、これに即応し近江興聖寺に逃れていた12代将軍足利義晴も翌享禄4年(1531年)2月17日に坂本に進出し、京都の近距離に移動した。 同年2月末には伊丹城が開城、3月6日には勝軍地蔵山城から出撃してきた内藤彦七らによって、摂津の要所であった池田城を落城させた。池田城の発掘調査ではこの時の焼土層が発見され、かなりの大火であったことが確認されている。京都を警備していた木沢長政はこの敗戦に驚き、翌日の3月7日に逃走をした。勝軍地蔵山城兵が洛中に進軍し、高国は京都奪還をなし得たのである。 細川・浦上連合軍は8月27日神呪寺城に着陣してから、翌年3月6日の約6か月間で、 富松城 伊丹城 大物城 池田城 の4つの城を落城させた。
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開戦までの経緯
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以降の文中に登場する固有名詞については当該作品の用語集を参照 1995年に起こったベルカ戦争において、ベルカ連邦はオーシア連邦やユークトバニア連邦共和国などで構成される連合軍に敗北した。ベルカ領だった南ベルカはオーシアの信託統治領となり、ノースオーシア州となった。ベルカ連邦は連邦の盟主であったベルカ公国領の一部のみが残る形となり、連邦制は解体され、領土も開戦前の半分以下にまで喪失した。ベルカの強硬派で構成される「灰色の男たち(The Gray Men)」は南北ベルカの統一と戦勝国への恨みを晴らすため地下に潜伏し、ベルカ戦争で敵対したオーシアやユークトバニアの中枢まで潜伏し工作活動を開始した。 オーシアとユークトバニアは1980年代からイデオロギー対立によって冷戦状態にあり、両国はお互いを仮想敵国と認識して軍拡を続けていたが、ベルカ戦争では共に連合軍としてベルカと戦った。また、ベルカ戦争で得た教訓や経済的打撃を契機として冷戦は雪解けへと進み、戦前からは考えられないほどの友好関係を築くようになった。1999年10月8日には軌道上に漂うユリシーズの破片を除去するため、かつてオーシア軍が弾道ミサイル迎撃用兵器として構想を進めていたアークバードの設計案を元に、両国共同で軌道清掃プラットフォームとして開発することを決定した。2004年にオーシアでビンセント・ハーリング政権が成立すると、両国の間でより一層の宥和政策が進展した。国際共同宇宙開発も進展を見せ、オーシア航空宇宙局とユークトバニア連邦宇宙庁によって、オーシア領のバセット国際宇宙基地に全長12kmのマスドライバーが共同建設された。アークバードも共同建造され、マスドライバーから打ち上げられたアークバードは軌道上に残るユリシーズや衛星の破片といったスペースデブリの除去に大きな成果を上げた。2008年にはアークバード会議が開催され、オーシアとユークトバニア含む7ヶ国によって包括的核実験禁止条約(CTBT)に基づいた核不拡散努力を継続し、第二次戦略兵器削減条約(START-2)への移行を進めるとするアークバード宣言が為された。ハーリング政権は宇宙関連予算を捻出するため軍縮政策を展開したが、これに不満を持つ軍人層も存在していた。 南ベルカのスーデントールに位置する南ベルカ国営兵器産業廠は、ベルカ戦争後にオーシア領へ組み込まれるとノースオーシア・グランダーI.Gに改組しオーシア軍に兵器を納入するようになった。社長を務めるソラーレ・オストベルグはオーシアに恭順を誓っていたものの、その実は灰色の男たちのメンバーで、企業ぐるみで工作活動を担っていた。 1998年夏頃からベルカはエースパイロットを各国に派遣し、彼らは各国空軍でアグレッサー部隊として活躍した。オーシア空軍は自国パイロットを強化する目的でベルカ人パイロットのアシュレイ・ベルニッツたちを非公式のアグレッサー飛行隊として雇い入れ、オーシア内で彼らは第8492飛行隊と名乗って活動した。ユークトバニア空軍でもミヒャエル・ハイメロートなどのベルカ人パイロットを引き入れ公式のアグレッサー飛行隊とした。彼らは灰色の男たちによる工作の実働部隊として本戦争を通じて暗躍することとなる。 時期は不明ながらユークトバニアでは平和主義で知られるセリョージャ・ヴィクトロヴィッチ・ニカノール首相が極秘裏に拉致された。この実質的なクーデターが起こったのが開戦前か開戦後か不明ではあるが、少なくとも2010年12月頃にはニカノール首相の不在による軍国主義化に反発したレジスタンスが活動している。ユークトバニアは国内の情勢変化によって軍が実権を握り、ユークトバニアとオーシア本土の間に位置するオーシア領のサンド島空軍基地周辺で軍事行動を開始した。
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開戦までの経緯(簡略)
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「太平洋戦争の年表」の記事における「開戦までの経緯(簡略)」の解説
1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の日本の中国進出を警戒する英米仏と、日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、ヴィシーフランスとの合意のもと仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖を以て、これに応えた。その後、数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受け止めた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島単冠湾からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた日本海軍機動部隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝達された。
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開戦までの経緯
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「ラヨシュ1世のナポリ遠征」の記事における「開戦までの経緯」の解説
1343年にナポリ王国のロベルト賢明王が死去した。唯一の息子であったカラブリア公カルロは1328年に死去しており、またカルロの子で生き残っていたのは2人の娘のみで、このうち長女のジョヴァンナ1世が王位を継承した。ジョヴァンナ1世はアヴィニョンの教皇クレメンス6世から王位の公的な承認を受けたが、これは教皇の名目的な臣下となったことを意味していた。 ジョヴァンナ1世の最初の夫として、共にアンジュー家の同族であるハンガリー国王カーロイ1世の息子アンドレア(アンドラーシュ)がナポリに迎えられていたが、アンドレアはより洗練された妻ジョヴァンナから激しい敵意を受けていた。アンドレアは自身の王位を望んでいたものの、カラブリア公(イタリア語版)の称号を受けただけだった。クレメンス6世は44000マルクが支払われた後の1345年6月14日に、王号をアンドレアに授けることを受け入れたが、それはジョヴァンナ1世死後の継承者としてのみであった。 ジョヴァンナ1世は従兄で同じく同族のターラント公ルイージ(イタリア語版)と情事を結ぶと同時に、その母(フランス王フィリップ6世の異母妹でジョヴァンナの母方の伯母にあたる)カトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネー(フランス語版)の強い影響下に置かれていた。教皇勅書が王国に届けられる前の9月16日に、カトリーヌと関係のある占い師と高級娼婦によって、アンドレアはアヴェルサにて狩りを行っている最中に暗殺された。王国最高判事ベルトラモ・デル・バルゾは暗殺者を見つけ出して罰したが、暗殺にはジョヴァンナが関与していたとの噂が広く囁かれるようになった。 1346年5月、アンドレアの兄のラヨシュ1世騎士王はクレメンス6世のもとに使節を送って、ジョヴァンナ1世の廃位を求めた。教皇から満足した回答を得られなかったことから、ラヨシュ1世は兵を召集してダルマチアのザラで乗船させた。しかしこの時、アドリア海沿岸の都市はヴェネツィアに対して反乱を起こしていたことから、ラヨシュ1世の艦隊は港で足止めされた。足止め状態からの解放の試みに失敗した末にラヨシュ1世は遠征を延期し、この間にザラはヴェネツィアの保護下に戻った。
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開戦までの経緯
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上杉氏と織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正4年(1576年)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。天正6年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。 謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦以後は、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。 天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年3月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津攻めを中止し、信長は勝家らに富山城を攻めさせ奪還した。その後4万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ立てこもった。
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開戦までの経緯
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室町幕府の実権を握った三好長慶は、阿波国国主細川持隆を弟三好実休によって滅し、三好実休が阿波国の国主となり勝瑞城を収めた。その後、足利義輝派であった畠山高政、六角義賢連合軍と三好実休、篠原長房連合軍との間で久米田の戦いとなったが、この戦いで三好実休が戦死してしまった。その後阿波国の国主は実休の長男であった三好長治が継ぎ、二男の十河存保は十河氏の養子になり、十河城の城主となった。しかし三好長治は当時8歳であったため、上桜城城主篠原長房、木津城城主の篠原自遁、板西城城主の赤沢宗伝らが、国政と三好政権を補佐した。特に篠原長房は三好家臣団をとりまとめ、分国法「新加制式」を制定したと言われており、三好氏の中心人物として活躍した。 その後篠原長房は、1570年(元亀元年)9月摂津の野田城・福島城の戦いで織田信長軍と戦い、翌1571年(元亀2年)5月備前国児島で毛利軍と戦い、同年9月摂津の白井河原の戦いで和田氏の高槻城を攻城し各地を転戦していた。 細川持隆の側室で小少将という人物がいる。『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。細川持隆の生存時より三好実休と不倫の関係にあり、後に三好実休の妻となり三好長治、十河存保の2子をもうけた。篠原長房が阿波国に帰国した前後より、小少将は三好氏を支えていた篠原自遁と相通じあう仲となり、篠原長房をうとんじるようになった。政務を正し小少将の不倫を諌めたため怒りをかったと言われている。篠原長房はこのような状況にうんざりしたのか、元亀4年(1573年)3月22日、勝瑞城を出て上桜城に閉居してしまう。しかしこの事が逆に裏切り、反撃に出ると思われたのか、三好長治と細川真之は、篠原長房討伐の兵をあげることとなった。
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開戦までの経緯
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「露土戦争 (1877年-1878年)」の記事における「開戦までの経緯」の解説
1875年に発生したヘルツェゴヴィナ蜂起(英語版)を支援するため、1876年、セルビアとモンテネグロはオスマン帝国に対し、宣戦を布告した。しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦を余儀なくされたうえ、同時期に起こったブルガリアにおける反オスマン反乱であるブルガリア人の四月蜂起(英語版)も鎮圧された。このとき、4万人におよぶブルガリア人がオスマン帝国の軍民により虐殺され、この大虐殺の詳細が明らかになるにつれヨーロッパ諸国では衝撃が走った。オスマン帝国はイギリスの支援を得られなくなり、単独でロシアにあたらざるをえなくなった。 1876年6月28日から7月8日にかけて、ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国は秘密協定、ライヒシュタット協定(英語版)を締結し、ロシアがベッサラビア及びコーカサス戦争で獲得していたコーカサスを、オーストリア・ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することを条件に、オーストリア・ハンガリーが中立を維持することを取り付けた。さらに、これらバルカン半島における諸紛争を収拾するための国際会議が1876年12月からオスマン帝国の首都イスタンブールで開かれたが、翌年1月には物別れに終わり、ロシアはスラブ民族の救済を名目に戦争への介入を決意した。 戦争を始めるにあたり、ロシアは1850年代に起こったクリミア戦争での苦い敗北の経験もあって、汎スラヴ主義的心情に訴えるべくバルカン半島のスラブ民族独立のための戦争であると宣伝した。しかし、その背後には地中海への通路を確保しようとするロシアの意図があり、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を持った戦争でもあった。 小説家のドストエフスキーは、ロシアを中心とするスラブ人の統一と正教徒の統合を説き、この戦争より神聖かつ清浄な功業はないと訴えていた。
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開戦までの経緯
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「比叡山焼き討ち (1571年)」の記事における「開戦までの経緯」の解説
文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除いて全て和暦、宣明暦の長暦による。 比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。永禄12年(1569年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。元亀元年6月28日(1570年7月30日)の姉川の戦いで勝利した信長であったが、同年8月26日の野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。 浅井・朝倉連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津・河内を抑えて再び京奪還を狙っていた。更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津・河内・近江・伊勢、そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していた。元亀2年1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。この時の命令書が残っている。「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」(『尋憲記』)。 信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。 同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。5月には浅井軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井連合軍は敗退した。同月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、8月18日には長政の居城となっていた小谷城を攻め、9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。それを見て小川城の城兵は投降してきた。また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。 9月11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたらしい。
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開戦までの経緯
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「アルメニア・トルコ戦争」の記事における「開戦までの経緯」の解説
パリ講和会議で既に成立していたアルメニア第一共和国は、東部アナトリアにアルメニア人が、独立国家を作ることを提案し、これをセーブル条約で承認された。そして、アルメニア革命連盟が武装蜂起しする。トルコ大国民議会の国民誓約に基づき、アンカラ政府は、領土を一切分割しないとし開戦に至った。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 06:20 UTC 版)
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 23:59 UTC 版)
筒井順慶は筒井城の戦いで居城を奪われ福住中定城に在城していたが、十市城の奪回を計画していた。そんな中松永久秀軍に属していた十市遠勝が病死すると、十市城では内訌が生じ松永派と筒井派に城内が分裂した。その分裂を利用し『多聞院日記』によると筒井軍と興福寺軍500兵が連合軍となって永禄13年(1570年)7月27日夜半より攻撃を開始し、城内にいる筒井派の手引により、十市城は順慶が攻略することとなった。筒井軍は郡山城を攻城させようと迫っていた松永久秀軍を破ったほか、窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城した。 この時期、久秀は大規模な反撃部隊を派兵していない。これは織田信長に反抗した北近江の浅井長政の討伐軍に大半を投入していたからと考えられている。 甲斐の武田信玄が元亀2年(1571年)3月に信長の同盟者徳川家康の領国三河に侵攻、同年4月には足助城、野田城を落城させた。信長の要請に応じて柔軟に兵力を出すことに不満をもっていた久秀は、前年の元亀元年(1570年)5月、武田信玄と本願寺法主顕如が同盟を結ぶと、自らも信玄と同盟を結び信長に謀反をおこす。反信長であり東大寺大仏殿の戦い等で戦った三好三人衆とも信玄の仲介で和睦する。 順慶が久秀の居城多聞山城を本格的に攻城しようと、強力な拠点となるべく着目したのは辰市村で、現在の奈良市東九条町に位置している。筒井城から東北に6kmの距離になる。ここに順慶の命をうけた井戸良弘が向城を築き、同年7月3日に築いたとされている(『筒井家記』)。また同年8月2日に「辰市二筒ヨリ用害沙汰之」(『多聞院日記』)とあるが、『日本城郭大系』によると、その後すぐに辰市城の合戦が始まる事から『多聞院日記』の記述は「あわただしすぎる」と記載している。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「開戦までの経緯」の解説
1903年7月にアレクセーエフ提督を極東総督に任じた。この役職は政治・軍事問わず極東に関するあらゆる問題を管轄する役職であり、日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権をも握っていた。さらにその翌月にはヴィッテを罷免してベゾブラーゾフを国務大臣に任命し、対日強硬路線へ突き進んでいくこととなった。 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もロシアを欧州から遠ざけ、かつ英露を対立させるチャンスと見てロシアの極東進出を応援した。1904年2月にヴィルヘルム2世はニコライ2世に宛てて手紙を書き、「偏見のない人なら誰でも朝鮮はロシアのものと考えている」としてニコライ2世の方針に支持を表明し、彼に「太平洋提督」になることを勧めた。 「黄色い猿」を侮蔑するニコライ2世はロシアがどんなに強硬路線を取ろうと日本にロシアと戦争する勇気などあるはずがなく、自分が望まない限り、戦争にはならないと考えていた。1903年10月にはアレクセーエフ提督に対して「私は日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたかと思えば、12月には「ロシアの強硬な圧力を受けて日本が旅順から撤退した1895年を思い出す」「どっちにしても日本は野蛮な国だ。開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」と述べる。さらに1904年1月の新年のレセプションの席では「何人たりともロシアの忍耐力と平和を愛する心にいつまでも期待をかけてはならない。ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」と演説した。 アレクセーエフは全権を与えられているといっても、形式的にであれ皇帝の裁可は不可欠であった。しかし1903年8月から11月にかけてニコライ2世は西欧を歴訪していたこともあり、日本との交渉は遅々として進まず、日本の不信感は高まっていった。
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開戦までの経緯
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永禄13年(1570年)3月、荻野直正の甥の赤井家当主・赤井忠家は上洛していた織田信長に拝謁し、服属した。信長はこれに対して氷上郡・天田郡・何鹿郡の丹波奥三郡を安堵した。 翌元亀2年(1571年)11月、但馬守護・山名祐豊の家臣で磯部城主の磯部豊直が氷上郡にあった足立氏の山垣城を攻撃した。氷上郡黒井城主である直正と忠家は山垣城へ救援に向かい、山名軍を撃退した。4年後の天正3年(1575年)に直正・忠家は但馬の竹田城を攻め、祐豊は信長に援軍を要請する。 この間に信長と対立した将軍・足利義昭より助力を求められた直正は、武田勝頼と連携して信長へ敵対行動を取っている。 天正3年(1575年)9月に越前一向一揆が一段落すると、同年10月、信長より荻野直正退治を命じられた明智光秀が丹波に侵攻した。
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開戦までの経緯
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天正5年(1577年)1月には、光秀は丹波攻略の拠点となる亀山城(桑田郡)の築城を開始している。信貴山城の戦いが終了した同年10月、光秀は第二次丹波攻めを開始し、まずは多紀郡にある「籾井両城」(籾井城と安口城か)および多紀郡内の城11か所を落とした。光秀はこの攻撃により、荒木氏の城と波多野氏の城が残るのみになったと書状に記している。翌天正6年(1578年)3月4日、信長は細川藤孝に、信長自身の丹波出陣に備え、丹波国多紀郡や奥郡への道を整備するよう命じている。同年4月10日、光秀は滝川一益・丹羽長秀とともに、荒木氏綱の荒木城(細工所城)を落城させた。 この頃、赤井方では荻野直正が3月9日に病没していた。一説には首切り疔の病(化膿してできる腫れ物)ともされる。直正の死もあってか、この年より赤井氏は波多野氏との同盟を明確にし、光秀方と再び戦うようになる。 天正6年(1578年)2月、明智光秀は別所長治の離反への対応で播磨国に派遣されていたが(三木合戦)、同年9月より波多野氏の八上城攻めに着手し、多紀郡と氷上郡の郡境に金山城を築き、波多野氏と赤井氏の連携阻止を図っている。それと並行して、同年11月の伊丹有岡城の荒木村重の謀反にも対応した(有岡城の戦い)。12月には、小畠永明ら丹波国衆に任せていた八上城攻めに光秀自ら出向き、9月頃より始まっていた八上城の包囲をより厳重にして、徹底した兵糧攻めを行っている。翌天正7年(1579年)5月5日、八上城の支城である氷上城が落城し、6月1日には八上城も開城、波多野兄弟らは降伏した。 捕えられた波多野秀治、秀尚、秀香は、洛中を引き回された後、安土に護送され、信長の命により磔になった。6月後半に大和国に出陣していた光秀は7月に再び丹波に入国し、黒井城の攻城へと取り掛かった。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:31 UTC 版)
紀元前46年春より、ローマ属州ヒスパニア・ウルステリオルに於いてイレルダの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派のベテラン兵士を中心として形成された軍勢が、小ポンペイウス(グナエウス・ポンペイウスの息子)を担いで蜂起することを宣言し、カエサルが任命したヒスパニアの各属州総督を追放して元老院派がヒスパニアを実効支配した。 また、タプススの戦いでカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウス、プブリウス・アッティウス・ウァルス及びガリア戦争でカエサルの腹心であったティトゥス・ラビエヌスも合流した。元老院派は3つのローマ軍団(2つは従来からあるベテラン中心の軍、1つはヒスパニアに住むローマ市民から構成された軍)に加えて、ローマ市民権を持たないヒスパニア人やガリア人等から構成された軍勢を組織して、属州都であったコルドバを始めとしてローマ人居留地も含むヒスパニアの殆どへ勢力を伸ばした。 ヒスパニアをカエサルより任されたクィントゥス・ファビウス・マクシムスとクィントゥス・ペディウスは、元老院派が勢力を増すことに無力であり、カエサルに支援を要請した。
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開戦までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 07:09 UTC 版)
明応2年(1493年)の明応の政変により将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため3人の養子を迎えたものの、後継を巡り養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。 永正4年(1507年)6月23日に澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって政元が暗殺(永正の錯乱)、澄元と側近の三好之長も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之・元長・長忠を討ち取り、翌2日には義澄に対して細川氏の家督継承を承認させたが、これが内乱の幕開けとなった(両細川の乱)。 細川氏の混乱に乗じ、京都への復帰を計画した前将軍足利義尹(義材)が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始すると、これに細川氏家督の奪取を企てた細川高国が呼応し永正5年(1508年)に挙兵、義澄は近江の水茎岡山城に、それを担ぐ澄元・之長は近江から最終的には阿波へそれぞれに逃亡した。戦いに勝利した義尹は義稙と改名して将軍に復職し、高国と大内義興の連合政権が成立した。 再起を図っていた義澄・澄元は永正6年(1509年)に復権を図ったものの敗北(如意ヶ嶽の戦い)した。その後、永正8年(1511年)に畿内の諸勢力を糾合し反撃に転じる。深井の合戦、次いで芦屋河原の合戦に勝利して摂津国中嶋城に入城、そのまま京都に入洛してこれを奪還する。こうして義稙達を一旦は丹波に逃亡させた。しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京都に再度迫りつつあった。
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