戦局の悪化
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「根こそぎ動員」および「満鉄調査部事件」も参照 日中戦争が泥沼化するなか、1941年4月にはソ連と日ソ中立条約を結び、7月には大本営が関東軍特別演習動員の命令を下した。これは、独ソ戦開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争の断念と南進論の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争が始まった。 1942年10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネルの開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった。このころは、下関・釜山をむすぶ海底トンネルが計画され、一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた。しかし、同年の泰緬鉄道の建設、1944年の大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった。 1943年には奉天の鉄道総局そのものが廃止された。満鉄本社が新京に移され、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した。満蒙開拓団は、1941年以降は統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。 かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、満洲国協和会中央本部の実践科主任であった平賀貞夫が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金横領の事実をつかみ、1941年11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。 憲兵隊はゾルゲ事件の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月と1943年7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が執行猶予付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた。 1945年5月30日、大本営は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである。
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戦局の悪化
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「根こそぎ動員」および「満鉄調査部事件」も参照 日中戦争が泥沼化するなか、1941年4月にはソ連と日ソ中立条約を結び、7月には大本営が関東軍特別演習動員の命令を下した。これは、独ソ戦開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争の断念と南進論の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争が始まった。 1942年10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネルの開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった。このころは、下関・釜山をむすぶ海底トンネルが計画され、一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた。しかし、同年の泰緬鉄道の建設、1944年の大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった。 1943年には奉天の鉄道総局そのものが廃止された。満鉄本社が新京に移され、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した。満蒙開拓団は、1941年以降は統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。 かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、満洲国協和会中央本部の実践科主任であった平賀貞夫が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金横領の事実をつかみ、1941年11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。 憲兵隊はゾルゲ事件の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月と1943年7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が執行猶予付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた。 1945年5月30日、大本営は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである。
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