戦局の悪化とは? わかりやすく解説

戦局の悪化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「戦局の悪化」の解説

根こそぎ動員」および「満鉄調査部事件」も参照 日中戦争泥沼化するなか、1941年4月にはソ連日ソ中立条約を結び、7月には大本営関東軍特別演習動員命令下した。これは、独ソ戦開始呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争断念南進論採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦口実まねいた開戦には至らなかったものの、70におよぶ大動員によって全満洲臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄軍事輸送機能最大限発揮されることが要求された。1941年12月日本アメリカ・イギリス対し宣戦布告し太平洋戦争始まった1942年10月日本国内鉄道時刻表示満洲朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネル開通にともなう大幅な時刻改正おこなったこのころは、下関釜山をむすぶ海底トンネル計画され一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路結ぼうという輸送体制の構築一定の現実味帯びて構想されていた。しかし、同年泰緬鉄道建設1944年大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった1943年には奉天鉄道総局そのもの廃止された。満鉄本社新京移され鉄道総局業務満鉄本社継承された。満鉄看板列車であったあじあ号」も1943年2月、突然運休しそのまま姿を消した満蒙開拓団は、1941年以降統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人満洲移住は、日本軍日本海及び黄海制空権制海権失った段階停止した。戦局の悪化にともない満洲在留軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。 かつて松岡洋右らによって強化され調査部であったが、戦時中思想取り締まりによって満鉄調査部左翼的であることが問題視された。1940年7月満洲国協和会中央本部実践主任であった平賀貞夫が、日本共産党再建グループ関与しているという容疑逮捕された。当時満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部公金横領事実をつかみ、1941年11月満洲国警察協力して合作社運動参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。 憲兵隊ゾルゲ事件直後でもあり、必ずや合作社運動の背後共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠つかもうという焦燥感支配されていた。合作社事件は、裁判結果、5人が無期11人が有期懲役刑下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明発し当局への協力誓って同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実正確に伝えているかは不明であり、供述自体一種辻褄合わせであった可能性指摘されている。いずれにせよ憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月1943年7月2度わたって満鉄調査部関係者大量検挙おこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力失ったが、憲兵隊には左翼運動左翼思想に関する予備知識不足しており、具体的な容疑実のところ何も出てこなかった。結局多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名執行猶予付き比較的軽微徒刑判決でこの事件幕を閉じた1945年5月30日大本営関東軍戦闘序列下命してソ連の対日参戦備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍京図線連京線より東の要地確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国大部分戦略的に放棄されることとなったのである

※この「戦局の悪化」の解説は、「南満洲鉄道」の解説の一部です。
「戦局の悪化」を含む「南満洲鉄道」の記事については、「南満洲鉄道」の概要を参照ください。


戦局の悪化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「戦局の悪化」の解説

根こそぎ動員」および「満鉄調査部事件」も参照 日中戦争泥沼化するなか、1941年4月にはソ連日ソ中立条約を結び、7月には大本営関東軍特別演習動員命令下した。これは、独ソ戦開始呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争断念南進論採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦口実まねいた開戦には至らなかったものの、70におよぶ大動員によって全満洲臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄軍事輸送機能最大限発揮されることが要求された。1941年12月日本アメリカ・イギリス対し宣戦布告し太平洋戦争始まった1942年10月日本国内鉄道時刻表示満洲朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネル開通にともなう大幅な時刻改正おこなったこのころは、下関釜山をむすぶ海底トンネル計画され一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路結ぼうという輸送体制の構築一定の現実味帯びて構想されていた。しかし、同年泰緬鉄道建設1944年大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった1943年には奉天鉄道総局そのもの廃止された。満鉄本社新京移され鉄道総局業務満鉄本社継承された。満鉄看板列車であったあじあ号」も1943年2月、突然運休しそのまま姿を消した満蒙開拓団は、1941年以降統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人満洲移住は、日本軍日本海及び黄海制空権制海権失った段階停止した。戦局の悪化にともない満洲在留軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。 かつて松岡洋右らによって強化され調査部であったが、戦時中思想取り締まりによって満鉄調査部左翼的であることが問題視された。1940年7月満洲国協和会中央本部実践主任であった平賀貞夫が、日本共産党再建グループ関与しているという容疑逮捕された。当時満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部公金横領事実をつかみ、1941年11月満洲国警察協力して合作社運動参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。 憲兵隊ゾルゲ事件直後でもあり、必ずや合作社運動の背後共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠つかもうという焦燥感支配されていた。合作社事件は、裁判結果、5人が無期11人が有期懲役刑下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明発し当局への協力誓って同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実正確に伝えているかは不明であり、供述自体一種辻褄合わせであった可能性指摘されている。いずれにせよ憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月1943年7月2度わたって満鉄調査部関係者大量検挙おこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力失ったが、憲兵隊には左翼運動左翼思想に関する予備知識不足しており、具体的な容疑実のところ何も出てこなかった。結局多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名執行猶予付き比較的軽微徒刑判決でこの事件幕を閉じた1945年5月30日大本営関東軍戦闘序列下命してソ連の対日参戦備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍京図線連京線より東の要地確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国大部分戦略的に放棄されることとなったのである

※この「戦局の悪化」の解説は、「南満州鉄道」の解説の一部です。
「戦局の悪化」を含む「南満州鉄道」の記事については、「南満州鉄道」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦局の悪化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦局の悪化」の関連用語

戦局の悪化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦局の悪化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南満洲鉄道 (改訂履歴)、南満州鉄道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS