第二次大戦期
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イタリアから帰って1ヶ月後の1939年9月に第二次世界大戦が始まった。フィンランドでは弟のペール・ウロフや友人たちが招集されて兵士となり、1941年にソビエト連邦と継続戦争が始まった。トーベは写真家のエヴァ・ニコフと親友になるが、フィンランド政府はナチス・ドイツと協力していたため、ユダヤ人のエヴァはアメリカ合衆国へ亡命した。トーベは自分のアトリエでパーティーを催し、戦争以外のことに関心を向けようとした。他方ではエヴァに手紙を書いて心の支えにしていた。トーベは開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが、トーベが自立を望み、子供を望むタピオとは意見が異なったため1942年に関係は解消された。トーベは政治的な意見の違いで父ヴィクトルと対立し、口論が原因でトーベは家族と離れ、1942年にヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借りた。 パリ生活をもとに書いた『あごひげ』などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した。空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を売った。1944年にはウッランリンナ(英語版)1番地のアトリエに移った。トーベは塔のように天井が高いアトリエに満足し、このアトリエを生涯を通して使うことになった。 1943年に哲学者で政治家のアトス・ヴィルタネン(英語版)と知り合った。きっかけはアトスが屋敷で開催したパーティーで、トーベはバイタリティがありパーティー好きなアトスと交際したが、結婚しない点を周囲から意見されることもあった。アトスは政治的には左派で地下活動の経験があり、1944年のトーベの記録では夕食をしながら襲撃を心配したことも書かれている。 トーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春にムーミントロールとしてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、トーベは5月に原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、当初の書評はグールドン・モーネだけだった。スウェーデンでは『小さなトロールと大きな洪水』は注目されなかった。当地では同年に出版されたアストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』が人気を呼んでおり、戦争の影響がない『ピッピ』に対して、『小さなトロール』は戦争の影響が見て取れるため系統が違うと解釈されたのが原因だった。
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第二次大戦期
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1938年(昭和13年)4月9日、郷里東串良村で広瀬マサコと結婚する。親同士が決めた縁談で、清とマサコは祝言の当日まで顔を合わせていない。清が鹿児島に戻ったのは祝言の前日であった。祝言が済むとすぐ東京に戻り、小石川区東青柳町の借家で新婚生活を始めた。清は毎日稽古で家を空け、特に試合前は気が立っているため、マサコは剣道家と結婚したことを何度も後悔したという。後に三男一女をもうけた。 1939年(昭和14年)5月、史上最年少29歳で剣道教士に昇進。 1941年(昭和16年)、流派派閥(中山派、高野派)に関係なく稽古できる剣道会を作るべく「天狗会」と名乗って活動する。活動を本格的にするため木村篤太郎(弁護士、大日本武徳会剣道部会長)に相談したところ、木村は趣旨に賛同して「思斉会」と名付け、自ら会長に就任した。このとき木村は快諾したばかりか上等のすき焼きを振る舞い、清を歓迎した。思斉会は戦後の剣道復興に多大な貢献をもたらすこととなり、後に木村は全日本剣道連盟初代会長となる。 1944年(昭和19年)11月、戦局の悪化により、家族を九州へ返す。剣道の稽古も中止となり、終戦を迎える。
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第二次大戦期
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「ハンス・ラングスドルフ」の記事における「第二次大戦期」の解説
第二次世界大戦勃発直後の1939年9月24日に本国からの指令を受け通商破壊作戦に従事した。作戦開始10週間で9隻のイギリス船を撃沈したが、戦時国際法を遵守し、捕虜を紳士的に扱ったため、イギリス人からは尊敬を集めた。 12月13日、ラプラタ沖海戦で損傷を受けたアドミラル・グラーフ・シュペーは中立国のウルグアイのモンテビデオに緊急避難した。この戦闘で、アドミラル・グラーフ・シュペーは燃料系統に致命的な損傷を受けており、長時間の航行が不能の状態にあった。修理には時間が必要であったが、ウルグアイはイギリスの影響が強く、また在ドイツ大使館からの4日以内の退去命令もあり、ほとんど未修理・未補給のまま出港せざるを得なかった。 12月17日、操艦に最低限必要な40人の水兵らと出港し、マスコミやモンテビデオの住民の注視する中でアドミラル・グラーフ・シュペーを自沈させた。ラングスドルフは艦と運命を共にしようとしたが、乗組員たちは半ば力ずくで連れ出した。艦を離れる間、彼は物思いに耽っていたという。彼は乗組員らとアルゼンチンのブエノスアイレスに上陸した。 その後、アルゼンチン政府に乗組員のドイツ帰国協力要請を交渉したが受け入れられず抑留された。12月19日、ラングスドルフは宿泊先のホテルで、ドイツ帝国海軍時代の軍艦旗を纏い拳銃自殺した。 ラングスドルフは妻ルートへの最期の手紙の中で、 「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。私は、部下の身の安全を確保することに奔走していたために、決断を先延ばしにしていた」 と記している。12月21日に葬儀が行われ、遺体はブエノスアイレスのドイツ人墓地に埋葬された。葬儀には地元のドイツ人会や英独軍人、一般市民が参列した。元乗組員はこの時のことを「父を失ったかのようだった」と語っている。 アドルフ・ヒトラーはラングスドルフを臆病者扱いし、「戦い抜くことをせず自沈した」「戦艦への期待は幻滅以外のなにものでもなかった」と非難している。また、遺族にも充分な年金を与えなかった。
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