戦争への前奏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:13 UTC 版)
「第二次世界大戦期アイルランドの局外中立」の記事における「戦争への前奏」の解説
アイルランド政府はヨーロッパでの戦争がアイルランド内戦の古傷を刺激する結果になる事を憂慮していた。アイルランドには親ファシストと反ファシスト運動が存在し、IRAは独自の課題を追求し続けていた。 元IRAの司令官であり、フィナ・ゲールの創立者でもあるエオイン・オダフィー(英語版)将軍は1932年から翌年にかけてファシスト組織であるブルーシャツ(英語版)の指導者だった。第二次大戦期にアイルランドの首相を務めたエイモン・デ・ヴァレラはアイルランドのユダヤ人(英語版)を一貫して支援してきた功績が認められ、それを記念してイスラエルに彼の名前が付けられた森(英語版)が存在する。 1936年に勃発したスペイン内戦で敵対する双方の陣営で2つのアイルランド人部隊が戦っていた。オダフィーのアイルランド人旅団(英語版)はフランコ率いる反乱軍に加勢し、国際旅団のアイルランド人部隊(英語版)は共和国側で戦ったが、どちらも政府の支援は受けていなかった。 開戦前の半年間には、新指導者となったショーン・ラッセル(英語版)のもとでアイルランド共和国軍の活動が活発化し、イギリスでのテロ活動(英語版)を繰り広げた。1936年までIRAの活動を容認していたデ・ヴァレラは、1939年に対国家攻撃法(英語版)を制定して対応した。9月に世界大戦が勃発すると、破壊活動は国家の安全を脅かす物と見なされるようになった。アイルランドの港を空軍と海軍のために確保する事を求めるイギリスが、アイルランドへの侵攻や港湾の強制的な接収の口実としてテロ攻撃を持ち出す可能性や、ヨーロッパの同盟国に支援を求めるアイルランド共和主義の伝統に沿ったIRAがドイツの情報機関と連携し、それによってアイルランドの中立政策が危うくなる可能性が指摘された。[要出典] 1940年5月、この危惧はラッセルがIRAの武器と支援を得るためにベルリンを訪れた事で現実の物になった。彼はドイツ軍から訓練を受けたが、ドーブ作戦(英語版)の一環としてアイルランドに戻る間に潜水艦で死亡した。少数で準備が不十分なドイツの工作員がアイルランドに派遣されたが、到着した工作員はすぐに軍事情報局(G2)(英語版)によって捕らえられた。活動的な共和主義者はカーラ・キャンプ(英語版)に拘留されるか、懲役刑を言い渡された。新たに制定された反逆罪で6人の男が絞首刑となり、さらに3人がハンガーストライキで死亡した。 次第にドイツはIRAの能力を過大評価していた事に気づくようになった。 1943年までにIRAは壊滅状態になっていた。配給や経済的な圧力にもかかわらず、アイルランドの中立政策は支持を受け続けた。
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