戦争へ
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政代は帰国後、1940年東京オリンピック出場を再び目指すも、戦争のため1938年(昭和13年)に中止が決定。この流れについて同年、当時の体育専門紙に「社会情勢が競技活動普及を阻害している」旨を寄稿している。以後、監督として1940年頃まで競技人生を過ごす。 一方、礼子は1940年(昭和15年)に職場結婚し、北京や天津に移り住んだ。 1941年(昭和16年)、政代は満州飛行機製造で勤務していた井川晴雄と結婚。井川も早稲田大学ラグビー蹴球部の選手であり、アスリート夫妻だった。その後も選手として国内大会に出場し、8月の「東京選手権」では高飛び込み、飛び板飛び込み両方で優勝している。結婚後、奉天に移住。翌1942年(昭和17年)9月、長女である章子を出産した。1943年(昭和18年)頃には関東軍から招集を受けた夫とともに孫呉に移住。政代も軍属となり、孫呉陸軍兵器廠にてタイピストとして勤めたが、1944年(昭和19年)に夫、晴雄が南方グアムで戦死。 礼子も夫に赤紙(召集令状)が届くと、日本の敗戦を察した親しかった現地の中国人の勧めによって、同年に日本に帰国。千葉空襲により被災した。
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戦争へ
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マーフィは自らを海外の戦場に送り出すべく、各方面への熱心な働きかけを行った。1943年初頭、彼は第3歩兵師団第15歩兵連隊第1大隊ベーカー中隊第3小隊の一員として、モロッコのカサブランカへと送り出された。アフリカ戦線では実戦に参加することは無かったが、第3師団が執り行った大規模な演習に参加した。1943年7月10日、アメリカ軍によるシチリア侵攻(ハスキー作戦)が始まる。これがマーフィの初陣となった。到着後まもなくして、彼は馬に乗って逃亡中であったイタリア軍の将校2名を追跡した上で殺害し、この功績から伍長(corporal)への昇進を果たす。シチリアでは何度かマラリアを発症して軍病院に入院している。 シチリアの占領後、第3師団はイタリア本土侵攻に参加する。1943年9月、師団はサレルノ付近に上陸した。夜間パトロールを率いていたマーフィはドイツ兵と遭遇し、石切り場にてこれを待ち伏せしたという。マーフィのパトロール隊を追跡してきたドイツ軍の分隊は、機関銃とライフルの銃撃で足止めされた。マーフィは最終的に3人のドイツ兵を殺害し、また数人を捕虜とした。これを含めたサレルノでの功績から、マーフィは軍曹(Sergent)に昇進した。 彼はイタリアでの従軍中に軍人として優れた素質を発揮した。それはアンツィオ上陸やヴォルトゥルノ川における戦いなどに見られる。またイタリア戦線ではその技能と勇敢さから、いくつかの記章や勲章を受けている。 1944年8月15日、第3師団はドラグーン作戦に参加、南フランスへ上陸した。その後まもなく、マーフィの親友であったラッティ・ティプトン(自伝ではブランドンの名前で登場する)が戦死する。ラッティは降伏の意思を示していたはずのドイツ軍機銃座に接近した折、射殺されたのである。この騙し討ちに激怒したマーフィは機銃座に詰めていたドイツ兵を皆殺しにし、機銃座から持ち出した機関銃と手榴弾を用いて、周囲のドイツ軍陣地に攻撃を加えた。この行動のため、マーフィは殊勲十字章(Distinguished Service Cross)を受けている。 フランスで戦った7週間の間、第3師団は4500名もの死傷者を出している。数週間後、彼は更なる英雄的行動を示した為に銀星章(Silver Stars)を2度受章している。これに伴いマーフィは二等軍曹(staff sergeant)から小隊先任軍曹(Platoon Sergent)に昇進を果たしている。その後も野戦昇進を重ね、最終的には少尉(second lieutenant)として小隊長の任についている。少尉昇進の12日後、腰を狙撃され負傷し10週間の療養を命じられた。部隊復帰から数日後の1945年1月25日には中隊長となるが、昇進当日に迫撃砲による攻撃を受けて再び負傷した。
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戦争へ
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しかしアメリカ・イギリス側は査察は不十分であり、イラク側の対応が改まらないとして、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、フランス等は査察は成果を挙げているのだから継続すべきと主張した。国際連合安全保障理事会でも議論が積み重ね、途中チリなどが修正案も提示したが、アメリカ・イギリス側は断固拒否した。 安保理で焦点になったのは中間派と呼ばれたチリを始め、パキスタン、メキシコ、カメルーン、アンゴラ、ギニアの各国だった。アメリカはフランスが拒否権を発動した場合でも賛成多数の実績を残すためにこれらの国々に根回しを行い、この時点で理事国では無かった日本も政府開発援助などを武器にアメリカ支持の根回しを行った。特に、チリには来日したラゴス大統領に対して小泉首相と川口外相が会談で協力を要請した。その他の各国には川口外相などが電話会談で賛成を要望したほか、茂木敏充副外相、橋本龍太郎元首相、矢野哲朗副外相らを使者として根回しした。こうしたアメリカと日本にフランス側も対抗して、根回しを行った。 最終的にアメリカ・イギリス・日本などの根回しは失敗し、安保理では反対多数でフランスが拒否権を発動する必要無く新決議案が否決される見通しとなった(当時の理事国15か国のうち、賛成表明はアメリカ、イギリス、スペイン、ブルガリアの4か国。フランス、ロシア、中国、ドイツ、シリア、チリ、パキスタン、メキシコ、カメルーン、アンゴラ、ギニアの11か国は反対または棄権の見込みとなった)。アメリカは安保理で否決の結果が残ることを恐れて裁決を避け、3月17日(アメリカ標準時間)にジョージ・W・ブッシュ大統領はテレビ演説を通じて、イラクに対して48時間以内にサッダーム・フセイン大統領と側近、家族の国外退去などを要求する最後通告を出したが、イラクはこれを無視した。同日、川口外相はフランスのド・ビルバン外相との電話会談で、拒否権を行使しないよう求めたが、ド・ビルバン外相は「武力行使の論理は受け入れられない」と拒否した。開戦直前の3月19日、衆議院外務委員会では、川口外相は伊藤英成(民主党)に「あるフランス人がこういうことを言ったことがあります。アメリカはプロブレム(問題)であるけれども、アメリカしかソリューション(解決策)はない、これは私は至言だと思います。 世界は、アメリカがプロブレムであるということを言い続けることは簡単、そして多くの国が言っています。だけれども、それは、ソリューションであるということに自信を持っている、あるいは当然そうあり続けてくれるだろうと思っているから安心して、例えば今回のようにフランスは甘えているということも言えると思います。」と答弁してフランスを批判した。 3月19日、米英軍はバグダードなど主要都市に対して空襲を開始し、イラク戦争へと突入した。日本は小泉首相がいち早く「理解し、支持いたします」と声明を出した。 「イラク戦争」も参照
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