艦歴
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「わかば」は浮揚した「梨」の船体の損傷部を修理し、艦橋をあけぼの(初代)型に準じたものとして新造している。なお、「梨」時代の兵装は全て撤去された。 主に横須賀に配備され、当初は無兵装で練習艦任務に就いたが、その後、他の海上自衛隊警備艦と同様のアメリカ式武装と電子兵装を搭載する再改装が施されて乙型警備艦(DE)として再就役した。後には実験艦としての役割が与えられ、海自艦艇で唯一AN/SPS-8B(ロシア語版)高角測定レーダーを装備するなど、いわゆるレーダーピケット艦的な内容の艦となった。同型艦がないため、運用には苦労したという。 1957年(昭和32年)1月には水不足に陥った利島に真水の輸送に当たったほか、1962年(昭和37年)8月の三宅島噴火の際には避難民の輸送に活躍した。1968年(昭和43年)4月、実用実験隊に編入され、ソナーや魚雷など新兵器の試験任務に従事した。1970年には浦賀水道で訓練中に小型タンカーと接触する事故を起こしている。 1971年(昭和46年)3月31日に除籍。江田島の古沢鋼材に払い下げられ、解体された。
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艦歴
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マル戦計画の計画名特務艦特型、仮称艦名第2907号艦として計画。1944年4月1日、三菱重工業横浜造船所で建造番号552番船として起工。5月10日、第七号輸送艦と命名。同日付で第一号型輸送艦の7番艦に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。7月3日進水。8月15日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に定められ、連合艦隊附属に編入。輸送任務に従事。 8月31日、3830船団(3隻)を本艦ほか2隻で護衛し硫黄島へ向け館山発。同日、潜水艦を探知し爆雷戦を行う。 9月1日、「父島方面敵機動部隊策動」の知らせにより、船団は八丈島への避難を命じられる。2日、八丈島神湊に入港。4日、船団は常用石炭不足となった常磐山丸を残し、八丈島発。8日、父島二見港に入港。11日、父島を発し硫黄島へ向かったが、同日第二博運丸が被雷沈没したため救助を行う。本艦は八丈島での揚塔を命じられ、揚塔後横須賀へ帰投。25日、連合艦隊隷下に新編された第二輸送隊に編入。 12月27日、硫黄島輸送作戦中、硫黄島東方でアメリカ駆逐艦と交戦し沈没した。 1945年3月10日、第七号輸送艦は第一号型輸送艦と第二輸送隊から削除され、帝国輸送艦籍から除かれた。
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艦歴
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「たかなみ (護衛艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「たかなみ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成10年度計画4,600トン型護衛艦2239号艦として、IHIMUに発注され、住友重機械工業追浜工場で2000年4月25日に起工され、2001年7月26日に進水、その後、住友重機械工業浦賀工場において艤装の後、2002年8月20日に公試開始、2003年3月12日に就役し、第1護衛隊群第5護衛隊に編入され横須賀に配備された。 2004年6月6日、館山沖で大規模被害対処訓練中、注排水バルブの操作ミスにより海水が侵入し、空調室やミサイルの発射装置、弾薬庫などが冠水、10台以上の機器が浸水した。海幕は7月3日にこれを公表し、自力で横須賀に帰投して修理を行った。インド洋への派遣の可否についても検討されたが、当初の予定通りに派遣されることになった。 同年8月9日、テロ対策特別措置法に基づき、護衛艦「きりしま」、補給艦「はまな」と共にインド洋に派遣。同年12月まで任務に従事する。帰路の最中にスマトラ島沖地震の発生を受け、国際緊急援助隊派遣法に基づいてタイに派遣され、遺体収容等を行い(自衛隊タイ派遣)、2005年1月11日に帰国した。 2007年5月4日から30日までシンガポール海軍主催の西太平洋海軍シンポジウム(WPNS)多国間海上訓練に参加。 2008年3月26日、護衛隊改編により第2護衛隊群第6護衛隊に編入された。 2009年10月13日に、大湊基地所属の護衛艦「はまぎり」と共に、第3次派遣海賊対処行動水上部隊を編成、ソマリア沖へ向けて出発し、11月7日から翌年2月20日まで34回計283隻の船舶を警護して、2010年3月18日に帰国した。 2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震発生を受けて海上自衛隊の先陣として東北沖へ急派され、翌12日午後宮城県石巻港近くの岸壁に孤立していた幼稚園児11人を含む135人を救助し、2万余名の被災者に対して食糧供与及び生活必需品の輸送を行った。初動においてレスキュー フロム ザ・シーを実践した。 同年10月11日には第10次派遣海賊対処行動水上部隊として護衛艦「おおなみ」と共にソマリア沖・アデン湾へ向けて横須賀基地を出航し、翌2012年3月12日に帰国した。 2014年7月15日、第19次派遣海賊対処行動水上部隊として「おおなみ」と共に横須賀基地からソマリア沖・アデン湾に向け出航した。9月25日、アデン湾においてNATO軍と共同訓練を実施、デンマーク海軍 戦闘支援艦「ESBERN SNARE(エスベアン スナーレ)」とともに通信訓練 、戦術運動、立入検査訓練等を行った。10月16日にはEU海上部隊と共同訓練を実施、イタリア海軍 駆逐艦「ANDREA DORIA(アンドレア・ドリア)」とともに同様の訓練を行った。その後、ソマリア沖での海賊対処行動を終え帰途につくが、たかなみ・おおなみ両艦が日本に向け東南アジア付近を航行中に、エアアジア8501便墜落事故が発生した。日本政府は両艦に派遣命令を出し、1月3日から9日までの間、エア・アジア航空機消息不明事案に関する国際緊急援助活動に従事し、1月24日、横須賀に帰港した。 2015年1月3日から1月9日まで国際緊急援助活動に従事した。1月24日に横須賀基地に帰投した。 2016年10月24日から12月15日にかけてニュージーランド海軍主催国際観艦式及びADMMプラス海洋安全保障実動訓練マヒ・タンガロア16に参加した。 2020年2月2日、中東地域における日本関係船舶の安全確保に必要な情報収集活動を行うため、派遣情報収集活動水上部隊として横須賀を出港した。派遣に合わせ艦橋へ防弾ガラスを追加したほか、警告用としてLRADが搭載された。2月下旬に活動海域に到着し、同月26日から日本関係船舶の安全確保に向けた情報収集活動を開始し、同年6月9日に護衛艦「きりさめ」に任務を引継ぎ、6月30日に横須賀基地に帰港した。 2021年9月2日、関東南方の海空域において、米海軍空母「カール・ヴィンソン」と日米共同訓練を実施した。また、同2日から7日にかけて、東シナ海から四国南方を経て関東南方に至る海空域おいて、英国空母打撃群(CSG21(英語版):空母「クイーン・エリザベス」、駆逐艦「ディフェンダー」、米駆逐艦「ザ・サリバンズ」、オランダ海軍フリゲート「エファーツェン」、カナダ海軍フリゲート「ウィニペグ」)と日英米蘭加共同訓練(PACIFIC CROWN 21‐3)を実施する。海自からは本艦の他、護衛艦「いせ」、「あさひ」、「はるさめ」、「きりしま」、「おおなみ」、「てるづき」及び潜水艦1隻、P-1哨戒機が、航空自衛隊からはF-2、F-15戦闘機、E-767早期警戒管制機が参加し、対抗戦、防空戦、対潜戦等を実施した。 同年12月22日、伊豆大島東方海域において護衛艦「やまぎり」とともに海上保安庁との共同訓練に参加した。海保からは巡視船「ぶこう」、「あぐに」が参加し、情報共有訓練及び巡視船との運動要領に関する訓練を実施した。 2022年1月28日から2月1日にかけて、関東南方の海空域において米海軍駆逐艦「フィッツジェラルド」、P-8Aと対潜特別訓練を実施した。 同年6月13日から10月28日にかけて、令和4年度インド太平洋方面派遣(IPD22:Indo-Pacific Deployment 2022)に護衛艦部隊第1水上部隊として護衛艦「いずも」及び搭載航空機3機とともに参加する。訪問国はアメリカ合衆国、インド共和国、オーストラリア連邦、ソロモン諸島、トンガ王国、パプアニューギニア独立国、パラオ共和国、バヌアツ共和国、フィジー共和国、ベトナム社会主義共和国、フィリピン共和国、仏領ニューカレドニアの予定。本行動期間中、米海軍主催多国間共同訓練(RIMPAC2022)、パシフィック・パートナーシップ2022、日米豪韓共同訓練(PACIFIC VANGUARD22)、日印共同訓練(JIMEX)、豪州海軍主催多国間共同訓練(KAKADU2022)、米豪比主催多国間共同訓練(Exercise SAMASAMA/LUMBAS2022)に参加する予定。 現在、第2護衛隊群第6護衛隊に所属し、定係港は横須賀である。
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「やまどり (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「やまどり」は、昭和33年度計画甲型駆潜艇3012号艇として、1959年3月14日に藤永田造船所で起工され、1959年10月22日に進水、1960年3月15日に就役し、同日付で舞鶴地方隊隷下に新編された第4駆潜隊に「みずどり」とともに編入された。 1981年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-90となり、舞鶴地方隊直轄艇となる。 1985年3月27日、除籍。
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「おおとり (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「おおとり」は、昭和34年度計画甲型駆潜艇3013号艇として、1959年12月16日に呉造船所で起工され、1960年5月27日に進水、1960年10月13日に就役し、佐世保地方隊に編入された。 1960年12月1日、佐世保地方隊隷下に第5駆潜隊が新編され「かささぎ」、「はつかり」とともに編入された。 1961年10月1日、第5駆潜隊が隊番号交換により第3駆潜隊に改称。 1977年12月1日、第3駆潜隊が呉地方隊隷下に編成替え。 1982年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-61となり、佐世保地方隊直轄艇となる。 1985年10月31日、除籍。
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「魚雷艇14号」は、昭和47年度100t型魚雷艇6014号艇として、三菱重工業下関造船所で1973年3月23日に起工され、1973年7月10日に進水、1974年2月15日に就役し、舞鶴地方隊舞鶴防備隊第2魚雷艇隊に編入された。 1987年7月1日、地方隊の改編により、第2魚雷艇隊が舞鶴警備隊隷下に編成替え。 1991年10月4日、第2魚雷艇隊が廃止となり、大湊地方隊余市防備隊第1魚雷艇隊に編入。 1993年3月22日、除籍。
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「魚雷艇12号」は、昭和45年度100t型魚雷艇6012号艇として、三菱重工業下関造船所で1971年4月22日に起工され、1971年12月7日に進水、1972年3月28日に就役し、大湊地方隊余市防備隊第1魚雷艇隊に編入された。 1991年10月4日、除籍。
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「かもめ」は、昭和29年度330t甲型駆潜艇第3003号艇として、浦賀船渠で1956年1月27日に起工され、1956年9月3日に進水、1957年1月14日に就役し、大湊地方隊に編入された。 1957年3月1日、大湊地方隊隷下に第2駆潜隊が新編され「つばめ」、「みさご」とともに編入。 1960年3月1日、大湊地方隊隷下に第3駆潜隊が新編され「みさご」、「うみたか」、「おおたか」とともに編入。 1961年10月1日、第3駆潜隊が隊番号交換により第5駆潜隊に改称。 1963年3月30日、呉地方隊第2駆潜隊に編入。 1977年12月1日、除籍。
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「うみたか (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「うみたか」は、昭和32年度計画甲型駆潜艇3009号艇として、川崎重工業神戸工場で1959年3月13日に起工され、1959年7月25日に進水、1959年11月30日に就役し、大湊地方隊に編入された。 1960年3月1日、大湊地方隊隷下に第3駆潜隊が新編され「かもめ」、「みさご」、「おおたか」とともに編入された。 1961年10月1日、第3駆潜隊が隊番号交換により第5駆潜隊に改称。 1978年9月20日午後4時10分頃、青森県東津軽郡三厩村竜飛岬の西方17キロの海上でいか釣り漁船「喜代丸」(9.62トン)と衝突し、「喜代丸」は沈没し、1名が死亡した。 1980年3月17日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-86となり、大湊地方隊直轄艇となる。 1984年3月10日、除籍。
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「おおたか (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「おおたか」は、昭和32年度計画甲型駆潜艇3010号艇として、呉造船所で1959年3月18日に起工され、1959年9月3日に進水、1960年1月14日に就役し、大湊地方隊に編入された。 1960年3月1日、大湊地方隊隷下に第3駆潜隊が新編され「かもめ」、「みさご」、「うみたか」とともに編入された。 1961年10月1日、第3駆潜隊が隊番号交換により第5駆潜隊に改称。 1981年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-88となり、大湊地方隊直轄艇となる。 1985年2月20日、除籍。
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「みさご」は、昭和29年度330t甲型駆潜艇第3005号艇として、浦賀船渠で1956年1月27日に起工され、1956年11月1日に進水、1957年2月11日に就役し、大湊地方隊に編入された。 1957年3月1日、大湊地方隊隷下に第2駆潜隊が新編され「かもめ」、「つばめ」とともに編入。 1960年3月1日、大湊地方隊隷下に第3駆潜隊が新編され「かもめ」、「うみたか」、「おおたか」とともに編入。 1961年10月1日、第3駆潜隊が隊番号交換により第5駆潜隊に改称。 1963年3月30日、呉地方隊第2駆潜隊に編入。 1977年12月1日、除籍。
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「魚雷艇13号」は、昭和46年度100t型魚雷艇6013号艇として、三菱重工業下関造船所で1972年3月28日に起工され、1972年7月28日に進水、1972年12月16日に就役し、舞鶴地方隊舞鶴防備隊第2魚雷艇隊に編入された。 1987年7月1日、地方隊の改編により、第2魚雷艇隊が舞鶴警備隊隷下に編成替え。 1991年10月4日、除籍。
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「みずとり (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「みずとり」は、昭和33年度計画甲型駆潜艇3011号艇として、1959年3月13日に川崎重工業神戸工場で起工され、1959年9月22日に進水、1960年2月27日に就役し、大湊地方隊に編入された。同年2月29日、舞鶴地方隊に編入。 1960年3月15日、舞鶴地方隊隷下に第4駆潜隊が新編され同日付で就役した「やまどり」とともに編入された。 1981年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-89となり、舞鶴地方隊直轄艇となる。 1985年3月27日、除籍。
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「あしがら (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「あしがら」は、中期防衛力整備計画に基づく平成15年度計画7700トン型護衛艦2318号艦として、三菱重工業長崎造船所で2005年4月6日に起工され、2006年8月30日、同造船所において挙行された命名・進水式において防衛庁長官(防衛庁長官政務官高木毅代読)により「あしがら」と命名され進水、2008年3月13日に就役し、第4護衛隊群第64護衛隊に編入され佐世保に配備された。同年3月26日、護衛隊改編に伴い第2護衛隊群第2護衛隊に編入。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による東日本大震災に対し、災害派遣される。 同年7月4日から9月29日の間、米国派遣訓練に参加。 2012年12月10日、アメリカ国防総省は議会に対して日本向けに最新のミサイル防衛システムの売却を通知する。「あしがら」は同型艦の「あたご」と共に導入される見込み。 2015年8月18日から9月9日まで米国において実施される統合訓練「ドーンブリッツ15」に掃海隊群司令指揮の下、護衛艦「ひゅうが」、輸送艦「くにさき」とともに参加し、水陸両用戦訓練を実施した。 2017年4月23日から護衛艦「さみだれ」とともにアメリカ合衆国海軍空母「カール・ヴィンソン」(CVN-70)を中心とした空母打撃群とともに、西太平洋海域で共同巡航訓練を実施した。 同年6月1日~6月3日、日本海でアメリカ海軍の空母「カール・ヴィンソン」「ロナルド・レーガン」を中心とする空母打撃群、僚艦「ひゅうが」及び航空自衛隊F-15と共同訓練を実施。 同年7月3日から2018年末までの間、三菱重工業長崎造船所において定期検査とBMD(弾道ミサイル防衛)能力付与及び対潜システムの近代化工事が行われた。しかし、「あたご」に搭載されたAN/SPQ-9B対水上レーダーは、装置の納入遅延により後日装備となっている。 2020年年8月1日から9月18日にかけて護衛艦「いせ」とともに令和2年度米国派遣訓練(護衛艦)に参加する(「いせ」は7月23日に出港)。米海軍の協力を得て、対空戦、対水上戦、対潜戦等の洋上訓練を実施するとともに、8月17日から8月31日の間は、米海軍が主催する多国間共同訓練RIMPAC2020に参加した。9月12日から13日の間はグアム島周辺海空域において日米豪韓共同訓練(パシフィック・ヴァンガード20)を実施した。米海軍からは駆逐艦「バリー」、補給艦「ジョン・エリクソン」、潜水艦、航空機、豪海軍からはフリゲート艦「アランタ」、「スチュアート」、韓国海軍からは駆逐艦「忠武公李舜臣」、「西厓柳成龍」が参加し、対空戦、対水上戦、対潜戦訓練等を実施した。 2021年5月11日から17日にかけて護衛艦「いせ」、「あさひ」、「こんごう」、輸送艦「おおすみ」、ミサイル艇「おおたか」、「しらたか」、哨戒機、潜水艦とともに東シナ海において日米豪仏共同訓練(ARC21)に参加する。米海軍からはドック型輸送揚陸艦「ニューオリンズ」、豪海軍からはフリゲート「パラマッタ」、仏海軍からは強襲揚陸艦「トネール」、フリゲート「シュルクーフ」が参加し、防空訓練、対潜訓練、着上陸訓練を実施する。 現在は第2護衛隊群第2護衛隊に所属し、定係港は佐世保である。
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「しらとり (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「しらとり」は、昭和38年度計画甲型駆潜艇3019号艇として、1964年2月29日に佐世保重工業で起工され、1964年10月8日に進水、1965年2月26日に就役し、佐世保地方隊第3駆潜隊に編入された。 1977年12月1日、第3駆潜隊が呉地方隊隷下に編成替え。 1985年3月27日、舞鶴地方隊第4駆潜隊に編入。 1986年3月19日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-66となり、舞鶴地方隊直轄艇となる。 1989年3月24日、除籍。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/01 01:34 UTC 版)
「魚雷艇11号」は、昭和44年度100t型魚雷艇6011号艇として、三菱重工業下関造船所で1970年3月17日に起工され、1970年10月5日に進水、1971年3月27日に就役し、大湊地方隊第1魚雷艇隊に編入された。 1971年7月15日、余市防備隊が新編され、第1魚雷艇隊が同隊隷下に編成替え。 1990年11月28日、除籍。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/01 05:44 UTC 版)
「かり」は、昭和29年度計画甲型駆潜艇3001号艇として、藤永田造船所で1956年1月18日に起工され、1956年9月26日に進水、1957年2月8日に就役し、佐世保地方隊に編入された。 1957年3月25日、佐世保地方隊隷下に第1駆潜隊が新編され「きじ」とともに編入。 1960年12月1日、第1駆潜隊が横須賀地方隊隷下に編成替え。 1977年3月15日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/30 23:47 UTC 版)
「ねむろ」は、第4次防衛力整備計画に基づく昭和50年度計画輸送艦4103号艦として、佐世保重工業で1976年11月18日に起工され、1977年6月16日に進水、1977年10月27日に就役し、大湊地方隊に編入された。 1980年6月27日、新潟県佐渡島の北方約110km地点を航行中、ソ連空軍のTu-16爆撃機が異常接近。接近しすぎたTu-16が目の前で墜落するということがあった。後に同艦が乗組員3人の遺体を収容している。 1993年7月12日に発生した北海道南西沖地震、2000年の三宅島の噴火等、数度の災害派遣活動に従事した。 2005年5月21日、除籍。
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艦歴
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1933年(昭和8年)6月20日、三井物産造船部玉工場で起工。1934年(昭和9年)3月30日進水。同年9月29日に竣工。第十六号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。 1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事。1943年(昭和18年)9月11日、セレベス島マカッサル港外で触雷して沈没。同年11月1日に除籍。
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艦歴
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「伏見 (伏見型砲艦)」の記事における「艦歴」の解説
藤永田造船所において建造。1939年1月20日、本艦と他3隻(初鷹、雪風、伊号第15潜水艦)はそれぞれ艦艇類別等級表に類別される。同年7月15日に竣工した。 日中戦争において、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。11月26日、安慶で中国軍機の攻撃を受け大破着底し、引揚げられ上海に曳航されたが、終戦時には航行不能の状態であった。その後、中華民国に接収され国府海軍の「江鳳 Chiang-Feng」となるが、1949年に中華人民共和国の所属となった。
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「呂号第五十五潜水艦 (初代)」の記事における「艦歴」の解説
1920年(大正9年)3月30日、三菱神戸造船所で起工。1921年(大正10年)2月10日進水。同年11月15日竣工。竣工時の艦名は第二十九潜水艦、二等潜水艦に類別。 1924年(大正13年)11月1日、呂号第五十五潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂五十三型に改正。1940年(昭和15年)4月1日に除籍。 呂五十一型潜水艦に比べて、主機、電池などの国産化を進めた。
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1921年(大正10年)10月24日、川崎造船所で起工。1923年(大正12年)3月19日進水。1924年(大正13年)5月31日竣工。竣工時の艦名は第七十一潜水艦、二等潜水艦に類別。速力が13ノットに留まり、鎮守府の警備艦に配属された。1924年(大正13年)11月1日、呂号第三十二潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂三十型に改正。 1942年(昭和17年)4月1日に除籍。海軍潜水学校(大竹)で練習艦として使用し、戦後に解体された。
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艦歴
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1921年(大正10年)6月27日、川崎造船所で起工。1923年(大正12年)1月18日進水。1924年(大正13年)4月29日竣工。竣工時の艦名は第六十九潜水艦、二等潜水艦に類別。1924年(大正13年)11月1日、呂号第三十潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂三十型に改正。1942年(昭和17年)4月1日に除籍。戦後に解体された。 速力が13ノットに留まり、鎮守府の警備艦に配属された。
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艦歴
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「呂号第五十六潜水艦 (初代)」の記事における「艦歴」の解説
1920年(大正9年)7月10日、三菱神戸造船所で起工。1921年(大正10年)5月11日進水。1922年(大正11年)1月16日竣工。竣工時の艦名は第三十潜水艦、二等潜水艦に類別。 1924年(大正13年)11月1日、呂号第五十六潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂五十三型に改正。1940年(昭和15年)4月1日に除籍され、廃潜第13号と仮称。 呂五十一型潜水艦に比べて、主機、電池などの国産化を進めた。
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「須磨 (防護巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
1892年(明治25年)、横須賀造船部で起工、「乙号巡洋艦」として建造され、1895年(明治28年)3月9日、「須磨」と命名される。1896年(明治29年)に竣工した。12月26日、ドック入りした防護巡洋艦「松島」に代わり、一時的に常備艦隊旗艦となる。その後1897年(明治30年)4月24日に常備艦隊旗艦「鎮遠」から幕僚や要員が移乗し、再び旗艦に指定される。6月14日、旗艦はイギリスで竣工を待つ戦艦「富士」に変更された。 1898年(明治31年)3月21日、三等巡洋艦に類別。 米比戦争により1899年(明治32年)2月から4月まで、邦人保護のためマニラに派遣。 義和団の乱では1900年(明治33年)6月から翌月にかけて大沽に出動した。 1903年(明治36年)12月28日、第二艦隊隷下の第四戦隊に配属されるも、新造艦の新高の参加により翌1904年2月5日付けで第三艦隊(司令長官:片岡七郎中将、旗艦:防護巡洋艦厳島)隷下の第六戦隊(司令官:東郷正路少将、須磨、和泉、千代田、秋津洲)に移され戦隊旗艦となる。 日露戦争に際しては、旅順攻略作戦、黄海海戦、日本海海戦、樺太作戦等に参加。 1912年(大正元年)8月28日、二等巡洋艦に等級変更。 第一次世界大戦では、シンガポール、インド洋、紅海での作戦に従事した。 1921年(大正10年)9月1日、二等海防艦に類別変更され、1923年(大正12年)4月1日に除籍 となり雑役船に編入、佐世保防備隊で使用された。 1928年(昭和3年)に廃船となった。
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「やまぐも (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「やまぐも」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和37度計画2,000トン型警備艦2201号艦として、三井造船玉野造船所で1964年3月23日に起工され、1965年2月27日に進水、1966年1月29日に就役し、第2護衛隊群に直轄艦として編入され佐世保に配備された。 1966年3月19日、第2護衛隊群隷下に第21護衛隊が新編され、同日付で就役した「まきぐも」とともに編入された。 1971年、1975年、1981年と遠洋練習航海に3回参加している。 1977年12月1日、第21護衛隊が第3護衛隊群隷下に編成替え。 1987年2月20日、第21護衛隊が佐世保地方隊隷下に編成替え。 1991年6月20日、練習艦に種別変更され、艦籍番号がTV-3506に変更。練習艦隊第1練習隊に編入され、定係港が呉に転籍。なお、練習艦への改造工事は同年6月28日から10月24日の間で行われ、アスロック弾庫を実習員講堂(36名収容)に、士官寝室の一部が女性自衛官用(14名)に改造された。 1995年8月1日、除籍。
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「たかなみ (護衛艦・初代)」の記事における「艦歴」の解説
「たかなみ」は、昭和32度計画1,700トン型警備艦1610号艦として、三井造船玉野造船所で1958年11月8日に起工され、1959年8月8日に進水、1960年1月30日に就役し、呉地方隊に直轄艦として編入された。 1960年8月31日、呉地方隊隷下に新編された第11護衛隊に「おおなみ」とともに編入。 1961年2月1日、第11護衛隊が自衛艦隊隷下に再編された第2護衛隊群隷下に編成替え。 1968年2月、後甲板の爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2条が撤去され、可変深度式ソナー(VDS)OQA-1Aを装備。 1971年2月1日、第11護衛隊が護衛艦隊隷下に新編された第4護衛隊群隷下に編成替え。 1973年12月16日、第11護衛隊が第3護衛隊群隷下に編成替え、定係港が佐世保に転籍。 1977年12月1日、第11護衛隊が佐世保地方隊隷下に編成替え。 1985年3月27日、特務艦に種別変更され、艦籍番号がASU-7009に変更、佐世保地方隊に直轄艦として編入。 1989年3月24日、除籍。
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「あさぐも (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「あさぐも」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和39度計画2,000トン型警備艦2203号艦として、舞鶴重工業舞鶴造船所で1965年6月24日に起工され、1966年11月25日に進水、1967年8月29日に就役し、第2護衛隊群第21護衛隊に編入され佐世保に配備された。 1972年11月25日、第2護衛隊群隷下に第23護衛隊が新編され、同日付で就役した「あおくも」とともに編入。 1982年3月27日、第3護衛隊群第21護衛隊に編入。同年、遠洋練習航海に参加。 1987年2月20日、第21護衛隊が佐世保地方隊隷下に編成替え。 1991年3月15日、呉地方隊第22護衛隊に編入され、定係港も呉に転籍。 1993年10月18日、特務艦に種別変更され、艦籍番号がASU-7018に変更。第1潜水隊群に直轄艦として編入された。なお、特務艦への改造工事で左舷中部に訓練魚雷用の揚収施設が設置された。 1998年3月24日、除籍。
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艦歴
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「おおなみ (護衛艦・初代)」の記事における「艦歴」の解説
「おおなみ」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和33度計画1,700トン型警備艦1611号艦として、石川島重工業東京工場で1959年3月20日に起工され、1960年2月13日に進水、1960年8月29日に就役し、呉地方隊に直轄艦として編入された。 1960年8月31日、呉地方隊隷下に新編された第11護衛隊に「たかなみ」とともに編入。 1961年2月1日、第11護衛隊が自衛艦隊隷下に再編された第2護衛隊群隷下に編成替え。 1971年2月1日、第11護衛隊が護衛艦隊隷下に新編された第4護衛隊群隷下に編成替え。 1973年12月16日、第11護衛隊が第3護衛隊群隷下に編成替え、定係港が佐世保に転籍。 1977年12月1日に、第11護衛隊が佐世保地方隊隷下に編成替え。 1980年に短魚雷落射機を撤去し、68式3連装短魚雷発射管を2基装備する対潜攻撃能力強化工事を実施。 1987年2月20日、第11護衛隊が廃止となり、特務艦に種別変更、艦籍番号がASU-7013に変更。佐世保地方隊に直轄艦として編入。 1990年3月23日、除籍。
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艦歴
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「うらなみ (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「うらなみ」は、昭和30度計画1,700トン型警備艦1605号艦として、川崎重工業神戸工場で1957年2月1日に起工され、1957年8月29日に進水、1958年2月27日に就役し、横須賀地方隊に直轄艦として編入された。 1958年(昭和33年)3月16日、横須賀地方隊隷下に新編された第8護衛隊に「あやなみ」とともに編入。同年8月から海上自衛隊第2回目の遠洋練習航海に参加している。なお、遠洋練習航海には1960年(昭和35年)の第4回及び1968年(昭和43年)の第12回にも参加している。 1958年10月25日、第8護衛隊が第1護衛隊群隷下に編成替え。 1959年(昭和34年)4月1日、第1護衛隊群隷下に新編された第9護衛隊に「あやなみ」とともに編入。 1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)にかけての特別修理工事の際に装備の近代化工事も実施され、未装備であった電波探知装置(ESM)NOLR-1が後檣に装備、捜索用ソナーをOQS-14へ、攻撃用ソナーをOQY-2へ換装した。 1969年(昭和44年)3月15日、第9護衛隊が第3護衛隊群隷下に編成替え。 1971年(昭和46年)2月1日、第9護衛隊が護衛艦隊隷下に新編された第4護衛隊群隷下に編成替え。 同年、対潜攻撃能力強化工事が実施され、短魚雷落射機を撤去し、68式3連装短魚雷発射管を2基搭載。 1983年(昭和58年)3月30日、第9護衛隊が廃止となり、特務艦に種別変更され、艦籍番号がASU-7005に変更。呉地方隊に直轄艦として編入され、定係港が呉に転籍。 1986年(昭和61年)12月25日、除籍。
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艦歴
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「魚雷艇15号」は、昭和48年度100t型魚雷艇6015号艇として、三菱重工業下関造船所で1974年4月23日に起工され、1975年1月8日に進水、1975年7月10日に就役し、舞鶴地方隊舞鶴防備隊第2魚雷艇隊に編入された。 1987年7月1日、地方隊の改編により、第2魚雷艇隊が舞鶴警備隊隷下に編成替え。 1990年11月28日、大湊地方隊余市防備隊第1魚雷艇隊に編入。 1993年3月22日、第1魚雷艇隊が廃止となり、余市防備隊直轄艇となる。 1994年10月14日、除籍。本艇の延べ航海時間は10,314.4時間、総航程は137,906.5浬であった。
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艦歴
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「はつかり (駆潜艇)」の記事における「艦歴」の解説
「はつかり」は、昭和34年度計画甲型駆潜艇3015号艇として、1960年1月25日に佐世保船舶工業で起工され、1960年6月24日に進水、1960年11月15日に就役し、佐世保地方隊に編入された。 1960年12月1日、佐世保地方隊隷下に第5駆潜隊が新編され「おおとり」、「かささぎ」とともに編入された。 1961年10月1日、第5駆潜隊が隊番号交換により第3駆潜隊に改称。 1977年12月1日、第3駆潜隊が呉地方隊隷下に編成替え。 1982年3月27日、特務艇に種別変更され船籍番号がASU-62となり、呉地方隊直轄艇となる。 1985年10月31日、除籍。
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艦歴
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「きたかみ (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「きたかみ」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和35年度計画乙型警備艦1213号艦として、石川島播磨重工業東京工場で1962年7月7日に起工され、1963年6月21日に進水、1964年2月27日に就役し、同日付で第3護衛隊群隷下に新編された第32護衛隊に「おおい」とともに編入され大湊に配備された。 本艦は1、2番艦と兵装が異なり海上自衛隊の艦艇として初めてボフォース・ロケット発射機及び3連装短魚雷発射管が装備された。 1968年10月、艦尾の爆雷投下軌条及び爆雷投射機が撤去され、VDS(可変深度ソナー)が装備された。 1968年12月16日、第32護衛隊が大湊地方隊隷下に編成替え。 1990年1月31日、第32護衛隊が廃止となり、特務艦に種別変更され、艦籍番号がASU-7016に変更。大湊地方隊に直轄艦として編入。なお、特務艦への改造工事で長魚雷発射管が撤去されている。 1993年11月16日、除籍。就役中の総航程は63万3,300浬に達し、地球約29.7周分。翌年岡山県岡山市で解体された。
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艦歴
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1922年(大正11年)9月 進水 - (藤永田造船所建造) 進水時の名称は「第十六駆逐艦」。 1923年(大正12年)3月16日 - 竣工 1924年(大正13年)4月1日 - 「第十六号駆逐艦」に艦名変更。 1928年(昭和3年)8月1日 - 「芙蓉」に艦名変更。 1937年(昭和12年) - 日中戦争に参戦。華南沿岸の諸作戦に参加。 1941年(昭和16年) - 駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。船団護衛、哨戒作戦に従事。 1943年(昭和18年)12月20日 - 船団護衛中、マニラ湾口で米潜水艦パファーの雷撃で2本が命中し戦没。
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艦歴
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1922年(大正11年)8月1日、大阪鉄工所桜島工場で起工。1923年(大正12年)3月29日進水。同年6月30日に竣工。竣工時艇名は第三掃海艇、掃海艇に類別。1924年(大正13年)4月24日、第三号掃海艇に改称。 1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中の作戦に参加。1937年12月28日、南京下流烏龍山水道で触雷して損傷を受けた。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事。 1945年(昭和20年)4月9日、「浮島丸」を護衛中に米潜「パーチー」の雷撃を受け沈没(岩手県大船渡湾口)。同年5月10日に除籍。
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「オーク・ヒル (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
オーク・ヒルは1992年9月21日にルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で起工され、1994年6月11日に進水した。1996年6月8日に就役する。 2005年時点で、オーク・ヒルはカーティス・J・ギルバート艦長の指揮下、揚陸グループ2に所属する。
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「にいじま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「にいじま」は、昭和54年度計画掃海艇355号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1980年8月4日に起工され、1981年6月2日に進水、1981年11月26日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に第13掃海隊が新編され、「おおしま」とともに編入され大湊に配備された。 1993年11月9日、第2掃海隊群第20掃海隊(横須賀)に編入。 1995年3月30日、佐世保地方隊沖縄基地隊所属の第13掃海隊に編入。 1997年3月19日、隊番号の改正により第13掃海隊が第46掃海隊に改称。 1998年3月23日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-722に変更。第1掃海隊群隷下に再編された第101掃海隊に編入、定係港が呉に転籍。 2000年3月13日、掃海部隊の再編により掃海隊群が新編され、第101掃海隊が掃海隊群隷下に編入。 2002年3月4日、除籍。
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「なるしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「なるしま」は、昭和55年度計画掃海艇357号艇として、日立造船神奈川工場で1981年5月29日に起工され、1982年6月7日に進水、1982年12月17日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第14掃海隊に「やくしま」とともに編入され佐世保に配備された。 1996年3月1日、佐世保地方隊下関基地隊所属の第11掃海隊に編入。 1997年3月19日、隊番号の改正により、第11掃海隊が第43掃海隊に改称。 1999年6月25日、除籍。
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「ダフィー (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
1943年4月16日、メア・アイランド海軍造船所にて進水。当初イギリス海軍に引き渡す予定で建造されていた。同年8月5日、G・A・パーキンソン予備中佐の指揮下で就役。 ダフィーは主に船団や空母群の護衛に従事した。1944年12月には、レイテで一式陸上攻撃機1機を撃墜。12月29日、マーシャル諸島のマロエラップ環礁に対し、空襲を援護しつつ艦砲射撃。以降アメリカ軍の勢力圏下に孤立した日本軍の島々を砲撃し、神経戦を仕掛けた。1945年6月14日にはミリ環礁の駐屯地で7名の捕虜を捕らえる。 戦争終結間際にアジアを離れ、7月26日にサンフランシスコに到着。11月9日に退役。1947年6月16日にスクラップのため売却された。
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艦歴
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「第八号掃海艇 (3代)」の記事における「艦歴」の解説
1937年(昭和12年)12月11日、浦賀船渠で起工。1938年(昭和13年)4月15日、掃海艇に類別。同年5月28日進水。1939年(昭和14年)2月15日に竣工。佐世保鎮守府籍に編入。 1939年から1940年(昭和15年)にかけて、日中戦争において華南の作戦に参加。 1941年(昭和16年)6月1日、第三艦隊第一根拠地隊に編入。同年12月8日、太平洋戦争に参加し、比島レガスビー攻略作戦に参加。以後、メナド、ケンダリー、アンボン、マカッサル、クーパンの各攻略参戦で船団護衛に従事。 1942年(昭和17年)3月10日、第二南遣艦隊第二十一特別根拠地隊に編入。同年7月25日、西部ニューギニア攻略参戦に参加。その後、トラック、パラオ方面での船団護衛、スラバヤ方面の掃海に従事。 1944年(昭和19年)8月25日から同年9月21日まで、スラバヤで入渠して整備を実施。その後、スラバヤ、アンボン、マカッサル、ボルネオ北東岸なとで船団護衛に従事した。 終戦をスラバヤで迎え、1946年(昭和21年)7月10日、シンガポールケッペル湾外でイギリス海軍により海没処分。同年6月10日に除籍。
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艦歴
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1935年(昭和10年)2月20日、三井物産造船部玉工場で起工。同年9月19日進水。1936年(昭和11年)4月30日に竣工。第十八号掃海艇と命名され、掃海艇に類別。 1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)まで日中戦争において華中及び華北の作戦に参加。太平洋戦争では、南方侵攻作戦、船団護衛に従事。 1944年(昭和19年)11月26日、海南島西角南方75海里付近でアメリカ陸軍機の攻撃を受けて沈没。1945年(昭和20年)1月10日に除籍。
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艦歴
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三菱神戸造船所において完成、それを解体し漢口に輸送、揚子江機器有限公司で組立てを行い、1923年8月24日に竣工、二等砲艦に類別された。 1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。 1944年11月26日、安慶で中国軍機の爆撃を受け大破し、そのまま終戦を迎えた。1945年9月30日に除籍された。
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艦歴
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「アンソニー (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
アンソニーはスコットランド、グリーノックのスコッツ・シップビルディング・アンド・エンジニアリング社で建造され、1930年2月14日に就役した。 第二次世界大戦が勃発すると、ポートランドの第18駆逐小艦隊に配属され、イギリス海峡およびウェスタンアプローチ南部で活動した。1940年9月には漂流中の児童疎開船シティ・オブ・ベナレスの救命ボートを救助した。
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艦歴
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「魚雷艇2号」は、昭和28年度計画丙型駆潜艇802号艇として、日立造船神奈川工場で1955年5月18日に起工され、1955年8月6日に進水、1956年11月15日に就役し、横須賀地方隊横須賀基地警防隊に編入された。 1956年11月16日、横須賀基地警防隊隷下に新編された第1魚雷艇隊に「魚雷艇1号」、「魚雷艇5号」、「魚雷艇6号」とともに編入された。 1959年6月1日、第1魚雷艇隊が横須賀防備隊隷下に編成替え。 1970年3月2日、特務船に種別変更され、船名が特務船49号(YAS-49)に改称。実用実験隊に編入。 1973年3月31日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/14 09:14 UTC 版)
「魚雷艇1号」は、昭和28年度計画丙型駆潜艇801号艇として、日立造船神奈川工場で1955年5月18日に起工され、1955年12月20日に進水、1956年10月10日に就役し、横須賀地方隊横須賀基地警防隊に編入された。 1956年11月16日、横須賀基地警防隊隷下に新編された第1魚雷艇隊に「魚雷艇2号」、「魚雷艇5号」、「魚雷艇6号」とともに編入された。 1959年6月1日、第1魚雷艇隊が横須賀防備隊隷下に編成替え。 1970年3月2日、特務船に種別変更され、船名が特務船48号(YAS-48)に改称。対馬防備隊に編入。 1974年9月30日、除籍。
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艦歴
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「みやと」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和46年度計画掃海艇339号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1972年4月22日に起工され、1973年4月3日に進水、1973年8月24日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第44掃海隊に「かなわ」、「たしろ」とともに編入された。 1984年1月26日、第44掃海隊が舞鶴地方隊に編入。 1989年11月29日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-90に変更。沖縄基地隊所属の沖縄水中処分隊母艇となる。 1996年3月1日、除籍。
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「ホイッドビー・アイランド (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
ホイッドビー・アイランドは1981年8月4日にワシントン州シアトルのロッキード造船で起工し、1983年6月10日にサリー・ゴートン夫人(上院議員スレード・ゴートンの妻)によって命名、進水した。1985年2月9日にP・M・マルドゥーン艦長の指揮下就役した。 1981年2月にアメリカ海軍は老朽化したトーマストン級ドック型揚陸艦に代わる新型揚陸艦 LSD-41の建造契約をワシントン州シアトルのロッキード造船と結んだ。1981年8月4日に起工式が行われ、海軍長官ジョン・F・リーマンは艦のキールにサインを書き込んだ。 新型揚陸艦1番艦の名称はホイッドビー・アイランドと名付けられ、その名を持つ初めての艦となったが、1940年代末にはホイッドビー(USS Whidbey, AG-141)という艦が存在した。 ホイッドビー・アイランドはLCAC-1級エア・クッション型揚陸艇を運用できるよう設計された初めての艦であった。LCACの運用試験は1985年7月から9月および1986年5月から7月まで行われた。 2005年時点でホイッドビー・アイランドはセドリック・E・プリングル艦長の指揮下揚陸グループ2に所属する。
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「とうし」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和44年度計画掃海艇335号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1970年5月14日に起工され、1970年12月12日に進水、1971年3月18日に就役し、第2掃海隊群第42掃海隊に編入された。 1975年12月15日、第2掃海隊群隷下に第46掃海隊が新編され、同日付で就役した「よこせ」、「さかて」とともに編入された。 1978年3月28日、第1掃海隊群隷下に第48掃海隊が新編され編入。 1983年1月27日、第48掃海隊が佐世保地方隊沖縄基地隊に編入。 1987年3月24日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-86に変更。鹿児島試験所に編入。 1993年2月9日、除籍。
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艦歴
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「たかみ」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和42年度計画掃海艇330号艇として、日立造船神奈川工場で1968年9月25日に起工され、1969年7月15日に進水、1969年12月15日に就役し、第1掃海隊群に編入され、呉に配備された。 1970年1月22日、第1掃海隊群隷下に第41掃海隊が新編され、同日付で就役した「いおう」とともに編入された。 1974年8月28日、第41掃海隊が呉地方隊阪神基地隊に編入。 1986年3月27日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-82に変更。大湊地方隊隷下の大湊港務隊に編入された。 1988年3月10日、大湊水中処分隊に編成替え。 1992年3月12日、除籍。
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艦歴
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「うとね」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和43年度計画掃海艇333号艇として、日立造船神奈川工場で1969年8月6日に起工され、1970年4月6日に進水、1970年9月30日に就役し、第2掃海隊群に編入された。定係港は横須賀。同年11月19日、第2掃海隊群隷下に新編された第42掃海隊に「みやけ」とともに編入された。 1975年12月15日、第42掃海隊が横須賀地方隊に編入。 1986年12月16日、掃海母艇に種別変更され、船籍番号がMST-475に変更。呉地方隊第101掃海隊に編入。 1993年2月9日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/21 09:56 UTC 版)
「にのしま (掃海艇・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「にのしま」は、昭和52年度計画掃海艇350号艇として、日立造船神奈川工場で1978年5月8日に起工され、1979年8月7日に進水、1979年12月19日に就役し、第1掃海隊群に編入され呉に配備された。 1980年1月29日、第1掃海隊群隷下に第11掃海隊が新編され、同日付で就役した「みやじま」とともに編入された。 1988年3月23日、第11掃海隊が佐世保地方隊下関基地隊に編入。 1995年12月から三菱重工業下関工場で「みやじま」とともに種別変更工事として掃海発電機、掃海電線巻揚機の撤去と水中処分隊用甲板室の設置工事を行う。 1996年3月1日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-100に変更。佐世保地方隊隷下の佐世保水中処分隊に編入。 2002年5月23日、除籍。
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艦歴
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「みやじま (掃海艇・初代)」の記事における「艦歴」の解説
「みやじま」は、昭和52年度計画掃海艇351号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1978年11月8日に起工され、1979年9月18日に進水、1980年1月29日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第11掃海隊に「にのしま」とともに編入された。定係港は呉。 1988年3月23日、第11掃海隊が佐世保地方隊下関基地隊に編入。 1995年12月から三菱重工業下関工場で「にのしま」とともに特務船への改装工事として掃海発電機、掃海電線巻揚機の撤去と水中処分隊用甲板室の設置工事を行う。 1996年3月1日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-101に変更。佐世保地方隊沖縄基地隊隷下の沖縄水中処分隊に編入。1996年4月に特務船への改装工事完了。 2002年5月23日、除籍。
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艦歴
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「いおう」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和42年度計画掃海艇331号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1968年9月21日に起工され、1969年8月12日に進水、1970年1月22日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第41掃海隊に「たかみ」とともに編入された。定係港は呉。 1974年8月28日、第41掃海隊が呉地方隊阪神基地隊に編入。 1986年3月27日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-83に変更。呉地方隊隷下の呉港務隊に編入。同年5月24日、佐世保地方隊佐世保警備隊隷下の奄美基地分遣隊に編入。 1992年11月24日、除籍。
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艦歴
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「なるしお (潜水艦・初代)」の記事における「艦歴」の解説
「なるしお」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和45年度計画潜水艦8084号艦として、三菱重工業神戸造船所で1971年5月8日に起工され、1972年11月22日に進水、1973年9月28日に就役し、同日付けで第1潜水隊群隷下に新編された第5潜水隊に「いそしお」とともに編入された。 1974年11月9日に発生した第十雄洋丸事件に際し、消火困難に陥った第十雄洋丸を海没処分すべく災害派遣として出動した。本艦は11月28日午後、処分海域に到着ののち魚雷攻撃を実施、Mk37魚雷4発を発射したが機械故障や調整の不具合、弾頭の威力不足が重なって「撃沈処分」は失敗した。 1976年7月24日から10月15日までの間、ハワイ派遣訓練に参加。 1980年1月28日から4月24日までの間、ハワイ派遣訓練に参加。 1982年3月25日午後12時47分頃、呉帰投中に操艦ミスにより関門海峡東口の部埼灯台の北北西約3キロの浅瀬に座礁。午後6時過ぎ、上げ潮により自力で離礁した。 1990年6月8日、特務潜水艦に種別変更され、艦籍番号がATSS-8002に変更、第1潜水隊群直轄艦となる。 1993年3月17日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/26 09:52 UTC 版)
「やえしお (潜水艦・初代)」の記事における「艦歴」の解説
「やえしお」は、第4次防衛力整備計画に基づく昭和48年度計画潜水艦8087号艦として、川崎重工業神戸工場で1975年4月14日に起工され、1977年5月19日に進水、1978年3月7日に就役し、同日付けで第1潜水隊群隷下に新編された第6潜水隊に「たかしお」とともに編入された。 1982年1月19日から4月22日までの間、ハワイ派遣訓練に参加。 1994年8月14日、特務練習潜水艦に種別変更され、艦籍番号がATSS-8005に変更、第1潜水隊群直轄艦となる。 1996年8月1日、除籍。
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艦歴
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「ツラギ (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
艦はフォルタゼラ・ベイ (Fortazela Bay, ACV-72) として合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で1943年6月7日に起工し、1943年7月15日に CVE-72 (護衛空母)へと艦種変更される。1943年10月19日に正しい名前であるフォルタレザ・ベイ (Fortaleza Bay) に訂正されたが、1943年11月6日にツラギと改名された。1943年11月15日にジェームズ・デューク・アーナー夫人によって進水し、1943年12月21日にジョゼフ・キャンベル・クローニン艦長の指揮下就役した。
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艦歴
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「呂号第五十五潜水艦 (2代)」の記事における「艦歴」の解説
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、1943年(昭和18年)8月5日、三井玉野造船所で起工。1944年(昭和19年)4月23日進水。1944年9月30日に竣工し、二等潜水艦に類別。同日舞鶴鎮守府籍となり、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。 1945年(昭和20年)1月4日、第34潜水隊に編入。 27日、呂55は呉を出港し、ミンドロ島西方沖に進出。2月2日、ルソン島東方で敵機の攻撃を受けたため哨戒区域への到着が5日遅れるとの報告を最後に消息不明。 アメリカ側記録によると、7日、ルソン島近海でレイテ湾に向かっていた輸送船団を護衛していた米護衛駆逐艦トーマソン(英語版)(USS Thomason, DE-203)が浮上中の潜水艦をレーダー探知。2330、潜航した潜水艦へヘッジホッグ24発を投下し、潜水艦を撃沈した。これが呂55の最期の瞬間であり、艦長の諏訪幸一郎大尉以下乗員80名全員戦死。沈没地点はルソン島イバ付近、北緯15度27分 東経119度25分 / 北緯15.450度 東経119.417度 / 15.450; 119.417。 3月1日、フィリピン西方で亡失と認定され、5月10日に除籍された。
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「ガンストン・ホール (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
ガンストン・ホールは1986年5月26日にルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で起工され、1987年6月27日に進水した。1989年4月22日に就役する。 2005年時点でガンストン・ホールは大西洋艦隊の揚陸グループ2に所属する。
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「シーレイヴン (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
シーレイヴンは1938年8月9日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。1939年6月21日にキュロス・W・コール夫人によって命名、進水し、1939年10月2日に艦長トーマス・G・リーミイ少佐の指揮下就役する。 アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦するまでの2年間、シーレイヴンはフィリピン海域で活動、訓練および艦隊演習に従事した。日本軍による真珠湾攻撃時、シーレイヴンはセオドア・C・アルワード少佐(アナポリス1926年組)の指揮下にあり、マニラ湾のカヴィテ海軍工廠(英語版)に入渠中であった。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/03 08:21 UTC 版)
「さかて」は、第4次防衛力整備計画に基づく昭和48年度計画掃海艇343号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1974年8月6日に起工され、1975年8月5日に進水、1975年12月15日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第46掃海隊に「とうし」、「よこせ」とともに編入された。定係港は横須賀。 1986年12月16日、第46掃海隊が横須賀地方隊に編入。 1992年3月12日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-94に変更。舞鶴地方隊隷下の舞鶴港務隊に編入。 1993年3月25日、舞鶴水中処分隊に編入。 1998年5月18日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/02 06:44 UTC 版)
「ブラッケン (攻撃輸送艦)」の記事における「艦歴」の解説
アメリカ海事委員会(英語版)の契約下で建造され、1944年6月10日にカリフォルニア州ウィルミントン(英語版)のコンソリデーテッド・スチール社造船所で進水。10月3日に海軍に取得され、翌日に海軍予備役(英語版)のC・S・リー中佐指揮下で就役。 1944年10月28日から1945年3月31日にかけて、南カリフォルニア沖でギリアム級の乗組員を養成する訓練艦として活動。5月、乗客と貨物を積載し、真珠湾へと移動。7月3日、交代の兵員を乗せてマーシャル諸島、カロリン諸島、そして沖縄へと向かった。 終戦直後、真珠湾を離れ、ミッドウェー、ハワイ州ヒロ、エニウェトク環礁、ウルシー環礁、沖縄、サイパン島、レイテ島、サマール島に寄港し、占領軍の兵士を乗せ横浜へと航海する。9月8日に到着。以後は極東各地に展開した兵士をアメリカ本土へと帰還させるマジック・カーペット作戦に1946年2月まで参加。 帰還任務を終えた2月、同年夏にビキニ環礁で実施された核実験・クロスロード作戦に標的艦として参加するため準備を開始。核実験を生き延びたブラッケンは、放射線と構造的研究のため保全された。1948年3月10日にクェゼリン環礁沖で海没処分された。
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艦歴
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「あわしま (掃海艇・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「あわしま」は、昭和62年度計画掃海艇370号艇として、日立造船神奈川工場で1988年5月12日に起工され、1989年6月6日に進水、1989年12月13日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に第20掃海隊が新編され「うきしま」、「さくしま」とともに編入された。定係港は横須賀。 1991年4月26日から自衛隊初の海外派遣となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海任務(湾岸の夜明け作戦)に派遣され、10月30日に帰国した。 1997年3月19日、第20掃海隊が横須賀地方隊隷下に編入。同日付、隊番号の改正により第20掃海隊が第41掃海隊に改称。 2002年5月29日、舞鶴地方隊第44掃海隊に編入。 2009年3月6日、除籍。
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艦歴
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「もろしま (掃海艇・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「もろしま」は、昭和60年度計画掃海艇367号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1986年5月22日に起工され、1987年6月11日に進水、1987年12月19日に就役し、同日就役の「おぎしま」とともに第1掃海隊群隷下に第19掃海隊を新編し、呉に配備された。 1996年3月1日、第1掃海隊群第14掃海隊(呉)に編入。 1998年3月23日、佐世保地方隊沖縄基地隊第46掃海隊に編入。 1999年2月22日05:14頃、周防灘掃海特別訓練に参加中、民間商船第一長栄丸(196総トン)と宇部沖で接触事故を起こした。事故当時「もろしま」は訓練海域の外側で警戒にあたっていた。損傷は双方とも軽微で死傷者はなかった。 2005年2月9日、除籍。
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艦歴
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「しきね」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和34年度計画掃海艇313号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1960年1月12日に起工され、1960年7月22日に進水、1960年11月15日に就役し、佐世保地方隊に編入された。 1961年2月1日、佐世保地方隊隷下に第35掃海隊が新編され「ひらど」とともに編入。同年6月1日、第35掃海隊が第1掃海隊群に編入。 1972年12月21日、第35掃海隊が佐世保地方隊沖縄基地隊に編入。 1976年3月31日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-68に変更。佐世保地方隊隷下の佐世保水中処分隊母艇となる。 1984年3月30日、除籍。
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艦歴
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「アロー (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
1982年5月1日、アルゼンチン軍の砲撃とダガーによる空爆の至近弾により損傷した。5月4日には、シェフィールドの消火・救援活動に当たり、6月8日にはプリマスの消火に当たっている。 5月10日には、209型潜水艦サン・ルイスによる雷撃を受けたとされている(この雷撃自体は、失敗している)。 5月27日からのグースグリーン攻略に対地支援を行ない、その後も対地支援に当たっている。 1994年にパキスタン海軍に売却された。
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艦歴
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「てうり」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和45年度計画掃海艇336号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1971年4月12日に起工され、1971年10月19日に進水、1972年3月14日に就役し、第2掃海隊群に編入され、横須賀に配備された。 1972年3月30日、第2掃海隊群隷下に新編された第43掃海隊に同日付で就役した「むろつ」とともに編入された。 1973年3月20日、第43掃海隊が佐世保地方隊下関基地隊に編入。 1988年3月23日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-87に変更。呉地方隊隷下の呉港務隊に編入。 1995年3月10日、除籍。
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艦歴
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「魚雷艇5号」は、昭和28年度計画丙型駆潜艇805号艇として、東造船で1955年6月23日に起工され、1956年2月8日に進水、1956年10月12日に就役し、横須賀地方隊横須賀基地警防隊に編入された。 1956年11月16日、横須賀基地警防隊隷下に新編された第1魚雷艇隊に「魚雷艇1号」、「魚雷艇2号」、「魚雷艇6号」とともに編入された。 1959年6月1日、第1魚雷艇隊が横須賀防備隊隷下に編成替え。 1971年3月27日、特務船に種別変更され、船名が特務船54号(YAS-54)に改称。 1974年3月30日、除籍。
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艦歴
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1939年(昭和14年)の第四次海軍補充計画(マル4計画)によって建造が承認され、1941年(昭和16年)6月19日、佐世保海軍工廠で起工。1942年(昭和17年)4月15日に進水、1943年(昭和18年)4月22日に竣工した。竣工と同時に横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。 7月20日、第六艦隊第8潜水戦隊第14潜水隊に編入。 21日、伊39は横須賀を出港し、オーストラリア東方沖に進出して哨戒。8月9日、エスピリトゥサント島北方沖で米駆逐艦の攻撃を受けるが、被害はなかった。9月2日、駆逐艦4隻の護衛がついた輸送船3隻からなる輸送船団を発見するが、攻撃に失敗。12日、南緯14度58分 東経169度17分 / 南緯14.967度 東経169.283度 / -14.967; 169.283のニューヘブリディーズ諸島東方沖で、米ガソリン用浮きタンクYOG-42を曳航してパゴパゴからエスピリトゥサント島へ向かっていた艦隊曳船ナバホ(英語版)(USS Navajo, AT-64)を発見し、雷撃。魚雷はナバホに命中し、同船は2分で船首から沈没した。25日、帰投中に航空機により爆雷攻撃を受けたため損傷。27日、トラックに到着して修理を受ける。 11月21日、伊39はトラックを出港し、タラワ南西沖に向かった。25日、哨戒区域に到着したとの報告を最後に消息不明。 アメリカ側記録によると、26日1156、米駆逐艦ボイド(英語版)(USS Boyd, DD-544)が潜航中の潜水艦をソナー探知。爆雷攻撃を行い、潜水艦を撃沈した。これが伊39の最期の瞬間であり、艦長の田中万喜夫中佐以下乗員96名全員戦死。沈没地点はタラワ南西60浬地点付近、南緯03度10分 東経171度55分 / 南緯3.167度 東経171.917度 / -3.167; 171.917。 1944年(昭和19年)2月20日、ギルバート諸島方面で亡失と認定され、4月30日に除籍された。 撃沈総数は1隻であり、撃沈トン数は1,280トンである。
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艦歴
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「カーター・ホール (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
カーター・ホールは1991年11月11日にルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で起工され、1993年10月2日に進水した。1995年9月30日に就役する。 カーター・ホールと最初の乗員達は1997年4月29日に地中海へ六ヶ月に及ぶ最初の配備が行われた。乗員達は11月に UNITAS/ WATC 配備を完了する。 2005年時点でカーター・ホールは揚陸グループ2に所属する。
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艦歴
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1939年10月18日 三菱彦島造船所で起工。 1940年7月1日 船名:公称第4007号、船種:冷凍船(六百瓲)、所属:佐世保海軍軍需部(支那方面艦隊司令部供用)と定められる。7月22日 進水 10月25日 船名を「南海」に変更。 1941年3月18日 竣工。12月 太平洋戦争に参加。南方方面等への輸送任務に従事。 1942年4月1日 特務艦に編入、運送艦に類別、「野埼 (ノサキ)」と命名。 1944年12月28日 仏印バレラ岬沖(ホンコーヘ湾外)にて米潜水艦デイスの雷撃を受け沈没。礼号作戦から帰還中の松型駆逐艦3隻(榧、杉、樫)に救助される。 1945年3月10日 除籍。
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艦歴
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「デヴィッドソン (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
デヴィッドソンは1963年9月30日にルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で起工する。当初は DE (護衛駆逐艦)と指定された。1964年10月2日に命名、進水し、1965年12月7日にサウスカロライナ州チャールストンで就役した。デヴィッドソンの母港は真珠湾と指定され、ベトナム戦争時には太平洋西部に展開した。1975年には同級の姉妹艦と共に FF-1045 (フリゲート)に艦種変更された。 1988年12月8日にデヴィッドソンは退役した。退役後ブラジル海軍に貸与され、パライバ (Paraiba, D28) の艦名で1989年7月25日に就役した。パライバは2002年7月26日にブラジル海軍を退役した。 デヴィッドソンはスクラップとして処分するためサンプル (USS Sample, FF-1048) と共にインドに牽引中、沈没した。
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艦歴
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1939年(昭和14年)の第四次海軍補充計画(マル4計画)によって建造が決定され、1941年(昭和16年)]6月19日佐世保海軍工廠で起工。1942年(昭和17年)4月15日に進水、12月5日、大酒呑みと傑出した潜水艦指揮能力で知られた安久栄太郎中佐(海兵50期)が艤装員長に着任。1943年1月31日に竣工し、安久中佐は伊36の艦長に着任。呉鎮守府籍。 竣工当日、伊38は呉に移動し、新型の浅深度魚雷の試験と、運砲筒の搭載試験を行った。同日、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。 4月1日、呉潜水戦隊は第11潜水戦隊に改編され、第一艦隊所属となる。 30日、第六艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊に編入。 5月8日、伊38は後甲板に運砲筒を搭載して呉を出港するが、運砲筒の固縛装置が破損したため佐伯に移動。同地で夜を明かした後、9日に運砲筒を曳航して佐伯を出港。14日、トラックに到着。固縛装置の修理の後運砲筒を再度搭載し、16日にトラックを出港。18日にラバウルに到着して運砲筒を降ろした後、潜水母艦長鯨に横付けして補給を受ける。19日、運砲筒の発進試験を行い、艦首4番魚雷発射管内部の魚雷を除いた全ての魚雷を長鯨に移した。 21日、伊38は食糧と弾薬48.6トンと第7根拠地隊の人員12名を乗せてラバウルを出港し、23日にラエに到着。陸岸からやってきた大発2隻と会合し、輸送物資と便乗者を降ろした後、傷病兵17名を乗せて出港。その後米魚雷艇に発見されて魚雷を合計6本発射されるが、全て回避して離脱に成功。25日にラバウルに到着して便乗者を降ろした。27日、食糧と薬48.6トンと佐世保第5特別陸戦隊の人員29名を乗せてラバウルを出港。28日、ラエ付近で米魚雷艇を発見し、潜航して退避した。その後ラエに到着して輸送物資と便乗者を降ろした後、陸軍兵士6名を乗せて出港。31日、ラバウルに到着して便乗者を降ろした後、特設航空機運搬艦五洲丸(五洋商船、8,592トン)から積荷の積み替えを受ける。6月2日、輸送物資を搭載してラバウルを出港し、4日にラエに到着。陸岸からやってきた大発と会合し、輸送物資を降ろした後、前線視察を終えた第8方面軍司令の今村均大将とその幕僚3名を乗せて出港。6日にラバウルに到着して便乗者を降ろした後、逓信省標準D型船大盛丸(太洋興業、2,998トン)から積荷の積み替えを受ける。また、後甲板に運砲筒を搭載する。9日、輸送物資を搭載してラバウルを出港。11日、サラマウアに到着して輸送物資を降ろした後出港。12日、ラエに到着して運砲筒を発進し、陸軍兵士6名を収容して出港。直後、米軍機に発見されたため急速潜航。爆弾3発を投下されたが、被害はなかった。深夜、別の米軍機に発見されたため、急速潜航。13日、ラバウルに到着して便乗者を降ろした。15日、給油艦鳴戸から燃料補給を受ける。17日、大盛丸から運砲筒の積み替えを受ける。19日、48.5トンの食糧を積んでラバウルを出港。21日、ラエに到着して運砲筒を発進させ、輸送物資を降ろした後出港。23日にラバウルに戻った。24日、大盛丸から運砲筒の積み替えを受ける。25日、整備を受ける。26日、48.5トンの食糧を積んでラバウルを出港。28日夕方、ラエに到着して運砲筒を発進させ、輸送物資を降ろした後、陸軍兵士15名を乗せて出港。30日にラバウルに戻った。7月1日、長鯨に横付けして補給を受ける。 2日、伊38はラバウルを出港し、ソロモン諸島周辺海域に向かった。4日に哨戒区域に到達。5日、輸送船2隻を発見するも、攻撃することができなかった。6日朝、米駆逐艦を発見して雷撃するも、命中しなかった。7日夜、南緯08度00分 東経158度05分 / 南緯8.000度 東経158.083度 / -8.000; 158.083のニュージョージア海峡で浮上航走中、米駆逐艦ウォーラー(英語版)(USS Waller, DD-466)に発見され、機銃掃射と砲撃を受ける。伊38は急速潜航したが、爆雷攻撃を受けた。そのため、水深80mの位置まで潜航。1時間半ほど追跡されたが、離脱に成功した。8日、クラ湾を偵察。9日夜と、翌10日にもクラ湾を偵察。11日、たびたび米軍機に発見されて急速潜航して退避した。12日、ラバウルに到着。 17日、伊38は輸送物資を乗せてラバウルを出港。19日夜にラエに到着し、輸送物資を降ろした後出港。その後たびたび空襲を受けたが、21日にラバウルに到着。23日、運砲筒と輸送物資を搭載し、24日に出港。26日、ラエに到着して運砲筒を発進させ、輸送物資を降ろした後出港。28日、ラバウルに到着。30日、ドラム缶入りの輸送物資を乗せてラバウルを出港。途中5個ほどドラム缶が流出するが、8月2日にラエに到着し、輸送物資を降ろした後出港。3日、ラバウルに到着。6日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。8日にラエに到着し、輸送物資を降ろした後出港。9日、米軍機を発見したため急速潜航して退避。10日、ラバウルに到着。12日、特設航空機運搬艦名古屋丸(南洋海運、6,072トン)から輸送物資の積み替えを受け、14日に出港。その後、ラバウル沖100浬地点付近で米軍機に発見されて空爆を受ける。15日夜、米軍機6機による爆雷攻撃を受ける。17日、コロンバンガラに到着して輸送物資を降ろした後出港。19日、米B-246機を発見し、急速潜航して退避。20日、ラバウルに到着。26日、逓信省C型貨物船豊丸(中川汽船、2,704トン)から運砲筒の積み替えを受ける。28日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。30日にラエに到着して運砲筒を発進させ、輸送物資を降ろした後出港。9月1日、米軍機によりたびたび発見され、その度に潜航して退避。同日、ラバウルに到着。2日、豊丸から運砲筒の積み替えを受ける。7日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。10日、コロンバンガラ島付近で米軍機に発見されて空爆を受けるも、命中弾はなかった。12日、ショートランドに到着して輸送物資と運砲筒を降ろした後出港。30分後、米軍機を発見したため急速潜航。2300、米軍機3機に発見されて空爆を受けるが、命中弾はなかった。13日、ラバウルに到着。17日、豊丸から輸送物資の積み替えを受ける。20日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。22日、フィンシュハーフェンに到着するが、守備隊との連絡が取れなかったため一旦退避。23日、再度フィンシュハーフェンに接近するが、守備隊との連絡に失敗。その後敵輸送船団を発見したが、輸送物資を積んでいたため攻撃できなかった。24日、フィンシュハーフェンとの守備隊と再度連絡を試みるが失敗。27日、輸送物資を積んだままフィンシュハーフェンを離れる。27日、スルミに到着し、輸送物資の半分を降ろした後出港。28日、ラバウルに到着。10月3日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。5日、スルミに到着して輸送物資の3分の1を降ろしたところで米軍機に発見されて攻撃を受けたため一旦退避。その後再度輸送物資を降ろす作業に戻り、作業完了後出港。8日、ラバウルに到着。10日から13日にかけて運貨筒の曳航試験を行うが失敗。その最中の12日にラバウル空襲を受けて潜航退避。15日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。16日にスルミに到着するが、激しい雷雨のため輸送物資を降ろすことができなかった。その後米魚雷艇に発見されたため潜航するも、爆雷4発を投下された。17日夜、再度スルミに接近し、陸岸から来た大発2隻に輸送物資の80%を積み替えた後出港。18日、ラバウルを飛行する米軍機を発見し、4回ほど潜航。その後ラバウルに戻った。20日から21日にかけて運貨筒の曳航試験を行った。24日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。0915、ラバウルに向かう米軍機を発見し、潜航。25日、スルミに到着して輸送物資を降ろした後出港。その後、米軍機に発見されたため潜航する。26日、ラバウルに到着。29日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。出港中、来襲する米軍機を発見したため潜航。31日、シオに到着して輸送物資を降ろした後出港。11月2日1300、ラバウルに到着。その後ラバウルが空襲を受けたため潜航。攻撃後、浮上した伊38は空爆により行動不能となっていた味方輸送船を砲撃処分した。4日、輸送物資の積み込みを行い、5日に運貨筒を曳航してラバウルを出港。その後、米軍機に発見されて攻撃を受けたため急速潜航。浮上後、運貨筒を切り離した。7日、シオに到着して輸送物資を降ろした後、傷病兵を乗せて出港。9日、米軍の哨戒機に発見されたため2度ほど潜航。その後ラバウルに戻った。16日から17日にかけて運貨筒の曳航試験を行った。18日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。19日、米魚雷艇に発見されたため潜航して退避するも、爆雷4発を投下された。その後、スルミに到着して輸送物資を降ろした後出港。20日、ラバウルに到着。21日、輸送物資を乗せてラバウルを出港。25日、シオに到着して輸送物資を降ろした後出港。26日、米軍機に発見されて空爆を受けるが、命中弾はなかった。27日、ラバウルに到着。12月1日から7日にかけて運貨筒の曳航試験と、曳航した状態での速力試験を行った。7日、輸送物資を乗せ、運砲筒を曳航してラバウルを出港。9日にスルミに到着し、陸岸からやってきた大発に輸送物資を降ろし、運砲筒の曳航索を大発に渡した後出港。11日、ラバウルに到着。18日から19日にかけて運貨筒の曳航試験を行った。19日、輸送物資を乗せ、運貨筒を曳航してラバウルを出港。21日、シオに到着して輸送物資を降ろし、運貨筒を切り離した後出港。24日にラバウルに到着。26日、ラバウルを出港して29日にトラックに到着。30日にトラックを出港し、1944年(昭和19年)1月7日に呉に到着して修理を受ける。同日までの輸送任務23回全てが成功し、合計753トンの輸送物資をラバウルからラエ、シオ、コロンバンガラ、スルミへ運んだ。15日、第1潜水戦隊の解隊に伴い、第15潜水隊は第六艦隊所属となる。 2月16日、安久中佐は艦長を離任し、大竹の潜水艦学校教官となる。3月6日、安久中佐が再度艦長に着任。15日、当山全信少佐(海兵59期)が艦長に着任。その後伊38は呉を出港し、19日にトラックに到着。30日、トラックを出港し、パラオに向かう。4月4日、第九艦隊の司令部要員の輸送を行うよう命ぜられる。8日、ウェワクに到着し、第九艦隊司令部要員の一部を乗せた後出港。10日にホーランディアに到着し、便乗者を降ろした後出港。12日、ウェワクに到着し、第九艦隊司令部要員の残りを乗せた後出港。14日、ホーランディアに到着し、便乗者を降ろした後出港。19日、トラックに到着。20日、トラックを出港し、27日に呉に到着。同日、下瀬吉郎中佐(海兵58期)が艦長に着任。その後海軍が開発した水陸両用戦車、特四式内火艇を使った特攻作戦竜巻作戦の支援にあたるべく準備を行うものの、特四式内火艇の完成度が低く、実用に耐えないと判明したため作戦は中止された。 5月18日、伊38は呉を出港し、マーシャル諸島東方沖に進出。6月13日、あ号作戦の発動に伴い、マリアナ諸島東方沖に移動。28日、第六艦隊司令部要員の救出に向かうが失敗。7月16日、佐世保に到着して整備を受ける。 10月19日、伊38は呉を出港し、フィリピン東方沖に進出。11月5日、ヌグール環礁を偵察するよう命ぜられる。7日、ルソン島東方沖で米機動部隊を発見したとの報告を最後に消息不明。 アメリカ側記録によると、12日、米駆逐艦ニコラス(USS Nicholas, DD-449)とテイラー(英語版)(USS Taylor, DD-468)は、軽巡セントルイス(USS St. Louis, CL-49)を護衛してウルシーからコッソル水道に向かっていた。2003、ニコラスは20kmの距離で浮上する潜水艦をレーダー探知。接近した後主砲で砲撃を行った結果、潜水艦は潜航していった。2200、ソナーで潜水艦を探知したため、ニコラスは爆雷18個を落とした結果、潜水艦の反応が消えた。翌13日0030、ニコラスは潜水艦をソナー探知して対潜掃討の準備を行った。攻撃直前、反応がニコラスの右舷側に移動したことがわかったため、右舷機関を後進させて右に舵を切り、反応の直上から爆雷を投下。その数分後、海中で大爆発が起きた。その爆発はすさまじく、ニコラスの艦体が揺さぶられるほどだった。その後、午前中に潜水艦のものと思われる破片と日本兵と思われる死体が海上を漂っているのを確認した。これが伊38の最期の瞬間であり、艦長の下瀬吉郎中佐以下乗員110名全員戦死。沈没地点はパラオ東方沖、北緯08度04分 東経138度03分 / 北緯8.067度 東経138.050度 / 8.067; 138.050。 12月6日、フィリピン東方沖で亡失と認定され、1945年(昭和20年)3月10日に除籍された。
※この「艦歴」の解説は、「伊号第三十八潜水艦」の解説の一部です。
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艦歴
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「サラマウア (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
艦は当初アングィラ・ベイ (Anguilla Bay, ACV-96) の艦名であったが、1943年7月15日に CVE-96(護衛空母)に艦種変更され、1943年11月6日にサラマウアに改名される。1944年2月4日にワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で起工し、1944年4月22日にW・J・マリンズ夫人によって進水、1944年5月26日にジョゼフ・I・テーラー・ジュニア艦長の指揮下就役する。 西海岸沖での整調後に、サラマウアはサンディエゴから真珠湾に向けて貨物及び航空機の輸送を行う。カリフォルニア州に帰還すると、再びニューギニアのフィンシュハーフェンへ輸送を行った。9月1日にアラメダ (カリフォルニア州)へ帰還後、オーバーホール後に訓練演習を行い、10月16日に輸送任務のためサンディエゴを出航した。11月5日にウルシー環礁に到着し、続いてパラオおよびフィリピンに向かう。11月14日から23日にかけてサラマウアはレイテ湾で輸送船団の上空護衛に従事し、その後ルソン島侵攻作戦の準備のためアドミラルティ諸島に向かう。 12月27日にゼーアドラー湾を出航し北へ移動する。1945年1月6日にリンガエン湾の入口に到着し、艦載機部隊は沿岸の敵陣地に対する攻撃および連合軍の上陸部隊に対する上空援護を行った。1月9日には海岸への上陸部隊に対する空中援護を行い、同任務は13日まで継続された。 1月13日の9時前、250キロ爆弾2発を積んだ陸軍特別攻撃隊精華隊の四式戦「疾風」がサラマウアの飛行甲板に突入し、サラマウアは大破する。80名以上が負傷、15名が死亡した。損害は飛行甲板、格納庫と広範囲に及び、その下部では火災が発生した。爆弾の一発は不発となったが、右舷の喫水線部分に穴を開けた。艦は動力、通信および操舵不能となった。機関室の一つは氾濫し、右舷機関は停止した。大きな損害を受けながらもサラマウアの砲手は9時10分に二機の特攻機を撃墜した。 サラマウアは応急修理を受けたあとサンフランシスコに向かう。2月26日に到着し、本格修理は短期間で完了、4月21日に再び西へ移動した。5月20日にグアムに到着、その後も沖縄への航海を続けた。24日、サラマウアから発進した哨戒機が海面上に浮かぶ航空機の補助燃料タンクを発見して報告した。護衛艦がその物体を処分する様命令を受けて現場に向かい、潜航艇をそこで発見した。潜航艇は水面上に僅かに浮いており、うねりに乗った時に姿が見えるが、完全に停止した状態であった。潜航艇は機銃掃射を受け、爆発する事なく、水平を保ったままで静かに沈んでいった。泡が僅かに浮いたが、油も破片も見えなかった。この潜航艇は長い間海上を浮遊していたらしく、海草が付着して褐色になっていた。26日、サラマウアは他の護衛空母と合流し沖縄上陸作戦の支援に向かう。6月4日にサラマウアは後方支援部隊に加わるが、翌5日に台風に遭遇し破損する。修理はグアムで行われた。7月後半にマリアナ諸島と沖縄間の輸送船団に対する対潜哨戒任務を命じられ、8月にはレイテ島と沖縄間での同任務に移動する。8月9日、サラマウアの対潜掃討部隊は伊号第五八潜水艦 (伊58) からの回天2基の攻撃を受けたが、護衛駆逐艦ジョニー・ハッチンス (USS Johnnie Hutchins, DE-360) が僚艦とともに爆雷攻撃と砲撃を行って、何とかしてジョニー・ハッチンスへの体当たりを試みた回天を撃沈した。哨戒任務は日本の降伏まで継続された。 8月25日にサラマウアはレイテ島に帰還し補充を受ける。その後東京湾への輸送船団を護衛し、船団は9月2日に到着した。サラマウアの艦載機は横浜に上陸する占領部隊を上空から撮影した。再び東京湾への輸送船団に対する護衛を行った後、サラマウアはマジック・カーペット作戦に参加する。帰還兵を乗船させ、10月3日アラメダに帰還した。 その後も二度のマジック・カーペット作戦任務を行い、1946年に入ると不活性化の準備が行われる。サラマウアは1946年5月9日に退役し、5月21日に除籍される。その後1946年11月18日にオレゴン州ポートランドのジデル・マシーナリー・アンド・サプライ社にスクラップとして売却された。 サラマウアは第二次世界大戦の戦功で3つの従軍星章を受章した。
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艦歴
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「デイル (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
デイルはニュージャージー州カムデンで建造され、1963年11月に就役する。太平洋艦隊に配属されたデイルは続く7年間で、西太平洋へ5回配備された。1965年から1970年にかけての第7艦隊における活動では、ベトナム戦争における軍事作戦への参加が含まれた。デイルはトンキン湾で数回パイロットの救出を行った。1969年4月には日本海上で朝鮮人民軍空軍に撃墜されたEC-121の捜索に従事した。 1970年11月、デイルはメイン州バスのバス鉄工所で近代化改装が行われた。この改装で海軍戦術データ・システム(Naval Tactical Data System, NTDS)およびその他の新装備が増設され、対空および対潜水艦戦能力が増強した。1971年12月に再就役すると、デイルは大西洋艦隊に配属された。第6艦隊の一艦としてデイルは、1973年10月のヨム・キプール戦争を含む緊張した期間を地中海東部で活動した。1975年7月の初めに CG-19 (ミサイル巡洋艦)に艦種変更され、翌1976年7月にはニューヨーク湾で行われた建国200周年記念の観閲式に参加した。1980年代中期の地中海配備では黒海を通過しルーマニアを訪問した。 デイルは定期的に装備の更新が行われ、1981年にはハープーン艦対地ミサイルおよびファランクスCIWSが装備された。また、フィラデルフィア海軍造船所でNTU (New Threat Upgrade)プログラムによる新型戦闘システムが導入された。1980年代の地中海配備ではしばしばインド洋およびペルシャ湾への派遣が行われ、1986年にはリビアとの紛争に参加した。 デイルはその艦歴の終わりを第6艦隊での定期的な巡航およびカリブ海、メキシコ湾での反麻薬パトロールに従事した。1991年には湾岸戦争後のイラクに対する制裁強化のため紅海へ派遣された。1992年、93年も国連のボスニア、ユーゴスラビアに対する同様の任務に参加した デイルは1994年9月にフロリダ州メイポートのメイポート海軍基地で退役した。その後2000年1月に標的艦として海没処分となった。
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艦歴
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「シャーロット (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
シャーロットの建造は1987年2月6日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に発注され、1990年8月17日に起工した。1992年10月3日にメアリー・マコーマック夫人によって命名、進水し、1994年9月16日にマイケル・マシューズ艦長の指揮下就役した。 2005年11月29日、シャーロットは真珠湾から北極の氷冠の下を通ってバージニア州ノーフォークに到着した。途中北極で61インチの氷を突き破って浮上した。これはロサンゼルス級潜水艦の記録であった。 2007年に再度大西洋艦隊から太平洋艦隊に編入され真珠湾へ戻っている。太平洋艦隊編入後、定期的に日本への寄港もある。 シャーロットはDSRVの母艦でもある。また、アドバンスド・SEAL・デリバリー・システム(Advanced SEAL Delivery System, ASDS)を搭載可能である。
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艦歴
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1939年(昭和14年)の第四次海軍補充計画(マル4計画)によって建造が承認され、1941年(昭和16年)1月9日、佐世保海軍工廠で起工。9月24日進水、1942年(昭和17年)8月31日竣工。竣工と同時に呉鎮守府籍となり、伊35、特設潜水母艦満珠丸(大阪商船、7,266トン)と共に訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊を編成した。 11月15日、第五艦隊直卒となる。 28日、伊34は呉を出港し、12月1日に大湊に到着。2日、補給物資を搭載して大湊を出港し、10日にキスカに到着。輸送物資を降ろした後出港し、ニア諸島北方沖を哨戒。23日にニア諸島南方沖に進出。26日、哨戒海域を離れ、1943年(昭和18年)1月1日に幌筵に到着。6日、前線視察に向かう陸軍省軍務局課員岩越紳六中佐を載せて幌筵を出港し、9日にキスカに、11日にアッツ島に寄港し、15日に幌筵に到着して便乗者を降ろした。20日、輸送物資を搭載して幌筵を出港し、25日、キスカに到着して輸送物資を降ろした後出港。26日、アムチトカ島コンスタンティン湾を偵察。29日、ニア諸島北方沖に進出。2月13日、ニア諸島南方沖に進出。23日、アムチトカ島の飛行場を潜望鏡偵察。その後駆逐艦4隻を発見するも、攻撃に失敗。その後第452海軍航空隊のコンスタンティン湾爆撃の無線誘導を行った後、24日にアダック島、アッツ島を偵察する。25日、哨戒区域を離れ、3月2日に幌筵に到着。 4日、伊34は幌筵を出港し、セミチ諸島北方沖を哨戒。12日、哨戒区域を離れ、18日に横須賀に到着して整備を受ける。4月1日、第六艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊に編入。 25日、伊34は横須賀を出港し、28日、大湊に到着して輸送物資を搭載し、5月初めに出港。8日、キスカに到着して輸送物資を降ろした後、12日に出港。13日、アッツ島の戦いを支援する米戦艦ペンシルベニア(USS Pennsylvania, BB-38)を護衛していた米駆逐艦フェルプス(英語版)(USS Phelps, DD-360)が潜航中の伊34をソナー探知し、爆雷2発を投下。爆雷攻撃を受け、伊34は退避を開始した。1530、フェルプスは伊34を再度ソナー探知し、爆雷9発を投下。その後、米敷設駆逐艦プルーイット(英語版)(USS Pruitt, DD-347/DM-22)が、ドラム缶が海面に浮かび上がったこと、少量の重油が浮遊していることを報告してきた。これは、爆雷攻撃により伊34の甲板からドラム缶が外れたためだと判断されたが、伊34はそのまま離脱に成功した。29日、幌筵に到着。 6月初め、伊34は第1期キスカ島撤退作戦に参加し、9トンの弾薬と5トンの食糧を搭載して幌筵を出港。9日に到着して輸送物資を降ろし、海軍兵士9名、人足70名を乗せて2015に出港。13日1900に幌筵に到着して便乗者を降ろした後、特設運送船(給油船)帝洋丸(日東汽船、9,850トン)から給油を受ける。17日、輸送物資を搭載して幌筵を出港し、キスカに向かう。21日、作戦中止を受けて反転し、22日1200に幌筵に到着して輸送物資を降ろした。28日、帝洋丸からの給油を受け、7月2日に第2期キスカ島撤退作戦の支援のため幌筵を出港。8日、アムチトカ島コンスタンティン湾南方沖で米駆逐艦に発見されて追跡され、爆雷攻撃を受けるも退避に成功。10日、キスカ東方沖に進出して第2期キスカ島撤退作戦の支援を行う。16日、キスカ北方沖に移動。23日、幌筵に到着。24日、幌筵を出港して、29日に呉に到着。その後神戸に移動し、整備を受けた後呉に戻った。 10月13日、伊34は第3次遣独潜水艦として呉を出港。作戦中の暗号名は「モミ」。22日、シンガポールに到着。11月4日、錫、タングステン、生ゴム、薬用アヘンを搭載。錫のインゴットは、バラストとして伊34の艦底に挿入され、生ゴムは梱包されて木製甲板の下に積まれた。タングステン棒は居住区に積まれ、薬用アヘン入りの木箱は航空機格納筒に収められた。搭載完了後潜水試験を行ったが、搭載した貨物によりトリムが安定せず、急速潜航時の障害になることがわかったため、出発が遅れた。このため、三菱重工業の技術者2名を含む乗客5名は先にペナンに移動し、同地で伊34に乗り込むこととされた。11日早朝、三菱重工業の技術者2名を含む乗客5名を乗せてシンガポールを出港し、ペナンに向かった。13日、ウルトラ情報(英語版)により待ち伏せをしていた英潜トーラス(英語版)が14ノットで浮上航走中の伊34を発見し、0730に魚雷6本を発射。うち1本が司令塔後部直下に命中し、伊34は沈没した。沈没後、前部兵員室にいた乗員20名が艦内に閉じ込められたが、沈没した海域が浅海だったためハッチの解放に成功。14名が脱出に成功して現地のジャンクに救助された後、夜にペナンに上陸した。艦長の入江達中佐以下乗員84名戦死。沈没地点はムカヘッド灯台北西10浬地点付近、北緯05度17分 東経100度05分 / 北緯5.283度 東経100.083度 / 5.283; 100.083。 1944年(昭和19年)1月5日に除籍された。 伊34は英軍潜水艦に撃沈された最初の日本潜水艦である。 戦後の1962年(昭和37年)12月4日、伊34はシンガポールのサルベージ会社により浮揚され、解体された。
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艦歴
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1939年(昭和14年)の第四次海軍補充計画(④計画)により計画され、1939年9月25日に三菱重工業神戸造船所で起工。1940年(昭和15年)12月17日に進水、1942年(昭和17年)2月6日に竣工した。竣工と同時に呉鎮守府籍となり、第六艦隊直卒となる。 24日、竣工した伊27と共に第14潜水隊を編成。 3月10日、第14潜水隊は第8潜水戦隊所属となる。 4月15日、伊28は呉を出港。18日、ドーリットル空襲が起こったため米機動部隊の捜索を行うが、見つけることはできなかった。24日、トラックに到着。30日、MO作戦に参加してトラックを出港し、ガダルカナル島南西沖の哨戒線に配備された。5月11日、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃に参加するべくトラックに戻るよう命ぜられる。16日0630、ラバウル北北東250浬地点付近で機関が不調であると報告したのを最後に消息不明となる。 アメリカ側記録によると、11日のトラックへの帰還命令を傍受した米軍は、ウルトラ情報(英語版)により、付近で哨戒中の米潜トートグ(USS Tautog, SS-199)にトラックへ向かう4隻の日本の潜水艦を攻撃するよう命令した。この4隻は伊22、伊24、伊27と伊28であった。17日0534、トートグは情報どおり潜水艦が向かってくるのを確認。最初に来た潜水艦と2番目の潜水艦は取り逃がし、特に0648に2番目の潜水艦に向けて発射した魚雷は、早期爆発を起こしてしまった。3番目に12ノットで浮上航走中の潜水艦が伊28であり、トートグは司令塔に「イ28」と書かれているのがはっきり分かるほど接近し、1101に魚雷2本を発射。うち1本が伊28に命中し航行不能となる。右舷に著しく傾斜する伊28が後部から反撃の魚雷2本を発射してきたと判断したトートグは水深46mの位置に逃れた後、1107に730mの距離でとどめの魚雷を発射。魚雷は伊28の司令塔直下に命中し、伊28は木っ端微塵となった。伊28の破片や乗組員の肉片などがトードクに降り注いだ。その後、トートグは15分間、伊28が沈没する音を聴取。その中で発生した海中での大爆発でトートグの艦体が揺さぶられた。沈没地点の海域では気泡が上がり、海水は茶色がかっていた。これが伊28の最期の瞬間であり、艦長の矢島安雄少佐以下乗員88名全員戦死。沈没地点はトラック南方70km地点付近、北緯06度30分 東経152度00分 / 北緯6.500度 東経152.000度 / 6.500; 152.000。 6月15日、亡失認定されて除籍された。
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艦歴
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1937年(昭和12年)も第三次海軍補充計画(③計画)によって計画され、1938年(昭和13年)12月8日に横須賀海軍工廠で起工、1939年(昭和14年)11月24日に進水、1941年(昭和16年)9月27日に竣工した。竣工と同時に横須賀鎮守府籍となり、第六艦隊第1潜水戦隊第3潜水隊に編入された。 太平洋戦争開戦時は第六艦隊第1潜水戦隊第3潜水隊に所属。11月20日0400、伊23は横須賀を出港し、23日に単冠湾に到着。26日、第一航空艦隊と共に単冠湾を出港し、ハワイへ向かった。30日、右舷ディーゼルの不調により艦隊から後落したが、12月6日に復帰。空母赤城と発光信号で連絡を取り合った。8日の真珠湾攻撃では被弾した味方機の誘導を行い、1040に艦隊と分離し、ハワイ北方沖に進出。9日、カウアイ島南方沖を哨戒中、伊6がオアフ島沖を東北東へ向け航行中のレキシントン級空母1、巡洋艦2隻を発見したため、迎撃に向かった。10日、哨戒機を発見して急速潜航した際、安全潜航深度を超える水深120mの位置まで誤って潜航してしまう。11日、アメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦に参加するためモントレー湾沖に移動。19日1800、モントレー湾近海で潜航中、南方へ向かう旧式の軽巡洋艦を発見して攻撃準備を行うが、途中で見失う。20日1415、北緯37度00分 西経122度00分 / 北緯37.000度 西経122.000度 / 37.000; -122.000のカリフォルニア州サイプレス岬沖20浬地点付近で、米リッチフィールド・オイル社タンカーアグウィワールド(Agwiworld、6,711トン)を発見して主砲弾14発を発射したが、海上が時化ていたため命中しなかった。22日、パルミラ環礁に移動。26日夜、船のサーチライトを発見して1時間追跡したが、米哨戒機がやってきたため潜航して退避した。28日、米哨戒機3機に発見されて追跡されたが、振り切ることに成功。1942年(昭和17年)1月1日夜、パルミラ環礁を潜望鏡偵察するが、陸上からの砲撃を受けて退避。2日、ハワイとフィジー諸島の中間点に移動。1月5日、哨戒区域を離れ、クェゼリンに戻った。2月1日、クェゼリンはマーシャル・ギルバート諸島機動空襲を受ける。特設潜水母艦靖国丸(日本郵船、11,933トン)と伊26に挟まれて停泊していた伊23はデッキの荷物を海に投棄し、応戦を開始。その後靖国丸に爆弾が命中した際、爆弾の破片により乗員1名が負傷した。また、搭載機用燃料タンクから小火災が発生したが、すぐに消し止められた。その後迎撃に向かったが空振りに終わり、クェゼリンに戻った。 5日、K作戦に参加してクェゼリンを出港。ハワイ島ケアホレ岬南南西沖に進出して気象通報と二式飛行艇が撃墜された場合の搭乗員救助を命ぜられる。24日2330、ハワイ近海での報告を最後に消息不明。 アメリカ側にも記録はなく、艦長の柴田源一中佐以下乗員96名全員行方不明(戦死認定)。 2月28日、ハワイ方面で亡失と認定され、4月30日に除籍された。
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艦歴
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1924年(大正13年)11月15日 - 三菱神戸造船所で起工。 1925年(大正14年)9月19日 - 進水 1926年(大正15年)6月30日 - 竣工。12月15日 - 呂67と共に第27潜水隊を編成。 1927年(昭和2年)1月15日 - 第1潜水戦隊に編入。 1931年(昭和6年)4月1日 - 予備艦となる。 1933年(昭和8年)11月15日 - 予備艦となる。 1936年(昭和11年)12月1日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正。 1941年(昭和16年)12月5日 - 第7潜水戦隊第27潜水隊所属として、クェゼリンを出航12月6日 - ルオット島出航。ウェーク島攻略作戦に参戦。 12月25日 - ウェーク島出航。ハウランド島方面で活動。 1942年(昭和17年)1月7日 - クェゼリンを出航。トラックを経て、ラバウル攻略作戦に参加しセント・ジョージ岬南方の哨戒任務に従事。1月29日 - トラック着。 2月10日 - 第26潜水隊に編入。 2月18日 - トラック出航。ポナペ、マキン島、ヤルート、サイパン方面で活動。 4月2日 - 佐世保着。 7月14日 - 第5艦隊に編入。 9月10日 - 北方に派遣となり佐世保を出港。 9月26日 - キスカ島着。 9月28日 - 空襲により艦橋に被弾。 10月1日 - キスカ湾を出航。アダック島クルック湾方面で活動。 10月15日 - キスカ湾着。 10月17日 - 駆逐艦「朧」「初春」の救援に出動。 10月21日 - アッツ湾方面で活動。 10月23日 - アッツ島ホルツ湾(英語版)を偵察。 11月4日 - キスカ湾内にて空襲を受け沈座したが、艦橋ハッチ閉鎖前にベント弁を開いたため、ハッチから浸水し沈没。江木艦長以下45名が救助され、19名が殉職。
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艦歴
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「トーテュガ (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
トーテュガは1987年3月23日にルイジアナ州ニューオーリンズのエイボンデール造船所で起工される。メキシコ湾に到来したハリケーン・ギルバートの脅威により、被害予防のため1988年9月15日に進水し、1988年11月19日にローズマリー・パーカー・ショウルツ夫人によって命名され、1990年11月17日に就役した。 1997年、トーテュガは艦長ケネス・M・ローマ中佐の指揮下1998年7月1日から1998年12月8日まで地中海に展開した。1999年にはJ・M・バードン中佐が艦長に着任、2000年後半に退役するまで艦を指揮した。後任としてジェームズ・P・ドリスコル中佐が艦を引き継ぎ、2000年9月にラムーア・カウンティ (USS La Moure County, LST-1194) がチリのバルパライソ沖で座礁し、トーテュガはラ・ムーア・カウンティに代わって10月に南太平洋での演習、UNITAS 2000 に参加するよう命じられた。演習が完了すると、トーテュガはリトル・クリークに帰還した。2001年1月にトーテュガは大西洋艦隊/NATO平和維持・即応部隊の旗艦に命じられた。 2005年、トーテュガは艦長マーク・H・スコーヴィル中佐の指揮下バージニア州リトル・クリーク海軍揚陸基地を母港とし、大西洋艦隊揚陸グループ2に配属された。 2005年8月25日、トーテュガと乗組員は訓練活動を中断し、ハリケーン・カトリーナの被害に対応するカトリーナ統合任務部隊の一隻としてニューオーリンズに派遣された。トーテュガはハリケーンの後初めてミシシッピ川を遡上した海軍艦艇となり、ニューオーリンズ海軍基地の西岸に停泊した。艦はニューオーリンズ対岸での軍事・民間拠点となった。 2005年10月14日に海軍はトーテュガの太平洋艦隊佐世保基地を出港した。トーテュガは2006年3月31日に佐世保に到着、フォート・マクヘンリー (USS Fort McHenry, LSD-43) と配備交代を行った。この配備交代は乗組員が相互に移乗する「スワップ」という方法による交代で、乗組員とその家族は住居を移動しない。4月12日に2隻の乗組員はスワップを完了した。フォート・マクヘンリーとトーテュガのシップ・スワップは12日間で完了し、これはアメリカ海軍史上最短記録であった。トーテュガの前乗組員はフォート・マクヘンリーに乗艦し、4月13日に佐世保を出航、リトル・クリークへ向かった。 スワッピングから1ヶ月後の5月15日、トーテュガは3ヶ月間の配備に出航した。毎年恒例の Cooperation Afloat Readiness and Training (CARAT) 2006 に参加するためであった。トーテュガは新たに構成された第73.5任務部隊に加わり、シンガポール沖で WESTPAC ロジスティック・グループ司令官の直接指揮下に置かれた。部隊はトーテュガ、ホッパー (USS Hopper, DDG-70)、クロメリン (USS Crommelin, FFG-37)、サルヴォア (USS Salvor, ARS-52)、シャーマン (USCGC Sherman, WHEC-7200) の5隻から構成された。部隊はシンガポール、タイ海軍と共に活動、インドネシア、マレーシア、ブルネイ、およびフィリピンを訪問した。 トーテュガは2007年9月1日に行われた東京都の災害訓練に参加し、LCAC-1級エア・クッション型揚陸艇を使用して帰宅困難者の輸送訓練を行った。2008年3月および2010年3月には硫黄島を訪問している。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う日本政府の要請を受けて、救援活動に派遣され、北海道の苫小牧から青森の大湊まで陸上自衛隊第5旅団の人員および機材の輸送を行った。 2013年8月23日、アシュランドと交替してリトル・クリーク海軍揚陸基地へ母港が変更された。
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艦歴
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1925年(大正14年)3月5日 - 三菱神戸造船所で起工。 1926年(大正15年)3月18日 - 進水12月15日 - 竣工。呂65と共に第27潜水隊を編成。 1927年(昭和2年)1月15日 - 第一艦隊第1潜水戦隊に編入。 1934年(昭和9年)2月21日 - 予備艦となる。 1936年(昭和11年)12月1日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正。 1940年(昭和15年)7月26日 - 予備艦となる。 1941年(昭和16年)12月5日 - 第7潜水戦隊第27潜水隊所属として、クェゼリンを出航。ウェーク島攻略作戦に参戦のためウェーク島方面の配備に就く。12月24日 - クェゼリンを出航するが、故障のため帰還。 1942年(昭和17年)1月11日 - トラック着。1月16日 - トラックを出航。ラバウル攻略戦に加わりセント・ジョージ岬南方に配備。 1月29日 - トラック着。 2月10日 - 第26潜水隊に編入。 2月18日 - トラック出航。マーシャル諸島へ向かい、28日、ポナペ着。 3月3日 - ポナペを出航。マキン島、ヤルート、サイパン方面で活動。 4月2日 - 佐世保着。 7月14日 - 第5艦隊に編入。 9月10日 - 北方に派遣となり佐世保を出港。 9月26日 - キスカ島に到着。同日、空襲により両舷モーター、潜望鏡が損傷。修理のため帰還。 10月12日 - 横須賀着。 11月15日 - 呉鎮守府部隊に編入。練習潜水艦となる。 1944年(昭和19年)8月15日 - 呉防備戦隊に編入。 1945年(昭和20年)3月19日 - 呉で入渠中に空襲を受け13名戦死。7月20日 - 除籍。終戦後、佐世保で桟橋として使用の後に解体。
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艦歴
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「プロビデンス (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
プロビデンスは1943年7月27日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社で起工し、1944年12月28日にメアリー・ロバーツ夫人によって進水、1945年5月15日にW・B・ジャクソン艦長の指揮下就役した。1945年6月13日にボストンを出航、グアンタナモ湾で整調を完了する。9月4日にニューポートに帰還し、10月6日まで巡洋艦及び空母乗組員の訓練を行う。 プロビデンスは11月にボストンを出航し、ギリシャのピレウスを12月に、戦艦ミズーリ(USS Missouri, BB-63)と共にイスタンブールを1946年4月5日から9日まで、5月にエジプトのアレキサンドリアを訪問した。6月16日に地中海を離れ、25日にフィラデルフィアに帰還する。10月にデラウェア岬を離れグアンタナモ湾およびバージニア州ノーフォークで訓練を行い、1947年2月3日にハンプトン・ローズを出航、地中海に向かう。地中海での訓練及び港湾訪問の後、5月にギリシャのアテネを出港、同月末にボストンに帰還した。 11月にロードアイランド州ニューポートを出港し、1947年11月20日から1948年3月2日まで地中海で作戦活動を行う。12月にはナポリ、1月にタラント、2月にはトリエステとヴェネツィアを訪問している。 1948年3月にニューポートに帰還し、9月に出港、地中海で第6艦隊に合流し1948年9月23日から1949年1月14日まで展開した。その間10月にはテッサロニキ、11月にマルセイユ、12月にトリエステとベニス、1月にオランを訪問、1月後半にニューポートに帰還した。プロビデンスは1949年6月14日にボストンで退役し、大西洋予備役艦隊入りする。 1957年5月23日に CLG-6 (ミサイル巡洋艦)に艦種変更され、6月にボストンでプロビデンス級ミサイル巡洋艦としての転換作業を開始する。作業では新型ミサイル機材、指揮艦としての施設及び核兵器運用能力が装備され、1959年9月17日にケネス・L・ヴェス艦長の指揮下再就役する。ミサイル巡洋艦に改装されたプロビデンスの1番砲塔はそのまま残されたが、2番砲塔は連装38口径5インチ砲塔と換装された。艦後部の装備はミサイル発射装置のため大きく変更され、上部構造も完全に新造された。 グアンタナモ湾での整調後プロビデンスは1960年7月29日に新たな母港のカリフォルニア州ロングビーチに到着した。第7艦隊での6ヶ月間の任務の後、1961年3月31日にロングビーチに帰還する。西海岸で演習を行った後、1962年5月に日本の横須賀に到着、オクラホマシティ(USS Oklahoma City, CLG-5)と交替して第7艦隊旗艦となる。 1962年と63年は第7艦隊と共に演習を行い、1964年1月にはサイゴンへ3日間の訪問を行う。プロビデンスは南ベトナム政府及びアメリカの高官の訪問を受け、人道支援団体の活動に対して38トンの資材を送り届けた。1964年7月に横須賀を出航、8月にロングビーチに帰還する。10月には東太平洋で訓練を開始する。 1965年1月から6月までかけて新型の通信機材を装備し、同年の残りは西海岸で第1艦隊と共に演習を行い、様々な港を訪問した。 1966年11月12日にウェストパックに参加、12月1日に横須賀で再びオクラホマシティと交替して第7艦隊旗艦となる。1967年4月1日にはベトナムへの大規模艦砲射撃に参加する。5月25日には軍事境界線沖で敵砲台と砲撃戦を行う。7月には上陸作戦の砲撃支援を行い、10月10日にはダナン南方の敵補給所を砲撃した。 1968年は6月と12月を除いて毎月ベトナム沖での支援艦砲射撃を行った。1968年2月、テト攻勢の間にプロビデンスはユエの敵拠点に効果的な打撃を与えた。1969年には西海岸沖で第1艦隊と共に作戦活動に従事した。 プロビデンスは1973年8月31日に退役し、1978年9月30日に除籍、スクラップとして廃棄された。
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艦歴
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「ハンティントン (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ハンティントンは1943年10月4日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1945年4月8日にM・L・ジャレットジュニア夫人によって進水する。1946年2月23日にD・R・トールマン艦長の指揮下就役した。 グアンタナモ湾での整調訓練後、ハンティントンは1946年7月23日にフィラデルフィアを出航し第6艦隊に合流、地中海での任務に当たる。この巡航でハンティントンはナポリ、マルタ、ヴィラフランシュ、アレキサンドリアを含む様々な港に親善訪問を行い、不安定な戦後ヨーロッパの安定化に貢献した。1947年2月8日にジブラルタルを出発して、グアンタナモ湾沖での訓練に参加、ノーフォークおよびロードアイランド州ニューポートに停泊し、1947年5月20日に出航、再び地中海での任務に就く。 1947年9月13日に巡航を完了し、ハンティントンは10月24日にフィラデルフィアを出航、海軍予備役兵の訓練をバーミューダとニューファンドランドで1947年11月14日まで行う。その後フィラデルフィア海軍造船所入りし、1948年4月12日まで広範囲なオーバーホールが行われた。カリブ海での回復訓練の後4月27日にノーフォークに帰還する。その後1948年6月1日にニューポートを出航、地中海で新たな任務に就く。 ハンティントンは1948年6月から8月にかけて様々な港を訪問し、9月22日にスエズ運河を通過、アフリカ及び南アメリカへの親善訪問を行う。11月6日にアルゼンチンのブエノスアイレスに到着、フアン・ペロン大統領がハンティントンへの公式訪問を行った。11月10日にはウルグアイを訪れ、ベレス大統領の公式訪問を受ける。その後も巡航は続き、リオデジャネイロとトリニダードを訪問し、1948年12月8日に巡航は終了した。 その後ハンティントンはフィラデルフィアからカリブ海への短期巡航を行い、1949年1月22日にニューポートに帰還、1949年6月15日に退役する。予備役として保管後1961年9月1日に除籍、スクラップとして処分された。
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艦歴
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「さくしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「さくしま」は、昭和62年度計画掃海艇371号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1988年5月17日に起工され、1989年6月2日に進水、1989年12月13日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に第20掃海隊が新編され「うきしま」、「あわしま」とともに編入された。定係港は横須賀。 1991年4月26日から自衛隊初の海外派遣となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海任務(湾岸の夜明け作戦)に派遣され、10月30日に帰国した。 1997年3月19日、第20掃海隊が横須賀地方隊隷下に編入。同日付、隊番号の改正により第20掃海隊が第41掃海隊に改称。 2004年2月16日、大湊地方隊函館基地隊所属の第45掃海隊に編入。 2006年2月8日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-727に変更。掃海隊群第101掃海隊に編入され、定係港が呉に転籍。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による東日本大震災に対し、災害派遣される。 2013年3月21日、除籍。
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艦歴
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「スポケーン (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
スポケーンはニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング社で1944年11月15日に起工した。1945年9月22日にパトリス・マンセルによって命名、進水、1946年5月17日に艦長L・E・クリスト大佐の指揮下就役する。 就役後はニュージャージー州ベイヨン、ニューヨーク州ブルックリンと移動し、6月24日に整調巡航のためキューバのグアンタナモ湾に向けて出航し、演習および射撃訓練を行う。9月11日にニューヨークに帰還、第2艦隊に配属されたスポケーンはヨーロッパ水域での任務のため10月7日にイギリスのプリマスに向けて出航した。 スポケーンは1947年1月中旬までイギリスの港から活動した。ヨーロッパでの任務期間中にスコットランド、アイルランド、ノルウェー、デンマークを訪問し、1月27日にプリマスを出航、ポルトガル、ジブラルタル、グアンタナモ湾を経由して帰国した。艦隊演習に参加後3月18日にバージニア州ノーフォークに到着、引き続いて同年夏はチェサピーク湾で艦砲射撃訓練を行い、その後9月22日から10月14日までブルックリン海軍工廠で信頼性試験を行う。スポケーンは10月27日、海軍記念日にノーフォークに帰還、新たな任務の準備に入る。 スポケーンは10月29日にノーフォークを出航、第2艦隊の僚艦と共にバミューダ沖で艦隊戦術訓練を行った。11月8日にイギリスへ向けて出航、16日にプリマスに到着し、大西洋東部および地中海での任務に割り当てられる。4日後、スポケーンはエリザベス王女の結婚を祝うため満艦飾となる。スポケーンは11月24日から26日までドイツのブレーマーハーフェンを訪れ、その後イギリスに帰還し戦術作戦に参加する。1947年2月、オランダのロッテルダムを訪問し、17日にはベルンハルト公の訪問を受けた。3月1日にスポケーンはプリマスを出航、東海岸を経由し3月11日にノーフォークに到着した。3月18日に CLAA-120 (防空軽巡洋艦)へ艦種変更された。 同年の残りは東海岸沿いの作戦活動に従事し、5月27日から9月14日まではニューヨーク海軍工廠でオーバーホールが行われた。1949年1月4日、スポケーンは航空母艦フィリピン・シー (USS Philippine Sea, CV-47)、軽巡洋艦マンチェスター (USS Manchester, CL-83) と共に地中海での任務に配属された。1月27日、アテネでギリシャ国王パウロス1世と王妃フリデリキの訪問を受ける。その後スポケーンは第6艦隊と共に対抗演習に参加し、トルコ、イタリア、フランス、サルジニア、チュニジア、リビア、アルジェリアの港を訪問、5月23日にノーフォークに帰還した。 同年夏は海軍第4管区の予備役兵のための訓練艦の任務に従事し、バージニア岬での訓練演習に参加した。 1949年10月24日、スポケーンは不活性化のためニューヨークへ向かう。1950年2月7日に退役、予備役状態でニューヨークに係留された。1966年4月1日に AG-191 (雑役艦)に艦種変更され、1972年4月15日に除籍された。スポケーンは1973年5月17日にルリア・ブラザーズ・アンド・カンパニーに売却された。
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艦歴
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「ひめしま (掃海艇・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「ひめしま」は、昭和59年度計画掃海艇365号艇として、日立造船神奈川工場で1985年5月16日に起工され、1986年6月10日に進水、1986年12月16日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第18掃海隊に「たかしま」とともに編入され、横須賀に配備された。 1994年12月12日、第18掃海隊が廃止となり、第1掃海隊群第19掃海隊に編入され、定係港が呉に転籍。 1997年3月19日、隊番号の改正により、第19掃海隊が第5掃海隊に改称。 2000年3月13日、掃海部隊の再編により掃海隊群が新編。掃海隊群第2掃海隊に編入され、定係港が佐世保に転籍。 2002年3月4日、舞鶴地方隊第44掃海隊に編入。 2004年11月26日、除籍。
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「モービル (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
モービルは1941年4月14日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1942年5月15日にハリー・T・ハートウェル夫人によって命名、進水し、1943年3月24日に艦長チャールズ・J・ウィーラー大佐の指揮下就役した。 チェサピーク湾での整調およびカスコ湾での短期訓練に続いて、モービルは太平洋に向けて出航し1943年7月23日に真珠湾に到着、一ヶ月の訓練を行う。8月22日に西方に向けて出航し、翌日第15任務部隊と合流、8月31日に南鳥島を攻撃する。ハワイからの空母部隊の攻撃に2回参加した後、第5艦隊に加わり、ギルバート諸島攻略戦に参加する。モービルは9月18日にタラワ島を攻撃する第15任務部隊を護衛し、10月5日、6日にはウェーク島を攻撃する第14任務部隊の護衛を行った。10月21日、第53.3任務群に加わり西方へ向かう。11月8日にはブーゲンビル島沖合で増援部隊の上陸を支援した。その後エスピリトゥサント島へ向かい、第53.7任務群と合流してタラワ島攻略に参加する。20日のベシオ島上陸から28日まで、モービルは同海域に留まり海兵隊攻撃部隊の支援を担当した。 12月1日、モービルは第38任務部隊と第58任務部隊が核となった第50任務部隊に再び配属された。部隊はギルバート諸島から北方に移動し、マーシャル諸島のクェゼリン環礁、ウォッゼ環礁への空襲を行う。その後部隊は真珠湾に帰還し、モービルはそこからサンディエゴへ向かった。サンディエゴでは12月29日に第5艦隊の揚陸部隊護衛任務に就く。 15日後、第53.5任務群とモービルはマーシャル諸島へ前進を始めた。1944年1月29日に任務群から分離したモービルは、第13巡洋艦隊と共にウォッゼ環礁へ砲撃を行い、その後任務部隊に再合流、クェゼリン環礁への攻撃および占領任務に就く。2月6日までモービルはロイ=ナムル島沖合で艦砲射撃および空母護衛任務に従事した。続いてマジュロへ移動し、12日に第58任務部隊に加わった。 8月上旬にはスカベンジャー作戦に従事して、水上砲戦による駆逐艦「松」と輸送船「利根川丸」の撃沈と、父島の艦砲射撃に参加する。 続く2ヶ月にわたってモービルはフィリピン戦役における支援任務に従事し、ビサヤ諸島およびミンドロ島を攻撃する空母部隊の護衛を担当した。11月20日0600、ウルシー環礁に停泊中、モービルは防潜網付近の海面で水煙を発見。そのあと潜望鏡が2~4ノットの速力で真っ直ぐに接近してくるのを発見して、5インチ砲と機銃で射撃を開始。40ミリ機銃の集中射撃が多数命中したが、潜航艇は潜航し、その後水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が左舷正横に近づき、50mでそれも見えなくなった。モービルから「魚雷が艦首の下を通り抜けた」との通報を受けて、出動可能な護衛駆逐艦群が付近の捜索を開始した。0608、モービルは隣に停泊中の軽巡ビロクシ(USS Biloxi, CL-80)との間の海面に渦を発見。護衛駆逐艦ラール(英語版)(USS Rall, DE-304)他駆逐艦2隻がこれを破壊した。12月26日に西海岸に向けてウルシー環礁を出航し、16日後にカリフォルニア州ターミナル・アイランドに到着、オーバーホールおよび改修が行われた。3月29日にウルシー環礁に戻り、続いて沖縄へ移動、4月3日に到着するとその2日後に日本軍の稜堡に対する最初の攻撃を行う。その後第51任務部隊、太平洋艦隊揚陸部隊に配属されたモービルは続く2ヶ月間を火力支援、対空、対潜水艦哨戒に従事し、「ハエ取り器 flycatcher」グループの一部として日本軍の特攻艇の探索、撃退を行った。5月末にレイテ島に到着、第95.7任務群、フィリピン訓練グループに加わり、終戦まで同部隊での作戦活動に従事する。 8月20日、モービルはサンペドロ湾を出航し沖縄および日本本土での占領支援任務に就く。9月の間に日本本土と沖縄間の数度の巡航を行い、連合軍捕虜の輸送を行った。10月は九州、佐世保近海を巡航し、11月18日に海兵隊および海軍の兵員を乗艦させサンディエゴに向けて出航、12月2日に到着した。その後「魔法のじゅうたん」任務を行った後、ピュージェット・サウンド海軍造船所で不活性化に入る。1947年5月9日にモービルは退役し、ブレマートンの予備役艦隊で保管される。1959年3月1日に除籍され、1959年12月16日にスクラップとしてジデル・エクスプロレイションズ社に売却、1960年1月19日に廃棄のため牽引された。 モービルは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「リトルロック (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
リトルロックは1943年3月6日にペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船株式会社で起工し、1944年8月27日にサム・ワッセル夫人により進水、1945年6月17日にW・E・ミラー艦長の指揮下就役する。 キューバ沖での整調及び西海岸沿いの訓練の後に、リトルロックはロードアイランド州ニューポートを10月21日に出港し南アメリカに向かう。続く5ヶ月間をラテンアメリカ諸国の巡航に費やし、1946年3月23日にノーフォークに帰還する。その後東海岸沖およびカリブ海で訓練を行い、6月4日にヨーロッパへ向けて出航、その夏は第6艦隊と共に作戦活動に従事し、1946年9月27日にノーフォークに帰還する。 1946年9月から1949年までリトルロックは東海岸での演習、カリブ海での作戦活動および艦隊訓練を行い、1947年から48年にかけて地中海への巡航を行った。リトルロックは1949年6月24日に予備役となり、ニューヨークの大西洋予備役艦隊入りする。 リトルロックは1957年5月23日に CLG-4 と艦種変更され、ガルベストン級ミサイル巡洋艦への転換が始められた。転換作業では後部6インチ主砲塔のタロス・ミサイルランチャーとの交換が行われた。作業が完了するとフィラデルフィアで1960年6月3日にJ・O・フィリップス艦長の指揮下再就役する。リトルロックはカリブ海で整調訓練を行い、タロス・ミサイルの発射試験を行う。リトルロックは急速に拡大する海軍の艦隊において、誘導ミサイルで核攻撃が行える艦としての役割を担うこととなった。 リトルロックは1961年2月9日にフィラデルフィアを出航、新たな任務の下ヨーロッパへ向かう。6ヶ月間にわたって第6艦隊およびNATO軍の艦隊と共に作戦活動に従事し、9月にノーフォークに帰還する。 カリブ海での活動中の1961年11月18日、リトルロックはサントドミンゴ沖へ派遣される。トルヒーヨ大統領の暗殺に伴い政情が不安定化したドミニカ共和国に対して支援を行う。 その後4年に渡ってリトルロックは毎年地中海への巡航を行い、第6艦隊と共に行動し1962年には艦隊旗艦となる。地中海での任務と任務の間にリトルロックは東海岸、カリブ海で活動し、北部ヨーロッパではNATO軍部隊と行動した。 東海岸での訓練の後、1966年にはオーバーホールと回復訓練を行い、1967年1月に地中海での任務に復帰、1969年まで継続する。1969年から70年にかけて艦隊旗艦任務に就き、イタリアのガエッタを母港として地中海の多くの港を訪問する。 1970年中頃の訓練時にリトルロックはギリシャ海軍の駆逐艦と衝突事故を起こす。この事故で艦首部分を破損するが、マルタ島で応急修理が行われた。9月に本国に帰還し、ボストン海軍造船所で1970年11月から1971年の春まで本格修理が行われた。修理が完了すると回復訓練の後、第6艦隊の旗艦任務に復帰する。 1975年6月3日にはスエズ運河の再開通記念式典に参加し、記念パレードでは3列目に位置、ポートサイドからイスマイリアまで巡航し、アメリカ合衆国のエジプトおよび中東の平和への関与を示した。運河を通過するとアレクサンドリアを訪問する。その後地中海を横断し、ユーゴスラビアのドゥブロヴニクを訪問した。 1976年の退役後リトルロックはニューヨーク州バッファローのバッファロー・エリー郡ネーバル・アンド・ミリタリー・パークで記念艦として公開されている。
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艦歴
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「ボルチモア (重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ボルチモアは1941年5月26日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社、フォアリバー造船所で起工し、1942年7月28日にハワード・W・ジャクソンボルチモア市長夫人によって進水する。1943年4月15日にW・C・カルフーン艦長の指揮下就役し、太平洋艦隊に配属された。 1943年11月から1944年6月にかけて、ボルチモアはマキン島上陸(1943年11月20日 - 12月4日)、クェゼリン侵攻(1944年1月29日 - 2月8日)、トラック島攻撃(2月16日 - 2月17日)、エニウェトク制圧(2月17日 - 3月2日)、マリアナ諸島攻撃(2月21日 - 2月22日)、パラオ - ヤップ - ウルシー - ウォレアイ攻撃(3月30日 - 4月1日)、ホーランディア上陸(4月21日 - 4月24日)、トラック - サタワン - ポナペ攻撃(4月29日 - 5月1日)、マーカス島空襲(5月19日 - 5月20日)、ウェーク島空襲(5月23日)、サイパン侵攻(6月11日 - 6月24日)、マリアナ沖海戦(6月19日 - 6月20日)等に参加し、火力支援、援護を行った。 1944年7月に帰国すると、ボルチモアはフランクリン・ルーズベルト大統領とその一行を乗せ、真珠湾に向けて出航する。大統領はチェスター・ニミッツ提督、ダグラス・マッカーサー将軍と会った後にアラスカに向かい、1944年8月9日に下艦した。 ボルチモアは1944年11月に戦線復帰、第3艦隊に配属され、ルソン島攻撃(1944年12月14日 - 16日、1945年1月6日 - 7日)、台湾攻撃(1月3日、4日、9日、15日、21日)、中国沿岸攻撃(1月12日、16日)、沖縄攻撃(1月22日)に参加した。 1月26日にボルチモアは第5艦隊に合流し、日本本土攻撃(2月16日、17日)、硫黄島侵攻作戦(2月19日 - 3月5日)、沖縄戦での第5艦隊の支援(3月18日 - 6月10日)といった一連の戦闘に参加する。 8月15日に日本は降伏し、ボルチモアはマジック・カーペット作戦に参加、帰還兵の輸送を行い、また日本の占領業務に参加する(1945年11月29日 - 1946年2月17日)。1946年2月17日に本国への帰路に就き、帰国すると1946年7月8日にワシントン州ブレマートンで予備役となる。 ボルチモアは1951年11月28日に再就役し、大西洋艦隊に配属される。1952年、53年、54年の夏には第6艦隊に配属され地中海に展開する。1953年6月にアメリカ海軍の代表としてスピットヘッドで行われたエリザベス2世による戴冠記念観艦式に参加する。1955年1月5日に太平洋艦隊へ転属となり、1955年2月から8月まで第7艦隊の一部として極東に展開した。 ボルチモアは任務を完了し、帰国するとモスボール保管に入る。1956年5月31日にワシントン州ブレマートンで予備役となり、1971年2月15日に除籍、1972年5月10日に売却されオレゴン州ポートランドでスクラップとして処分された。 ボルチモアは第二次世界大戦の戦功で9つの従軍星章を受章した。
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「キャンベラ (ボルチモア級重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
キャンベラはマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール、フォアリバー造船所で1941年9月3日起工。1943年4月19日進水。10月14日竣工。 1944年6月、キャンベラは第58任務部隊に所属してマリアナ沖海戦に参加した。10月13日第38任務部隊に所属して台湾攻撃に参加中台湾沖航空戦に遭遇、日本軍の一式陸上攻撃機の雷撃により魚雷1本が命中して航行不能となり重巡洋艦ウィチタ (USS Wichita, CA-45) に曳航されて後退。ボストン海軍工廠で修理された。 1947年3月7日退役してワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠で保管艦となった。1952年、ボストン級ミサイル巡洋艦の二番艦(CAG-2)となりニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で改装が開始された。 1956年6月15日再就役してヴァージニア州ノーフォークを母港とした。 1968年再び重巡洋艦 (CA-70) に類別変更され1970年2月2日退役。1978年7月31日除籍。1980年7月31日スクラップとして売却され解体された。 表 話 編 歴 ボストン級ミサイル巡洋艦ボストン | キャンベラ 前級:- 次級:ガルベストン級 アメリカ海軍巡洋艦一覧 | アメリカ海軍艦艇一覧
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「ブーゲンビル (強襲揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
ブーゲンビルは2016年6月30日に発注され、2019年3月14日にハンティントン・インガルス・インダストリーズで起工した。2024年にアメリカ海軍に引き渡される予定である。
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「チャールストン (C-22)」の記事における「艦歴」の解説
チャールストンは1902年1月30日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工する。1904年1月23日にH・レットによって命名、進水し、1905年10月17日に艦長キャメロン・マクレー・ウィンズロー大佐の指揮下就役した。1920年7月17日に CA-19 (重巡洋艦)に艦種変更された。 チャールストンは1906年の夏、国務長官のエリフ・ルートを乗せ南アメリカの港に対する親善訪問を行った。9月にパナマで訪問団を降ろした後、オーバーホールのため西海岸に帰還した。1906年12月6日にサンフランシスコを出航し、太平洋艦隊任務に従事するためメキシコのマグダレナ湾からブリティッシュコロンビア州のエスクワイメルトまで巡航、1908年6月10日まで訓練および艦隊演習を行った。その後ピュージェット・サウンド海軍工廠入りしアジアステーションへの長期巡航の準備を行う。 1908年10月28日にピュージェット・サウンドを出航し、チャールストンは1910年9月11日まで極東での任務に就く。最初は太平洋艦隊第3戦隊の旗艦となり、その後アジア艦隊の旗艦となる。冬期はフィリピンのカヴィテを拠点として活動し、艦隊は毎年夏に中国の煙台に移動し、演習および中国各地の港、日本、満州、ロシアへの訪問を行い、アメリカ合衆国の極東に対する関心を示した。その後チャールストンはワシントン州ブレマートンに帰還し、1910年10月8日にピュージェット・サウンド海軍工廠で退役した。 1912年9月14日に予備役状態に置かれたチャールストンは太平洋予備役艦隊に加わり、1913年10月には太平洋予備役艦隊の司令官旗艦としてサンフランシスコへ巡航した。1912年から1916年始めまでピュージェット・サウンド海軍工廠で新兵収容艦として留まる。その後パナマ運河地帯での潜水母艦任務が割り当てられ、1916年5月7日にクリストバルに到着した。潜水艦との作戦活動および偵察、砲術訓練任務は1年におよび、1917年4月6日にアメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、チャールストンは完全就役する。5月の初めにカリブ海偵察部隊に加わり、バージン諸島のセント・トーマス島を拠点として通商破壊に対する哨戒任務に従事、その後海兵隊を乗せてハイチからフィラデルフィアへ航海した。 フィラデルフィアでチャールストンはフランスに向かう初の海外派遣軍を運ぶ船団の護衛部隊に加わり、1917年6月14日にニューヨークを出航、フランスのサン・ナゼールに向かう。6月28日に無事到着し、7月19日にニューヨークに帰還した。その後ニューポートで海軍民兵および予備役兵の訓練に2週間従事した後、8月16日にキューバのハバナに向けて出航、ハバナでは旧ドイツ艦をニューオーリンズに牽引する艦隊の監督任務に就く。その後クリストバルからバミューダに向かう船団の護衛を行い、続いてイギリスの輸送船団と共に巡航、ハンプトン・ローズの通行を護衛した。 1918年9月および10月、チャールストンはノバスコシア州へ向かう船団の護衛を2度行い、続いて巡洋艦・輸送艦部隊に合流、フランスへの占領軍の輸送および本国への帰還兵の輸送を5度行った。 チャールストンは1919年7月23日に西海岸へ向けてフィラデルフィアを出航し、8月24日にブレマートンに到着した。同地で1920年後半まで限定就役状態に置かれ、その後サンディエゴで太平洋艦隊駆逐戦隊の司令官旗艦となる。1923年6月4日までその任に従事し、その後ピュージェット・サウンド海軍工廠へ向かい、12月4日に退役する。チャールストンは1930年3月6日に売却された。 チャールストンの船体は水線部まで剥ぎ取られ、その後10月25日にパウエル・リバー社に売却された。船体はカナダのブリティッシュコロンビア州にある同社まで牽引され、防波堤として使用された。船体はバラスト水が注入され、浮力を維持するため定期的に水がくみ出された。翌年、ヒューロン(元サウスダコタ)の船体が防波堤として加わった。1961年には荒天のためチャールストンは部分的に浸水し、船体はバンクーバー島北方のケルシー湾に牽引された。船体は浜に引き揚げられ防波堤となり、今日でもその姿を見ることができる。
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「メイコン (重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
メイコンは1943年6月14日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1944年10月15日にチャールズ・F・ボウデン(Charles F. Bowden)メイコン市長夫人によって進水する。1945年8月26日にフィラデルフィアでエドワード・E・パレ艦長の指揮下就役した。 メイコンは整調航海後まもなく第8艦隊へ配属され、1946年4月19日にノーフォークを出航、カリブ海での艦隊演習を行う。5月7日にニューヨークに戻り、6月4日にノーフォークに到着、運用開発部隊の試験船の任務に就く。 続く4年間にわたってメイコンは定期的にフィラデルフィア海軍造船所で試験機材の装着が行われた。新型機材の試験船としての任務の一方、対空砲撃訓練艦として予備役兵を大西洋およびアメリカ合衆国沿岸の湾で訓練した。1948年の夏には海軍士官学校生を乗艦させ訓練巡航に赴く。メイコンは1950年4月12日にフィラデルフィアで予備役となるまで実験任務を継続した。 朝鮮戦争が勃発し、1950年6月にメイコンは再就役が命じられる。1950年10月16日にフィラデルフィアで再就役し、回復訓練の後大西洋の第6巡洋艦隊旗艦となる。 1959年の終わりまでにメイコンは6回の海軍兵学校生の訓練巡航を夏に行い、秋から冬にかけては第6艦隊の一部として活動した。1956年のスエズ動乱時には地中海東部の偵察巡航を行い、1957年6月12日にはジェームズタウン設立350周年記念の観艦式に参加した。1957年9月には北海と北極海で行われたNATOの演習「ストライク・バック」に参加した。 これらの任務に加え、メイコンは試験機材の装着が続けられた。1956年1月から3月にかけてミサイル発射装置が装備され、大西洋艦隊の巡洋艦として5月8日に初めてレギュラスミサイルをノースカロライナ州沖で発射し、その後も大西洋艦隊での任務終了までミサイル発射試験を継続した。 1959年1月19日から20日にかけての夜に、カルタヘナからマルセイユへの巡航途中メイコンは海上で火災を発生したイタリア商船マリア・アマタの救助に向かう。メイコンの乗員は消火作業を行ったが、船は間もなく沈没した。その後メイコンは商船の乗組員をスペインのバレンシアへ輸送した。 メイコンはノーフォークを出港し、1月の残りを海軍の楽団を乗せて南米の港への親善訪問を行う。この巡航途中、バンドのメンバー6名がジュセリーノ・クビチェックブラジル大統領の公式晩餐会で演奏を行うため飛行機で向かったが、墜落事故で全員死亡した。2月28日にブエノスアイレス港で、アルゼンチン海軍も参列して追悼式典が行われた。巡航は3月10日にリオデジャネイロで終了し、メイコンはボストンに帰還し、大西洋艦隊での任務を再開する。 メイコンは1961年3月10日にフィラデルフィアで予備役となる。1969年11月1日に除籍され、1973年にスクラップとして廃棄された。
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「ダンカン (DD-485)」の記事における「艦歴」の解説
ダンカンは1941年7月31日にニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で起工する。1942年2月20日にD・C・サイヤー夫人によって進水し、1942年4月16日に艦長E・B・テイラー少佐の指揮下就役する。 ダンカンは1942年6月20日にニューヨークを出航、南太平洋へ向かい9月14日にエスピリトゥサント島に到着、第17および第18任務部隊と合流、同日出航し第7海兵連隊を運ぶ船団の護衛を担当、同部隊はガダルカナル島への増援部隊であった。ダンカンは翌日空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) の護衛を担当したが、任務部隊は日本の潜水艦2隻によって攻撃された。ワスプは伊-19の発射した魚雷6発のうち3発が命中し、大きく損傷、自沈処分されることとなった。ダンカンは僚艦と協力してワスプの乗員を救助、701名の士官と兵員を他の艦へ転送し、18名の負傷者と2名の遺体を9月16日にエスピリトゥサント島の基地の病院へ送り届けた。 ダンカンはエスピリトゥサント島からソロモン諸島へと作戦活動を継続し、船団護衛を担当した。1942年10月11日、第64任務部隊の護衛中に、ガダルカナル島への援軍を運ぶ重要な船団の護衛任務に配属される。艦隊が戦術の一部として航路変更を行おうとしていたちょうどそのとき、日本海軍の第六戦隊を主力とする艦隊と遭遇する(サボ島沖海戦)。ダンカンは明瞭なレーダー・コンタクトを得、敵艦隊の接近を視認した。日本軍の駆逐艦が攻撃のため接近していると考えられ、ダンカンは単艦で敵部隊に接近していることが確認された。 艦隊を脱落したダンカンは日本艦隊と味方の艦隊の間に突出した形となり、敵の巡洋艦に対して何発かの砲撃を行い、続いて駆逐艦に対して砲撃を行った。同時に敵の砲撃を回避するための行動を行った。ダンカンは重巡洋艦古鷹に対して魚雷2発を発射し、その後も砲撃を受けて行動不能になるまで敵への砲撃を続けた。ダンカンは敵と味方の両者から砲撃を受け、艦長は火災によって孤立した艦橋に放棄を命じ、負傷者を救命筏に乗せるよう命じた。残った乗員は艦をサボ島に向かうよう試みた。しかしながら火災は一層激しくなり、出力も低下したため、艦の放棄が決定された。マッカーラ (USS McCalla, DD-488) はサメの多数出没する海域からダンカンの乗員195名を救出し、ダンカンの維持を試みたが、ダンカンは1942年10月12日、サボ島北方約6マイルの海域で沈没した。 ダンカンは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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「ウィリアム・V・プラット (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ウィリアム・V・プラットは1958年3月7日にフィラデルフィア海軍造船所で起工する。1960年3月16日にウィリアム・V・プラット夫人により命名、進水し、1961年11月4日に艦長ボイド・E・グスタフソン中佐の指揮下就役した。 西インド諸島での整調訓練およびフィラデルフィアでの信頼性試験後、ウィリアム・V・プラットは1962年9月に第18駆逐戦隊に加わった。バージニア州ノーフォーク沖での作戦活動に従事し、大西洋および西インド諸島を巡航、1963年8月4日にノーフォークを出航しヨーロッパ海域でNATOの演習「リップタイド IV」作戦に参加した。9月にノーフォークに帰還、第2艦隊の通常任務を再開する。1964年2月8日に初めての地中海配備に赴き、第6艦隊と活動する。ノーフォークに8月9日に帰還し、東海岸および西インド諸島での通常任務を再開した。9月から10月にかけて再びヨーロッパを訪れNATOの演習「マスターストローク」および「チームワーク」に参加した。10月20日にノーフォークに帰還し第2艦隊の通常任務を再開、11月にはノーフォーク海軍造船所に入渠し最初のオーバーホールが行われた。作業は1966年3月26日に完了し、海上公試が行われた。 4月15日、ウィリアム・V・プラットは新たな母港のフロリダ州メイポート海軍ステーションに到着した。グアンタナモ湾の作戦海域において5月から6月にかけて回復訓練を行い、7月3日にメイポートに帰還する。東海岸での通常任務を8月27日まで行い、再び地中海へ展開する。4ヶ月間の配備は12月17日に完了し、母港に帰還した。続く6ヶ月間、メイポート沖で活動する。西インド諸島を2度訪れ、メキシコ湾も訪れた。また、バージニア岬沖で短期間の活動も行う。1966年7月、3回目の地中海配備に赴く。続く5ヶ月間を第6艦隊と共に活動し、12月10日に帰路についた。10日後、母港のメイポートに帰還した。 東海岸沿いおよび西インド諸島での6ヶ月間の通常任務に続いて、ウィリアム・V・プラットは1967年6月20日にメイポートを出航、ベトナム海域に展開した。途中パナマ運河を通過し、サンディエゴ、真珠湾、ミッドウェー島、グアムに寄港、7月28日にフィリピンのスービック湾に到着する。8月初めにフィリピンを離れ、トンキン湾での任務に就く。8月12日にバークレー (USS Berkeley, DDG-15) と任務を交代し、9月まで同湾のステーションに留まった。スービック湾での維持作業の後、月末にトンキン湾に戻り救助任務を再開した。11月後半に香港、台湾を訪問し、南部救助ステーションでの任務の後横須賀、ミッドウェー島、真珠湾を経由し帰国の途についた。12月31日にサンディエゴに到着、1968年1月2日にメイポートに向けて出航した。1月10日にパナマ運河を通過し、母港には16日に帰還した。 1968年2月、ウィリアム・V・プラットはサウスカロライナ州チャールストンへ移動、定時のオーバーホール準備に入る。3月1日にチャールストン海軍造船所に入渠、6ヶ月間の作業が始められた。作業完了後9月6日にチャールストンを出航、2日後にメイポートに帰還した。西インド諸島での回復訓練後に任務を再開し、第2艦隊および第6艦隊での任務に交互に従事した。続く4年にわたってウィリアム・V・プラットは毎年ヨーロッパ海域に展開した。1969年1月7日、メイポートを出航し地中海に向かう。1月18日に第6艦隊と合流し、続く5ヶ月にわたって親善訪問および通常訓練に従事した。6月1日にスペインのロタに到着、3日に北に向けて出航し一連の対潜水艦戦訓練および北部ヨーロッパの港湾訪問に従事した。同任務は7月7日まで続けられ、その後ポーツマスを出港、帰国の途についた。7月15日にメイポートに帰還すると、第2艦隊での通常任務を再開した。任務は4月30日まで続き、その後再び地中海に向けて出航する。この配備では通常の演習および港湾訪問に加え、9月に発生したヨルダン内戦に対して軍事介入を行ったシリアへの牽制としてイスラエル沖で警戒を行った。 アメリカの牽制によりシリア軍が撤退する前に、ウィリアム・V・プラットは9月前半から10月前半にかけてレバント沖を巡行した。その後は第6艦隊での通常任務を再開し、11月1日にスペインのバルセロナを出航、帰途についた。 1970年後半から1971年7月までウィリアム・V・プラットはメイポートを拠点として東海岸沿いおよび西インド諸島で活動した。1971年の配備は8月前半に始まったが、北部ヨーロッパ海域での対潜水艦戦訓練およびヨーロッパ北部の港湾訪問で占められた。10月8日にメイポートに帰還、29日には主機を蒸留油対応の物に換装する作業が始められた。改修は1972年1月17日に完了し、沿岸での任務を再開、2月18日に再び第6艦隊での任務に向かった。春から初夏にかけて通常の訓練スケジュールおよび複数艦による演習、港湾訪問を行い、ロタでの式典の後6月28日に帰国の途についた。7月8日にメイポートに帰還、配備後の修理および大規模近代化オーバーホールの準備に入る。9月にウィリアム・V・プラットは対空近代化オーバーホールのためフィラデルフィアに移動し、フィラデルフィア海軍造船所で退役した。 作業が終わると1973年10月6日に艦長ロドニー・B・マクダニエル中佐の指揮下フィラデルフィアで再就役する。23日、ウィリアム・V・プラットはフィラデルフィアを出航、新たな母港のサウスカロライナ州チャールストンへ向かった。26日に到着し、その後12月にはオーバーホール後の整調訓練を行う。1974年初めに第2艦隊での任務を再開し、9月23日にチャールストンを出航、地中海配備に向かった。10月2日にスペインのロタ海軍基地で第6艦隊の配下に入る。翌日地中海入りし、空母インディペンデンス (USS Independence, CV-62) の護衛任務に従事する。続く5ヶ月にわたってウィリアム・V・プラットはインディペンデンス、サラトガ (USS Saratoga, CV-60) と共に訓練を行う。1975年3月8日にロタを出航、チャールストンに向かう。19日に母港に帰還し、一か月に及ぶ維持調整作業の後第2艦隊の通常任務を再開した。5月には海軍兵学校生の訓練巡航を行い、6月には即応訓練を行った。1975年7月1日にウィリアム・V・プラットはミサイル駆逐艦へ艦種変更され、DDG-44 の艦番号が与えられた。8月14日にチャールストンを出航、演習「UNITAS XVI」に参加しラテンアメリカ諸国の海軍艦艇と共に活動した。1975年の大半はそれらの演習で占められ、12月8日にチャールストンに帰還、維持調整作業が行われた。 12月15日にチャールストン海軍造船所に入渠、作業は1976年3月29日まで続けられた。4月7日にチャールストンに戻り、第2艦隊の通常任務を再開する。任務は夏まで続き、独立記念日にはニューヨークで行われた国際観艦式に参加した。10月4日、ウィリアム・V・プラットはジェシー・L・ブラウン (USS Jesse L. Brown, FF-1089) 、ジュリアス・A・フューアー (USS Julius A. Furer, FFG-6) 、ヴァルデス (USS Valdez, FF-1096) と共にチャールストンを出航、第6艦隊との任務に向かった。10月14日にロタに到着、16日に地中海入りする。配備の大半は空母フランクリン・D・ルーズベルト (USS Franklin D. Roosevelt, CV-42) の護衛任務であった。配備は1977年4月に完了し、4月11日にロタを出航、帰国の途についた。4月21日にチャールストンに到着、27日にチャールストン海軍造船所に入渠し10週間の信頼性確認作業が行われた。作業は7月8日に完了し、チャールストン沖での第2艦隊の通常任務を再開した。任務は1977年後半から1978年まで継続し、1978年7月11日にチャールストンを出航、南アメリカに向かい演習「UNITAS XIX」に参加する。この巡航で南米大陸の周航を達成し、南米諸国の海軍部隊と共に即応訓練を行った。ウィリアム・V・プラットは12月3日にチャールストンに帰還、母港でその年の残りを過ごした。 ウィリアム・V・プラットはベトナム戦争の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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「ダールグレン (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ダールグレンは1958年3月1日に、DLG-12 (嚮導ミサイルフリゲート)としてペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア海軍造船所で起工する。1960年3月16日にキャサリン・D・クロムウエル夫人(ダルグレン提督の孫娘)によって進水し、1961年4月8日に艦長C・E・ランディス中佐の指揮下就役した。1975年6月30日に DDG-43(ミサイル駆逐艦)へ艦種変更される。 ダールグレンは1992年7月31日に退役、1992年11月20日に除籍され、スクラップとして廃棄された。
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「グレゴリー (DD-82)」の記事における「艦歴」の解説
グレゴリーはマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で1917年8月25日に起工し、1918年1月27日にグレゴリー少将のひ孫娘ジョージ・S・トレヴァー夫人によって進水。艦長アーサー・P・フェアフィールド中佐の指揮下1918年6月1日に就役する。
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「ファラガット (DD-348)」の記事における「艦歴」の解説
ファラガットはマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム造船で1932年9月20日に起工する。艦名は1933年7月15日付でスミスと一時改名するが、8月12日付で再度ファラガットに戻された。1934年3月15日にフランクリン・ルーズベルト大統領の長男ジェームズ・ルーズベルトの夫人によって進水。艦長エリオット・バックマスター中佐の指揮下1934年6月18日に就役する。大量建造されたクレムソン級駆逐艦以来14年ぶりに建造された新鋭駆逐艦であった。
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「デューイ (DDG-45)」の記事における「艦歴」の解説
デューイは1957年8月10日に、DLG-14 (嚮導ミサイルフリゲート)としてメイン州バスのバス鉄工所で起工された。1958年11月30日にK・セント・ジョージ夫人(ニューヨーク州選出下院議員K・セント・ジョージの妻)によって進水し、1959年12月7日に艦長エルモ・ズムウォルト・ジュニア中佐の指揮下就役した。1975年6月30日に DDG-45(ミサイル駆逐艦)へ艦種変更された。 デューイは1990年8月31日に退役、1992年11月20日に除籍され、スクラップとして廃棄された。
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「リトル (DD-803)」の記事における「艦歴」の解説
リトルは1943年9月13日にワシントン州シアトルのトッド・パシフィック造船所で起工した。1944年5月22日にラッセル・F・オハラ夫人によって命名、進水し、1944年8月19日に艦長マディソン・ホール・ジュニア中佐の指揮下就役した。 西海岸沖での訓練後、リトルは1944年11月11日にシアトルを出航し、真珠湾への船団護衛任務に就く。11月23日に真珠湾に到着、その後は砲術訓練および演習に参加した。1945年1月22日、エニウェトク環礁へ向かう戦車揚陸艦のグループと共に出航し、硫黄島侵攻のリハーサルを行う。サイパンでの最終準備の後、2月15日にリトルは硫黄島に向けて出航した。 2月19日、硫黄島への艦砲射撃が開始する。リトルも24日まで地上部隊支援の砲撃を行い、その後サイパンへ向かった。3月4日に再び硫黄島へ戻り、砲撃および護衛、レーダーピケット任務に従事した。3月14日にサイパンに帰還し、沖縄侵攻の準備に入る。 リトルは3月27日に沖縄に向けて出航、上陸部隊の支援艦隊に配属される。4月1日と2日に支援砲撃を行った後、リトルは輸送艦の護衛および戦車揚陸艦の援護に従事した。4月19日、レーダーピケット任務を割り当てられ24日まで同任務を行うが、激しい特攻攻撃にもかかわらず無傷で切り抜ける。 5月3日、リトルおよびアーロン・ワード (USS Aaron Ward, DM-34) は再びレーダーピケット任務に就く。18:13、18機から24機の敵機が雲の下から攻撃してきた。まずアーロン・ワードが18:41に最初の被弾を受け、間もなくリトルも左舷に被弾した。4分以内にもう3機の特攻機がリトルを攻撃し、竜骨を損傷、船体中央部が破壊された。リトルは19:55に沈没し、リトルの乗員200人のうち62人が死亡、また負傷者は27人であった。 リトルは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章を受章した。
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「LST-9 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-9は1942年7月26日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、11月14日に進水した。しかしアメリカ海軍へは就役せず、1943年3月20日にHM LST-9としてイギリス海軍へ就役した。1943年5月14日にニューヨークから護送船団UGS8Aとともに地中海へ航行した。 第二次世界大戦ではヨーロッパ戦線で活動し、ハスキー作戦やアヴァランチ作戦、アンツィオの戦い、ノルマンディー上陸作戦などにイギリス海軍艦艇として参加した。また、メッシーナ海峡の渡船としても活躍した。 1944年4月11日からノルマンディー上陸の数日前である1944年6月3日までスコットランド・エディンバラのリースで改装を受けている。また、ノルマンディー上陸後も、1944年6月から1945年2月にかけて艦体修理を数度受けており、1945年1月25日にはイギリスのティルベリードックスで埠頭に衝突する事故を起こした。 1946年5月4日にフィリピン・スービック湾でイギリス海軍から退役し、1946年6月1日にアメリカ海軍へと返還された。その後の1948年9月5日、アメリカ海軍から除籍され、同日売却された。
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艦歴
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「ドワイト・D・アイゼンハワー (空母)」の記事における「艦歴」の解説
ドワイト・D・アイゼンハワーは1970年6月29日、バージニア州のニューポート・ニューズ造船所に発注される。1975年6月30日に艦番号がCVAN-69からCVN-69に変更された。 1975年10月11日に進水、マミー・アイゼンハワーによって命名される。1977年10月18日に就役、初代艦長はウィリアム・E・ラムゼー大佐。ラムゼーはアイク艦長を務めた後少将まで昇進した。就任以来13名が艦長として着任している。
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艦歴
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「LST-13 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-13は1942年9月1日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、1943年1月5日に進水した。しかしアメリカ海軍へは就役せず、4月3日にHM LST-13としてイギリス海軍へ就役した。5月18日にハリファックスから一般貨物とともに輸送船団SC 131でリバプールへ航行した。しかし5月26日、機関不良のためハリファックスへ引き返した。修理後輸送船団SC 132とともに出発し、6月11日にリバプールへ到着した。 数度の航海任務に従事したのち、1944年1月にHM FDT-13へと改称した。FDT-13は1944年6月6日から13日までノルマンディー上陸作戦へ参加し、連合国軍の為奔走した。 1946年2月27日にアメリカ海軍へと返還された。6月5日にアメリカ海軍から除籍され、1947年10月11日に売却された。
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艦歴
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「LST-5 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-5は1942年7月12日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、10月3日に進水、1943年2月22日にアメリカ海軍へ就役した。 第二次世界大戦では、LST-5はヨーロッパ戦線に従事し、1943年7月のハスキー作戦、9月のアヴァランチ作戦、そして1944年6月のノルマンディー上陸作戦などに参加した。1944年11月にLST-5は北アイルランド・ベルファストでイギリス海軍指揮下に入った。その時に艦名をHM LST-5に変更している。 第二次世界大戦終結後、アメリカ海軍のもとに戻ったLST-5は1947年8月1日に除籍され、廃棄のためシンガポールの企業に売却された。 LST-5は大戦時の功績から従軍星章3個を贈られている。
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艦歴
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「LST-8 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-8は1942年7月26日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、10月29日に進水した。しかしアメリカ海軍へは就役せず、1943年3月23日にHM LST-8としてイギリス海軍へ就役した。1943年5月14日にニューヨークから護送船団UGS8Aとともに地中海へ航行した。 第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線で活動し、ハスキー作戦やアヴァランチ作戦、アンツィオの戦い、ノルマンディー上陸作戦などにイギリス海軍艦艇として参加した。1944年5月4日から6日まで、イギリス・ヴェール・オブ・グラモーガンのバリーへ入港し、1944年9月にリバプールで改装された。 1946年5月4日にフィリピン・スービック湾でイギリス海軍から退役し、1946年6月1日にアメリカ海軍へと返還された。1946年7月3日にアメリカ海軍から除籍され、1947年12月5日にフィリピンへ売却された。
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艦歴
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「LST-11 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-11は1942年8月8日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、11月18日に進水した。しかしアメリカ海軍へは就役せず、1943年3月23日にHM LST-11としてイギリス海軍へ就役した。1943年5月14日にニューヨークから護送船団UGS8Aとともに地中海へ向け出発した。 LST-11は第二次世界大戦においてヨーロッパ戦線やアジア太平洋戦線に従事した。参加した戦いには、1944年1月から3月までアンツィオの戦い、6月のノルマンディー上陸作戦などがあり、大戦終結後の1945年9月には日本軍に占領されていたイギリス領マラヤの奪還にも参加している。 1944年5月に船体欠陥修理のためカーディフを訪れた。また6月から8月まで、同じく修理のためテムズ川流域やポーツマスを、9月12日から10月23日まで、船体の改装のため再びカーディフを訪れた。 1946年4月13日にイギリス海軍を退役し、5月13日にアメリカ海軍船籍に戻った。 1946年6月5日にアメリカ海軍を除籍され、1947年12月5日にスクラップのため売却された。
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艦歴
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「ミシシッピ (原子力ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ミシシッピはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で1975年2月22日に起工し、1976年7月31日に進水、1978年8月5日に就役した。 ミシシッピは1997年7月28日に退役、除籍され、2004年10月1日に原子力艦再利用プログラム (Ship-Submarine Recycling Program, SRP) によって解体処理が始められ、2007年11月30日完了した。
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艦歴
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「メンフィス (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
メンフィスは1971年2月4日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に建造発注され、1973年6月23日に起工した。1976年4月3日にキャシー・ビアード夫人によって命名、進水し、1977年12月17日に艦長G・デニス・ヒックス中佐の指揮下就役する。 1981年3月、メンフィスはパナマ運河を経由した世界周航を終え、その中には第6艦隊と第7艦隊両方での作戦活動を含んだ。 メンフィスは1989年に戦闘対応のまま実験潜水艦に指定され、ロサンゼルス級およびシーウルフ級のための複合船体構造、無人潜水艇、新型ソナー、水中抵抗減少およびそのほかの先進技術の試験台となった。 1990年代中頃に改修を受け、多くの修正のため排水量は約50トン増えたが、その修正は後部に集中した。 セイル後方に遠隔作業機を収納するファイバー・プラスティック製容器の装着 実験用牽引式ソナー・アレイを牽引するためのウィンチとドラムの装備 ソナー・トランスデューサー・アレイを収納する高さ4.27m、幅1.37mの容器を後部スタビライザー後端に装着 54mmの牽引式アレイ・ディスペンサーをセイルの左舷水平翼に新型ウィンチで装備 艦尾スタビライザーの支持架装着 新型油圧装置 光ファイバーデータバス 電子試験機材運用のための58種の標準化設備ラック装着 1994年1月にメンフィスはメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所入りし、燃料補給および複合オーバーホール、研究開発任務支援のための修正作業が始められた。有効性確認が完了すると、メンフィスはコネチカット州グロトンで第12潜水艦開発部隊に配属された。 メンフィスは複合材料で作られた通常の半分の重量のプロペラ・シャフトをテストし、1998年にはロッキード・マーティンの海中ユニバーサル・グラビティ・モジュール (Universal Gravity Module, UGM) が装着された。 2005年5月3日に北極点を二度通過し、11月3日にニューロンドンに帰還した。 メンフィスは2005年のバッテンベルク・カップを受賞した。 2006年5月6日、イラク暴動に対して展開し、8月7日にニューロンドンに帰還した。 2007年6月27日、ポーツマス海軍造船所入りした。 2011年4月1日退役。
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艦歴
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「ロサンゼルス (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ロサンゼルスは1972年1月8日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1974年4月6日にアン・アームストロングによって命名、進水し、1976年11月13日にジョン・E・クリステンセン艦長の指揮下就役する。 1999年にロサンゼルスは改修が行われ、ドライデッキ・シェルター (Dry Deck Shelter, DDS) を装備した。2010年1月23日退役。
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艦歴
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「ボイシ (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ボイシの建造は1987年2月6日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に発注され、1988年8月25日に起工した。1991年3月23日にルイス・マクルーア夫人によって命名、進水し、1992年11月7日にD・メリクル艦長の指揮下就役した。 2002年の不朽の自由作戦時にボイシは「ジョン・F・ケネディ」空母戦闘群に配属された。 2003年3月、イラクの自由作戦開始時ボイシはトマホーク巡航ミサイルを発射した。艦と乗組員はその後の戦功で海軍殊勲部隊章を受章した。
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「カーニー (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
カーニーはメイン州バスのバス鉄工所で1993年8月3日に起工し、1994年7月23日にベティ・タウシッグ(カーニー提督の娘)によって命名、進水し、1996年6月8日に就役した。2005年時点でフロリダ州メイポートを母港として活動する。 カーニーは就役に先立ち第14駆逐艦隊に配属された。1998年9月に第24駆逐艦隊に転属となる。カーニーは1997年から1998年にかけて原子力空母「ジョージ・ワシントン」戦闘グループの一部として地中海へ最初の展開を行った。 1999年にはトルコへ地震災害救援物資を輸送した海上自衛隊の「おおすみ」をはじめとする輸送艦部隊と東部地中海で共同で運動訓練を行った。これは海上自衛隊が地中海で行った初の訓練でもあった。 2001年5月にはニューヨークでのフリート・ウィークに参加した。2002年2月にはプエルトリコ水域でジョン・F・ケネディ戦闘グループの一部として協同戦闘能力システムの技術評価の第一段階を行った。第二段階はヴァージニア岬水域で行われた。その後オペレーション・エンデューリング・フリーダムの支援として地中海とペルシャ湾に展開する。 2002年6月10日にはドナルド・ラムズフェルド国防長官がバーレーンのマナーマで艦を訪問した。 2003年12月にカーニーは、ヴァンデル演習に参加し艦載ミサイルによるミサイル迎撃試験を行った。2004年8月13日にはハリケーン・チャーリーを回避するためメイポートを出航し沖合へ避難した。
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艦歴
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「シアトル (高速戦闘支援艦)」の記事における「艦歴」の解説
シアトルは1965年10月1日にワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠で起工する。1968年3月2日にウィリアム・M・アラン夫人(シアトルの幼児整形外科病院協会の会長)によって命名、進水する。1969年4月5日、ブルース・キーナー三世艦長の指揮下就役した。 整調航海の後、シアトルは1969年9月24日にピュージェット・サウンド海軍工廠を出港、ノーフォークへ向かう。途中ロングビーチ、サンディエゴ、アカプルコ、パナマ運河およびニューオーリンズを訪れ母港のノーフォークには11月22日に到着した。 シアトルはグアンタナモ湾で整調訓練を行うため1970年1月2日にノーフォークを出港し、1月13日に空母アメリカ(USS America, CVA-66)と併走、給油を行っている。1月19日にグアンタナモを出港、再び訓練を行った後ハイチのポルトープランスを訪れ、1月26日にグアンタナモに帰還した。 演習及び戦闘訓練の後、シアトルはフロリダ州メイポートからノーフォークに向けて出港、2月12日に到着した。 2月26日にシアトルはタグボートと衝突し燃料タンクを損傷、2時間に渡って油を流出させた。油はすぐに除去作業が行われ、損傷は軽微な物であった。 シアトルはノーフォークを8月27日に出港、初の海外任務を行う。9月6日にポルトガルのリスボンに入港、8日にはスペインのロタに停泊する。翌日ジブラルタル海峡を通り抜けて、シアトルはコンコード(USS Concord, AFS-5)に貨物を積み込み、シチリア島のアウグスタ経由で東地中海へ向かった。ヨルダン内戦により地中海の緊張が高まり、シアトルは空母サラトガ(USS Saratoga, CVA-60)の補給支援および護衛を行った。同月末にはリチャード・ニクソン大統領から僚艦11隻と共に観閲を受ける。 シアトルは地中海東部でサラトガの支援を続け、10月20日にはギリシャのアテネに入港した。 10月29日にアテネを出港し、11月9日には再びシチリア島のアウグスタに入港、補給と給油を行った後11月12日にイタリア海軍最大の基地タラントに入港した。 11月16日にタラントを出港すると第6艦隊の艦艇に対し補給作業を行い、その後11月25日から12月1日までナポリに停泊、12月8日から14日までスペインのバルセロナに停泊した。その後フランスのヴィラフランシェに年末まで停泊した。 シアトルは1971年1月6日にシチリア島南東での作戦行動に入る。1月17日から22日までナポリに停泊、その後イオニア海で活動した後2月20日までバルセロナに停泊、帰路に入り3月1日には母港のノーフォークに到着した。 シアトルは8月10日にプエルトリコに向けて出港、8月13日にルーズベルト・ローズ海軍基地に到着する。プエルトリコ、バージン諸島、グアンタナモおよびハイチで活動した後10月11日にノーフォークへ帰港する。 12月1日、シアトルはバージニア州クラニー・アイランドを出港し、6ヶ月間の地中海配備に入る。12月9日にスペインのロタに到着、翌日シチリア島のアウグスタに向かい16日に到着する。12月19日にナポリに向かい、クリスマスを同地で過ごした。12月28日にナポリを出港、バルセロナには大晦日に到着した。 7ヶ月に及ぶ地中海配備の完了後、シアトルは1972年6月29日にノーフォークへ帰港した。その後4ヶ月間に渡ってノーフォークから活動し、10月24日、第6艦隊の予定外の配備のため出港した。シアトルは地中海西部でのオペレーション・バイスタンダーに参加し、ノーフォークに帰港する前にナショナル・ウィーク XIV 演習に参加、ノーフォークには12月19日帰還した。 シアトルは1972年の残りと1973年前半の半年間をノーフォークからの活動で過ごす。6月に海外へ展開し、12月1日に再びノーフォークに帰還した。 シアトルは2004年6月にジョン・F・ケネディ(USS John F. Kennedy, CV-67)空母戦闘団の一部としてペルシャ湾に展開した。2004年8月12日にシアトルはインドネシア船籍の貨物船エドハIIの乗組員12名を救助した。生存者はイラクのウム・カスルに送り届けられた。2004年12月14日にシアトルはノーフォークへ帰還した。 シアトルは2005年3月15日に退役した。
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艦歴
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「タリビー (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
タリビーの建造は1957年11月15日に発注される。1958年5月26日にコネチカット州グロトンのジェネラル・ダイナミクス、エレクトリック・ボート社で起工した。1960年4月27日にジョン・F・デヴィッドソン夫人(チャールズ・F・ブリンデュプケ中佐の未亡人)によって命名、進水し、1960年11月9日に艦長リチャード・E・ジョートバーグ中佐の指揮下就役した。 1961年1月に整調を行った後、タリビーはニューロンドン沖でソナーの評価試験および第2潜水艦開発部隊と共に原潜戦略演習を1963年まで行う。この間タリビーはバミューダとプエルトリコのサンフアンを数度訪れた。 1964年7月、タリビーはNATO軍と共に対潜水艦戦艦隊演習に参加した。翌1965年に開発任務を再開し、任務は秋まで継続した。10月28日に母港はニューハンプシャー州ポーツマスに変更され、タリビーは拡張オーバーホールのためメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所入りした。オーバーホール作業は754日間行われ、1968年1月2日に完了した。 その後ニューロンドンに移動し、回復訓練後1969年1月にカリブ海に展開、1969年から70年にかけて開発任務を継続した。タリビーはニューロンドンを出航し地中海に向かい、第6艦隊での最初の任務に就く。この任務の期間にタリビーはNATOおよび第6艦隊の演習に参加し、ギリシャのアテネ、イタリアのナポリ、スペインのロタを訪問、12月14日にニューロンドンに帰還し、135日間で20,000海里 (30,000 km) の航海を終えた。 タリビーは第6艦隊での活動で殊勲部隊章を受章した。 タリビーは1988年6月25日に退役、同日除籍された。その後原子力艦再利用プログラムに基づいて1995年1月5日に解体が開始し、作業は1996年4月1日に完了した。
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艦歴
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「ジョージ・H・W・ブッシュ (空母)」の記事における「艦歴」の解説
建造は、ノースロップ・グラマン社のニューポート・ニューズ造船所で2001年に始まった。2002年12月に艦名は第41代大統領にちなんで命名されることが発表された。2006年10月7日に命名式が行われ、式典にはブッシュ元大統領本人が出席した。 2008年4月には整調巡航に出航した。 2009年1月10日に、ノーフォーク海軍基地で就役。その式典にはブッシュ父子が出席。初の、存命中の人間による、自身の名が名付けられた空母への乗船がなされた。 一部で、退役する「キティホーク」(USS Kitty Hawk, CVA-63)の後継として横須賀基地への配備案が報道されたが、「ジョージ・ワシントン」(USS George Washington, CVN-73)が配備された。 2011年5月11日に母港のノーフォークを出港し、初めての作戦航海を7ヶ月間、大西洋、地中海および中東地域を航行し、2011年12月10日に帰港した。 帰港後は出港してもX-47の試験運用などの短期航海が多かったが、2014年2月15日に母港ノーフォークを出港し、地中海および中東に向かった。3月クリミア危機に対応するためトルコへ、6月にはISIL対処のため中東へ移動、8月8日ISILへの空爆を開始した。11月2日、フランスのマルセイユへ休養のため寄港後、11月15日9ヶ月間の航海を終えノーフォークに帰港した。 2016年7月23日、2015年6月より実施していた定期修理を終え試験航海の為ノーフォーク海軍基地を出港した。当初の計画では6ヶ月で修理を終えるはずであったが、予算不足からくる艦艇修理施設の人材や技量の不足等の理由により13ヶ月を要した。本来であればペルシャ湾で作戦中のドワイト・D・アイゼンハワーと交代する為2016年内には出港しなければならないが、準備訓練期間を短縮したとしても2017年初頭にずれ込む見通し。 2017年1月21日、3度目の海外展開のため母港のノーフォーク海軍基地を出港した。任地は過去2度の航海と同じく第6艦隊担当海域の地中海、第5艦隊担当海域のインド洋とペルシャ湾。本航海中の6月18日、ブッシュ所属のF/A-18Eがシリア空軍のSu-22を撃墜した。有志連合軍の警告にも関わらずシリア防衛隊を攻撃してきたため、交戦規定に基づき撃墜したもの。海軍機としては湾岸戦争以来実に26年ぶりの空対空戦果で、アメリカ軍としても18年ぶりであった。 2017年6月12日 空母艦載機としては初の無人機となるMQ-25A(英語版)空中給油機の搭載空母として、ジョージ・H・W・ブッシュとドワイト・D・アイゼンハワーの2隻を選定し、最初の空母としてブッシュに約30億円かけて運用に必要な無人機管制装置やデータリンク装置を搭載すると報じられた。2019年の時点では海軍での同機運用は2024年を予定している。 2019年2月21日 長期整備(Drydocking Planned Incremental Availability:DPIA)の為、ノーフォーク海軍造船所の乾ドックに入渠。今回の整備は28カ月を要する大規模なもので、DPIAとしては米海軍史上最長になる。元々同艦は就役以降一部の排水設備に問題を抱えており、今回はそれを解決するための作業も含まれる。 2019年9月、一週間のうちに、乗組員の兵士3人が連続して自殺する事件が発生した。自殺した場所はバラバラで、いずれも基地の外であった。アメリカ海軍では、2016年以降、自殺が急増しており、2006年に比べて2倍となっている。この3人の自殺も含めて、アメリカ国内では関心が集まっている。
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艦歴
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「ウィリアム・H・ベイツ (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ウィリアム・H・ベイツの建造は1968年6月25日にミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所に発注される。当初の艦名はレッドフィッシュ (Redfish) であったが、核海軍創設の信頼すべき支持者であったウィリアム・H・ベイツ議員の死去に際して艦名が変更された。1969年8月4日に起工し、1971年12月11日にアンドリュー・R・グレンジャー夫人によって命名、進水し、1973年5月5日に艦長グレン・N・アーサー・ジュニア中佐の指揮下就役した。 ウィリアム・H・ベイツは整調後にコネチカット州ニューロンドンを母港に指定される。1974年7月から10月にかけて大西洋東部へ展開し最初の抑止哨戒を行い、スコットランドのホーリー・ロッホ、カナダのノバスコシア州ハリファックスを経由して帰港する。しかしながら休養は短期間であった。艦はクリスマス休暇から1975年1月に渡って再び哨戒に入る。ホーリー・ロッホでの修理の後、艦はスコットランドのファスレーンを訪問した。 1月後半に帰国の途に就き、ウィリアム・H・ベイツはバージニア州ポーツマスのポーツマス海軍工廠で修理が行われた。その後1975年の夏までフロリダ州フォートローダーデール沖での活動に従事する。間もなくヨーロッパ海域に配備され、対潜水艦戦訓練演習に参加する。11月にウィリアム・H・ベイツはNATOの演習「モビー・ディック」および「オーシャン・サファリ '75」に参加し、12月にニューロンドンに帰還した。 ウィリアム・H・ベイツは1976年5月5日にニューロンドンを出航し、初の地中海配備に赴く。この配備でアメリカ海軍およびNATO諸国海軍部隊との訓練を行いその技術を熟練させた。また、チュニジアのビゼルト、シチリア島のオーガスタ湾、イタリアのラ・スペツィアおよびナポリを訪問している。1976年9月6日に地中海を離れ、月半ばに演習「オーシャン・サファリ '76」に参加した。10月14日、ウィリアム・H・ベイツはコネチカット州グロトンに帰還した。 航海後の修理および別の海外配備の準備を行った後、ウィリアム・H・ベイツは1977年の夏にグロトンを出航し、10月3日に任務を完了した。同日、潜水母艦ホーランド (USS Holland, AS-32) の横に停泊する。続いて北海を通過しドイツのブレーマーハーフェンを訪問、5日間停泊した。その後ウィリアム・H・ベイツは演習「オーシャン・サファリ '77」に参加、続いてグロトンに帰還した。 ウィリアム・H・ベイツは1978年5月にカリフォルニア州サンディエゴに移動し、1980年代は太平洋艦隊で活動した。 1980年から1989年初めまで、ウィリアム・H・ベイツは第11潜水戦隊に所属しサンディエゴを拠点として活動、西太平洋で多くの配備に就き、韓国海軍との「チームスピリット」演習など様々な国の海軍と演習を行った。これらの配備の間、フィリピンのスービック湾、韓国の鎮海、日本の横須賀、佐世保、グアム島、タイ王国のサッタヒープ郡などを訪問した。1989年中旬にカリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍造船所に入渠し小修理と乗員の休息の後、ワシントン州のピュージェット・サウンド海軍造船所に移動し拡張オーバーホールおよび燃料交換が行われた。 オーバーホール完了後の1991年にウィリアム・H・ベイツはハワイの真珠湾に移動、同地を拠点としていくつかの西太平洋配備および作戦活動に従事した。 ウィリアム・H・ベイツは2000年2月11日に退役し、同日除籍された。その後ワシントン州ブレマートンで原子力艦再利用プログラムの下2002年10月1日に解体が始まり、2002年10月30日に作業は完了した。
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艦歴
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「まえじま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「まえじま」は、平成3年度計画掃海艇375号艇として、日立造船神奈川工場で1992年6月1日に起工され、1993年6月10日に進水、1993年12月15日に就役し、第2掃海隊群第22掃海隊に編入され、横須賀に配備された。 1997年3月19日、隊番号の改正により第22掃海隊が第2掃海隊に改称。 1999年5月13日、佐世保地方隊下関基地隊第43掃海隊に編成替え。 2009年3月6日、舞鶴地方隊第44掃海隊に編成替え。 2010年3月15日、平成20年度縁故募集で期待数の4倍以上の成果を挙げたことにより、海上幕僚監部から二級賞状を授与された。 2011年3月11日、発生した東日本大震災の災害派遣に参加。 2013年3月21日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-729に変更。所属も掃海隊群第101掃海隊に編成替えとなり、定係港が呉に転籍。 2017年3月27日、除籍。23年9ヶ月に亘る就役期間中の総航海時数は3万2,000時間、総航程は約23万5,000海里であった。
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艦歴
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「つきしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「つきしま」は、平成2年度計画掃海艇374号艇として、日立造船神奈川工場で1991年5月27日に起工され、1992年7月23日に進水、1993年3月17日に就役し、第2掃海隊群第21掃海隊に編入され横須賀に配備された。同年12月15日、第2掃海隊群隷下に第22掃海隊が新編され、同日付で就役した「まえじま」とともに編入された。 1997年3月19日、隊番号の改正により第22掃海隊が第2掃海隊に改称。 1999年3月16日、呉地方隊阪神基地隊所属の第42掃海隊に編成替え。 2009年8月7日午前8時25分頃、兵庫県神戸市ポートアイランド沖で土砂運搬船に積んでいた土砂の中から砲弾が発見されたため、神戸海上保安部から阪神基地隊に連絡があり、現場で日本軍のものとみられる砲弾、ロケット弾、機銃弾など236発を回収した。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による東日本大震災に対し、災害派遣される。 2012年3月21日、除籍。
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艦歴
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「いえしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「いえしま」は、昭和63年度計画掃海艇373号艇として、日立造船神奈川工場で1989年5月12日に起工され、1990年6月12日に進水、1990年12月19日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第21掃海隊に「うわじま」とともに編入され、横須賀に配備された。 1997年3月19日、隊番号の改正により第21掃海隊が第4掃海隊に改称。 2000年3月13日、佐世保地方隊下関基地隊第43掃海隊に編成替え。 2009年4月14日から4月27日、長崎県平戸沖漁船転覆事故による行方不明者捜索に参加。 2010年2月26日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-728に変更。所属も掃海隊群第101掃海隊に編成替えとなり、定係港が呉に転籍。 同年6月20日から6月29日、硫黄島周辺海域で平成21年度実機雷処分訓練に参加。 2014年5月16日、除籍。
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艦歴
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「とびしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「とびしま」は、平成4年度計画掃海艇378号艇として、日本鋼管鶴見製作所で1993年6月22日に起工され、1994年8月30日に進水、1995年3月10日に就役し、第1掃海隊群第23掃海隊に編入され、呉に配備された。 1997年3月19日、隊番号の改正により第23掃海隊が第3掃海隊に改称。 2000年3月13日、掃海部隊の改編により、掃海隊群第1掃海隊(呉)に編入。 2003年3月18日、舞鶴地方隊第44掃海隊に編成替え。 2010年6月24日、大湊地方隊函館基地隊第45掃海隊に編成替え。 2011年3月11日、発生した東日本大震災の災害派遣に参加。4月9日午後1時に宮古市田老漁港南側の捜索救難を実施した。 2012年2月1日から2月8日、伊勢湾で対機雷戦訓練に参加。 同年4月15日、陸奥湾で墜落した第25航空隊所属SH-60Jの捜索に参加。 2014年5月12日、除籍。
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艦歴
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「オリバー・ハザード・ペリー (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
オリバー・ハザード・ペリーは、1973年10月30日にFY73プログラムの一部としてメイン州のバス鉄工所に建造発注され、1975年6月12日に起工した。1976年9月25日に進水し、1977年12月17日に就役した。当初は哨戒フリゲート「PFG-109」として発注されたが、1975年6月1日の艦種再編でミサイルフリゲート「FFG-7」として艦種変更された。 オリバー・ハザード・ペリーは1997年2月20日に退役、1999年5月3日に除籍され、ペンシルベニア州フィラデルフィアで2005年12月にスクラップとして廃棄された。
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艦歴
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ガーフィッシュ (Garfish) は1911年4月3日にワシントン州シアトルのモラン社で起工した。1911年11月17日に H-3 と改名され、1913年7月3日にヘレン・マクユーワンによって命名、進水する。1914年1月16日にピュージェット・サウンドで艦長ウィリアム・R・マンロー中尉の指揮下就役した。 整調後 H-3 は太平洋艦隊に配属され、カリフォルニアからワシントン州にかけての沿岸で活動を開始、姉妹艦の H-1 (USS H-1, SS-28) 、H-2 (USS H-2, SS-29) と共に演習を行った。防護巡洋艦ミルウォーキー (USS Milwaukee, C-21) 、潜水母艦シャイアン (USS Cheyenne, BM-10) と共にカリフォルニア州ユーレカ近くの沿岸で作戦活動中の H-3 は1916年12月16日の朝、霧の中座礁する。乗組員は沿岸警備隊の救命ブイによって救助されたが、H-3 を牽引しようとしたミルウォーキーも座礁し、民間のサルベージ業者が呼び出された。H-3 は小高い砂浜に乗り上げ、流砂に囲まれたため作業は複雑なものとなった。干潮時には海面から75フィートの高さにあったが、満潮時には250フィートに達した。1ヶ月におよぶ困難な作業の後、H-3 は巨大な丸太に乗せられ海に戻された。 救助作業途中の1917年2月4日に H-3 は退役し、4月20日にフンボルト湾で再び進水した。その後カリフォルニア州サンペドロに帰還、第7潜水戦隊の旗艦となり、1922年まで演習および作戦活動に従事した。H-3 は部隊と共に1922年7月25日にサンペドロを出航し、9月14日にハンプトン・ローズに到着した。 H-3 は1922年10月23日にハンプトン・ローズで退役した。1930年12月18日に除籍され、1931年9月14日にスクラップとして廃棄された。
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艦歴
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「キューバ (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
改装後にイギリスで開催されたジョージ6世戴冠記念観艦式にキューバ海軍旗艦として参加。1956年には第2次近代化改装されフリゲートに類別変更された。老朽化のため1971年に除籍。
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艦歴
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「トレントン (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
トレントンは1920年8月18日にペンシルベニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社で起工する。1923年4月16日にキャサリン・E・ドネリーによって命名、進水し、1924年4月19日に艦長エドワード・C・カルブファス大佐の指揮下就役した。 5月24日にトレントンは整調巡航のためニューヨークを出航し地中海に向かった。8月14日、エジプトのポートサイドからアラビアのアデンに向かう途中、ペルシャのブーシェフルに向かう様命じられる。25日にブーシェフルに到着し、同地で副領事ロバート・インブリの遺体を乗せる。トレントンは前副領事への礼砲に対して答礼を行い、同日出航した。スエズおよびポートサイド、フランスのヴィレフランシュに寄港し、9月29日にワシントン海軍工廠に到着した。 10月中旬、ノーフォーク沖での砲術訓練中にトレントンの前部砲塔の装薬が爆発し、砲術要員は死亡もしくは重傷を負った。爆発による火災の中、ヘンリー・クレイ・ドレクスラー(英語版)少尉とジョージ・コリスター(英語版)一等掌帆兵曹は装薬を浸漬タンクに投入しようとしたが失敗し、ドレクスラー少尉は装薬の爆発で死亡した。コリスター兵曹は目的を達する前に、火災と煙で倒れ、彼は翌日死亡した。両名とも死後名誉勲章を受章した。 同月末、トレントンは北へ向けて出航し行方不明となったノルウェー船の捜索に参加する。その任務の後東海岸での作戦活動を行い、1925年2月3日にフィラデルフィアを出航、キューバのグアンタナモ湾で偵察艦隊と合流した。砲術訓練の後艦隊はパナマ運河に向かい、月の半ばに通過した。23日、偵察艦隊と戦闘艦隊はバルボアを通過し、サンディエゴに到着した。両艦隊はサンディエゴとサンフランシスコの中間海域に集合し、4月15日に中央太平洋に向けて航行した。ハワイ諸島の防衛体制を完全に点検するための演習を6月7日まで行い、演習終了後、偵察艦隊の大部分は大西洋に引揚げていった。 7月1日、トレントンは第2巡洋戦隊の一艦として戦闘艦隊と共に南太平洋の島々および、オーストラリアとニュージーランドへの親善航海に出発した。艦隊はサモアを経由し、メルボルン、ウェリントン、シドニー、オークランド、ダニーデンおよびリトルトンを訪問。8月に入って第2巡洋戦隊はマルキーズ諸島、ガラパゴス諸島をめぐり、パナマ運河を通過してグアンタナモ湾で偵察艦隊と合流。砲術演習を行った後、トレントンは11月9日にフィラデルフィアに帰還した。 1926年1月、トレントンは偵察艦隊と合同して砲術演習のためグアンタナモ湾に向かった。2月1日、トレントンはキューバを離れてパナマに向かい、以後6週間にわたって戦闘艦隊と偵察艦隊の合同訓練に参加した。3月中旬、偵察艦隊の諸艦はナラガンセット湾とその周辺において予備兵向けの演習を行った後、夏の練習航海に備えて各々の母港に戻った。9月中旬、トレントンは冬の航海のためグアンタナモ湾に向かった。12月25日まで偵察艦隊の航海訓練に参加した後、それぞれの母港に戻っていった偵察艦隊の他の艦艇と別れ、1927年に入って早々にグアンタナモ湾在泊の戦闘艦隊に合流し、間もなく偵察艦隊とも再合流した。5月、トレントンは内乱状態のニカラグアの監視に赴くヘンリー・スティムソン大佐をコリント (ニカラグア)(英語版)まで乗せ、任務終了後にスティムソン大佐夫妻をハンプトン・ローズまで送り届けた。6月にはカルビン・クーリッジ大統領の視察を受け、戦闘、偵察両艦隊恒例の夏の訓練のためハンプトン・ローズを出港した。トレントンは第2巡洋戦隊旗艦としてナラガンセット湾で訓練を行った。偵察艦隊はチェサピーク湾とチャールストンの中間海域で砲術訓練を行い、トレントンは秋になって艦隊に合流した。 1928年1月、トレントンはチャールストンを出港し、選挙監視のためニカラグアに再度派遣されるスティムソン大佐を送った後、僚艦と共にグアンタナモ湾で偵察艦隊に合同し演習を再開した。3月9日、第2巡洋戦隊は偵察艦隊から離れ、トレントン以下4隻の軽巡洋艦がカリフォルニア沖で戦闘艦隊に合同して途中で演習を行いつつハワイ向かった。ハワイ諸島近海での活動を終えるとトレントンとメンフィス (USS Memphis, CL-13) はホノルルを出港して中国に派遣され、同地の第3巡洋戦隊に編入された。アジアでのトレントンは、フィリピン総督になっていたスティムソン大佐の訪問をしばしば受けた。また、フィリピンでの陸海軍合同演習に参加し、中国北部の海域を哨戒。芝罘に海兵隊を上陸させることもあった。 1929年5月、トレントンはアジア艦隊(英語版)を離れ、メンフィスおよびミルウォーキー (USS Milwaukee, CL-5) とともにアメリカ本国に戻った。1929年の後半、トレントンはフィラデルフィアでオーバーホールに入り、オーバーホールを終えると偵察艦隊に復帰した。以後4年間、トレントンは夏はニューイングランド海域、冬はカリブ海で定期的な偵察艦隊の演習に参加する一方、しばしば中央アメリカ諸国の政治的介入に加わり、特別任務隊を派遣した。 1933年春、トレントンは戦闘艦隊に移籍してその巡洋戦隊旗艦となった。1934年9月まで東太平洋で行動した後、パナマ運河の大西洋岸に戻り、特別任務隊に編入された。次の15ヵ月もの間、トレントンはカリブ海、中央アメリカの諸港を訪問し、次いで南アメリカへの親善航海に出た。1936年1月、トレントンはメア・アイランド海軍造船所でオーバーホールに入り、オーバーホール後の1937年と1938年の冬にオーストラリアを訪問し、1939年春に戦闘艦隊に復帰した。 1939年5月、トレントンは大西洋に戻り、6月3日にハンプトン・ローズからヨーロッパに向けて出発した。ヨーロッパにおいてトレントンは、1936年以来のスペイン内戦からアメリカ国民を保護すべく編成された第40戦隊に加わり、本国に戻る1940年7月中旬までの間、トレントンはイベリア半島沿岸部や地中海西部を哨戒した。本国に戻る際、トレントンはナチス・ドイツに祖国を追われカナダに亡命するルクセンブルク大公シャルロット以下の大公一家を無事送り届けた。
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艦歴
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1941年(昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画)により、1941年9月30日、川崎重工業神戸造船所 で起工。1942年(昭和17年)4月17日進水。1942年10月31日に竣工し、二等潜水艦に類別。同日、横須賀鎮守府籍となり、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊所属となった。 10月31日、折田善次少佐が艦長に着任。1943年(昭和18年)1月16日、第八艦隊第7潜水戦隊に編入。 18日、呂101は横須賀を出港し、25日にトラックに到着。2月4日には出港し、8日にラバウルに到着。9日にはラバウルを出港し、ポートモレスビー東方沖合に進出。22日、呂101は4000トン級の輸送船を発見。潜望鏡で観測したところ、相手はQシップだろうと思われた。呂101は夜になってから攻撃することにしたが、輸送船は速力を上げてポートモレスビーの方向へ去っていった。25日に哨戒区域を離れ、28日にラバウルに到着した。 3月5日、呂101は第八十一作戦の生存者救出のためにラバウルを出港。7日、ダンピール海峡で給炭艦野島の生存者45名を救助。8日にラバウルに到着。同日、キリウィナ島近海で座礁した呂103の救援のためラバウルを出港。11日に呂103が自力で離礁したためラバウルに戻った。 19日、呂101はラバウルを出港するが、出港後に乗員のほとんどが食中毒にかかったため、哨戒を中止してラバウルに戻った。21日に再度ラバウルを出港し、ガダルカナル島南東沖に進出。4月5日、エスペランス岬近海に移動して撃墜された味方搭乗員を救助するよう命を受けるが、呂101は米魚雷艇に発見されたため、救助任務を中止することにした。12日、ラバウルに到着。15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊所属となる。 30日、呂101はラバウルを出港し、サマライ島北方沖に向かった。10日、ラビの南東沖に到着して哨戒を行う。17日、哨戒区域を離れる。21日0340、セント・ジョージ岬西方で炎上しながら墜落していく米爆撃機1機を発見。脱出した搭乗員のパラシュート2つが開くのを確認した。同日、ラバウルに到着した。 6月8日、呂101はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖合に向かった。12日には哨戒区域を到着。17日にはガッカイ島沖に移動。29日、哨戒区域を離れる。30日、ムンダ沖で潜航中に米兵員輸送船団を発見した。これはレンドバ島の占領に向かう輸送船団だった。呂101は報告の後上陸地点を攻撃しようとするが、上陸地点付近を哨戒する米魚雷艇の警戒が厳しく、攻撃はできなかった。7月2日には再度上陸地点を攻撃しようとするが、上陸地点付近を哨戒する米魚雷艇の警戒が厳しく、やはり攻撃はできなかった。その夜、浮上充電中に帰投命令を受け取る。3日、ラバウルに到着。 8日、呂101はラバウルを出港しクラ湾に向かう。12日1650、南緯08度00分 東経157度19分 / 南緯8.000度 東経157.317度 / -8.000; 157.317のクラ湾で浮上充電中、輸送船団を護衛中の米駆逐艦テイラー(英語版)(USS Taylor, DD-468)にレーダーで探知される。1654、テイラーは2300mの距離に潜水艦の司令塔を発見し、探照灯照射とともに砲撃を開始する。砲撃により司令塔が損傷し、水雷長徳川熙大尉と見張り員2名が戦死した。呂101は急速潜航するが、損傷により深度140mまで沈下した。1710、テイラーは爆雷2つを投下。呂101は爆雷の爆発で潜望鏡1本が使用不能となった。それから2時間後に浮上した呂100は、被害調査の結果船体に多数の凹みがあり、潜望鏡を交換する必要があることがわかった。日没後、呂101はコロンバンガラ島で行われている戦闘を観測。その後、コロンバンガラ島沖海戦で沈んだ神通の生存者を救助するよう命令を受けるが、損傷により実行できなかった。13日、ショートランド諸島西方で浮上充電中に米哨戒機に発見される。哨戒機は爆弾2発を投下。呂101は急速潜航するが、もう1本の潜望鏡も使用不能となってしまう。14日、ラバウルに到着。 8月7日、修理が完了した呂101はラバウルを出港し、コロンバンガラ方面に進出。18日0100、潜航中に北方で砲撃の閃光が瞬くのを目撃。0200には航行中の駆逐艦の推進器音を聴取。呂101はわずか549mの距離から魚雷4本を発射するも、駆逐艦は30ノットほどで航行しており、すべて後方にそれた。26日、ラバウルに到着。哨戒中の20日、呂100、呂104、呂105、呂106と共に第51潜水隊を編成する。同日、艦長として有馬文夫大尉が着任したが、ラバウルに向かう途中の8月28日、ブーゲンビル島上空で乗っていた九七式飛行艇がPB4Y-1 リベレーターに撃墜され、戦死してしまった。9月1日、藤沢政方大尉が艦長に着任。 10日、呂101はラバウルを出港してサンクリストバル島南東沖に進出するも、その後消息不明となる。 アメリカ側記録によると、15日、インディスペンサブル海峡南方入口でエスピリトゥサント島へ向かっていた輸送船2隻からなる輸送船団が雷撃を受けるが、命中せずに済んだ。護衛は米機雷敷設艦モントゴメリー(USS Montgomery, DD-121/DM-17)と駆逐艦ソーフリー(英語版)(USS Saufley, DD-465)の2隻だったが、モントゴメリーの聴音が不調なため、ソーフリーが単独で対潜掃討を行う。1251、ソーフリーは2700mの距離で潜水艦をソナー探知。ソーフリーは3時間半の間に爆雷攻撃を5回行う。1443に潜水艦が浮上してきたため、ソーフリーは主砲と機銃で潜水艦の司令塔に向け砲撃を開始。また、応援に駆けつけたPBY カタリナが攻撃に加わり、爆雷2発を投下。うち1発が潜水艦に命中する。1446に潜水艦は沈没し、ソーフリーは海中での爆発音を聴取。1735には長さおよび幅3kmにわたり重油が漂うのを確認した。これが呂101の最期の瞬間であり、艦長の藤沢政方大尉以下乗員60名全員戦死。沈没地点はサンクリストバル島南東、南緯10度57分 東経163度56分 / 南緯10.950度 東経163.933度 / -10.950; 163.933。 10月11日、ソロモン諸島方面で亡失と認定され、12月1日に除籍された。
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艦歴
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1943年(昭和18年)10月20日 - 佐世保海軍工廠で起工。 1944年(昭和19年)5月20日 - 「伊号第四百二潜水艦」と命名。9月15日 - 進水。 1945年(昭和20年)7月頃 - 軽質油輸送用潜水艦に改造。7月24日 - 竣工。連合艦隊第6艦隊第1潜水隊に所属。 8月11日 - 呉で爆撃をうけ損傷。呉で整備中に敗戦を迎える。 11月30日 - 除籍。 1946年(昭和21年)4月1日 - 長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分。 2015年(平成27年)8月7日 - 海上保安庁が同年7月に測量船「海洋」が伊号第四百二潜水艦と思われる沈没船を発見したと発表した。また、日本テレビ真相報道バンキシャの取材チームも「伊四百二潜水艦」と思われる構造物を発見している。 2017年(平成29年)5月 - 音波探知機の調査により、存在および艦影がより明らかになる。9月7日 - 沈没位置が特定される。
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艦歴
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「成功 (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
成功は1990年12月21日に高雄市の台灣國際造船で起工する。1991年10月5日に進水し、1993年5月7日に就役した。
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「ブリュートン (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
ブリュートンはルイジアナ州ウェストウィーゴーのエイボンデール造船所で1970年10月2日に起工する。1970年7月24日に進水し、1972年6月18日に海軍に引き渡され、1972年7月8日に就役した。 ブリュートンは1992年7月2日に退役し、防衛援助計画に基づき1999年9月29日に台湾に売却された。台湾海軍では鳳陽 (FFG-933) の艦名で就役中である。
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「クック (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
クックはルイジアナ州ウェストウィーゴーのエイボンデール造船所で1970年3月20日に起工する。1971年1月23日に進水し、1971年12月9日に海軍に引き渡され、1971年12月18日に就役した。 クックは1992年4月30日に退役し、1995年1月11日に除籍された。その後防衛援助計画に基づき1999年9月29日に台湾に移管された。台湾海軍では海陽 (FFG-936) の艦名で就役中である。
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「ブリストル (DD-857)」の記事における「艦歴」の解説
ブリストルは1944年5月5日にカリフォルニア州サンペドロのベスレヘム造船所で起工する。1944年10月29日にアウグスト・フレデリック・エバリー夫人によって命名、進水し、1945年3月17日にK・P・レッツ中佐の指揮下就役する。 就役後1945年6月13日にサンディエゴを出航、真珠湾に6月19日到着し、7月29日にグアムに到着、第30.8任務群に合流する。同艦隊は第38任務部隊に対する補給後方支援を行うグループであった。8月5日にブリストルはアシュタビュラ (USS Ashtabula, AO-51) と衝突する。ブリストルは艦首部分を損傷し、修理のためグアムに帰還、修理は9月1日に完了した。その後日本の占領支援任務に向けて出航する。ブリストルの任務は1946年2月21日に終了し、3月15日にサンペドロに帰還した。 1946年4月、ブリストルは東海岸へ向かい大西洋艦隊に合流した。東海岸沿いに活動を行い、1947年2月にイギリスに向けて出航、ヨーロッパ水域での巡航を8月まで行う。1947年8月から1948年9月までブリストルは大西洋での作戦活動に従事し、その後1949年1月まで二度目のヨーロッパ巡航を行う。 ブリストルは帰国すると予備役訓練艦に指定され、続く18ヶ月間にわたってルイジアナ州ニューオーリンズで活動する。1950年の夏から秋にかけてブリストルはグアンタナモ湾で訓練を行い、その合間にカリブ海のいくつかの港を訪問した。 1950年10月21日にブリストルは母港をニューポートに変更し、グアンタナモ湾で回復訓練を行った後母港のニューポートに到着した。1951年3月5日に地中海へ向かい、第6艦隊との任務に就いた後、夏にニューポートに帰還した。10月2日に世界一周の巡航を始め、その後朝鮮半島で1951年10月31日から1952年2月27日まで活動した。その後スエズ運河と地中海を経由して、1952年4月21日にニューポートに帰還した。 その後ブリストルは大西洋艦隊に所属し東海岸およびカリブ海、また第6艦隊と共に地中海で平時の作戦活動に従事した。 ブリストルは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を、朝鮮戦争の戦功で2個の従軍星章を受章した。 1969年11月21日にブリストルは退役し米海軍から除籍され、同年12月9日には台湾に売却された。 1970年2月5日フィラデルフィアより回航され、4月25日に左営港に到着、台湾海軍に編入され、「華陽」と改名された。同時にイスラエルのガブリエルMK1対艦ミサイルを搭載した。1994年4月に退役・除籍、スクラップにされた。
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「サイズ (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
サイズは1976年2月27日にFY76プログラムの一部としてカリフォルニア州サンペドロのトッド・パシフィック造船所に建造発注され、1978年8月7日に起工する。1979年5月19日に進水し、1981年5月30日に就役した。 イラン・イラク戦争時にはオペレーション・プレイング・マンティス(イランの機雷敷設作戦への対抗作戦)に参加し、ホルムズ海峡においてタンカーの護衛任務に従事した。また、1988年7月3日にミサイル巡洋艦ヴィンセンス (USS Vincennes, CG-49) がイラン航空655便を撃墜したとき、サイズはヴィンセンス隷下の水上戦闘グループに所属していた。 サイズは2003年2月28日に退役し、ワシントン州ブレマートンの予備役艦隊で保管される。 サイズは姉妹艦のジョージ・フィリップ (USS George Philip, FFG-12) と共に2006年にポルトガル海軍へ移管されると見られていたが、ポルトガル海軍はそれを取りやめ、代わりにオランダのカレル・ドールマン級フリゲート2隻を採用した。
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「ミネアポリス・セントポール (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ミネアポリス=セントポールは1973年10月31日にコネチカット州グロトンのジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社に建造発注され、1981年1月20日に起工した。1983年3月19日にペニー・デューレンバーガー(デヴィッド・デューレンバーガー上院議員の妻)によって命名、進水し、1984年3月10日に艦長ラルフ・シュナイダー中佐の指揮下就役する。 ミネアポリス=セントポールは、艦名に都市圏の名が命名された最初の艦であった。ミネアポリス=セントポールはミネアポリスに因んで命名された3隻目の艦であり、同じくセントポールに因んで命名された3隻目の艦であった。先代のセントポール (USS St. Paul, CA-73) はアメリカ海軍艦艇として第二次世界大戦において最後の砲撃を行った艦であった。 ミネアポリス=セントポールは、砂漠の楯作戦に参加し、イラクに対する攻撃第一陣としてトマホーク巡航ミサイルを発射した。 2006年12月29日、ミネアポリス=セントポールは浮上航行でイギリス海軍のデヴォンポート基地へ向かう途中、荒天下のプリマス・サウンドにおいて4名の乗組員が波にさらわれ、上級兵曹長のトーマス・ヒギンズ、二等ソナー技師のマイケル・ホルツが死亡した。この事故の予備調査後、艦長のエドウィン・ラフ中佐は懲戒処分となり、艦長職を解任された。 2008年8月28日に退役した。
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「ロバーツ (モニター・初代)」の記事における「艦歴」の解説
1914年12月17日起工。1915年4月15日進水。同年5月21日就役。艦名は最初はストーンウォール・ジャクソン (Stonewall Jackson) であり、M2と改名された後、1915年6月19日にアール・ロバーツ (Earl Roberts) となり、同年6月22日にロバーツとなった。 アバークロンビー級モニターは4隻ともガリポリの戦いへの投入が決まり、ロバーツは1915年6月28日にイギリスを離れ、巡洋艦エンディミオンに曳航されてダーダネルス海峡へ向かった。 ガリポリの戦いが終わると、アバークロンビー級4隻のうちロバーツとヘイブロックはイギリスに戻された。2隻は1916年2月14日にリムノス島を離れ、4月にイギリスに戻った。その後はヤーマスに配備され、ドック入りなどの時を除き終戦までそこに留まった。1916年11月28日にはツェッペリン飛行船L21に対して攻撃をおこなっている。 1919年5月26日に退役。その後も試験に使用され、1936年にスクラップとして売却された。 表 話 編 歴 アバークロンビー級モニターアバークロンビー | ヘイブロック | ラグラン | ロバーツ 前級:ハンバー級 次級:ロード・クライヴ級 イギリス海軍モニター一覧 | イギリス海軍艦艇一覧 この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。
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「ワカイアカム・カウンティ (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
ワカイアカム・カウンティは1952年7月21日に USS LST-1162 としてミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で起工した。1953年1月23日にウィルバー・G・ディーズ夫人によって命名、進水し、1953年8月13日に艦長I・W・マシューズ少佐の指揮下就役する。 グアンタナモ湾での整調後、LST-1162 は大西洋艦隊に所属しバージニア州のリトル・クリーク海軍両用戦基地を拠点として活動した。1953年の残りはリトルクリーク沖およびフロリダ沿岸での作戦活動に従事した。1954年には大西洋艦隊の揚陸演習「NprAmEx」および「LantFlex」に参加し、フロリダ州キーウェスト沖で戦術開発部隊と共に作戦活動に従事、対潜水艦戦装備の試験を行った。1954年後半に予備役兵を乗せてキューバのハバナを訪問した。1955年3月にはブラッズワース島沖で活動し、海軍の訓練海域における砲術試験で範囲安全艦の務めを果たした。 1955年7月1日、LST-1162 はワカイアカム・カウンティ (USS Wahkiakum County, LST-1162) と命名された。続く5年にわたって東海岸、カリブ海およびメキシコ湾での通常任務に従事する。大西洋艦隊揚陸部隊と共に活動し、ヘリコプター母艦としての役目を果たした。ベトナム戦争においては艦砲射撃の支援艦任務、砲術訓練艦任務、海軍建設工兵大隊およびその装備品の輸送に従事した。 1960年5月から12月にかけて第6艦隊の1隻として地中海に展開する。ワカイアカム・カウンティは貨物と兵員の輸送を担当し、地中海におけるNATO軍の揚陸演習に参加した。 1961年、バージニア州ニューポート・ニューズで拡張オーバーホールを受ける。その後カリブ海に展開し3ヶ月間の活動を行った。 1961年7月1日、ワカイアカム・カウンティは第12揚陸戦隊へと配属され、その年の残りはいくつかの揚陸訓練に参加した。1961年7月から9月にかけて海軍兵学校生をメリーランド州アナポリスからバージニア州リトルクリークへと運び、9月にはカリブ海へ3ヶ月の展開を行った。 1962年秋のキューバ危機では、第8海兵連隊第2大隊を乗せ、10月24日から12月7日まで行われたキューバの封鎖を支援した。1963年の春には再び地中海に展開し、第6艦隊の揚陸任務部隊と活動、1964年春には再びカリブ海に展開した。 1965年4月24日、ドミニカ共和国で追放されていたフアン・ボッシュ・ガビノ(英語版)元大統領の支持者によるクーデターが発生、サント・ドミンゴは内戦状態となった。4月26日にジョンソン大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。更に29日には第82空挺師団を投入する。5月9日から17日までの間、ワカイアカム・カウンティはアメリカ人の保護および作戦活動の支援に従事した。 1960年代後半から1970年にかけてワカイアカム・カウンティはカリブ海と地中海への定期的な展開を行った。 ワカイアカム・カウンティは1970年10月16日にテキサス州オレンジの不活性艦艇施設で退役、1972年4月10日にニューヨーク州ブルックリンで海上輸送司令部に転属、USNS Wahkiakum County (T-LST-1162) となり、海軍からは1973年に除籍された。除籍の正式な日付は1月11日なのか11月11日なのかはっきりしない。 1992年7月29日にワカイアカム・カウンティは海事局国防予備船隊に移管され、カリフォルニア州ベネシアのサスーン湾にある係留地で保管された。その後2005年6月22日にスクラップとしてテキサス州ブラウンズビルのESCOマリーン社に売却、予備役艦隊からは2005年8月24日に除籍された。
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「フォート・マクヘンリー (ドック型揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
フォート・マクヘンリーは1983年6月10日にワシントン州シアトルのロッキード造船で起工、1986年2月1日にヘレン・D・ベントリーによって命名、進水した。1987年8月8日にジョージ・S・ロードス艦長の指揮下就役する。 フォート・マクヘンリーは1988年6月から12月まで西太平洋に配属される。その後、エクソン・ヴァルディーズの石油流出事故に対する除去作業に1989年4月28日から6月22日まで参加した。除去作業に対する乗組員の貢献により、フォート・マクヘンリーは部隊勲功章および沿岸警備隊の特別任務従事リボンを授与された。 1990年6月20日、フォート・マクヘンリーは砂漠の盾/砂漠の嵐に参加するためペルシャ湾に配備され、10ヶ月間に渡って作戦従事する。1991年4月17日、母港のサンディエゴに帰港後フォート・マクヘンリーは海軍部隊栄誉章、国防従軍記章、南西アジア勲功章、クウェート解放メダル(サウジアラビア)、クウェート解放メダル(クウェート)および戦闘活動記章を受章した。 8ヶ月後の1992年1月6日、フォート・マクヘンリーは太平洋西部へ展開した。いくつかの多国籍演習および港湾訪問の後、フォート・マクヘンリーは1992年7月6日にサンディエゴへ帰港した。 広範囲に及んだオーバーホールの後、フォート・マクヘンリーは続く配備に備えて訓練周期に入る。この間にパナマ運河を通過、フロリダ州パナマシティで5隻の新しいLCACを搭載し東海岸へ向かった。訓練終了後、フォート・マクヘンリーは1994年6月9日から12月9日までその4番目の配備が行われた。この間にオペレーション・レストア・ホープに参加する。その後はオペレーション・ヴィジラント・ウォーリアーに参加、フォート・マクヘンリーは二度目の海軍部隊栄誉章、軍事遠征記章、四度目の戦闘効率章を受章した。 1995年9月1日、フォート・マクヘンリーはサンディエゴを出港し、前方展開ユニットの一部として佐世保に配備される。 日本への到着以後、フォート・マクヘンリーはタンデム・トラストのような多国籍演習や、オーストラリアでのクロコダイル、タイでのコブラ・ゴールド、韓国でのフォール・イーグルといった訓練演習に参加し、その間に中国の上海や広島県の呉といった港を訪問した。 1998年5月、フォート・マクヘンリーはCARAT 98(Cooperation Afloat Readiness and Training)に参加する。同演習は西太平洋のブルネイ、シンガポール、マレーシアおよびタイといった国々との共同演習であった。CARAT 98でフォート・マクヘンリーは指揮艦を務め、その功績で1997年海軍太平洋水上艦隊健全部隊賞、海軍作戦部長安全賞を受賞した。 2006年4月長期にわたる展開をしていたため、ローテーション計画に基づき本国に戻ってオーバーホールを受ける。交代として佐世保にはトートゥガが配備された。
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艦歴
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ペラヨは1884年11月にラ・セーヌ造船所に発注され、1885年4月に起工、1887年2月5日に進水、1888年7月に竣工した。竣工後は完熟訓練を本国沿岸で行った。1891年にギリシャを訪問してギリシャ艦隊の観艦式に参列した。1892年にはイタリアのジェノヴァ、ドイツのキールを訪問した。1897年に近代化改装をフランスのラ・セーヌ社に依頼して実施した。しかし、この改装中の1898年4月に米西戦争が勃発した。このときの本艦は武装を撤去していたために、迅速に武装を積み替えて1898年5月14日に仮に再就役をしたが、合衆国海軍の襲撃に備えて一ヶ月間は本国沿岸部に留まった。米西戦争後、本艦はフランスのトゥーロン、ポルトガルのリスボンを表敬訪問して現地の観艦式に参加した。 1900年代には列強各国は弩級戦艦の時代に入っていたが、同海軍では弩級戦艦の整備が遅れていたために本艦が唯一の主力艦として使用され続けた。このため、1909年に勃発したモロッコにおける第2次リーフ戦争において陸軍の紛争鎮圧活動を助けるため海軍も艦砲射撃を行って支援した。 1910年に第二次近代化改装を行ったが、1912年に航路の誤りによりFonduko湾の中で座礁し、修理後は練習艦に類別された。1920年から1921年にかけて砲術練習艦として使用された。本艦は1923年に武装を解除し、1925年に除籍後、廃棄処分された。 1890年代の「ペラヨ」のスペックと外観 1910年代の「ペラヨ」のスペックと外観 1920年代の「ペラヨ」のスペックと外観
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艦歴
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「サイダ (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
モンファルコーネのCantiere Navale Triestinoに発注され、1911年9月9日起工。1912年10月26日進水。1914年8月1日就役。
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艦歴
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「ミリアス (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
2005年1月にミリアスはオペレーション・ユニファイド・アシスタンスに参加し、スマトラ島沖地震の被災者を救援した。 2017年夏にはサンディエゴから横須賀への移動する予定であったが、艦の保守と近代化改修を優先し、イージスシステムをベースライン9へのアップグレードし、BMD対応後の試験と認証を完了させるために配置転換を遅らせ2018年となり、横須賀第7艦隊所属第15駆逐隊で共に戦列を離れるUSSフィッツジェラルド、USSジョンSマケインBMD対応駆逐艦の代替任務にUSSオケインと共につくことが一部報道で報じられた。
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艦歴
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「ブラックフィッシュ (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ブラックフィッシュはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1942年4月18日にヘンリー・ド・F・メル夫人によって進水し、レイモンド・W・ジョンソン中佐(アナポリス1930年組)の指揮下1942年7月22日に就役。アメリカ海軍ヨーロッパ方面軍の第50潜水艦部隊に配属された。最初の哨戒までに、艦長がジョン・F・ダヴィッドソン少佐(アナポリス1929年組)に代わった。
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艦歴
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「バートン (DD-599)」の記事における「艦歴」の解説
バートンは1941年5月20日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール、フォアリバー造船所で起工する。1942年1月31日にバーバラ・ディーン・バートン(バートン提督の孫娘)によって命名、進水し、1942年5月29日に艦長D・H・フォックス少佐の指揮下就役した。 バートンは1942年8月23日に東海岸を出航し太平洋に向かう。9月14日にトンガタプ島に到着し、10月5日にはブーゲンビル島への攻撃に参加、10月26日には南太平洋海戦に参加し、敵機7機を撃墜した。10月29日にはファブレ島沖で撃墜された輸送機の生存者17名を救助した。 11月12日、バートンは補給船団を護衛してガダルカナル島沖に到着。その頃、味方の偵察機が「スロット」と呼ばれた海域を南下してガダルカナル島に向かう日本艦隊を発見したため、第67.4任務群司令官ダニエル・J・キャラハン少将は、5隻の巡洋艦とバートンを含む7隻の駆逐艦に、日本艦隊を迎え撃つため集合するよう命令を出した。艦隊後衛の二番手に就いたバートンは、日没前からおそらく真夜中に最接近するであろう日本艦隊に備え、じっと待機していた。後世に「アイアンボトム・サウンド」と呼ばれるようになる海域は、時折降るスコールによって視界は狭まり、日本艦隊にとっても、そして第67.4任務群にとっても不利な材料となった。しかし、日付が11月13日に変わった直後の0時30分頃、第674.4任務群はレーダーによって阿部弘毅中将の日本艦隊を探知した。ヘンダーソン飛行場砲撃が主目的の阿部中将の艦隊は、戦艦比叡と霧島を主軸とし、他に1隻の巡洋艦と11隻の駆逐艦で構成されていた。サボ島の北西方からアイアンボトム・サウンドに入ってきた阿部中将の艦隊は、スコールによって第67.4任務群の動きをほとんど知ることがなかった。 1時30分頃、夕立と思しき駆逐艦がスコールから抜け出て、初めて両艦隊の視覚的接触があった。キャラハン少将は第67.4任務群を丁字戦法の陣形に持っていき、阿部中将の艦隊は第67.4任務群を突っ切る態勢になったが、最初の接触があってから約10分間は、第64.4任務群の前衛の駆逐艦が夕立を見て急旋回するなどの混乱があって、互いに砲撃をしてこなかった。バートンはあらかじめ砲と魚雷発射管を敵側に向け、後は攻撃命令を待つだけであった。1時48分、駆逐艦暁が軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-51) にサーチライトを照射し、これをきっかけに両艦隊の艦艇が入り乱れて第三次ソロモン海戦が始まった。 バートンとモンセン (USS Monssen, DD-436) は、乱戦を避けて戦うため、近在の日本の駆逐艦に対して砲撃を行いつつ日本艦隊の主力に北西方から迫ろうとした。しかし、バートンが比叡に対して4本の魚雷を発射しようとしたその時、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) がバートンの前方を横切った。また、アーロン・ワード (USS Aaron Ward, DD-483) に追突しそうになった。バートンは急停止の後、航行を再開しようと機関を始動させようとした。その瞬間、駆逐艦天津風から発射されたものと思われる2本の酸素魚雷がバートンに命中した。ボイラー室と前部機関室に命中して爆発し、数秒の内にバートンの船体は分断。士官13名、兵員151名と共に沈没した。42名の生存者が重巡洋艦ポートランド (USS Portland, CA-33) により救助され、26名がガダルカナル島からのヒギンズ・ボートにより救助された。 バートンは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。
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「ワラルー (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
1941年4月24日起工。1942年2月18日進水。1942年7月15日、シドニーで就役。 就役後、オーストラリア周辺で対潜哨戒、護衛、掃海に従事した。 1943年6月10日、ワラルーはアメリカ商船ジョン・G・ホイッティア (John G. Whittier) 、ヘンリー・ギルバート・コスティン (Henry Gilbert Costin) を護衛してフリーマントルを出航した。同日深夜、船団は分散する地点に着いた。護衛はそこまでの予定であった。先頭にいたワラルーは針路を変更し、ジョン・G・ホイッティアの横を通過した後、その後ろのヘンリー・ギルバート・コスティンと衝突した。ワラルーは、11日午前7時頃転覆し沈没した。この衝突でワラルー乗員2名が死亡し、1名が行方不明となり、生存者は掃海艇ダボにより救助された。なお、ヘンリー・ギルバート・コスティンの損傷は軽微であり、衝突後フリーマントルに戻った。
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艦歴
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「バトラー (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
本艦はミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船で海事委任契約の下、モーマックターン(Mormactern)の艦名で1941年4月15日起工する。1942年1月7日にオルタマハと改名されるが、1942年3月17日に取り消された。1942年4月4日にフィリップ・シーモア夫人によって進水する。1942年8月20日に ACV-6(補助空母)に艦種変更され、1942年10月31日にアメリカ海軍に引き渡される。レンドリース法に基づき同日イギリス海軍に移管、バトラー(HMS Battler)と改名された。 バトラーは北大西洋で船団護衛と対潜水艦作戦に従事し、第二次世界大戦の全体を通じてイギリス海軍で使用された。1943年9月にはイタリアのサレルノ上陸を支援した。1943年7月15日にアメリカ海軍によって CVE-6(護衛空母)に艦種変更される。バトラーは1946年2月12日にアメリカに返還され、1946年3月28日に除籍された。その後1946年5月14日にペンシルベニア州のパタプスコ・スチール・スクラップ社に売却、廃棄された。
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艦歴
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ピートはウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で1941年6月18日起工される。1942年4月30日にE・A・ロフクィスト夫人によって進水し、11月21日に艦長ウィリアム・T・ネルソン少佐(アナポリス1930年組)の指揮下就役する。12月末、一時的に退役してはしけに乗せられ、マニトワックを出てニューオーリンズへ向かった。ニューオーリンズで調整と出港準備を完了した後、ピートは再就役しパナマ運河を経て1943年3月14日、オーストラリアのブリスベンに到着した。
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艦歴
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「ナッソー (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
ナッソーは海事委任契約の下ワシントン州タコマのシアトル・タコマ造船所で1941年11月27日に起工した(船体番号234)。1942年4月4日にオレゴン州タング・ポイントでG・H・ハッセルマン夫人によって進水し、5月1日にワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠まで牽引され海軍に引き渡され護衛空母に転換された。1942年8月20日にオースティン・K・ドイル艦長の指揮下就役した。 ナッソーはタコマ造船で建造された37隻のC3貨物船を改装した航空母艦の内の一隻であった。26隻はイギリス海軍に貸与され、10隻はボーグ級航空母艦としてアメリカ海軍に就役した。 10月10日にナッソーはカリフォルニア州アラメダのアラメダ海軍航空基地に到着し、航空機を搭載すると4日後に真珠湾に向けて出航、その後パルミラ環礁に向かい、10月30日に到着した。続く4ヶ月間、ナッソーはパルミラ環礁とヌーメア、エスピリトゥサント間で活動した。 ナッソーは1943年2月14日に真珠湾に帰還、兵員と航空機を積み込むと2月21日にエスピリトゥサントへの輸送任務に就く。3月中旬に真珠湾へ戻り、続いてアラメダに向かう。ナッソーは4月にサンディエゴに移動し飛行訓練を行い、その後第51.1任務群に合流、VC-21 を乗艦させアラスカ州コールド湾へ向かう。 5月4日に偵察巡航を行いその後第51任務部隊と共に飛行訓練を行う。5月11日から20日までアッツ島攻略戦において上空援護を行い、5月後半にサンディエゴに帰還、6月8日にアラメダに到着し45機の航空機を搭載するとブリスベーンに向かう。7月2日に航空機を送り届けると、ヌーメア経由でサンディエゴに帰還する。 ナッソーは8月にサンディエゴ沖で訓練を行い、その後サモアに航空機を輸送する。10月19日にサンディエゴに帰還し、第225海兵隊戦闘機中隊を乗艦させ真珠湾へ輸送、10月30日に到着する。真珠湾で11月上旬まで作戦活動に従事し11月7日に VF-1 を乗艦させるとギルバート諸島に向かい、第52任務部隊と作戦活動に入る。 ナッソーは VF-1 をタラワに輸送し、地上部隊に設備を送り届けた。タラワ侵攻作戦は11月20日に開始したが、大きな抵抗に遭遇した。VF-1 は戦闘偵察を命じられ、空母攻撃部隊の支援として空爆、機銃掃射を行った。部隊は4日間で106回の出撃と237時間の飛行時間を記録し、一機の損害も生じなかった。 作戦任務の後、ナッソーは12月5日に真珠湾に帰還する。その後第51.2任務群と共にマーシャル諸島に向かい。1944年1月29日にマロエラップ環礁に攻撃を行う。翌日任務群はクェゼリン環礁、ウォッジェ環礁、マロエラップ環礁に攻撃を集中させ、ナッソーは部隊と共に対潜水艦、空中警戒任務に従事した。 ナッソーは3月3日に真珠湾に帰還し、VC-66 を上陸させると航空機、貨物および兵員を積み込みマーシャル諸島へ向かう。3月を通じてクェゼリン、マジュロ、真珠湾の間で輸送任務に従事し、メア・アイランド海軍工廠で修理及び改修後、5月5日に51機の航空機をニューギニアのフィンシュハーフェンへ輸送する。続く4ヶ月にわたってサンディエゴから真珠湾、アドミラルティ諸島、ニューヘブリディーズ諸島への輸送任務に従事した。 9月1日にゼーアドラー湾に到着し、ナッソーは第30.8任務群に合流する。ナッソーはハルゼー提督率いる第3艦隊の一艦として活動を始める。ナッソーはアドミラルティ諸島から他の護衛空母と共に第38任務部隊の空母に補充の航空機と兵員を輸送した。ナッソーは西太平洋で三度の補給任務を行った。使用不能となった航空機を積み込みアドミラルティ諸島に帰還した後、修理調整のため真珠湾に向かう。 これらの補給巡航の第一回はパラオに対する攻撃支援のためのものであった。二回目はフィリピン攻撃に対する支援であり、その後第38任務部隊は攻撃目標をフィリピン北部から台湾に変更する。ナッソーは10月20日にマヌス島に到着する。要修理の航空機と新品を積み替え、ナッソーは最後の補給巡航に出航した。ウルシー泊地を出航し第38.1任務群および38.3任務群に10月28日合流、70機の航空機と43名のパイロットを正規空母に補給した。 第12.6.1艦隊はナッソー、戦艦テネシー (USS Tennessee, BB-43) および4隻の艦艇から成り、11月5日に出航、16日に真珠湾に到着する。2日後ナッソーはサンディエゴに向かう。ナッソーが運んだ乗客の中には10月24日のレイテ沖海戦で沈没した空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) の生存者382名が含まれていた。11月半ばに真珠湾への輸送任務を行い、1944年12月から1945年2月までにグアムへ三度の往復を行う。3月23日にアラメダに到着し、その後終戦までアラメダから真珠湾、グアム、マヌス島、サマール島、サイパンへ輸送任務を継続した。 ナッソーは1946年5月13日にアラメダを出航、ワシントン州タコマに向かう。10月28日に退役し、太平洋予備役艦隊入りする。その後航空機輸送のための改修が行われ、1955年6月12日に CVHE-16(護衛ヘリ空母)へ艦種変更される。間もなくブレマートン予備役グループに移動し、1959年3月1日に除籍される。ナッソーは1961年6月に廃棄のために日本へ牽引された。 ナッソーは第二次世界大戦の戦功で5つの従軍星章を受章した。
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「LST-12 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-12は1942年8月16日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、12月7日に進水した。しかしアメリカ海軍へは就役せず、1943年3月26日にHM LST-12としてイギリス海軍へ就役した。1943年5月14日にニューヨークから護送船団UGS8Aとともに地中海へ向け出発した。 LST-12は第二次世界大戦においてヨーロッパ戦線に従事した。参加した戦いには、ハスキー作戦やアヴァランチ作戦があり、1944年8月~9月にかけて行われた南部フランス侵攻へも参加している。LST-12は、イギリス海軍の中で唯一この侵攻に参加したLST-1級戦車揚陸艦である。 1943年11月13日に機雷に接触している。1944年9月から1945年1月まで、イタリア、ユーゴスラビア・ギリシャ間での作戦行動に使用された。1945年8月から10月までアントワープで修理を受け、1946年1月5日に運用停止、6月5日にアメリカ海軍へ返還された。1947年3月20日にアメリカ海軍を除籍され、9月11日にスクラップの為売却された。
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「オルタマハ (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
オルタマハは海事委任契約の下ワシントン州タコマのシアトル・タコマ造船所で1941年12月19日に起工した(船体番号235)。1942年5月25日にトーマス・S・コムズ夫人によって進水し、1942年9月15日にJ・R・テート艦長の指揮下就役した。 短期の公試に続いて、オルタマハは10月27日に駆逐艦ケンドリック (USS Kendrick, DD-612) と共にカリフォルニア州サンディエゴを出航した。巡航の途中、ケンドリックの乗組員が潜水艦を発見し、オルタマハに向けて三発の魚雷を発射したと主張した。しかしながらオルタマハの乗組員誰もが魚雷を見つけることは出来なかった。巡航は平穏無事に継続し、オルタマハは10月31日にサンディエゴに到着した。その後、オルタマハは航空機と兵員を積み込み11月3日に船団と共に南西太平洋へ出航した。 11月24日にエスピリトゥサントに到着し、積み荷の一部を陸揚げするとニューカレドニアへ向かう。11月28日にヌーメアに到着し、パイロットの飛行訓練及び乗組員の訓練演習を行う。12月30日にエスピリトゥサントに帰還するが続けてフィジーへ向かい、1943年1月13日にナンディに到着、その後訓練に従事する。 2月前半にオルタマハはフナフティ島に立ち寄り、貨物と兵員を上陸させる。その後ハワイに向かい2月10日に真珠湾に到着した。真珠湾で第11航空団の航空機と兵員を搭載すると2月19日にフィジーに向かう。2月28日にナンディに到着すると荷物を降ろし、ハワイへ帰還する。 真珠湾で短期間停泊した後、オルタマハは3月9日に太平洋艦隊へ向けての補充の航空機を運搬する。3月15日にパルミラ環礁で小休止し、3月17日にジョンストン島で海兵隊航空団を上陸させる。3日後にミッドウェー島に立ち寄り、ハワイへ向けて帰還する。3月23日まで真珠湾に停泊し、アメリカ西海岸へ向かう。 オルタマハは4月1日にサンディエゴに到着し、3ヶ月半の期間をカリフォルニア沖での飛行訓練に費やす。7月13日にアラメダに到着し、アラメダ海軍航空基地で航空機を積み込む。3日後にオーストラリアに向かい、8月3日にブリスベーンに到着する。フリーマントルを10日間訪問し、8月16日にインドへ向けて出航、8月28日にカラチに到着し、陸軍の航空機を29機送り届ける。 9月2日に帰路に就きオーストラリアに向かう。9月18日にメルボルンに到着し、三日間の検査、補修の後アメリカ西海岸へ向かう。10月8日にオーバーホールのためカリフォルニア州ヴァレーオのメア・アイランド海軍工廠に入る。 オルタマハは11月8日に公試に出航し、アラメダで補充の航空機を積み込むと11月13日にブリスベーンへ出航した。11月30日にブリスベーンに到着し積み荷を降ろすと、12月4日に帰路に就く。12月21日にサンディエゴへ到着すると、空母認証訓練と補修を行う。 オルタマハは1944年3月22日に真珠湾に向けて出航する。3月28日に到着し、そこからマーシャル諸島300マイル東方の作戦活動水域に第6混成航空団を輸送する。オルタマハは真珠湾とマーシャル諸島を結ぶ輸送航路での日本軍潜水艦に対する戦闘部隊である第11.1任務群の核となり、3月30日に4隻の護衛駆逐艦と共にハワイを出航する。部隊は4月3日に作戦海域に到着し最初の警戒巡航を行った。部隊は二隻の敵潜水艦と遭遇したが、どちらにも損害を与えることはできなかった。任務群は4月8日にマジュロ環礁に到着し、護衛駆逐艦が燃料を補給した。 新たな任務を受けた部隊は4月11日に出港する。4月14日1400、北緯14度00分 西経177度30分 / 北緯14.000度 西経177.500度 / 14.000; -177.500の地点でオルタマハは伊36に発見され、追尾される。15日1830、攻撃地点に移動した伊36は、オルタマハが艦載機を収容するために風上に向かって航行しているのを確認。その時、駆逐艦1隻が伊36の方向へ転舵してきたため、伊36は200mの距離で魚雷6本を発射し、水深30mの位置へ潜航。2分10秒後、2回の爆発音を聴取した。1844、オルタマハは2本から4本の魚雷の雷跡を発見し、面舵一杯と機関全速で回避を行った。1分後、魚雷2本が右舷横を通過していった。護衛部隊は伊36を捜索したが、見つけることはなかった。その後は何事もなく、第11.1任務群は4月18日に任務を解かれ真珠湾に向かう。ハワイ海域での短期の維持作業に続き、オルタマハは5月上旬にマジュロに帰還し、その後マーシャル諸島で対潜水艦護衛任務を行った後、5月11日に真珠湾に到着した。 ハワイで二日間停泊した後、オルタマハはアメリカ西海岸に進み、5月18日にアラメダに到着する。修理と改修を行うためユナイテッド・エンジニアリング社の造船所に入り、作業が完了すると5月31日に作戦活動を再開、ハワイに向けて航空機と予備部品を運搬する。 真珠湾で積み荷を降ろすと、オルタマハはアラメダに帰還する。その後6月19日いサンディエゴに到着し、二日間に渡って兵員と機材を積み込み、6月21日にカリフォルニアを出航しニューヘブリディーズ諸島に向かう。7月7日にエスピリトゥサントに到着し積み荷を降ろすと7月12日にニューギニアのモロベに向かい、7月16日に到着する。その後ランゲマク、ゼーアドラー湾、マヌス島を訪れ、7月25日にエスピリトゥサントに帰還する。その後オルタマハは再びニューヘブリディーズ諸島への巡航を行い、ゼーアドラー湾とガダルカナル島を訪れる。8月10日にニューヘブリディーズ諸島を出航しハワイに向かう。 オルタマハは真珠湾で二日間停泊し、その後サンディエゴへ向かう。サンディエゴで4日間を過ごした後、真珠湾に戻り、9月8日にハワイを出航、エミラウ島とゼーアドラー湾を訪れ、10月6日にサンディエゴに帰還した。その後三週間を同海域での訓練で過ごし、10月26日に再び西への巡航を開始する。 真珠湾での三日間の停泊後、オルタマハは補充航空機とパイロットをエニウェトクへ輸送する。10月15日にウルシー環礁に到着し、同水域で12月14日まで飛行訓練を行った後、第3艦隊の補給海域に向かう。12月16日、オルタマハはフィリピン海で第30.8任務群に合流、翌日駆逐艦ブキャナン (USS Buchanan, DD-484) にパイロットを移乗させるが、荒天により作業は中断した。12月18日の早朝、猛烈な台風に遭遇、09:00までにオルタマハは20度から30度もの傾きを生ずるほど荒波に揺られる。一時間後に視界はゼロとなり、艦は姿勢維持の努力を放棄した。オルタマハの搭載していた航空機の二分の一が破壊されるか船外に落下するかした。更に前方エレベーター部分は浸水し始めた。16:00までに天候は回復し、艦の状態も回復した。オルタマハはすぐに第30.8任務群の艦と合流した。 オルタマハは相当の被害が生じたが、兵員の損害はなく、12月19日に新たに補給任務を再開することができた。オルタマハは補給部隊と共に任務を1945年2月まで継続した。その間にフィリピン海域の第3艦隊の艦艇と共に活動を行い、グアム、マヌス島、ウルシー環礁で港湾訪問を行った。2月15日に真珠湾に到着する。 オルタマハは西海岸へ向けて巡航し、2月26日にアラメダに到着した。その後3月3日にハンターズ・ポイント海軍工廠で信頼性試験を開始し、この間に乾ドックで水線下の定期補修作業と、台風で損傷したスクリューの修理を受ける。3月14日に作業は完了、航空機、弾薬及び補給物資を積み込み真珠湾へ向かう。 大戦も終盤に近づくと、オルタマハはアラメダ、サンディエゴ、真珠湾から太平洋の各地へ運搬作業を行う。グアム、サイパン、エニウェトク、コソル水道、サマール島などに停泊した。8月15日に日本が降伏し、オルタマハは西海岸へ帰還、ハンターズ・ポイント海軍工廠で補修とオーバーホールを受ける。10月半ばに公試を行い、22日に真珠湾へ向かう。その後マジック・カーペット作戦に割り当てられたオルタマハは、兵員及び機材を太平洋からアメリカ本土へ輸送した。 1946年1月15日、オルタマハはワシントン州タコマに向かう。同地で不活性化の準備に入り、9月27日に予備役となる。1955年6月12日に CVHE-18(護衛ヘリ空母)に艦種変更され、1959年3月1日に除籍される。1961年4月25日にニューヨークのアイゼンベルク社に売却され、同年末に日本でスクラップとして廃棄された。 オルタマハは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「コパヒー (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
コパヒーは海事委任契約の下ワシントン州タコマのトッド・パシフィック造船所で1941年6月18日にスチール・アーキテクト(Steel Architect)(船体番号169)として起工した。1941年10月21日にW・M・ウェルズ夫人によって進水し、1942年2月8日に海軍に引き渡され、1942年6月15日にJ・G・ファレル艦長の指揮下就役した。 コパヒーは1942年9月5日にアラメダを出航し、9月28日にヌーメアに到着、貨物、航空機、物資、兵員を送り届ける。10月7日から11日までガダルカナル島へ巡航し、20機の海兵隊航空機をヘンダーソン基地に運搬する。カリフォルニア州サンディエゴへは10月29日帰還し、オーバーホールに入る。 コパヒーは真珠湾で訓練を行った後、1943年2月25日にサンディエゴを出航し、航空機、兵員、物資をニューヘブリディーズ諸島、フィジー、ニューカレドニアの前線基地に運搬する。任務は6月7日まで継続した。 1943年9月2日から1944年1月19日の間にコパヒーは二度の輸送任務に従事し、オーストラリアのタウンズヴィル、ブリスベーンと、真珠湾へ航空機を運搬した。4月10日にサンディエゴを出航し、6月3日まで真珠湾とマジュロへ航空機を運搬した後、マリアナ諸島での戦いに向けて第5艦隊に補充のパイロットと航空機を運搬した。1944年7月28日にサンディエゴに帰還し、日本軍の捕獲機(零式艦上戦闘機13機、九七式艦上攻撃機1機)および機材(エンジン37基)を研究、訓練に使用するため運搬した。 オーバーホールの後、コパヒーは輸送任務に復帰する。戦争の終了までマヌス島、マジュロ、グアム、サイパンおよび真珠湾へ大量の貨物を輸送し、アラメダから6度の往復を行った。1945年9月6日から12月21日までマジック・カーペット作戦に従事し、サイパン、グアム、エニウェトクおよびフィリピンから西海岸に帰還兵を輸送する。1945年12月21日にアラメダに帰還し。1946年7月5日にワシントン州タコマで退役する。 コパヒーは1955年6月12日に CVHE-12(護衛ヘリ空母)へ艦種変更される。その後1959年3月1日に除籍され、1961年にスクラップとして売却された。 コパヒーは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「能登呂 (水上機母艦)」の記事における「艦歴」の解説
1920年8月10日 川崎造船所にて竣工。特務艦(給油艦) 1925年12月-翌年5月 佐世保海軍工廠にて水上機母艦への改装工事。 1931年9月5日 横浜港に停泊中、漏れたガソリンに引火爆発、10名の殉職者を出す事故を起こした。 1932年1月 第一次上海事変に参戦。 1934年6月1日 水上機母艦へ類別変更。 1937年 日中戦争(日華事変)に参戦。 1941年7月 搭載機を降ろす。 1943年1月9日 マカッサル海峡でアメリカ海軍潜水艦ガー(SS-206)の雷撃により損傷、シンガポールで修理を行う。9月20日 トラック沖でアメリカの潜水艦ハダック(SS-231)の雷撃で損傷、因島で修理。 1944年6月29日 シンガポール南東沖でアメリカの潜水艦フラッシャー(SS-249)の魚雷3本を受けた。6月30日 シンガポール入港、修理。 11月5日 アメリカ陸軍航空隊機の爆撃により大破。 1945年3月1日 予備艦となる。 1947年1月12日 イギリス軍により海没処分された。5月3日、除籍。
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艦歴
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「あただ」は、昭和28年度計画掃海艇301号艇として、日立造船神奈川工場で1955年6月20日に起工され、1956年3月12日に進水、1956年4月30日に就役し、呉地方隊に編入された。同年9月1日、呉地方隊隷下に第31掃海隊が新編され、「いつき」、「やしろ」とともに編入された。 1957年3月16日、第31掃海隊が第1掃海隊群隷下に編成替え。 1969年3月15日、第31掃海隊が呉地方隊隷下に編成替え。 1970年3月2日、第31掃海隊が呉地方隊隷下の阪神基地隊に編成替え。 1972年3月31日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-56に変更、佐世保地方隊に編入。 1980年3月17日、除籍。
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艦歴
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1942年(昭和17年)11月5日 - 川崎重工業神戸造船所で起工。 1943年(昭和18年)7月5日 - 伊号第十二潜水艦と命名、本籍を横須賀鎮守府と仮定、伊九型潜水艦の4番艦に定められる。8月3日 - 進水。 1944年(昭和19年)5月25日 - 竣工、横須賀鎮守府籍。第11潜水戦隊に編入。10月4日 - 第六艦隊直卒となる。呉を出港。 10月30日 - 米貨物船ジョン・A・ジョンソン撃沈。 1945年(昭和20年)1月15日 - マーシャル北方で敵に発見されたとの情報を最後に消息不明1月31日 - 中部太平洋方面で沈没と認定。 8月10日 - 除籍。
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艦歴
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「イレジスティブル (戦艦)」の記事における「艦歴」の解説
1914年8月の第一次世界大戦勃発時、イレジスティブルの所属していた第5戦艦戦隊はポートランドを基地としており、海峡艦隊に属してイギリス海峡の哨戒任務についていた。1914年8月25日、イレジスティブルはポーツマス海兵大隊のベルギー、オーステンデへの上陸とその後の占領を支援した。 1914年の10月と11月は、イレジスティブルは一時的にドーバー・パトロールに配属された。イレジスティブルの任務は、前線で戦う連合国軍の支援としてベルギー沿岸のドイツ軍を砲撃することなどであった。1914年11月3日、イレジスティブルはゴーレストン襲撃の際にイーストコースト・パトロールの支援に当てられた。1914年11月後半、イレジスティブルは海峡艦隊に戻った。 1914年11月14日、第5戦艦戦隊は予想されるドイツ軍の侵攻に備えてシアネスに移された。1914年12月30日、第5戦艦戦隊はポートランドに戻った。 1915年1月1日、イレジスティブルはダーダネルス海峡に派遣された。そこで、1915年3月までイギリスのダーダネルス戦隊旗艦を務めた。イレジスティブルはダーダネルス海峡の入り口を守るオスマン帝国の要塞に対する砲撃に1915年2月18日と2月19日に参加した。また、それより後の要塞砲撃にも参加している。1915年2月25日には最初の上陸を支援すると共にオルカニエ要塞の2門の9.4インチ砲を撃破した。 1915年3月初旬、イレジスティブルは再び上陸支援に当たった。 1915年3月18日、イレジスティブルは海峡内の要塞に対する砲撃に参加した。現地時間の16時16分頃、Erenkui湾でイレジスティブルはトルコ軍の機雷に触れ大きく損傷した。右舷の機関室が急速に浸水し、3人を除きそこにいた乗員はすべて死亡した。次いで艦中央の隔壁が崩壊し、左舷の機関室も浸水した。これによりイレジスティブルは動力を失った。イレジスティブルはトルコ軍の砲の射程内を漂い、激しい砲撃を受けた。 艦長とわずかな志願者を除いて、乗員は駆逐艦ウェアに移り、そこからさらに戦艦クイーン・エリザベスに移された。戦艦オーシャンがイレジスティブルの曳航に向かったが一時座礁し、イレジスティブルは岸の近くを漂い続けていた。傾斜と激しい敵の砲撃および浅い水深のためにイレジスティブルの曳航は不可能であることがわかり、オーシャンが艦に残っていた乗組員を救助し、艦は放棄された。撤退中のオーシャンも触雷し、22時30分頃に沈没した。 同日夕方、駆逐艦ジェドが2隻の戦艦を魚雷で処分するために海峡内に入ったが何も発見できなかった。トルコ側の報告によると、放棄されたイレジスティブルはより岸の近くへ漂流し砲撃によってさらに損害を受けて19時30分頃沈没した。 イレジスティブル沈没による死傷者は約150人であった。
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艦歴
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「ホランド (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ホランドは当初「ホランド VI」(Holland VI)の艦名で1897年5月17日にニュージャージー州エリザベスのクレセント造船所で起工した。作業はジョン・ホランドの会社(後にホランド魚雷艇社(Holland Torpedo Boat Company)として知られる)のためルイス・ニクソン造船所で行われた。艦は設計者のホランドと、クレセント造船所の主任技師、アーサー・レオポルド・ブッシュの監督の下建造された。ホランド VIは同級で最初に成功した艦であると考えられ、その成功はエレクトリック・ボート社の創設につながった。 艦は続く数年にわたって改良が行われ、1900年10月12日に艦長ハリー・H・コールドウェル中尉の指揮下ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍に就役、ホランド(USS Holland, SS-1)と改名された ホランドはアメリカ海軍で最初に就役した潜水艦で、最初の艦番号を持つ艦であるが、海軍によって所有された3番目の潜水艦である。最初に所有された潜水艦はアリゲーターであり、2隻目はインテリジェント・ホエールである。 1900年10月16日にホランドはタグボートのレイデンに曳航されてニューポートを出航し、メリーランド州アナポリスのアメリカ海軍兵学校で士官候補生や、艦隊のために建造されている他の潜水艦を運用する下士官兵の訓練を行う。 ホランドは建造、あるいは設計中の潜水艦のデータを収集する実験に有用であることが証明された。ホランドは1901年1月8日から10日にかけてアナポリスからバージニア州ノーフォークまで水上航行を行い、長時間の運用におけるパフォーマンスに関するデータを提供した。 1901年6月15日から10月1日までニューポートの海軍水雷ステーションで士官候補生の訓練に使用された期間を除いて、ホランドは1905年7月17日までアナポリスで訓練に使用された。 ホランドはノーフォークでその経歴を終え、1910年11月21日に除籍された。ホランドはペンシルベニア州フィラデルフィアのヘンリー・A・ヒンター・アンド・サンズ社にスクラップとして100ドルで1913年6月18日に売却された。同社は艦が解体され船として使用されないことを保証するため5,000ドルの契約を要求された。
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マル追計画の潜水艦甲、第620号艦型の2番艦、仮称艦名第621号艦として計画。建造中の1943年後期に、建造隻数が削減された伊四百型潜水艦を補うため設計変更された。 1943年2月4日川崎重工業神戸造船所で起工。10月1日伊号第十三潜水艦と命名、伊十型潜水艦の4番艦に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。11月30日進水。1944年12月16日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、第六艦隊付属に編入、神戸発呉へ。その後は呉にて搭乗員の訓練などに従事。12月30日伊号第400潜水艦と第一潜水隊を新編。
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「グアム (大型巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
グアムはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1943年11月12日にジョージ・マクミラン夫人(前グアム島知事夫人)によって進水、1944年9月17日にレランド・P・ラヴット艦長の指揮下就役した。 トリニダードでの整調後、グアムはフィラデルフィアを1945年1月17日出航し、パナマ運河経由で2月8日に真珠湾に到着、太平洋艦隊に合流する。間もなくグアムはフォレスタル海軍長官の訪問を受ける。3月3日に真珠湾を出航し、3月13日にウルシー環礁に到着、姉妹艦のアラスカ(USS Alaska, CB-1)と共にミッチャー提督率いる第58任務部隊に加わる。 その後ウルシー環礁で配置転換が行われ、グアムはアーサー・W・ラドフォード少将率いる第58.4任務群に配属される。部隊はアメリカ海軍史上最も強力な艦隊の一つであった。九州近海から四国に向けて展開し、3月18日に同水域に到着する。同部隊を含む任務部隊は、空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)、イントレピッド(USS Intrepid, CV-11) 、インディペンデンス(USS Independence, CVL-22)、ラングレー(USS Langley, CVL-27)、戦艦ミズーリ(USS Missouri, BB-63)、ウィスコンシン(USS Wisconsin, BB-64)、巡洋艦アラスカ、セントルイス(USS St. Louis, CL-49)、サンディエゴ(USS San Diego, CL-53)、フリント(USS Flint, CL-97)及び15隻の駆逐艦から構成され、多くの激戦地に投入された。グアムの初陣はすぐに訪れる。戦闘は空母部隊に対する5機の特攻機の突入から始まった。グアムは敵機に対して直接の砲撃を行い、この戦闘では空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)とイントレピッドが損傷を受けたが活動を継続した。エンタープライズは艦橋近くに爆弾の直撃を受け、イントレピッドは後部飛行甲板に特攻機が突入した。戦闘は午後も継続し、グアムの部隊は敵機4機を破壊し、そのうち1機はグアムが撃墜した。翌日の午後、グアムは戦闘で大破した空母フランクリン(USS Franklin, CV-13)の護衛に従事し、同任務は3月22日まで継続した。 補給が完了するとグアムは第58.4任務群に再合流し沖縄諸島近辺の戦闘地域に向けて出航した。3月27日の夜から3月28日にかけてP・S・ロウ少将率いる第16巡洋艦部隊は南大東島の飛行場に対し艦砲射撃を行う。その後5月11日までグアムは南西諸島での空母部隊の支援任務に従事した。 ウルシー環礁での修理および補給後にグアムは再び沖縄東部水域に向けて出航し、ウィリアム・ハルゼー提督率いる第38.4任務群から改名された第3艦隊に合流した。ここでグアムは九州の飛行場を攻撃する空母部隊の支援を行った。6月9日にグアム、アラスカおよび5隻の駆逐艦は沖大東島に向けて90分間の艦砲射撃を行った。3ヶ月にも及んだ沖縄戦での支援任務を終え、部隊はレイテ湾に向かい、サンペドロ湾に6月13日到着した。 グアムは第95巡洋艦任務部隊の旗艦となる。部隊はグアム、アラスカ、4隻の軽巡洋艦および9隻の駆逐艦から構成された。同任務部隊は1945年7月16日から8月7日まで東シナ海及び黄海に展開した。直接の戦果は僅かであったが、損害を受けることなく日本近海の掃討を成し遂げられた事実はアメリカ海軍がもはや圧倒的な制海権を握っていたことの証明であった。部隊は8月7日に沖縄に帰還した。 数日後にグアムはロウ少将率いる中国北部方面部隊に旗艦として加わり黄海に向かい、青島、旅順、大連を訪れアメリカ海軍の威容を知らしめた。その後9月8日に仁川に向かった。グアムは仁川を11月14日に出航し、12月3日にサンフランシスコに到着する。12月5日にサンフランシスコを出航し12月17日にニュージャージー州ベイヨンに到着、同所で1947年2月17日に退役する。グアムは大西洋予備役艦隊ニューヨーク・グループで保管され、1960年6月1日に除籍、1961年5月24日にメリーランド州ボルチモアのボストン・メタルズ社にスクラップとして売却された。 グアムは第二次世界大戦の戦功で2つの従軍星章を受章した。就役から退役まで3年も無い短命な艦であった。
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「呂号第五十六潜水艦 (2代)」の記事における「艦歴」の解説
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル追計画)により、1943年(昭和18年)12月2日、三井玉野造船所で呂号第七十五潜水艦として[要出典]起工。1944年(昭和19年)7月5日、呂号第五十六潜水艦に改名されて[要出典]進水。1944年11月15日に竣工し、二等潜水艦に類別。同日、舞鶴鎮守府籍となり、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。 1945年(昭和20年)2月10日、第34潜水隊に編入。 3月18日、呂56は佐伯を出港し、九州南西沖に進出。22日、哨戒区域に到着したとの報告を最後に消息不明となる。 アメリカ側記録によると、4月9日、沖縄西方沖で、米機動部隊を護衛中の米駆逐艦マンセン(英語版)(USS Monssen, DD-798)が820mの距離で潜航中の潜水艦をソナー探知し、爆雷攻撃を行った。その後、米駆逐艦マーツ(英語版)(USS Mertz, DD-691)が合流し、爆雷攻撃を行った。その後、マンセンの最後の爆雷攻撃で潜水艦を撃沈した。これが呂56の最期の瞬間であり、艦長の永松正輝大尉以下乗員79名全員戦死。沈没地点は沖縄西方45浬地点付近、北緯26度09分 東経130度21分 / 北緯26.150度 東経130.350度 / 26.150; 130.350。 4月15日、沖縄南西諸島海域で亡失と認定され、5月25日に除籍された。
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1934年(昭和9年)4月5日 - 川崎造船所で起工。 1935年(昭和10年)6月20日 - 進水 1937年(昭和12年)1月7日 - 竣工。呉鎮守府籍となり、伊71、伊72と共に第20潜水隊を編成。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十八型に改正。 1941年(昭和16年)11月11日 - 第3潜水戦隊第20潜水隊に属し、佐伯を出航。11月20日 - クェゼリン着。 11月23日 - クェゼリンを出航しハワイ作戦に参戦。 12月23日 - ジョンストン島を砲撃。 12月29日 - クェゼリン着。 1942年(昭和17年)1月12日 - クェゼリンを出航しミッドウェーからハワイ方面で活動。1月15日 - 状況報告を最後に消息不明。 1月27日 - ハワイ方面で亡失と認定。0900 - 潜航中の米潜水艦ガジョン(USS Gudgeon, SS-211)が左舷前方に高速推進器音を聴取。やがて4600mの位置で15ノットの速力で浮上航走中の伊73を発見。 0907 - 荒天の中ガジョンは1600mの距離で魚雷3本を発射。1分45秒後、2回の爆発音を聴取すると共に推進器音が消え、その後ガジョンが再度潜望鏡観測した時には海上から姿を消していた。第20潜水隊司令大竹寿雄大佐、艦長の磯部(市川)旦少佐以下乗員全員戦死。沈没地点はミッドウェー島西方240浬地点付近、北緯28度24分 東経178度35分 / 北緯28.400度 東経178.583度 / 28.400; 178.583。 3月10日 - 第四予備艦に指定され、第20潜水隊から除かれる。 3月15日 - 除籍。
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「伊号第百六十四潜水艦」の記事における「艦歴」の解説
1927年(昭和2年)3月28日 - 呉海軍工廠で起工。 1929年(昭和4年)10月5日 - 進水 1930年(昭和5年)8月30日 - 竣工。佐世保鎮守府籍となり第29潜水隊に編入。 1934年(昭和9年)3月20日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十一型に改正。 1939年(昭和14年)3月1日 - 予備艦となる。 1940年(昭和15年)3月20日 - 第29潜水隊(伊61、伊62、伊64)は佐世保で第三予備艦となる。 1941年(昭和16年)12月5日 - 第5潜水戦隊第29潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦。12月27日 - カムラン湾に到着。 1942年(昭和17年)1月7日 - カムラン湾を出航し、スマトラ南方海面で活動。1月22日1630 - 北緯01度43分 東経90度13分 / 北緯1.717度 東経90.217度 / 1.717; 90.217のパダン西方600浬地点付近のインド洋で、ボンベイからスマトラへ航行中の蘭貨物船バン・オーバーストレーター(Van Overstraten、4,482トン)へ魚雷2本を発射するも命中しなかった。そのため、浮上して砲撃。これによりバン・オーバーストレーターは大破し、放棄された。漂流する同船へ3番発射管から魚雷1本を発射し、これを撃沈。 1月28日 - 北緯10度12分 東経80度13分 / 北緯10.200度 東経80.217度 / 10.200; 80.217のインド洋で、英船アイダー(Idar、391トン)を砲撃により撃破。 1月29日 - 北緯12度55分 東経80度33分 / 北緯12.917度 東経80.550度 / 12.917; 80.550のマドラス南西15浬地点付近で米客船フローレンス・ルッケンバッハ(Florence Luckenbach、4,988トン)を雷撃により撃沈。 1月30日 - 北緯12度59分 東経81度00分 / 北緯12.983度 東経81.000度 / 12.983; 81.000のインド東方沖合で印貨物船ジャラタン(Jalatarang、2,498トン)を砲雷撃により撃沈。 1月31日 - 北緯13度00分 東経81度08分 / 北緯13.000度 東経81.133度 / 13.000; 81.133の地点で、印貨物船ジャラパラカ(Jalapalaka、4,215トン)を砲撃により撃沈。 2月5日 - ペナン着。 3月6日 - ペナンを出航し、インド洋方面で活動。 3月10日 - 第29潜水隊が解隊し、第30潜水隊に編入。 3月13日 - 北緯14度00分 東経81度47分 / 北緯14.000度 東経81.783度 / 14.000; 81.783のマドラス北東150浬地点付近で、コロンボからカルカッタへ航行中のノルウェー貨物船マベラ(Mabella、1,513トン)を砲雷撃により撃沈。 4月2日 - ペナン出航。 4月12日 - 佐世保入港。 5月16日 - 佐世保出航。ミッドウェー海戦に参加のためクェゼリンに向けて航行。 5月17日 - 九州南方沖(北緯29度25分 東経134度09分 / 北緯29.417度 東経134.150度 / 29.417; 134.150)で司令塔に日の丸を掲げて浮上航走中、米潜水艦トライトンに発見される。トライトンは日の丸に照準を合わせて魚雷を発射。魚雷の命中を受け、艦体の一部は30メートルも吹き飛んだあと、艦尾から沈没。生存者が周辺に漂流していたが、トライトンは15日に撃沈したトロール船船員を収容していて余裕がなく、救助はしなかった。そのため、艦長の新名嘉雄少佐以下81名全員が戦死した。 5月20日 - 伊号第百六十四潜水艦に改名。 5月25日 - 四国南方で亡失と認定。 7月14日 - 除籍 撃沈総数5隻、撃沈トン数17,696トン。撃破総数1隻、撃破トン数391トン。
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艦歴
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1941年 - マル急計画第374号艦。 1942年6月11日 - 横須賀海軍工廠で起工。 1943年3月5日 - 進水。 1944年1月31日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。4月28日 - 第15潜水隊に編入。 5月15日 - 呉発、ニューアイルランド方面へ進出。 5月27日 - 航空機の爆撃を受けた後、駆逐艦の爆雷攻撃。損傷のため呉海軍工廠で修理。 10月19日 - 呉を出港するが事故のため引き返す。回天搭載工事に着手。 1945年2月21日 - 回天攻撃隊千早隊として呉を出撃、硫黄島へ向かう。4月3日 - 大津島発。 4月4日 - 多多良隊として呉を出撃、沖縄方面へ向かう。 4月18日 - 沖縄東方海面で米空母「バターン」艦載機の爆撃、米駆逐艦「ヒーアマン(英語版)」「ウールマン(英語版)」「マーツ(英語版)」「コレット(英語版)」の爆雷攻撃により沈没。回天搭乗員を含む130名全員戦死。 5月2日 - 沖縄方面で喪失と認定。 6月10日 - 除籍。
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艦歴
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「サーモン (イギリス潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
バーケンヘッドのキャメル・レアード社で建造。1933年6月15日起工。1934年4月30日進水。1935年3月8日就役。 1939年12月2日、「サーモン」(Edward Bickford少佐)はロサイス(またはHarwich)から北海へ出撃した。これは2回目の哨戒であった。 12月4日、Egersundの南約90浬を潜水して航行中にドイツ潜水艦「U36」を発見し、距離5000ヤードで魚雷6本を発射して撃沈した。 12月12日、同じ海域で「サーモン」はドイツ客船「ブレーメン」を発見した。「サーモン」は浮上し発光信号で停船を求めたが応答はなく、警告射撃をしようとしたところでDo 18飛行艇が現れたため潜航。高速で航行する「ブレーメン」との距離は開き、国際法に基づく手順をとれないことから雷撃は正当化されないだろうとBickfordは判断した。この後、「サーモン」はGreat Fisher Bankの方へ向かった。 12月13日、「サーモン」はドイツ艦隊を発見。Bickfordはシャルンホルスト級戦艦とドイッチュラント級装甲艦が計2、3隻とアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦2隻及び軽巡洋艦「ライプツィヒ」とケーニヒスベルク級軽巡洋艦1隻、または戦艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」と巡洋艦と識別した。実際は軽巡洋艦「ケルン」、「ライプツィヒ」、「ニュルンベルク」が駆逐艦部隊と合流しようとしているところであった。Bickfordは水上部隊が敵を捕捉できるようになることを期待し、1隻を沈めるのではなく、2隻を傷つけることを狙って「ライプツィヒ」と「アドミラル・ヒッパー」(実際は「ニュルンベルク」)に対して魚雷6本を発射。魚雷は1本ずつ命中した。「サーモン」に対して爆雷攻撃は行われなかった。魚雷を撃ち尽くした「サーモン」はその後帰途につき、12月16日に帰投した。 3回目、4回目の哨戒では何もなかった。 5回目の哨戒では1940年2月20日に「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」などと遭遇したが、攻撃は行えなかった。 6回目の哨戒ではまた何もなかった。 7回目の哨戒では5月22から24日にオランダ・イギリス間の海底ケーブル切断作戦(Lamp作戦)でトローラー「Barbados」を支援した。この作戦は不成功に終わっている。 8回目の哨戒では6月20日に船団に対して魚雷2本を発射したが外れた。 7月4日、Blyth(またはロサイス)より9回目の哨戒に向かう。「サーモン」は7月9日に Skudeneshavn沖への移動、7月11日に北へ20浬の移動、7月12日に帰投を命じられているが、いずれにも応答はなかく、帰投もしなかった。7月5日に潜水艦「シャーク」がドイツ軍機の攻撃を受けて損傷し、翌日ドイツの掃海艇による曳航中に沈没した。その後、ドイツの掃海艇「M1803」は雷跡らしきものを認めて回避行動をとり、別の掃海艇「M1806」は爆雷を投下。油紋や強い空気の渦を確認し、潜水艦撃沈としている。「サーモン」艦長のBickfordと「シャーク」艦長Buckleyは友人であり、「シャーク」からの遭難信号を受けてBickfordはそちらへ向かったかもしれず、そうであれば「サーモン」は「M1806」に撃沈されたのかもしれない。もしくは、9日の命令で北上した際にドイツの機雷原に入ったとも考えられる。
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艦歴
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1941年 - マル急計画第375号艦。 1942年7月15日 - 佐世保海軍工廠で起工。 1943年3月6日 - 進水。12月28日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。 1944年3月25日 - 第15潜水隊に編入、呉を出港。4月5日 - マーシャル諸島方面で爆撃を受け損傷。呉海軍工廠で修理。 6月28日 - 横須賀を出港、テニアン島へ運貨筒を輸送する計画だったが失敗。 10月13日 - 呉を出港、フィリピン方面へ向かう。 10月25日 - フィリピン東方にて消息を絶つ。 10月28日 - レイテ島東方で米護衛駆逐艦エヴァソールを撃沈するが、米護衛駆逐艦ホワイトハースト(英語版)の攻撃を受け沈没。乗員104名全員戦死。 11月18日 - 帰投予定であったが未帰還。 12月2日 - フィリピン方面で喪失と認定。 1945年3月10日 - 除籍。 撃沈総数1隻、撃沈トン数1,350トン。
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艦歴
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1941年 - マル急計画第373号艦。 1942年4月27日 - 佐世保海軍工廠で起工。10月25日 - 進水。 1943年11月5日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。 1944年2月9日 - 輸送作戦のため呉出港。2月11日 - 第15潜水隊に編入。 2月13日 - サイパン入港、佐鎮第101特別陸戦隊59名を乗せる。 2月14日 - サイパン出港、トラックへ向かう。 2月15日 - パラオ南西で米潜「アスプロ」の雷撃を受け沈没。乗員107名、陸戦隊員59名全員戦死。 4月5日 - トラック方面で喪失と認定。 4月30日 - 除籍。
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艦歴
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1941年(昭和16年)の昭和17年度計画(マル急計画)により、呉海軍工廠で1942年3月18日起工。8月20日には横須賀鎮守府籍となり、、艦艇類別等級別表に記載された。1942年11月10日進水、1943年7月31日に竣工した。訓練部隊の第一艦隊第11潜水戦隊に編入され、訓練に従事。 10月31日、伊40は第2潜水隊へ配属。 11月13日、伊40は横須賀を出港し、トラック島に向かう。11月19日にトラックに到着し、補給を受けた後の11月22日にマキン島方面へ向かうべくトラック島を出港していくのを最後に消息不明となる。 アメリカ軍に撃沈の記録がないため、事故による沈没の可能性もある。艦長の渡辺勝次少佐以下乗員97名全員行方不明(戦死認定)。 1944年(昭和19年)2月21日にギルバート諸島方面で沈没と認定され、4月30日に除籍された。
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艦歴
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「フィッツジェラルド (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
フィッツジェラルドはメイン州バスのバス鉄工所で1993年2月9日に起工、1994年1月29日に進水し、1995年10月14日にロードアイランド州ニューポートで就役、カリフォルニア州サンディエゴのサンディエゴ海軍基地が母港となった。 2004年4月初め、フィッツジェラルドは弾道ミサイル迎撃システムの一部として世界的に展開する3隻のミサイル巡洋艦及び15隻のミサイル駆逐艦の一隻であることが発表された。フィッツジェラルドは2004年9月30日に横須賀に到着、第7艦隊に加わり、「Super Swap」として知られる人員交換を行った。駆逐艦「オブライエン」(USS O'Brien, DD-975)の乗員140名がフィッツジェラルドに乗り込み、フィッツジェラルドを操艦してきた95名が退役するオブライエンに乗り込み本国へ帰還した。 2011年3月の東日本大震災発生に際して被災地を救援するトモダチ作戦に参加。行方不明者の捜索と物資の輸送に携わった。 2012年12月、北朝鮮は「人工衛星・光明星3号の打ち上げ」と称する弾道ミサイルの発射を予告する。これに対し米国海軍は黄海に艦艇を展開させ不測の事態に備える。「フィッツジェラルド」は「DDG-65 ベンフォード」と共に12月9日までに当該海域に配備される。他にイージス艦2隻の追加派遣とミサイル追跡艦「T-AGM-23 オブザヴェーション・アイランド」に、海上自衛隊からイージス艦3隻、大韓民国海軍から2隻を加えた10隻態勢で臨む。ミサイルは同月12日に発射される。 2013年4月に北朝鮮が弾道ミサイル発射の姿勢を見せた際にも、朝鮮半島南西沖に出動し警戒に当たった。 2020年6月13日、米海軍は後述の衝突事故の修復工事が完了したフィッツジェラルドを第7艦隊第15駆逐隊から第3艦隊第1駆逐隊に配置換えして、カリフォルニア州サンディエゴを母港とすると発表した。
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艦歴
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「対馬 (防護巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
1901年、呉工廠で起工、1904年2月14日に竣工し、三等巡洋艦に類別。 日露戦争では、黄海海戦、宗谷沖海戦、日本海海戦等に参加。1912年8月28日、二等巡洋艦に等級変更。 第一次世界大戦では、スルー海、インド洋、南アフリカ水域での作戦に従事した。1919年から翌年にかけて、シベリア出兵に伴い沿海州、北樺太警備に従事した。 1921年9月1日二等海防艦に類別変更された。翌年から1935年まで、ほとんど中国警備に従事し、1935年に横須賀海兵団練習艦に指定され、繋留して使用された。 1939年4月1日に除籍され雑役船に編入、横須賀海兵団練習船に指定され、繋留して使用。翌年4月1日、廃艦第10号と仮称され、横須賀海兵団練習船、さらに航海学校応急練習船として使用されたが、1944年中ごろ三浦半島大津海岸で雷撃訓練標的として使用し漏水により沈没した。
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艦歴
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1940年(昭和15年)12月24日三菱横浜船渠にて竣工。佐世保鎮守府籍。 太平洋戦争開戦時は佐世保防備隊付属に編入し同方面の哨戒や船団護衛などに従事。 1943年(昭和18年)7月28日上海からの船団を護衛中に五島列島沖で米潜「ソーフィッシュ」(USS Sawfish, SS-276)に雷撃され沈没。同年11月1日除籍。
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艦歴
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1943年(昭和18年)7月31日、日本鋼管鶴見造船所にて竣工。 佐世保鎮守府籍、馬公防備戦隊に編入され、馬公を基地に船団護衛任務に従事。 1944年(昭和19年)10月、第3南遣艦隊の指揮下に入り、引き続き船団護衛任務。10月21日、ルソン島西岸ラオワグにおいて航空機の攻撃を受け戦没。12月10日除籍。
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艦歴
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1942年(昭和17年)4月25日、日立桜島造船所にて竣工。 佐世保鎮守府籍、鎮海警備府部隊に編入され、対馬海峡での哨戒、護衛等に従事。 1944年(昭和19年)6月15日、第4海上護衛隊に編入、船団護衛に従事。7月12日、横須賀鎮守府部隊に編入、同方面の機雷敷設や父島方面への船団護衛に従事。12月11日、佐世保鎮守府部隊へ編入、以降、佐世保を基地に同方面で船団護衛に従事し終戦を迎える。 1945年(昭和20年)10月22日、除籍され復員輸送艦となる。1947年(昭和22年)10月3日、青島にて中国へ引き渡し、「永靖」と改名された。引渡後米軍式装備に改装、7.62cm砲1門、40mm機関砲3挺、20mm機関砲5挺となる。1960年5月1日除籍。
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艦歴
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1938年(昭和13年)12月28日横浜船渠にて竣工、佐世保鎮守府籍となる。 太平洋戦争開戦時には馬公防備隊付属として同方面の哨戒、船団護衛、機雷敷設などに従事する。 1944年(昭和19年)3月1日に中部太平洋方面艦隊第5根拠地隊に編入、以後はサイパン、パラオ方面の船団護衛、機雷敷設等に従事する。同年7月25日ウルシーでの機雷敷設のためパラオを出港するが艦載機の攻撃を受け沈没した。同年9月10日に除籍。
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艦歴
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1945年(昭和20年)2月20日 - 佐世保海軍工廠にて起工。4月5日 - 「神島 (カミシマ)」と命名、本籍を横須賀鎮守府と仮定。 6月10日 - 本籍を横須賀鎮守府と定める。 6月12日 - 進水。 7月30日 - 竣工。横須賀防備隊に編入。 8月8日 - 横須賀に回航、そのまま終戦を迎える。 9月15日 - 除籍。 10月3日 - 特別輸送艦として朝鮮半島南部方面へ就航、翌年7月まで従事。 12月1日 - 横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定される。 1946年(昭和21年)12月15日 - 特別保管艦に指定される。 1947年(昭和22年)10月3日 - 特別輸送艦の指定を解かれる。同日、ナホトカでソ連に引き渡し。12月27日 - 残務整理終了。
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艦歴
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「シーホース (イギリス潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
チャタム工廠で建造。1931年3月16日発注。1931年9月14日起工。1932年11月15日進水。1933年10月2日就役。 1938年9月22日、駆逐艦「フォックスハウンド」と衝突。
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1945年(昭和20年)2月20日 - 佐世保海軍工廠にて起工。4月5日 - 「粟島 (アハシマ)」と命名、本籍を呉鎮守府と仮定。 6月18日 - 本籍を呉鎮守府に定められる。 7月26日 - 進水。 8月17日 - 進捗率90%で工事中止。以後の工事は川南工業香焼島工場で引き継ぐ。 1946年(昭和21年)2月3日 - 佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に指定される。4月18日 - (復員輸送艦として)竣工。 12月15日 - 特別保管艦に指定される。 1947年(昭和22年)10月1日 - 特別輸送艦の指定を解かれる。10月1日、または3日 - 青島でアメリカに引き渡し。 10月7日 - 黄海の北緯34度24分 東経123度53分 / 北緯34.400度 東経123.883度 / 34.400; 123.883で実艦的として沈没処分。
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艦歴
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1942年(昭和17年)3月25日日本鋼管鶴見造船所にて竣工。 佐世保鎮守府籍、佐世保防備隊付属となり、佐世保、沖縄、上海方面の船団護衛などに従事。 1944年(昭和19年)2月、第18戦隊の指揮下に入り4月まで佐世保などで機雷敷設任務。10月10日、十・十空襲の際に名護湾にて艦載機の攻撃を受け戦没。12月10日除籍。
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艦歴
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1942年(昭和17年)11月30日日本鋼管鶴見造船所にて竣工。呉鎮守府籍、佐伯防備戦隊付属に編入、パラオ、サイパン、父島などへの船団護衛に従事。 1944年(昭和19年)7月1日第1海上護衛隊に編入、8月1日呉防備戦隊に編入され引き続きマニラ、シンガポールなどへの船団護衛に従事。12月4日、米潜水艦の雷撃により戦没した「岸波」の生存者150名を救助した。 1945年(昭和20年)1月14日船団護衛中にマレー半島沖で米潜コビアの雷撃で戦没、同年3月1日に除籍された。
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艦歴
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「みやけ」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和43年度計画掃海艇332号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1969年8月14日に起工され、1970年6月3日に進水、1970年11月19日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第42掃海隊に「うとね」とともに編入された。定係港は横須賀。 1975年12月15日、第42掃海隊が横須賀地方隊に編成替え。 1986年12月16日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-84に変更。横須賀地方隊隷下の横須賀港務隊に編入。 1987年6月から水中処分母艇への改装工事を行い、同年9月7日、横須賀水中処分隊に編入された。 1993年11月9日、除籍。
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艦歴
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「さきと」は、昭和32年度計画掃海艇307号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1958年8月16日に起工され、1959年4月22日に進水、1959年8月25日に就役し、横須賀地方隊に編入された。 同年10月1日、第1掃海隊群第32掃海隊に編入。 1960年3月1日、第1掃海隊群隷下に第33掃海隊が新編され「はぶし」、「こうづ」とともに編入。 1961年9月1日、第33掃海隊が第2掃海隊群に編入。 1972年3月31日、第33掃海隊が呉地方隊阪神基地隊に編入。 1974年8月28日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-64に変更。舞鶴地方隊に編入され、舞鶴警備隊所属の水中処分隊母艇となる。 1982年3月27日、除籍。
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「ちぶり」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和37年度計画掃海艇320号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1963年3月27日に起工され、1963年11月29日に進水、1964年3月25日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第38掃海隊に「むつれ」とともに編入された。 1975年3月31日、第38掃海隊が舞鶴地方隊に編入。 1980年3月21日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-73に変更。佐世保地方隊奄美基地分遣隊に編入。 1986年5月24日、除籍。
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「あわじ」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和44年度計画掃海艇334号艇として、日立造船神奈川工場で1970年4月20日に起工され、1970年12月11日に進水、1971年3月29日に就役し、第1掃海隊群第41掃海隊に編入され、呉に配備された。 1974年8月28日、第1掃海隊群隷下に新編された第45掃海隊に同日付で就役した「たかね」、「むづき」とともに編入。 1978年3月28日、第1掃海隊群隷下に新編された第48掃海隊に編入。 1983年1月27日、第48掃海隊が佐世保地方隊沖縄基地隊に編入。 1987年3月24日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-85に変更。舞鶴地方隊隷下の舞鶴水中処分隊母艇となる。 1993年3月25日、除籍。
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艦歴
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「むつれ」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和37年度計画掃海艇319号艇として、日立造船神奈川工場で1963年3月28日に起工され、1963年12月16日に進水、1964年3月24日に就役し、第1掃海隊群に編入。翌3月25日、第1掃海隊群隷下に第38掃海隊が新編され、同日付で就役した「ちぶり」とともに編入された。 1975年3月31日、第38掃海隊が舞鶴地方隊に編入。 1980年3月17日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-72に変更。横須賀地方隊横須賀警備隊に編入。 1986年3月4日、除籍。
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艦歴
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「みくら」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和33年度計画掃海艇312号艇として、日立造船神奈川工場で1959年3月30日に起工され、1960年3月14日に進水、1960年5月27日に就役し、横須賀地方隊第34掃海隊に編入された。 1961年9月1日、第34掃海隊が、同日付で新編された第2掃海隊群に編入。 1973年3月31日、第34掃海隊が横須賀地方隊に編入。 1975年12月15日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-67に変更。横須賀警備隊に編入。 1989年3月3日、除籍。
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「ふくえ」は、第4次防衛力整備計画に基づく昭和49年度計画掃海艇345号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1975年6月24日に起工され、1976年7月12日に進水、1976年11月18日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第47掃海隊に「おうみ」、「かつら」とともに編入された。定係港は大湊。 1982年3月27日、第47掃海隊が、大湊地方隊函館基地隊に編入。 1993年2月9日、掃海母艇に種別変更され、船籍番号がMST-476に変更。呉地方隊第101掃海隊に編入され、定係港が呉に転籍。 1997年5月1日、第101掃海隊が廃止となり、第1掃海隊群直轄艇となる。 1998年3月23日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-721に変更。第1掃海隊群隷下に第101掃海隊が再編され同隊に編入。 1999年5月13日、除籍。
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艦歴
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「ロケット (駆逐艦・3代)」の記事における「艦歴」の解説
スコッツ社で建造。1941年3月14日起工。1942年10月28日進水。1943年8月4日就役。 1944年10月23日、イギリス海峡で軽巡洋艦「カリブディス」、駆逐艦「グレンヴィル」、「リンボーン」、「ウェンスリーデイル」、「タリボント」、「スティーブンストン」と共に作戦行動中、ドイツ水雷艇「T22」、「T23」、「T25」、「T26」、「T27」による攻撃で「カリブディス」と「リンボーン」が被雷し沈没した。 1944年になるとインド洋に移った。3月、ドイツ船「ブラーケ (Brake)」を捕獲。7月、クリムズン作戦(サバン攻撃)に参加し、砲撃を実施した。8月、バンクェット作戦(スマトラ島空襲)に参加。9月ライト作戦(スマトラ島空襲など)に参加。 1945年2月、フォース68(「ロケット」と駆逐艦「ロザラム」、「ローバック」、「ラピッド」)がアンダマン海での船舶攻撃(サファイス作戦、トレイニング作戦)を実施。トレイニング作戦ではフォース68は数隻の船を沈めたほかポートブレア砲撃を行った。4月、フォース62(「ロケット」と駆逐艦「ロザラム」、「レースホース」、「リダウト」)はビルマ沿岸へ2度の出撃を行い数隻の船を沈めグレートココ島を砲撃した(ペンザンス作戦、パスブック作戦)。5月、日本の重巡洋艦「羽黒」迎撃作戦(デュークダム作戦)に参加。 戦後15型フリゲートに改装される。1967年解体。
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「あまみ」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和40年度計画掃海艇325号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1966年3月10日に起工され、1966年10月31日に進水、1967年3月6日に就役し、第1掃海隊群に編入された。同年3月25日、第1掃海隊群隷下に第40掃海隊が新編され、同日付で就役した「みなせ」とともに編入された。 1981年3月18日、佐世保地方隊第35掃海隊に編入。 1983年1月27日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-77に変更。沖縄基地隊所属の水中処分隊母艇となる。 1990年11月29日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/17 08:32 UTC 版)
「ひらど」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和34年度計画掃海艇314号艇として、日立造船神奈川工場で1960年3月14日に起工され、1960年10月3日に進水、1960年12月17日に就役し、佐世保地方隊に編入された。 1961年2月1日、佐世保地方隊隷下に第35掃海隊が新編され「しきね」とともに編入。同年6月1日、第35掃海隊が第1掃海隊群に編入。 1972年12月21日、第35掃海隊が佐世保地方隊沖縄基地隊に編入。 1976年3月31日、海洋観測艇に種別変更され、艇名が海洋観測艇4号(AGS-5114)に改称。舞鶴地方隊に編入。 1985年3月27日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/17 13:59 UTC 版)
「むろつ」は、第3次防衛力整備計画に基づく昭和45年度計画掃海艇337号艇として、日立造船神奈川工場で1971年4月16日に起工され、1971年12月16日に進水、1972年3月30日に就役し、同日付で第2掃海隊群隷下に新編された第43掃海隊に「てうり」とともに編入された。定係港は横須賀 1973年3月20日、第43掃海隊が佐世保地方隊下関基地隊に編入。 1988年3月23日、特務船に種別変更され、船籍番号がYAS-88に変更。佐世保地方隊隷下の佐世保警備隊に編入。 1989年6月15日、対馬防備隊に編入。 1995年3月30日、除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/21 05:16 UTC 版)
アローはバロー・イン・ファーネスのヴィッカース・アームストロング社で建造され、1930年4月14日に就役した。
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艦歴
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「プリモゲ (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
「プリモゲ」は、DCNブレスト工廠で建造され1981年11月17日に起工、1984年3月17日に進水、1986年11月5日に就役する。 1986年1月25日にサン=ルナン(fr:Saint-Renan)と命名都市の関係を結ぶ。「プリモゲ」はブレストに配備され対潜戦を主任務とし海洋における諸任務に当たる。 2000年9月から11月まで北大西洋においてアメリカ合衆国海軍との合同訓練ユニファイド・スピリット演習に参加する。2002年4月にはF70型駆逐艦の構造的問題により亀裂の修理をする。2003年1月から5月にかけてアラビア海に展開し海上自衛隊から洋上補給も受けている。 2009年5月8日に戦勝64周年記念の観艦式に参加し、6月にはインド海軍と合同演習を実施する。
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艦歴
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「まきぐも (護衛艦)」の記事における「艦歴」の解説
「まきぐも」は、第2次防衛力整備計画に基づく昭和38度計画2,000トン型警備艦2202号艦として、浦賀重工業で1964年6月10日に起工され、1965年7月26日に進水、1966年3月19日に就役、同日付で第2護衛隊群隷下に新編された第21護衛隊に「やまぐも」とともに編入され、佐世保に配備された。 1977年12月1日、第21護衛隊が第3護衛隊群隷下に編成替え。 1985年、遠洋練習航海に参加。 1987年2月20日、第21護衛隊が佐世保地方隊隷下に編成替え。 1991年6月20日、練習艦に種別変更され、艦籍番号がTV-3507に変更。練習艦隊第1練習隊に編入され、定係港が呉に転籍。なお、練習艦への改造工事は同年6月28日から10月24日の間で行われ、アスロック弾庫を実習員講堂(36名収容)に、士官寝室の一部が女性自衛官用(14名)に改造された。 1995年8月1日、除籍。 銘板 舵輪 号鐘と記念盾
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「アンツィオ (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で1989年8月21日に起工し、1990年11月2日に進水、1992年5月2日に就役した。アンツィオはバージニア州ノーフォークを母港として活動した。 2000年4月6日に、東地中海での演習中イスラエル国防軍のジェリコ・ミサイルが予告なしにアンツィオの25から40マイルの水域に着水した。 2004年にアンツィオはニューヨークでのフリート・ウィークに参加した。
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「ひこしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「ひこしま」は、昭和61年度計画掃海艇369号艇として、日本鋼管鶴見造船所で1987年5月12日に起工され、1988年6月2日に進水、1988年12月15日に就役し、第1掃海隊群第14掃海隊に編入され呉に配備された。 1991年4月26日から自衛隊初の海外派遣となった湾岸戦争後のペルシャ湾掃海任務(湾岸の夜明け作戦)に派遣され、10月30日に帰国した。 1998年3月23日、佐世保地方隊沖縄基地隊第46掃海隊に編入。 2006年2月8日、呉地方隊阪神基地隊第42掃海隊に編入。 2008年3月11日、除籍。 銘板 舵輪 号鐘と記念盾
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「イートン (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
イートンはメイン州バスのバス鉄工所で建造され、1942年9月20日にメアリー・イートン・フィリップス夫人(ウィリアム・イートン将軍の曾曾孫)によって命名、進水した。1942年12月4日に艦長E・L・ベック少佐の指揮下就役する。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/09 15:01 UTC 版)
1907年に三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工、1908年に竣工し通報艦に類別された。日本海軍初の蒸気タービン機関搭載艦である。 1912年8月28日、一等砲艦に類別を変更した。第一次世界大戦では、南シナ海方面の警備、さらに南洋諸島方面の警備等に従事した。 シベリア出兵時の1921年には、沿海州沿岸の警備に従事した。 1928年4月1日、除籍となり、7月6日に廃艦第3号と仮称され、翌年1月31日に廃船、6月1日に売却され、大阪の帝国在郷軍人会によってマストと後艦橋が中之島公園の東端に設置された。戦後も大阪市により保存されている、しかし老朽化で倒壊の危険性があるため、2009年2月9日解体、呉市海事歴史科学館に移設予定。
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「ラピッド (駆逐艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
キャメル・レアード社で建造。1941年6月16日起工。1942年7月16日進水。1943年2月20日就役。 就役後、船団護衛に従事する。 次いでインド洋で幾つかの作戦に参加した。参加した作戦には次のものがある。 クリムズン作戦 - 1944年7月。サバン攻撃。 バンケット作戦 - 1944年8月。スマトラ島パダン空襲。 ライト作戦 - 1944年9月。スマトラ島シグリ空襲など。 マタドール作戦 - 1945年1月。ラムリー島上陸作戦。 サファイス作戦、トレイニング作戦 - 1945年2月。アンダマン海での船舶攻撃。 1945年3月19日、トランスポート作戦中のアンダマン諸島攻撃時に陸上からの砲撃で損傷。戦死11、負傷21。アキャブでの応急修理後、南アフリカのサイモンズタウンへ向かいそこで修理を受けた。 戦後15型フリゲートに改装される。1981年に標的として処分された。 表 話 編 歴 R級駆逐艦 (2代) ロザラム レースホース レイダー ラピッド リダウト リレントレス ロケット ローバック 前級 Q級 次級 S級 イギリス海軍駆逐艦一覧 イギリス海軍艦艇一覧 この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。
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「ミッチャー (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ミッチャーはエリザベス・ファーガソン夫人によって命名され、1994年12月10日に就役した。12月後半に母港をバージニア州ノーフォークに移し、その後三度の地中海への配備とカリブ海での多くの訓練演習に参加した。 2001年にミッチャーは原子力空母ハリー・S・トルーマンを中心とした空母戦闘グループに加わって展開した。この配備中にミッチャーはアルジェを訪れ、アルジェリア海軍との訓練演習を行った。
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「プリングル (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
プリングルは1941年7月31日にサウスカロライナ州チャールストンのチャールストン海軍工廠で起工した。1942年5月2日にジョン・D・H・ケーン夫人によって命名、進水し、1942年9月15日に艦長ハロルド・O・ラーソン少佐の指揮下就役した。 プリングルは水上機運用のためにカタパルトが装着された3隻(計画は6隻)のフレッチャー級駆逐艦の内の1隻であった。他の2隻はハルフォード (USS Halford, DD-480) とスティーヴンス (USS Stevens, DD-479) であった。カタパルトと艦載機用クレーンは2番煙突後方に装備され、後部魚雷発射管マウントおよび3番5インチ砲マウント後方、通常の艦は連装40mm対空砲が装備されていた位置に取り付けられていた。連装40mm対空砲マウントは、通常の艦が20mm砲マウントを装備する爆雷軌条前の扇形艦尾に移動していた。水上機は駆逐艦小艦隊の探索に使用され、カタパルトにより発艦、艦の横に着水し、クレーンで回収された。カタパルトでの水上機の運用は思う様にうまくいかず、これらの艦は後にカタパルトを撤去し標準的な構成となった。 整調後プリングルは1943年1月1日に大西洋中部で ON-154 船団に加わり、ハリファックスまでの護衛を行う。この任務中にプリングルはアメリカ海軍駆逐艦として初めてカタパルトで航空機の運用を行った。水上機は敵潜水艦探索のためカタパルトから発艦した。荒天および艦の規模が小さかったため、水上機の回収は困難を極めた。 2月6日、プリングルは太平洋戦線に移動する。5月30日にガダルカナル島沖に到着し、ソロモン諸島での哨戒任務に就く。7月17日から18日にかけての夜、ウォーラー (USS Waller, DD-466) およびソーフリー (USS Saufley, DD-465) と共にコロンバンガラ島沖で3隻の日本軍駆逐艦を攻撃する。プリングルは魚雷数発を命中させ、敵機1機を撃墜した。 ソロモン諸島の戦いは8月まで続き、プリングルはベララベラ島攻撃部隊の援護を行い、戦車揚陸艦の護衛を務めた。24日にはコロンバンガラ島沖での機雷敷設作業を援護した。9月3日から4日にかけての晩、プリングルはダイソン (USS Dyson, DD-572) と共にチョイスル島およびコロンバンガラ島で日本軍の艀を攻撃し、3隻を沈めた。 11月11日には、10日後の上陸に先立ってブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾で第31.7任務群を護衛し、プリングルは日本軍機1機を撃墜、もう1機に損傷を与えた。1944年1月後半にシドニーへ帰還したのを除いて、プリングルは数ヶ月間をソロモン諸島での活動で費やした。3月初めにはブーゲンビル島の南西海岸を日中に攻撃し、敵の施設および陸揚げされた艀を破壊した。 マリアナ諸島の戦いでは長期の艦砲射撃、護衛任務および対潜水艦戦任務を担当した。サイパンおよびティニアンへの攻撃では火力支援を担当し、その後サンフランシスコに帰還、修理と乗組員の休養が行われた。 メア・アイランド海軍造船所でのオーバーホールの後、プリングルは10月19日に真珠湾に向けて出航した。11月10日に真珠湾を出航し、来る戦いに加わるためフィリピンに向かう。11月27日から28日にかけてレイテ島のオルモック湾で艦砲射撃を行い、同日敵機を撃墜した。11月28日にはソーフリー、ウォーラー、レンショー (USS Renshaw, DD-499) と共同して伊号第四六潜水艦を撃沈した。 プリングルは12月27日から30日にかけてミンドロ島への再補給部隊を護衛している時に最も激しい空爆を受ける。船団の内の何隻かが撃沈され、プリングルは敵機2機を撃墜した。30日には特攻機が後部甲板室に突入し、11名が死亡、20名が負傷、40mm対空砲マウントが破壊され5インチ砲2門が損傷した。 2月に任務に復帰すると、プリングルは17日の硫黄島への攻撃に向かう輸送船を護衛し、上陸する海兵隊支援のための艦砲射撃を行った。3月4日にウルシー環礁に帰還し、沖縄侵攻のための準備に入る。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 13:57 UTC 版)
「ダーウィン (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
ダーウィンはワシントン州シアトルのトッド造船所で1981年7月2日に起工され、1982年3月26日に進水、1984年7月21日に就役した。 一番艦「アデレード」からこの「ダーウィン」まではアメリカで建造されたが、以降の2隻はオーストラリアでライセンス生産された。FFG UP SEA1930に基づくアップグレードが予定されている。 1999年9月19日から11月3日までオーストラリア人の指揮下で東ティモール国際軍の一部として東チモールに展開する。2001年にはソロモン諸島に展開される。 「ダーウィン」は2007年から2008年にかけてニューサウスウェールズ州のガーデンアイランドにある海軍基地にて大規模アップグレードと修理を受け、2008年11月に通常任務に復帰する。 2009年3月13日朝、「ダーウィン」は1988年のオーストラリア200周年祭以来、シドニー港で実施された観艦式で17隻中、最も大きな艦艇として式典に参加する。 2010年にはRAN戦闘名誉システムの見直しに続き、「東チモール1999」、「ペルシャ湾2003-03」および「イラク2003」の3つの戦闘名誉が与えられた。 2012年に「FFH 157 パース」、「SSG-74 ファーンコム」と共にリムパックに参加する。 2013年10月、2013年国際観艦式(英語版)に参加。
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「エフスターフィイ (戦艦)」の記事における「艦歴」の解説
起工式が行われたのは1904年11月23日であったが、エフスターフィイの建造はそれより前の1904年7月13日に開始された。1906年11月3日進水。1911年5月28日竣工。1911年10月、ルーマニアのコンスタンツァ沖で座礁した。ただ、損傷は軽微であった。 第一次世界大戦の最初の1年ほど、黒海艦隊で最新鋭の戦艦であったエフスターフィイは、黒海艦隊の司令官アンドレイ・エベルガールト中将の旗艦であった。1914年11月2日にロシアがオスマン帝国に宣戦布告してから2週間後の11月15日、戦艦エフスターフィイ、イオアン・ズラトウースト、パンテレイモン、ロスティスラブ、トリー・スヴャチーチェリャ、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻と水雷艇11隻からなる黒海艦隊が出撃しトラブゾン砲撃に向かった。艦隊は11月17日朝に砲撃を行い、それからアナトリア沿岸でオスマン帝国の船舶を攻撃しようとして西へ向い、17日午後遅くにセヴァストポリへ向かった。翌日、オスマン帝国の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム、巡洋艦ミディッリと遭遇し、サールィチ岬の海戦が発生した。エフスターフィイは最初の斉射でヤウズ・スルタン・セリムに命中弾を与えたが、エフスターフィイも5度命中弾を受けた。ただし、内1発は不発だった。この海戦でエフスターフィイでは34人が死亡し24人が負傷した。エフスターフィイは12インチ砲弾を12から16発、8インチ砲弾を14発、6インチ砲弾を19発発射した。 海戦後、装甲板を幾つか取り替える必要が生じた。ドヴィエナザット・アポストロフからそれを調達し、修理は11月29日までに完了した。1915年1月9日、黒海東部での任務からの帰投途中のオスマン帝国巡洋艦ミディッリおよびハミディイェがロシア艦隊とであった。ミディッリの砲撃がエフスターフィイの前部砲塔に命中し、一時的に使用不能となった。2隻の巡洋艦は優速を生かして逃走した。 エフスターフィイとイオアン・ズラトウーストは、1915年3月18日から5月9日に間に何度か実行されたボスポラス砲撃作戦に支援部隊として参加した。最初の2度の砲撃の際は何事も無かったが、5月9日に砲撃の際は反応があった。ロシアの戦艦は駆逐艦ヌムネイ・ハミイェトに発見され、ヤウズ・スルタン・セリムと戦闘になった。最初は両軍とも命中弾は得られなかった。途中で、パンテレイモンとトリー・スヴャチーチェリャが戦闘に加わった。パンテレイモンはヤウズ・スルタン・セリムに2度命中弾を与え、ヤウズ・スルタン・セリムは逃走した。エベルガールトはヤウズ・スルタン・セリム追跡を試みたが、不成功に終わった。 1915年10月、イオアン・ズラトウーストとパンテレイモンがゾングルダクを砲撃し、エフスターフィイがKozluを砲撃した。1916年5月、エフスターフィイ級2隻はヴァルナ砲撃に参加した。 1918年3月、エフスターフィイとイオアン・ズラトウーストはセヴァストポリで予備役となった。5月、2隻はドイツにより捕獲された。12月には連合国の手に渡った。イギリスはクリミア半島から撤退する際、ボリシェヴィキにより使用されるのを防ぐため1919年4月22日から24日に両艦の機関を破壊した。ロシア内戦中両勢力に捕獲されたが、1920年11月に白軍がクリミア半島から撤退する際に放棄された。1921年7月6日、エフスターフィイはRevoliutsiiaと改名された。1922年から1923年にかけて解体された。1925年11月21日除籍。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:16 UTC 版)
「ユリシーズ・S・グラント (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ユリシーズ・S・グラントの建造は1961年7月20日にコネチカット州グロトンのジェネラル・ダイナミクス、エレクトリック・ボート社に発注され、1962年8月18日に起工した。1963年11月2日にデヴィッド・W・グリフィス夫人(グラント将軍の曾孫娘)によって命名、進水し、1964年7月17日にブルー班のJ・L・フロム・ジュニア艦長の指揮下就役する。9月にフロム艦長に代わってC・A・Kマクドナルド艦長がゴールド班と共に着任した。 整調後ユリシーズ・S・グラントは1964年12月前半にグロトンを出航し太平洋に向かう。大晦日にパナマ運河を通過し、1965年1月に真珠湾に到着した。その後マリアナ諸島に展開し、グアムを拠点として1969年まで作戦活動に従事する。ユリシーズ・S・グラントは18回の戦略抑止哨戒を行い、1969年に西太平洋を離れ帰国する。ワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホールとポセイドン・ミサイル運用改修を行った後、1970年にスコットランドのホーリー・ロッホを拠点として、1975年9月までヨーロッパ海域で活動する。 1980年代中頃にユリシーズ・S・グラントはメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所でオーバーホールと燃料補給を受ける。オーバーホール後、ブルー班乗組員は1987年7月31日のミサイル発射試験を含む示威整調活動(Demonstration and Shakedown Operations, DASO)を完了した。その後グロトンの潜水艦基地に帰還し、乗組員はマイケル・P・マクブライド艦長に率いられたゴールド班と交代した。1989年からユリシーズ・S・グラントは潜水母艦フルトン (USS Fulton, AS-11) と共にホーリー・ロッホを拠点として活動した。 ユリシーズ・S・グラントは1992年6月12日に退役し同日除籍された。その後1993年10月23日にワシントン州ブレマートンで原子力艦再利用プログラムに従って解体された。 ユリシーズ・S・グラントの艦内時鐘は、ブレマートンの潜水艦基地で保管される。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/27 13:01 UTC 版)
「ヴィジラント (原子力潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
「ヴィジラント」は、ヴィッカーズ・シップビルディング・アンド・エンジニアリングバロー・イン・ファーネス造船所で建造され、1995年10月に進水、1996年11月に就役した。 2002年にトライデント・ミサイルの配備に反対する抗議者がファスレーン海軍基地の警備を破って進入した。2名の抗議者はヴィジラントにスプレー塗料で反核のシンボルと「Vile」の書き込みを行った。 2004年7月1日からフランス海軍S618 ル・ヴィジランと提携関係となる。 2017年10月、アームストロング艦長が部下の女性中尉と艦内で不適切な交際をしていた理由で解任、次いで副長も同様の理由で解任されたと報道された。さらに水兵9人にコカインの陽性反応が出たことが発覚している。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/29 15:14 UTC 版)
「ドラド (SS-248)」の記事における「艦歴」の解説
ドラドは1942年8月27日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1943年5月23日にエズラ・G・アレン夫人によって進水し、艦長アール・カフレイ・シュナイダー少佐の指揮下1943年8月28日に就役する。ドラドは公試後1943年10月6日にコネチカット州ニューロンドンを出航しパナマ運河地帯に向かうが、到着予定日である10月14日にドラドが到着することはなかった。 通常訓練において潜水艦の前方50カイリ (92.6キロ) 、後方100カイリ (185.2キロ) 、両翼15カイリ (27.8キロ) が航行予定海域として爆撃規制が行われると関係各位に通知された。しかしながら10月12日の晩、グアンタナモ湾を拠点とする第210偵察航空団所属のPBM マリナー乗務員は誤った範囲を通知された。現地時間の20時49分、雲の出ていた月明かりの空の下、偵察機は未確認の潜水艦に対して3発のマーク47型爆雷と1発のマーク4型Mod4 100ポンド(45kg) 爆弾を投下した。彼らは潜水艦が規制海域外を航行していると信じていた。約2時間後に偵察機は識別信号の交換を試みた別の潜水艦を観測した。偵察機はこの2隻目の潜水艦に攻撃を行った。潜水艦は識別信号の応答として、機銃を撃ってきた。また、10月12日の夜にドラドの規制海域を通行予定であった護衛艦は、潜水艦との接触を報告しなかった。ドラドの到着予定であった10月14日になると直ちに空中捜索が始められた。油と残骸が広がっているのが発見された。続いて調査委員会がグアンタナモ湾で招集され、ワシントン海軍工廠ではより公式の委員会が開かれた。委員会は「油が広がっている箇所」は燃料ではなく、自然の産物 -おそらく海草のような植物が腐敗したもの- であると判断した。「残骸」はドラドの物ではないことが確認された。グアンタナモ及びワシントンの両委員会で、偵察機の乗員は彼らが攻撃した潜水艦2隻はUボートだと確信していると証言した。 しかし、これらの情況証拠にもかかわらず、ドラドがマリナーによって沈められたかどうかを疑う理由が存在する。マリナーの乗員達は、ドラドがその海域を航行していることを知っており、潜水艦への攻撃前に非常に注意深く目標を観察している。最初の攻撃に先立ち偵察機の4人の乗組員は水上の潜水艦を12分間観察した。 同海域は彼らが(不正確に)告げられたドラドの航行予想海域から48マイル離れており、実際の航行海域からは34マイル離れていた。 その潜水艦はドラドの基本コースからほぼ90度離れていた。 ドラドは艦の前方甲板に3インチ砲を装備していたが、その潜水艦は装備していなかった。 その潜水艦は甲板全体に溝が掘られており、ドラドは司令塔の近くにしか掘られていなかった。 その潜水艦は「取っ手状の」物体を司令塔正面に装備していた。これはIX型Uボートに装備された「ビスケー・クロス」レーダー探知機と考えられる。 戦後ドイツ海軍の記録が検討され、マリナーが最初に攻撃したのはU-518(英語版)であった可能性が示された。上に挙げた「ビスケー・クロス」レーダー探知機と思しき物体を考えると、そういう見方が出るのは当然であった。しかしながら艦の航海日誌にはその攻撃は記録されていない。書き落としたか、普通ではありえないことではあるがマリナーの攻撃をU-518が気づかなかった可能性が考えられる。投下された3発の爆雷および1発の爆弾の内、1発の爆雷は不発であり、もう1発もあまりにも低く投下されたため爆発しなかった。3発目の爆雷と爆弾も爆発したのを確認できなかった。攻撃の後マリナーは同海域を20分間捜索したが、爆発、水泡、残骸のいずれも発見できなかった。マリナーが2時間後に攻撃した潜水艦はU-213(英語版)であった。戦後入手されたU-214の航海日誌には航空機による攻撃が記録されていた。近年におけるいくつかの記録、例えばUボートに関することをほぼ網羅しているサイトでは、ドラドはU-214が敷設した機雷によって沈んだとしている。 1970年代になって、Syneca Research Groupがドラドの喪失に関する新説を発表した。それによれば、ドラドは試運転中に火災を発生して失われたというものであり、またドラドの残骸はメキシコ湾のある海岸にあり、司令塔が地面から姿を見せている主張した。しかし、この説が唱えられた1970年代以降、残骸があると主張する地点は風化や侵食で場所が分からなくなっており、後に「ドラドの残骸はカリブ海の海流によって900マイルも流された」と主張を変えている。 ドラドの記念碑はカンザス州ウィチタ、アーカンザス川沿いのベテランズ・メモリアル公園に建立された。また、2011年11月にはドラドに関する本が出版された。
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艦歴
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「フローヤ (機雷敷設艦)」の記事における「艦歴」の解説
ホルテンの海軍造船所で第一次世界大戦中に建造された。1916年6月20日進水。1918年7月1日就役。
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艦歴
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「バイロコ (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
当初はポーテージ・ベイ (Portage Bay) の艦名であったが、1944年6月6日にバイロコに改名される。ワシントン州タコマのトッド造船所で建造され、1945年1月25日にJ・J・バレンタイン夫人(ジョン・J・バレンタイン少将の妻)によって進水し、1945年7月16日にH・B・テンプル艦長の指揮下就役する。 バイロコの就役は太平洋戦争に間に合わず、1949年12月まで平時の巡航、演習訓練を行う。この間に二度の極東巡航(1946年10月18日-1947年1月25日および1947年2月18日-1947年5月30日)を行い、エニウェトク環礁で原爆実験に参加した。1949年12月16日にバイロコは不活性化オーバーホールのためにサンフランシスコへ向かい、1950年4月14日に予備役となる。 朝鮮戦争が勃発するとバイロコは直ちに現役復帰のための準備に入る。1950年9月12日に再就役し、太平洋艦隊に配属される。1950年11月から1953年8月の間にバイロコは三度の極東展開(1950年11月14日-1951年8月15日、1951年12月1日-1952年6月9日、1953年2月-8月)を行い、朝鮮半島水域で国連軍の支援活動に従事する。バイロコの艦載機部隊は北朝鮮軍、中国人民解放軍の地上部隊、機材、交通施設および海上部隊に対して何百回もの攻撃を行った。1951年5月9日に日本海で爆発、火災事故を起こし死者5名、負傷者13名の被害を出した。 バイロコは1953年8月後半に西海岸へ帰還し、1954年1月まで留まる。その後ビキニ環礁での水爆実験支援のため出航する。1954年3月1日のキャッスル・ブラボー作戦では16名の乗員がベータ線によるやけどで負傷した。1954年5月から6月までバイロコはサンディエゴで訓練を行い、7月に不活性化オーバーホールのためロングビーチ海軍造船所へ入渠する。その後1955年2月18日にサンフランシスコで予備役となる。 バイロコは朝鮮戦争の戦功での3つの従軍星章を受章した。
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艦歴
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「ハーゲン (海防戦艦)」の記事における「艦歴」の解説
キール工廠で1891年に起工。1893年10月23日に進水し、1894年10月2日に竣工した。 1895年7月、ハーゲンは防護巡洋艦カイゼリン・アウグスタ、旧式コルベットマリー、シュトッシュとともにモロッコへ派遣された。モロッコでドイツ人二人が殺害され、ドイツは賠償金250,000マルクを要求しており、それを確保するための派遣であった。 1898年から1900年までダンツィヒ工廠にて大規模な改装を実施。 第一次世界大戦が勃発すると同型艦とともに沿岸防備に当たる第6戦艦戦隊を編成。第6戦艦戦隊は1915年8月31日に解隊され、ハーゲン乗員は他艦へと異動となった。ハーゲンはリーバウ、ダンツィヒ、ヴァーネミュンデで宿泊艦として用いられた。1919年6月17日に除籍。ベルリンのNorddeutsche Tiefbaugesellschaftへ売却され、解体された。
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艦歴
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「ウェセックス (駆逐艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「ウェセックス」は、1942年10月25日にゴーヴァン(英語版)のフェアフィールド・シップビルディング(英語版)社で起工した。1943年9月2日に進水し、1944年5月11日に就役する。就役後は本国艦隊の第3駆逐艦戦隊に配属された。同戦隊は1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦において、本国艦隊の艦艇護衛を担当した。 7月に「ウェセックス」は第27駆逐艦戦隊に転属となり、東洋艦隊との任務の準備に入った。8月にポーツマスで修理を完了し、8月4日に「ウェルプ(英語版)」と共に出航を経て、セイロン島で東洋艦隊と合流した。 9月から10月にかけてインド洋での船団護衛任務に従事し、メリディアン作戦をはじめとする各種作戦に参加するイギリス空母部隊の護衛を担当した。 1945年、「ウェセックス」はイギリス太平洋艦隊(英語版)の1隻として護衛任務を継続し、同様にレーダーピケット任務にも従事した。終戦近くにオークランドにおいて改装が行われた。
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艦歴
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エーベルはシュテッティンのAGフルカン社で1902年に起工。1902年6月6日に進水し、同年9月15日に就役した。 エーベルは第一次世界大戦前、西アフリカに配備されていた。ケープタウンを訪れた際にドイツとイギリスとの戦争が差し迫っていることを知り、すぐにそこを離れた。1914年8月1日にドイツ領南西アフリカに到着。リューデリッツで給炭すると南アメリカ方面へ向かった。ブラジルのトリニダード島付近で客船カップ・トラファルガーと合流し、同船に砲や弾薬、乗組員の一部を移して仮装巡洋艦とした。その後エーベルはブラジルで抑留され、ブラジルが参戦すると1917年10月16日にサルヴァドールで自沈した。
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艦歴
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「クラースヌィイ・クルィーム (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
1913年2月14日発注。1913年9月28日付で日露戦争で戦没した巡洋艦にちなみスヴェトラーナと命名。1915年11月28日進水。しかし、1917年10月10日、ロシア臨時政府は建造を中止させる。さらにドイツ軍による造船所占領の虞がでたため11月にペトログラードへ移動。1924年に建造が再開され、1925年2月5日にプロフィンテルン(国際赤色労働組合)と改名。1928年7月1日に竣工し、バルチック艦隊に所属。1929年11月29日に黒海艦隊に転属。1939年10月31日、クラスニイ・クリム(赤いクリミア)と改名。 1954年11月30日に練習巡洋艦、1957年5月7日に実験船OS-20、1958年3月11日に宿泊船PKZ-144となり、1954年7月7日に除籍され、解体された。
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「シラーゴ (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
シラーゴは1945年1月4日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。1945年5月13日にL・メンデル・リヴァーズ夫人によって命名、進水し、1945年8月13日に艦長F・J・ハールフィンガー2世少佐の指揮下就役する。 第二次世界大戦の終盤に就役したシラーゴは、1945年秋に東海岸およびカリブ海で整調巡航を行う。その後コネチカット州ニューロンドンで第8潜水戦隊に合流し、1946年1月にマサチューセッツ州プロヴィンスタウンに移動、ここでは2隻のドイツ潜水艦の破壊に参加した。ニューロンドンに帰還すると、潜水艦学校、艦隊駆逐艦部隊の訓練任務、新技術および新型機材の評価実験訓練、デーヴィス海峡からカリブ海での艦隊演習を行う。1948年12月に潜水艦推力増強計画 (GUPPY) に基づく改修作業のためフィラデルフィア海軍造船所に入る。作業完了後1949年7月25日にノーフォークに向けて出航し、近代化された高速攻撃型潜水艦として第6潜水戦隊に加わる。 シラーゴは続く22年に渡って第6潜水戦隊で活動し、その主な任務は対潜水艦戦であった。別の任務は水上艦戦闘、情報収集、研究開発のための実験が含まれていた。1950年代を通じてこれらの任務は大西洋西部で対潜水艦戦グループの僚艦と共に行われた。また、カナダ・アメリカ両軍の合同演習、NATOの演習などに参加し大西洋東部、北海で活動する。1951年9月から11月および1954年9月から12月までの期間は第6艦隊と共に地中海で活動した。 1962年10月にシラーゴはノーフォーク海軍造船所で広範囲オーバーホールを行う。オーバーホールではガラス繊維強化プラスチックの上部構造、セイルが装着された。1963年春に対潜水艦戦グループ「アルファ」任務群との任務を再開した。その年の秋には中東で中央条約機構の演習「MIDLINK VI」に参加する。1960年代の残りから70年代にかけての任務は1950年代の任務と同様のものであった。 1971年7月1日にシラーゴはフロリダ州キーウェストの第12潜水戦隊に配属される。しかし、4ヶ月も経たない内の10月15日に再びノーフォークの第6潜水戦隊に配属された。そのまま同部隊で1972年6月1日に退役するまで保管される。同日除籍され、シラーゴは海軍艦船司令部に移管、1973年5月2日にバージニア州チェサピークのジェイコブソン・メタル社にスクラップとして売却された。
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艦歴
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「バーフラー (戦列艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
1773年、スピットヘッドにおいてのジョージ3世の観艦式ではエドワード・ヴァーノン艦長の下艦隊司令官トーマス・パイ中将の旗艦を勤めた。 特に名声を高めているのはアメリカ独立戦争時にリーワード諸島でサミュエル・フッド少将が旗艦として使用したことによる。ジョン・ナイト艦長の指揮下、1781年4月28日マルティニク沖で発生したフランソワ・ド・グラス艦隊とのサルナス岬の海戦ではバーフラーの乗員5名が死亡している。 バーフラーは次にチェサピーク湾、セント・キッツそしてセインツの海戦に参加した。1781年9月5日のチェサピーク湾の海戦ではアリグザンダー・フッド艦長指揮下でトーマス・グレイヴス提督の次席指揮官だったフッド提督の将旗を再び掲げた。海戦はフランス海軍の勝利に終わり、戦争の成り行きに大きな影響を与えた。 バーフラーはフランス革命戦争やナポレオン戦争にも参加しており、リチャード・ハウの栄光の6月1日においてはジョージ・ボウヤー提督の旗艦(艦長カスバート・コリングウッド)であった。この海戦の中で5月29日にアンドンターブルと交戦し、6月1日の戦闘では全般に大きな貢献を果たした。9名が死亡し、負傷者は25人だった。 その後もグロワ島の海戦やサン・ビセンテ岬の海戦に参加した。最後の戦闘はフィニステレ岬の海戦である。 ナポレオン戦争終結後、バーフラーは予備役となり数年間チャタムに係留されていたが、1819年1月に解体された。
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「ウィニペグ (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
ニューブランズウィック州セントジョンのセントジョン造船所(英語版)で1993年3月20日に起工され、1994年6月25日に進水、その後、1995年6月23日に就役した。 2010年8月12日、スリランカからタミル人難民を運んでいたタイ王国船籍の貨物船MV Sun Seaをブリティッシュ・コロンビアの沿岸で検挙した。 2012年4月、18ヵ月間かけてHCM/FELEX(Halifax Class modernisation programme / frigate life extension)計画に基づいた中間寿命改修および近代化を行うため、シースパン・マリン・コーポレーション(英語版)のビクトリア造船所に引き渡された。2013年4月10日、改修を終えてエスクィマルト基地に戻ったが、4月23日、アメリカン・シーフード・カンパニー(英語版)の大型トロール船American Dynastyに衝突され、6名が負傷した。その後、運用試験を経て、2014年に運用状態となった。 2014年10月、同型艦のカルガリー(HMCS Calgary, FFH 335)、キングストン級哨戒艇ブランドン(Brandon, MM 710)およびイエローナイフ(HMCS Yellowknife, MM 704)とともにサンフランシスコ・フリート・ウィークおよび米海軍とのタスクグループ演習(TGEX2014)に参加した。 2015年1月、中央アメリカ周辺海域およびカリブ海諸国における違法人身売買に対する多国籍共同作戦であるカリブ作戦(英語版)に参加するため、東太平洋に配備された。 その後、6月に北大西洋条約機構(NATO)のに参加するため、パナマ運河を通過して地中海へ展開した。 2016年1月、最初のカナダ海軍の艦艇として初めてペナンへ寄港、シンガポールにも寄港した後、2月23日に帰還した。
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艦歴
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「伊号第百六十六潜水艦」の記事における「艦歴」の解説
1929年(昭和4年)11月8日 - 佐世保海軍工廠で起工。 1931年(昭和6年)6月2日 - 進水 1932年(昭和7年)11月10日 - 竣工。佐世保鎮守府籍となり、伊67と共に第30潜水隊を編成。 1937年(昭和12年)12月1日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十五型に改正。 1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。 1941年(昭和16年)12月5日 - 第5潜水戦隊第30潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦。12月16日 - 北ボルネオ方面の偵察に従事。 12月25日 - 北緯02度26分 東経109度49分 / 北緯2.433度 東経109.817度 / 2.433; 109.817のクチン北西60浬地点付近で、蘭潜水艦K XVIを撃沈。 12月27日 - カムラン湾に到着。 1942年(昭和17年)1月5日 - カムラン湾を出航し、ベンガル湾方面で活動。1月11日0415 - 南緯08度54分 東経115度28分 / 南緯8.900度 東経115.467度 / -8.900; 115.467のロンボク海峡南方で生ゴムを船倉内に、爆発物を甲板に積んで輸送中の米貨物船リバティ(Liberty、6,211トン)を雷撃。大破したリバティはバリ島シガラジャへ向け曳航されるが、バリ島北東部の海岸に座礁。14日になって転覆沈没した。 1月21日1516 - 北緯15度28分 東経94度36分 / 北緯15.467度 東経94.600度 / 15.467; 94.600のアンダマン海で、2,500トンの石炭を積んでカルカッタからラングーンへ航行中のパナマ貨物船ノード(Noad、3,193トン)を雷撃により撃沈。 1月22日0525 - バセイン南西沖合のベンガル湾で、空船でマドラスからラングーンへ単独航行中の英貨客船チャク・サン(Chak Sang、2,358トン)を砲雷撃により撃沈。 1月29日 - ペナン着。 2月9日 - ペナンを出航し、セイロン島方面で活動。 2月14日0817 - 北緯08度35分 東経81度44分 / 北緯8.583度 東経81.733度 / 8.583; 81.733のトリンコマリー東方沖合で、米を積んでラングーンからコロンボへ航行中の英貨物船カムニン(Kamuning、2,076トン)を砲雷撃により撃破。カムニンはトリンコマリーへ曳航中、北緯08度35分 東経81度26分 / 北緯8.583度 東経81.433度 / 8.583; 81.433の地点で沈没した。 3月15日 - ペナン出航。 3月28日 - 佐世保入港。 5月15日 - 呉出航。 5月20日 - 伊号第百六十六潜水艦に改名。 5月26日 - ミッドウェー海戦に参加。 6月26日 - 佐世保入港。修理を実施。 7月10日 - 第30潜水隊は南西方面艦隊に編入。 7月22日 - 佐世保出航。 8月11日 - ペナンを出航し、インド洋交通破壊戦に参加。 10月1日1310 - 北緯08度10分 東経77度41分 / 北緯8.167度 東経77.683度 / 8.167; 77.683のカルカッタ近海でパナマ貨物船カミラ(Camila、1,201トン)を砲撃して撃破。カミラはその後座礁し、全損となった。 11月23日 - 北緯08度26分 東経76度42分 / 北緯8.433度 東経76.700度 / 8.433; 76.700のコモリン岬南方沖合でカルカッタからスエズへ航行中の英貨物船クランフィールド(Cranfield、5,332トン)を雷撃により撃沈。 1943年(昭和18年)1月19日 - 佐世保入港。入渠整備を実施。8月10日 - 佐世保を出航。 9月25日 - ペナンに進出。インド洋方面で活動。 1944年(昭和19年)3月25日 - 第30潜水隊は第8潜水戦隊に編入。7月16日 - ペナンを出航し、シンガポールへ向かう。 7月17日 - マラッカ海峡で浮上して航行中、英潜水艦テレマカス(HMS Telemachus)の攻撃により戦没した。諏訪艦長以下10名が救助され、88名が戦死した。 撃沈総数7隻、撃沈トン数21,236トン。
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艦歴
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「ニッツェ (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ニッツェの建造契約は1998年3月6日にメイン州バスのバス鉄工所に発注された。2002年9月20日に起工し、2004年4月3日にエリザベス「Leezee」ポーター(ニッツェの妻)によって命名、進水した。 命名時にポール・ニッツェは97歳で存命中(2004年10月没)であり、ニッツェは命名時に生存中の人名が名付けられた数少ない艦艇の一隻となった。ニッツェは2005年3月5日にマイケル・A・ヘガーティ艦長の指揮下就役した。 艦は「Cold Warriors.」の愛称で知られるが、これはポール・ニッツェが冷戦時代に果たした役割からのものである。
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艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/27 14:08 UTC 版)
「スタレット (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
スタレットは2005年11月16日にメイン州バスのバス鉄工所で起工した。 2018年2月米太平洋艦隊指揮下に新設されるワスプ (強襲揚陸艦)を中心に形成される「強化型遠征打撃群」にデューイ(DDG-104)と共に配備予定と同時に事故による艦艇修理で稼働艦艇が減少している横須賀第7艦隊所属第15駆逐隊の穴埋めを兼ねる可能性も報じられている。
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艦歴
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「アークティック (高速戦闘支援艦)」の記事における「艦歴」の解説
1989年12月6日発注。1991年12月2日起工。1993年10月30日進水。1995年9月11日竣工。 2002年6月14日、海上輸送司令部(Military Sealift Command)に移管された。移管後の母港はニュージャージー州アール。 現在は武装していないが、海軍籍にあったときはファランクスCIWSを装備していた。
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艦歴
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「エルマー・モンゴメリー (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
エルマー・モンゴメリーはルイジアナ州ウェストウィーゴーのエイボンデール造船所で1970年1月23日に起工する。1970年11月21日に進水し、1971年10月30日に就役した。 エルマー・モンゴメリーは1993年6月30日に退役し、1993年6月30日に除籍された。その後防衛援助計画に基づき1993年12月13日にトルコへ移管された。
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艦歴
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1930年1月30日起工。1931年7月26日進水。1932年8月13日就役。 1940年7月、カラブリア沖海戦に参加。1941年3月、駆逐艦4隻水雷艇1隻と共同で北アフリカへの船団を護衛。4月、駆逐艦3隻と共同でトリポリからナポリへの船団を護衛。同月、駆逐艦「ルカ・タリゴ」、「バレノ」と共にナポリからトリポリへの船団を護衛。その途中の16日にイギリス海軍の攻撃を受けて船団は全滅、「ランポ」も大破擱座した(タリゴ船団の戦い)。 8月8日に「ランポ」は引き揚げられ、修理の上1942年5月に再就役した。 1942年7月、エーゲ海からベンガジへの船団とベンガジからブリンディジへの船団の護衛に従事。7月、バーリからエーゲ海への船団を駆逐艦1隻水雷艇1隻と共同で護衛。 12月、水雷艇1隻と共にタンカーの護衛中、敵機の攻撃を受けタンカーが損傷。同月、北アフリカからシチリア島パレルモまでの船団護衛に従事。その後も北アフリカとイタリア間の船団護衛に従事する。1943年4月30日、駆逐艦「レオーネ・パンカルド」、ドイツ駆逐艦「ヘルメス」と共にチュニジアへの兵員などの輸送中にボン岬沖で爆撃により沈没。 この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。
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艦歴
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「ファルケ (水雷艇)」の記事における「艦歴」の解説
1925年11月17日起工。1926年9月29日就役。1928年7月15日就役。 第二次世界大戦開戦後、機雷敷設作戦などに従事。 1940年6月、ノルウェー沖海戦で被雷損傷し、応急修理後ドイツ本国へ戻る巡洋戦艦シャルンホルストを他の駆逐艦や水雷艇と共に護衛。この後も北海やイギリス海峡で機雷敷設作戦など従事する。 1940年10月11日、イギリス沿岸の海上交通妨害を目的として第5水雷隊(ファルケおよび水雷艇グライフ、コンドル、ゼーアドラー、ヴォルフ)はシェルブールから出撃。11日から12日の夜に第5水雷隊は武装トローラーListrac、Warwick Deepingと自由フランスの駆潜艇CH6、CH7撃沈した。帰路、ワイト島南南西沖でイギリス第5駆逐隊(駆逐艦ジャッカル、ジャガー、ジュピター、ケルヴィン、キプリング)と遭遇し追撃を受けるが、振り切ってシェルブールに帰投した。 1942年2月ケルベロス作戦に参加する。 3月ファルケと水雷艇ゼーアドラー、イルティス、ヤグアー、コンドルなどは、イギリス海峡を通って大西洋へ出撃する仮装巡洋艦ミヒェルを護衛した。5月、今度は仮装巡洋艦シュティーアを、コンドル、イルティス、ゼーアドラーなどと共に護衛する。イギリス海峡通過中にイギリス軍の攻撃でゼーアドラーとイルティスが撃沈されたが、シュティーアは無事大西洋へ進出した。 11月ファルケと水雷艇T22、T23、コンドルは、日本へ向かうイタリア船コルテッラッツォ (Cortellazzo) のボルドーからの出港時の護衛を行う。1943年3月再び極東へ向かうイタリア船の護衛をおこなう。しかし、このイタリア船ヒマラヤ (Himalaya) はイギリス軍機に発見されたため引き返した。 1944年6月13日ファルケとメーヴェ、ヤグアー、T28は連合国のノルマンディー上陸部隊攻撃に出撃。敵駆逐艦と交戦する。 6月14日、イギリス軍によるル・アーブル空襲で撃沈される。
※この「艦歴」の解説は、「ファルケ (水雷艇)」の解説の一部です。
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艦歴
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「ディアナ (コルベット・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「ディアナ」は、バサンカルタヘナ造船所で建造され、1975年7月8日に起工、1976年1月26日に進水、1979年6月30日に就役しカルタヘナ基地の第21護衛隊に配備される。 1990年10月31日、湾岸危機に伴い国際連合主導による禁輸監視活動のため、フリゲート「F 83 ヌマンシア」、コルベット「F 34 インファンタ・クリスティナ」と共に紅海に派遣される。任務中にはイラク籍の貨物船「ハウラ・ビン・アル・ザウラ(Khawla Bint Al Zawra)」が信号を無視して航行を継続したため、これに対し威嚇射撃を実施した。 2000年に掃海艦に艦種が変更され、潜水員用の高圧室や潜水カメラ器材など所要の装備に改修され。番号もM 11に変更された。
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「デモイン (防護巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
デモインは1900年8月28日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工した。1902年9月20日にE・マッコーマー夫人によって命名、進水し、1904年3月5日に艦長A・マクラキン中佐の指揮下就役した。デモインは1920年7月7日に PG-29 (砲艦)に艦種変更され、1921年8月8日に CL-17 (軽巡洋艦)に再び艦種変更された。 1904年6月および7月、デモインは西インド諸島に巡航し、その後8月29日にヨーロッパ戦隊と共にボストンを出航、フランス、イギリス、アイルランド、ノルウェー、オランダ、ベルギー、スペイン、イタリアの各港を訪問、12月11日にバルバドスに到着し北大西洋艦隊に合流した。デモインは艦隊と共にカリブ海およびメキシコ湾を巡航し、砲撃訓練およびその他の演習を行い、調査やアメリカ合衆国の権益保護活動に従事した。 デモインは1906年2月16日にボストンに帰還し、続く5年にわたって大西洋、カリブ海、メキシコ湾などを広く巡航した。デモインは演習に参加し、政府職員や海兵隊を運び、1906年4月のアナポリスにおけるジョン・ポール・ジョーンズの再埋葬、1906年9月のオイスター・ベイにおけるセオドア・ルーズベルト大統領による観閲式などの記念式典に参加した。 デモインは1920年5月から9月までメキシコ水域を巡航し、現地の政情を報告、疫病被害の救援に参加した。その後パナマ運河地帯を拠点として特別任務戦隊に加わり中央アメリカ水域を巡航、1921年3月5日まで南米の西海岸でアメリカの友好国への訪問を行った。デモインはポーツマス海軍工廠に帰還し、1921年4月9日に退役、1930年3月11日にスクラップとして売却された。
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「アルビオン (空母)」の記事における「艦歴」の解説
1944年3月にスワン・ハンター社のベルファスト造船所で起工された。第二次世界大戦の終結を受けて建造はスローペースとなり、進水は1947年5月となった。 1949年10月18日、3隻のタグボートによりジャローからロサイスへ曳航されていたアルビオンは、ロングストーン灯台から4海里の地点でSS Maystoneと衝突した。衝突によりMaystoneは沈没、アルビオンは船尾に20.9 m2の破口を生じ、浸水が始まった。タグボートはアルビオンの沈没を避けるため、セント・アバズ・ヘッド付近の海岸へ乗り揚げさせようとしたが、曳航索がプロペラの推進軸に絡まり失敗した。救援のためロサイスから曳船 HMS Restive と駆逐艦 HMS St. James が送られ、絡まった曳航索を取り除いて、アルビオンをロサイスへ曳航することに成功した。機関室には1.5mの浸水があった。 1951年に竣工する予定であったが、衝突事故の影響もあり完全な完成は1954年5月まで遅れた。起工時は、従来の直線式飛行甲板を有する計画であったが、建造中の改設計により、竣工時にアングルド・デッキを装備していた。 1954年に就役、同年9月には地中海艦隊に配属されている。1956年には第二次中東戦争に参加し、英仏軍の侵攻に対し航空機の援護を提供している。1958年には試験的な運用として、イギリス海兵隊の兵員・車両・機材を搭載し、中東方面へ展開している。その後も、極東やオーストラリアなど、各地に航行・展開した。 1961年に固定翼機に対応する航空艤装を取り外し、コマンド母艦に改装される。これは、ヘリコプターによる兵員の揚陸を行う揚陸艦であった。1962年に再就役し、ヘリコプターと海兵隊を搭載して極東方面へ展開、ボルネオ島における共産主義ゲリラの掃討の支援任務を行った。1967年にはアデンからのイギリスの撤退を援護し、1971年のシンガポールにあったイギリス極東艦隊の解散の時まで、そこに配備されていた。 1973年に退役し、一時は北海油田用の重量物輸送船にする計画もあったが、それは中止され、スクラップにされた。 最終時期の搭載機は次の通り 806 sqn. ホーカー シーホークFGA6艦上戦闘機8機 894 sqn. シーベノムFAW.21全天候戦闘機12機 849 sqn. D flt. スカイレイダーAEW.1早期警戒機4機 815 sqn. ホワールウィンドHAS.7対潜哨戒ヘリコプター8機 Ships Flight ドラゴンフライHR.5捜索・救難ヘリコプター1機
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艦歴
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「グリッドレイ (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
グリッドレイはワシントン州シアトルのピュージェット・サウンド・ブリッジ・アンド・ドライドック社で起工する。1961年7月31日にスチュアート・D・ローズ夫人(グリッドレイ大佐の曾孫)によって進水し、1963年5月25日にP・A・リリー艦長の指揮下就役した。 ワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で整調を行った後、グリッドレイはブリティッシュコロンビア州への親善訪問を行い、その後母港のカリフォルニア州ロングビーチから公試を行った。グリッドレイは1963年11月8日から12月9日までピュージェット・サウンド海軍造船所に留まり、その後大西洋艦隊第19駆逐艦隊の旗艦となる。 1964年初めにカリフォルニア州サンディエゴで整調を行った後、4月8日にロングビーチを出航し真珠湾経由でオーストラリアに向かう。5月5日にサウスオーストラリア州アデレードに到着し、珊瑚海海戦記念祭に参加した。その後フィリピンに向かい5月29日から31日までスービック海軍基地に停泊、続いて6月2日に日本の沖縄に到着し、8日には佐世保に入港した。 グリッドレイは再び南に向かい、スービック湾から香港に向かう。トンキン湾で駆逐艦マドックス(USS Maddox, DD-731)とターナー・ジョイ(USS Turner Joy, DD-951) がベトナム軍哨戒艇から攻撃を受け、グリッドレイは8月4日に事態に対処するため南シナ海で航空母艦コンステレーション(USS Constellation, CVA-64)の護衛任務に従事する。スービック湾で短期間停泊した後、グリッドレイはステーションに留まり防空哨戒任務を継続し、対空戦闘指揮および通信中継任務に従事した。グリッドレイは海軍殊勲部隊章を受章し、9月6日に戦闘海域を離脱する。11月7日にスービック湾を離れ、11月21日にロングビーチに到着する。 グリッドレイは1965年7月10日に西大西洋に戻るまでアメリカ西海岸で活動した。真珠湾と横須賀を経由して南シナ海に向かい、北ベトナムを攻撃する第7艦隊の空母群の支援を行う。続く4ヶ月間でグリッドレイは不時着水したパイロットを4度救出した。12月7日に横須賀に戻り、22日には南シナ海で空母に帰還する艦載機の確認任務を再開する。1966年初めに帰国の途に就き2月1日にロングビーチに到着する。 グリッドレイはカリフォルニア沿岸で活動を続け、11月18日に再びアジアへ向かう。1967年1月2日に南シナ海およびトンキン湾での航空機護衛任務のためスービック湾を出航する。戦闘地域での様々な任務の後オーストラリアを経由して西海岸に向かい、6月8日にロングビーチに到着、次の任務の準備を行う。 1967年6月8日にジョン・フォーブズ・ケリー少尉が初の海外任務のためグリッドレイに着任する。彼の任務は1年後の1968年6月6日に終了した。 リーヒ級ミサイル巡洋艦は1960年代後半から70年代前半にかけて対空戦闘能力の改善が行われた。50口径3インチ砲は8基の AGM-84 ハープーンミサイルと交換され、テリアミサイルランチャーはスタンダードミサイルが発射できるようアップグレードを受けた。また、2基のファランクスCIWSが装備された。 グリッドレイは1975年6月30日に CG-21 (ミサイル巡洋艦)に艦種変更された。同年フリークエント・ウィンド作戦(南ベトナムからの撤退作戦)を支援し、航空管制およびオンステーション支援を提供した。さらに、マヤグエース号事件ではオンステーション航空管制を担当した。 1978年はドックでのオーバーホールを行い、翌1979年に太平洋西部へ展開する。イランアメリカ大使館人質事件の結果、グリッドレイは1980年代中頃までインド洋およびアラビア海北部のステーションに留まることとなる。 1982年3月にカリフォルニア州サンディエゴへ帰還し、カリフォルニア州南部海岸で活動の後グリッドレイはロングビーチ海軍造船所で広範囲な改良および機関全体のオーバーホールを行う。艦の射撃管制および対空捜索レーダーに対してより多くの改良が行われた。また、ファランクスの装着はこのとき行われた。グリッドレイは1983年10月に部隊に復帰する。 1987年7月、グリッドレイはレンジャー戦闘集団の一部としてイランの石油掘削施設への攻撃に参加する。1988年12月にも再びペルシャ湾に展開し、ホルムズ海峡でクウェートの石油タンカーを護衛した。 グリッドレイは1989年6月にカリフォルニア州サンディエゴへ帰還する。同年10月17日、カリフォルニア州トレジャー・アイランドの海軍基地を訪れるが、ロマ・プリエタ地震の発生で訪問は中断され、グリッドレイの乗組員はマリーナ地区の被災者に対して援助を行った。 1990年2月から1991年3月までグリッドレイはサンディエゴのサウスウエスト・マリーン造船所でNTU (New Threat Upgrade)プログラムによる新型戦闘システムが導入された。5,500万ドルをかけたオーバーホールの間に全ての機関と停泊施設、食糧供給施設が改良され、艦の戦闘システムは劇的に増強された。対空探索レーダーおよび戦闘統制システムの改良により、 SM-1 および SM-2 艦対空ミサイルによる多数の標的を検知、対処する能力が改善された。 広範囲な運用評価および検証過程に続いて、グリッドレイは空母インディペンデンス(USS Independence, CV-62)の支援任務のためペルシャ湾に展開する。1992年6月にはアラビア海北部で航行不能となった商船アデル11(Adel 11)を救助する。8月にオペレーション・サザン・ウォッチ(イラク上空の飛行禁止空域施行作戦)が始まり、グリッドレイはクウェート沖合のステーションで同作戦に参加した最初の艦となった。グリッドレイは沿岸地域のレーダー探知およびペルシャ湾北部の艦艇に対する対空防御を担当した。 グリッドレイは1992年10月にサンディエゴへ帰還し、1993年1月から4月までナショナル・スチール・アンド・シップビルディング社でオーバーホールを受ける。この間に新型の SM-2 ブロックIII ミサイルが運用可能となった。この改良により艦は巡航ミサイルを撃墜する能力を得る。1993年7月、グリッドレイは太平洋のミサイル試験海域において新型ミサイルの発射試験を行い3度の成功を記録した。同月空母コンステレーションに随伴してメキシコのアカプルコに向かい、その後フィラデルフィア海軍造船所で3年の耐用年数拡張プログラム・オーバーホールを受けたコンステレーションの護衛を行いサンディエゴに帰還する。 サンフランシスコへの最後の訪問の後、グリッドレイは1993年10月にサンディエゴに帰還し退役する。除籍後は1994年1月21日に一時的に海事局へ移管され、スイスン湾で廃棄のため保管された。グリッドレイは2005年にスクラップとして廃棄された。
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「ホーン (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ホーンは1961年9月20日にサンフランシスコ海軍造船所に建造発注され、1962年12月12日に起工する。1964年10月30日にフレデリック・ホーン夫人(ホーン提督の未亡人)によって命名、進水し、1967年4月15日に就役する。 1983年7月20日付けのニューヨーク・タイムズは、ホーンがレンジャー戦闘グループの他の7隻の艦艇と共に1983年7月15日(金)にサンディエゴを出航したことを伝えた。部隊は西太平洋に向かった後、中央アメリカへ方向を変え、ニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラスの沖合で訓練および航空作戦に従事した。 部隊は航空母艦レンジャー (USS Ranger, CV-61)、巡洋艦ホーン、リンド・マコーミック (USS Lynde McCormick, DDG-8)、駆逐艦フレッチャー (USS Fletcher, DD-992)、ファイフ (USS Fife, DD-991)、フリゲートマーヴィン・シールズ (USS Marvin Shields, FF-1066)、給油艦ウィチタ (USS Wichita, AOR-1)、高速戦闘支援艦カムデン (USS Camden, AOE-2) から構成された。 26年以上の現役活動の後、1994年2月4日に退役、同日アメリカ海事局に移管され、スイスン湾の予備役艦隊に保管される。2008年6月29日リムパック2008にて標的艦として海没処分された。
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「リーヒ (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
リーヒは1959年12月3日にメイン州バスのバス鉄工所で起工し、1961年7月1日にモーリーン・マンスフィールド(モンタナ州選出上院議員、上院院内総務マイケル・J・マンスフィールドの妻)によって進水、1962年8月4日に初代艦長ロバート・L・ボーハン大佐の指揮下就役した。 カリブ海での整調航海後、リーヒは1963年9月19日にボストンを出航し、サウスカロライナ州チャールストンに向かう。チャールストンでは第6巡洋艦駆逐艦艦隊指揮官のE・E・グリム少将がリーヒを旗艦に決定した。その後はジャクソンヴィル作戦海域で訓練を行い、11月に母港に帰港した後カリブ海での対空演習に参加する 1964年1月2日にリーヒは再びカリブ海に向かい、ミサイル訓練を2月26日まで行う。4月1日から10日まで揚陸演習「クイックキック V Quick Kick V」に参加し、6月1日に第6駆逐艦隊に配属された。 リーヒは第6艦隊と共にフォレスタル (USS Forrestal, CVA-59) の高速空母任務群に加わり、7月17日に出航し統合艦隊演習に参加する。演習「メランディックス - 64 MEDLANDEX-64」は、バレアレス諸島とサルデーニャの間で行われた。その後単艦での訓練を地中海東部で行った後、9月22日にイタリアのナポリを出航しNATOの合同演習「フォーレックス - 64 FALLEX-64」に参加する。10月26日にナポリに帰還し、11月には「プープデック - IV POOPDECK-IV」に参加、同演習は第60任務群の約40隻の艦艇と共にスペインの沖合で行われた。 リーヒは12月2日にスペインのバルセロナを補給のため出発し、12月14日に第6艦隊での32,750マイルの航行を達成した。12月22日にチャールストンに到着し、テリアミサイルの広範囲な評価試験を開始する。テストは翌年9月に完了する。その間の1965年4月28日から5月7日まで、ドミニカ共和国への攻撃および部隊支援任務に参加した。 リーヒは12月1日に地中海に向けてチャールストンを出航し、マヨルカ島でウィリアム・V・プラット (USS William V. Pratt, DLG-13) と任務を交代した。この二度目の第6艦隊配備期間にリーヒは地中海で対潜水艦、砲術および対空演習を行い、同様にNATO同盟国支援の艦艇戦術行動に従事した。 リーヒは1966年4月8日にチャールストンへ帰港する。6月から7月にかけて約60名の海軍兵学校生を乗艦させ、アナポリスから訓練巡航に出航し大西洋岸沿いおよびカリブ海の港を訪れた。その後リーヒは南アメリカ諸国との共同演習、「オペレーション・ユニタス VII operation UNITAS VII」に参加し指揮艦の役割を果たす。リーヒは9月前半にパナマ運河を通過し、10月後半にはマゼラン海峡を通過した。 共同演習は12月6日に完了し、リーヒは12月15日にチャールストンに帰還する。その後近代化改装のためフィラデルフィア海軍造船所に向かい1967年1月27日に到着、2月18日に予備役となる。一年以上にもわたる改装でリーヒは新たな対空、対潜水艦戦用の新型機材を装備した。1968年5月4日に再就役しそれらの機材の試験を行う。8月18日にフィラデルフィアを出航し、3日後に新たな母港のノーフォークに到着した。 リーヒは CG-16 に艦種変更された後、1993年10月1日に退役し、同日除籍された。2004年6月21日、ボーモント予備役艦隊入りするため牽引された。 リーヒはスクラップとして売却され、2004年11月にテキサス州ブラウンズビルのインターナショナル・シップブレーキング社で解体作業が行われた。
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「マズール (水雷艇)」の記事における「艦歴」の解説
本艦は当初はオランダ海軍の発注により「Z-1」としてドイツはシュテッチン(現ポーランド)のA.G.フルカン社により1914年に起工されたが、第一次世界大戦の勃発によりドイツ海軍に接収されて魚雷艇「V-105」として建造再開された。戦後の1919年にイギリスの手により接収され、ブラジルに割り当てられたがポーランド海軍が取得した魚雷艇「A-69」と交換された。 しかし、不調のためにしばらくロサイスで修理を受けた。修理後に、本艦はポーランドの方言であるマズールィ語(Mazurian)にちなんで「ORP Mazur」と命名され、1921年にポーランド海軍で就役された。1931年に本艦は砲術練習艦として整備され、魚雷発射管が撤去されした。 1935年から1937年にかけて本艦は第二次近代化改装を受けた。第二次世界大戦初日の1939年9月1日に、艦長のタデウシ・ルトコフスキ中尉によって命令された本艦はグディニャの港に停泊していた。 本艦が出港準備をしていた午後2時にドイツ空軍の空爆を船体中央部に爆弾2発を受けたことが致命傷となり、本艦は撃沈された。
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「ジョーエット (ミサイル巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ジョーエットはワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠で1962年9月25日に起工する。1964年6月30日にマーガレット・ベル・アーヴィン(ノースカロライナ州選出上院議員サム・アーヴィン夫人)によって命名、進水し、1966年12月3日にロバート・S・ヘイズ艦長の指揮下就役する。 1967年2月に整調が完了すると、ジョーエットは巡洋艦駆逐艦部隊に配属され、サンディエゴを母港として活動した。 1975年6月30日にジョーエットはミサイル巡洋艦として艦種変更される。ジョーエットは1994年1月28日に退役、同日除籍される。3月30日に海事局へ転籍、カリフォルニア州スイスン湾で予備役艦として保管される。
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「メイソン (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
メイソンは1943年10月14日マサチューセッツ州ボストン海軍工廠で起工。1943年11月17日にデヴィッド・メイソン夫人(メイソン少尉の母親)によって命名、進水し、1944年3月20日に艦長ウィリアム・M・ブラックフォード少佐の指揮下就役した。 6月14日、メイソンはヨーロッパ行きの船団を護衛してサウスカロライナ州チャールストンを出発し、7月6日にアゾレス諸島に着いた。7月26日、メイソンは北アイルランドのベルファストを出発し、8月2日にボストンに到着した。9月2日、メイソンはニューヨークに着き、9月19日にNY119船団を護衛して出港した。10月18日にファルマスに到着し、11月22日にニューヨークに戻った。12月17日、メイソンはヴァージニア州ノーフォークで第64任務部隊に加わった。2日後メイソンはヨーロッパ行きの船団に加わって出港し、1945年1月4日にジブラルタルを通過、船団護衛から離れ1月5日にオランに到着した。そこで第60.11任務群を形成した。1月7日にオランを出港したメイソンは4日後にレーダーで水上の目標を捕らえた。潜水艦だと推定されたその目標の攻撃に向かったが、それは遺棄された木造船であった。それからメイソンは修理のためバミューダ諸島へ向かい、1月19日にセントジョージズハーバーに入港した。5日後メイソンはニューヨーク海軍工廠に到着した。 2月12日、メイソンは船団に加わってノーフォークを出発し地中海へ向かい、2月27日にジブラルタル沖に到着した。メイソンは3月8日にオランを離れ、バミューダ諸島とチェサピーク湾へ向かう船団を護衛してから3月24日にニューヨークに戻った。訓練をおこなった後メイソンは4月10日に船団を護衛してノーフォークからヨーロッパへ向かった。4月28日、ジブラルタルで船団と別れた。 5月9日、東海岸へ向かう途中でヨーロッパでの戦争の終わりを知らされた。5月23日、メイソンはニューヨークに到着した。 メイソンは1945年10月12日に退役し、11月1日に除籍された。1947年3月18日にサウスカロライナ州チャールストンでスクラップとして、ニュージャージー州のトーマス・ハリスに売却された。 アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦のメイソン (USS Mason, DDG-87) は、本艦に乗り組んだアフリカ系アメリカ人乗組員に敬意を表して命名された。2004年の映画『Proud』は彼らの物語が描かれた。メイソンは第二次世界大戦においてアフリカ系アメリカ人が乗り組んだ2隻の艦艇の内の一隻であり、もう一隻は駆潜艇 USS PC-1264であった。
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「グレイバック (SS-208)」の記事における「艦歴」の解説
グレイバックはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工した。1941年1月31日にブラウン夫人(アメリカ海軍兵学校司令官ウィルソン・ブラウン少将の妻)によって命名、進水し、1941年6月30日に艦長ウィラード・A・サーンダーズ少佐(アナポリス1927年組)の指揮下就役する。グレイバックは大西洋艦隊に配属され、ロングアイランド・サウンド、ニューポート、ニューロンドン、ニューヨーク沖で整調巡航を行う。グレイバックは僚艦グランパス (USS Grampus, SS-207) と共にニューロンドンを9月8日にカリブ海およびチェサピーク湾に向けて出航、哨戒を行い11月30日にオーバーホールのためポーツマスに帰還した。真珠湾攻撃によるアメリカ合衆国の大戦参戦に従い、1942年1月15日、グレイバックは真珠湾へ向けて出航。1月21日から25日にかけてパナマ運河を通過し、2月8日に真珠湾に到着した。
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「ルイビル (重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ルイビルはワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で建造された。1929年(昭和4年)7月4日に起工し、1930年(昭和5年)9月1日にジェーン・ブラウン・ケネディによって進水、1931年(昭和6年)1月15日に艦長E・J・マーカート大佐の指揮下就役する。当初は CL-28 (軽巡洋艦)であったが、ロンドン海軍軍縮会議の結果、同年7月1日に CA-28 に艦種変更された。
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艦歴
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「オールバニ (重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
オールバニは1944年3月6日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社、フォアリバー造船所で起工し、1945年6月30日にエリザベス・F・ピンクニー夫人によって進水、1946年6月15日にボストン海軍工廠でハロルド・A・カーライル艦長の指揮下就役する 艤装および整調巡航をメイン州カスコ湾近くで行った後、オールバニは東海岸沿いに作戦活動を行うが、途中西インド諸島への巡航で中断する。オールバニは海軍予備役兵および予備役士官訓練部隊の兵員を乗せ多くの訓練巡航を行った。この訓練任務は1948年9月11日まで継続され、その後チェサピーク湾から地中海へと派遣される。オールバニは第6艦隊の旗艦となる。地中海での任務は10年に及び、東海岸沿いおよび西インド諸島での第6艦隊での5度の展開、南米の港への3度の巡航を行った。南米への巡航には1951年1月のブラジル大統領就任式に出席するアメリカ代表の輸送も含まれた。 1958年6月30日にオールバニはミサイル巡洋艦へ転換するための改修作業に入る。1958年11月1日に CG-10 に艦種番号を変更され、続く4年にわたってオールバニはボストン海軍工廠で広範囲な改修が行われた。オールバニは1962年11月3日にベン・B・ピケット艦長の指揮下再就役する。その後およそ5年にわたって地中海、北大西洋といったヨーロッパ海域での活動を行い、本国では東海岸沿いおよび西インド諸島での作戦活動を行った。この間にオールバニは多くの親善訪問を行い、他国海軍との共同演習も行った。1967年3月1日にボストン海軍工廠での改修作業に入り、約20か月後の1968年11月9日にロバート・C・ペニストン艦長の指揮下現役復帰する。 1973年に再びオーバーホールのためフィラデルフィア海軍工廠入りし、1974年5月にロバート・エケルンド艦長の指揮下現役復帰する。バージニア州ノーフォークが母港となり、その後まもなく第2艦隊の旗艦任務に就く。 1976年から1980年の間にオールバニは第6艦隊の旗艦任務に就き、イタリアのガエッタを母港とした。 オールバニは1980年8月29日に退役した。
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艦歴
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1919年5月24日「野間」と命名、同月28日にイギリスのロバート・ダンカン社グラスゴー造船所で竣工した。回航途中の同年7月15日にシンガポールに立ち寄り同日出港、同月24日バリクパパンで重油7,379トンを搭載し同日呉に向け出港した。8月5日附で呉鎮守府籍となり、在役船と定められる。8月6日呉港に到着、公的にはこの日が竣工日となっている 呉までの回航は中国人の乗員が当たっていてその片付けや、艤装などに問題があることから修理改造が必要だった。呉海軍工廠で9月下旬から約1カ月間工事が行われ、10月16日に公試運転、25日に横須賀へ向け出港した。日本海軍は1921年3月までにサンフランシスコから重油8万トンを輸入する契約を結び、本船がこれに当たることになっており、11月13日横須賀を出港した。ホノルル経由でサンフランシスコ着、帰路もホノルル経由で翌1920年(大正9年)1月16日呉に帰港した。この時にサンフランシスコで検疫のため艦内消毒を行ったのが問題になった。アメリカでは軍、民間の区別無く運送船には検疫を行っており、一方の日本側は運送船でも日本海軍籍にあり国際法上の軍艦であるという考えだった。交渉の結果、本船の検疫は今後免除となっている。 前年の呉での工事は必要最小限だったため、横須賀海軍工廠で残工事を行い、その間1920年2月18日から3月8日まで第4ドックに入り、舵取付部の調査や艦底塗り替えなどが行われている。また4月1日に特務艦艇類別標準で特務艦と特務艇が新たに定められ、本艦は特務艦中の運送艦に登録された。同日横須賀を出港、サンフランシスコへ向かい6月9日に呉に帰港した。この時は無線発信能力に問題が有り、発電機の増備を上申している。その後はボルネオからの重油輸送に当たる事になり、6月21日に呉を出港しタラカンから重油輸送を行い7月22日横須賀に帰港した。9月15日呉を出港し北米からの重油輸送を行い11月15日呉に帰港、次いで12月9日呉を出港してタラカンに向かい、翌1921年(大正10年)1月5日呉に帰港した。 1921年はタラカンを7往復し、呉に1回、馬公に1回、徳山に5回重油を輸送した。 1922年(大正11年)からはタラカンへ5回、バリクパパンへ1回行き、全て徳山に重油を降ろした。同年最後の航海は12月13日呉を出港、タラカンから翌1923年(大正12年)1月13日に呉に帰港した。 同年1月18日、ボイラーの水圧試験中に2号缶の炉筒と管板の取付部に亀裂を生じた。応急修理中の27日に3号缶にも同様の亀裂を生じ、修理完成の見込みが立たなったため、本艦での輸送計画も立たなくなってしまった。その他、戦時急造艦のため低速力なことや知床型給油艦の就役に伴って、以後は予備艦となって呉に係留されることとなった。 1928年(昭和3年)4月1日除籍、11月28日廃船認許、翌1929年(昭和4年)3月25日に飯野商事(後の飯野海運)に18万円で売却される。飯野商事は1902年(明治35年)に舞鶴鎮守府への出入り業者となって以来、海軍御用達として緊密な関係を築いていた。これまで鎮守府間輸送用の小型タンカーしか所有していなかったが、外航タンカーに手を広げるにあたり、目をつけたのが除籍された「野間」であった。播磨造船所にて大改装の後「日本丸」と命名されて、引き続き北アメリカからの海軍向けの重油輸送に使用された。1933年(昭和8年)5月28日、ロサンゼルス北西アルグエロ岬沖にて荒天により座礁して浸水し、排水作業の甲斐なく沈没した。同船に掛けられていた保険金50万円は、代船として建造されたタンカー「極東丸」(飯野商事、10,051トン)の建造費260万円の一部に充当された。
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艦歴
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「ボリー (DD-215)」の記事における「艦歴」の解説
ボリーは1919年4月30日にペンシルベニア州フィラデルフィアのウィリアム・クランプ・アンド・サンズで起工する。1919年10月4日にパティ・ボリー(ボリー長官の大曾姪)によって命名、進水し、1920年3月24日に艦長E・F・クレメント少佐の指揮下就役した。 1920年4月、ボリーはトルコ海域に派遣される分艦隊に合流し、黒海での任務に就く。翌年にはアジア艦隊の第38駆逐艦部隊に加わり、続く4年間を冬期間はアメリカの植民地のフィリピン海域で、夏期は中華民国の煙台、上海で活動した。その後帰国し、1927年の春までカリブ海での偵察任務に就き、続いてヨーロッパへの巡航を行った。ボリーは1929年まで大西洋艦隊に所属し、その後3年間をアジア艦隊での任務で過ごした。 1932年から33年にかけて戦隊旗艦としての改修が行われ、その後第2駆逐艦戦隊に加わる。1939年後半まで通常の駆逐艦としての任務を太平洋で行い、その後パナマ運河を通過して中立パトロールに参加する。第二次世界大戦が勃発すると、ボリーはパナマ湾の第15海軍管区で沿岸警備を担当し、その後カリブ海での警備、護衛任務に就く。 1943年6月26日、ボリーはカリブ海を出航し、7月30日に護衛空母カード (USS Card, CVE-11) を中心とした対潜攻撃部隊に加わり出撃する。同部隊でボリーは3度の哨戒を完了した。 哨戒中の1943年11月1日、49°00' N., 31°14' W. の海域でドイツ潜水艦 U-405 に遭遇する。ボリーは爆雷を投下し、U-405は海面に浮上した。ボリーはU-405に激突され、銃撃戦が行われた。U-405、ボリーの両艦は分離し、U-405は49名の乗組員と共に沈没した。ボリーの乗組員27名が戦死し、牽引できないくらい大きく損傷した。ボリーは翌日バリー (USS Barry, DD-248) によって海没処分された。また、ボリーは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章し、カードとの作戦活動で殊勲部隊章を受章した。
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艦歴
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「ダールグレン (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ダールグレンは1918年6月8日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1918年11月20日にJ・ピアース(ダールグレン少将の娘)によって命名、進水し、1920年1月6日に艦長L・サーム中佐の指揮下就役する。 就役後は大西洋艦隊に合流、東海岸沿い、メキシコ水域、グアンタナモ湾、パナマ運河地帯で訓練および演習に従事した。1921年4月にバージニア州ノーフォークで行われた観艦式に参加し、同年夏にはバージニア州沖合で賠償ドイツ艦に対する爆撃テストに参加した。1922年6月30日、ダールグレンはペンシルベニア州フィラデルフィアで予備役に入った。 ダールグレンは1932年10月25日に再就役し、11月7日にノーフォークを出航、11月30日にカリフォルニア州サンディエゴに到着した。その後は西海岸沿いに作戦活動に従事し、1934年4月に艦隊演習のため大西洋に向かった。1935年1月にサンディエゴに帰還する。西海岸での同様の任務の後、1937年7月1日に再び東へ向かい、その途中沿岸警備隊の水上機の乗員を救助した。1937年7月21日にニューヨークに到着し、その後は1940年6月14日まで機関試験に従事した。 ダールグレンはノーフォークを出航し、ロードアイランド州ニューポートで哨戒および訓練を行う潜水艦の護衛を行った。1941年1月から4月1日までメリーランド州パタクセント・リバー基地において、対潜兵装試験に従事した。1941年の夏を通して可変ピッチスクリューの試験に従事するとともに、新造巡洋艦の公試中の護衛任務もこなした。1942年1月4日、ダールグレンはフロリダ州キーウェストに到着、メキシコ湾で作戦活動を行う戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) の護衛任務に従事した。ダールグレンは2月8日にニューヨークに戻り、短期間の沿岸哨戒に従事、3月24日にキーウェストに向けて出航し艦隊ソナー学校での任務に就き、哨戒を行った。この作戦行動中、1942年7月15日にペンシルベニア・サン (Pennsylvania Sun) の生存者57名、1943年7月19日にはK-74の生存者9名を救助した。 1945年1月11日、ダールグレンはサウスカロライナ州チャールストンに到着、潜水艦との訓練に従事する。3月1日にAG-91(雑役艦)に艦種変更され、メリーランド州ソロモンズの機雷戦テストステーションでの任務に従事した。11月16日にフィラデルフィア海軍造船所に係留され、同地で12月14日に退役、1946年6月17日に売却された。
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「ドゥルモン (コルベット)」の記事における「艦歴」の解説
「ドゥルモンド」は、DCNロリアン工廠で建造され1976年3月12日に起工、1977年3月5日に進水、1978年11月9日にアルゼンチン海軍に編入される。 アルゼンチン海軍に編入の後、プエルト・ベルグラーノ海軍基地の水上艦隊司令部第1コルベット戦隊に配属されて「P-1」の艦番号が割り当てられ、1978年11月24日に運用が開始された。その後エスポラ級コルベットの導入に伴い、1985年に艦番号が「P-31」に変更された。 第1コルベット戦隊に編入以来、様々な演習に参加している。代表的なものでウニタス演習(UNITAS)、グリンゴ=ガウチョ演習(Gringo-Gaucho)、アトラソル演習(Atlasur)、パセックス演習(Passex)、ゴス演習(Gosth)、フラテルノ演習(Fraterno)がある。
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艦歴
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「グランビーレ (コルベット)」の記事における「艦歴」の解説
「グランビーレ」は、DCNロリアン工廠で建造され1980年6月28日に起工、1981年6月22日に進水、1981年7月30日にアルゼンチン海軍に編入される。 アルゼンチン海軍に編入の後、プエルト・ベルグラーノ海軍基地の水上艦隊司令部第1コルベット戦隊に配属されて「P-3」の艦番号が割り当てられ、1982年11月5日に運用が開始された。その後エスポラ級コルベットの導入に伴い、1985年に艦番号が「P-33」に変更された。 第1コルベット戦隊に編入以来、様々な演習に参加している。代表的なものでウニタス演習(UNITAS)、グリンゴ=ガウチョ演習(Gringo-Gaucho)、アトラソル演習(Atlasur)、パセックス演習(Passex)、ゴス演習(Gosth)、フラテルノ演習(Fraterno)がある。
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「サンタフェ (S-21)」の記事における「艦歴」の解説
元となったキャットフィッシュは1944年1月6日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工した。1944年11月19日進水し第二次世界大戦にて哨戒任務などに従事、戦後GUPPY IIにて改装を受けた後、朝鮮戦争などで作戦行動に参加、1950年以降はサンディエゴを拠点に西海岸の沖合で予備役兵の訓練演習艦として活躍した後、1971年7月1日に退役、同日除籍後にアルゼンチン海軍に売却され、以後同海軍所属の潜水艦サンタフェとして就役する。
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「コール (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
コールはミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で建造され、1996年3月11日に海軍に移管された。 2000年10月12日、コールはイエメンのアデン港で自爆テロ犯の攻撃を受け大破した(米艦コール襲撃事件)。犯人はボートを使ってコールの舷側で自爆し、17名の水兵が死亡し39名が負傷した。アメリカ政府はコールに対する攻撃犯および支援者の逮捕または有罪判決に結びつく情報に対して500万ドルの懸賞金をかけた。2002年11月4日、コール襲撃計画の主犯と見なされたアブ・アリ・アルハリチはCIAのRQ-1 プレデター無人航空機から発射されたAGM-114ヘルファイア・ミサイルによって死亡した。 コールはノルウェーの重量物運搬船MV ブルー・マーリンによってアメリカに運搬された。2000年12月13日、ブルー・マーリンはミシシッピ州パスカグーラに到着、コールはインガルス造船所のドックにおろされた。14ヶ月にわたる修理の後、コールは2002年4月19日にパスカグーラを出港、ヴァージニア州ノーフォークの母港に帰還した。2003年11月29日にコールはノーフォークを出港した。 アルカーイダは当初2000年1月3日にザ・サリヴァンズを攻撃する予定であったが、失敗したため目標をコールに変更したと考えられる。これは2000年攻撃計画の一つであった。
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「グロワール (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
就役後の「グロワール」はブレスト艦隊に所属した。1937年11月18日にフランス領インドシナに派遣されたが1938年4月16日にブレストに帰還し、同年12月1日に本艦は英米を訪問している。1939年1月に第4巡洋艦戦隊に編入、10月と12月にドック入りして小改装を受けた。第二次世界大戦時にはダンケルクより金塊を輸送する任務に就いた。帰還時にカナダ陸軍を輸送する船団を護衛し、その後は大西洋で哨戒任務に就いた。フランスの降伏後の1940年6月にはトゥーロン港でヴィシー政権に属し、フランス領北アフリカのアルジェ港に留まった。 メナス作戦において連合軍と戦ったが降伏し、以降は自由フランス海軍の軍艦として4月から7月にかけてカサブランカで修理を受けた。(ダカール沖海戦)11月23日より自由フランス海軍の艦艇として再就役した。1943年にアメリカのフィラデルフィアで近代化改装を受け、各種レーダーの装備と対空機関砲の更新が行われた。1943年2月にダカールを起点として地中海で哨戒任務に就き、その後は1944年1月まで南大西洋で任務に就いた。同年2月に連合軍のイタリア侵攻でコルシカ島へ軍隊を輸送する船団の護衛を行い、その後はノルマンディー上陸作戦や南フランス上陸作戦の支援についた。
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第一次世界大戦時、当初ギリシャ国王コンスタンティノス1世は中立を宣言していたが、これを不服とした連合軍は1916年10月にギリシャ艦隊を接収した。本級も武装の一部と弾薬が撤去された。1917年にコンスタンティノス1世が退位して政変が起こり、ギリシャが連合側についたためにギリシャ艦隊はフランス海軍の指揮下に置かれた。この時期の本級はギリシャ海軍工廠による能力の低さで老朽化していたが、フランスのトゥーロン海軍工廠でギリシャ艦隊全般が修理・改造されたために、本級は「アヴェロフ」と共にギリシャ近海で哨戒任務や船団護衛などに従事できた。同大戦後に本級を含むギリシャ艦隊はフランス海軍の指揮下からギリシャ政府へ返還された。「レムノス」は大戦中に勃発したロシア内戦において、連合国軍の展開を支援するためにクリミア半島に派遣され、白系ロシア人の脱出を支援した。 第一次世界大戦後に勃発した希土戦争 (1919年-1922年)において、1919年5月、ギリシャ陸軍6個師団を輸送する船団が編成された。「キルキス」と駆逐艦はこの船団をスミルナまで護衛した。6月9日には、ギリシャ陸軍2万人が上陸する黒海のトルコ領イネボルに上陸する作戦が立案され、「キルキス」は上陸地点を艦砲射撃する作戦に従事し、ギリシャ軍を支援した。1920年にはキング・ジョージ五世戴冠記念観艦式に参列するため出発し、6月3日にイギリスに到着して24日にイギリスのスピッドヘッド港で参列した。 しかしギリシャの戦局は悪化、トルコ軍の攻勢に戦線が維持できなくなった。そこでギリシャは、イズミルからギリシャ本国へ脱出するギリシャ軍、および避難民あわせて約25万人を輸送する必要に迫られた。本艦を含むギリシャ艦隊は、この船団を護衛する任務に1922年9月まで就いた。 長年にわたり酷使された本級は1926年から1928年にかけてオーバーホールされたが、機関が老朽化したために低速度での運用が指定された。このため、ギリシャ海軍は1930年に艦隊旗艦を「キルキス」から「イェロギオフ・アヴェロフ」に換え、本級は練習艦として使用された。1932年に戦艦籍から除籍されだが、武装や設備は有効であったために1935年より「キルキス」はギリシア海軍候補生用の停泊練習艦兼対空砲台として活用された。「レムノス」はアイギナ島要塞の資材として装甲板と備砲を撤去された後に兵舎船兼ハルク(倉庫艦)として活用された。 第二次世界大戦が勃発し1940年10月28日から始まったギリシャ・イタリア戦争で本級は沿岸砲台として活用されたが、1941年4月23日にドイツ空軍の急降下爆撃機ユンカース Ju87の爆撃によりサラミス湾で2隻とも大破着底し撃沈された。本級の船体はレムノスが1948年に、1951年にキルキスが浮揚されて解体処分された。 1941年4月に撮られた「キルキス」(手前)と「レムノス」(奥)。ドイツ空軍の爆撃によりサラミス湾で大破着底した。
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「セントルイス (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
セントルイスは1936年(昭和11年)12月10日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1938年(昭和13年)4月15日にナンシー・リー・モリルによって命名、進水し、1939年(昭和14年)5月19日に艦長チャールズ・H・モリソン大佐の指揮下就役した。
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艦歴
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「カンパニア (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
カンパニアはベルファストのハーランド・アンド・ウルフ社で1941年8月12日に起工された。当初はニュージーランドから羊肉を運ぶための冷凍貨物船として建造されたが、その途中海軍によって取得され、1944年前半に護衛空母として竣工した。本艦は船体が大型なために格納庫スペースも広くなり艦載機の大半を船体内部に搭載できた。また、完成時期が遅かったために新型の277型高低度警戒レーダーや戦闘情報システムなどの新装備が竣工時から搭載された。
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「チャールズ・ローレンス (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
チャールズ・ローレンスはマサチューセッツ州ヒンガムのベスレヘム・ヒンガム造船所で1942年8月1日に起工する。1943年2月16日にS・ローレンスによって命名、進水し、5月31日に艦長L・S・キントバーガー少佐の指揮下就役した。 就役後はバージニア州ノーフォークから大西洋中部およびカサブランカに向かう油槽船団の護衛を行い、1943年8月16日から9月24日までの間に1度の巡航を行った。その後ニューヨークで東海岸を航行する高速油槽船団に転属となり、西インドの給油港で潜水艦の脅威に対応した。1943年10月13日から1944年9月23日まで北アイルランドに向かう船団に対して8度の護衛を行い、ニューヨークに帰還した。この護衛は慎重に行われ、失われた艦は1隻のみであった。潜水艦の攻撃に対する一定の警戒と共に、チャールズ・ローレンスはいかなる天候でも艦の状態を保つため高い操艦技術を維持した。1943年の「クリスマス・ハリケーン」において、船団は実際に20時間停船した。 チャールズ・ローレンスは1944年10月23日に APD-37 (高速輸送艦)に艦種変更され、ニューヨークで改装が行われ、チャールズ・ローレンス級高速輸送艦のネームシップとなった。短期の整調後、1945年1月27日にノーフォークを出航し真珠湾に向かい、2月22日から3月5日まで同地で補給を行った。その後ウルシー環礁に派遣され、3月23日に到着、沖縄へ攻撃に向かう艦隊の護衛に加わった。 1945年4月1日、Hagushi beach 沖に到着し20隻の輸送艦から成る艦隊の護衛に従事する。沖縄戦の序盤において上陸部隊の支援のため海岸近くに留まり、続いて輸送海域に設定された半円形の位置で護衛を担当した。3ヶ月間沖縄沖で警戒を行い、特攻機および特攻艇、潜水艦の攻撃を防御した。この任務はフィリピン、マリアナ諸島およびカロリン諸島での輸送任務を命じられたため一時中断した。チャールズ・ローレンスは特攻機の攻撃に対して砲撃を行い、被害を免れていた。 戦後チャールズ・ローレンスは瀬戸内海で占領部隊の上陸を支援し、続いてフィリピンとマヌス島間の輸送任務に従事した。1945年12月16日、サンディエゴに帰還し、12月30日にノーフォークに到着した。チャールズ・ローレンスは1946年6月21日にフロリダ州グリーンケーヴスプリングスで退役した。 チャールズ・ローレンスは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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「フェクテラー (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
フェクテラーは1943年2月7日にノーフォーク海軍造船所で起工。同年4月22日にジョウン・S・フェクテラー(フェクテラー少将の孫娘、フランク・フェクテラー中尉の姪)によって命名、進水し、7月1日にC・R・シマーズ艦長の指揮下就役した。 1943年9月8日から12月31日まで、フェクテラーはニューヨーク・オランダ領西インド諸島・北アフリカ間で2度の船団護衛に従事した。 ニューヨーク市でのオーバーホール後、フェクテラーはナラガンセット湾での実験的な対潜演習に参加した。 1942年2月28日、フェクテラーはアゾレス諸島と北アイルランドのロンドンデリーへ向けて出航した。ロンドンデリーには3月6日に到着し、ニューヨーク行きの船団を護衛して3月22日にアメリカに戻った。 1944年4月1日、フェクテラーはニューヨークを出航しハンプトンローズへ向かった。そこでフェクテラーはビゼルト行きの船団に加わった。ビゼルトには4月22日に着いた。帰路、地中海西部で5月5日にフェクテラーはアルブレヒト・ブランディの指揮するドイツ潜水艦U-967に雷撃された。フェクテラーは二つに折れて沈み始めたため放棄された。乗員29名が死亡し、26名が負傷した。護衛駆逐艦ラニング (USS Laning, DE-159) や船団のほかの船によって186名が救助された。 フェクテラーは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「リッチ (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
リッチは1943年3月27日にミシガン州ベイシティのデフォー造船で起工する。同造船所で起工した三番目の護衛駆逐艦であった。1943年6月22日にラルフ・マクマスター・リッチ夫人(リッチ少尉の未亡人)によって命名、進水し、就役前の造船所による公試はヒューロン湖で行われた。 竣工後はイリノイ州シカゴに向けて出航し、9月24日に到着した。リッチはシカゴ運河を通過し、シカゴ川を下ってジョリエットへ向かい、そこでポンツーンが取り付けられた。艀船の一部としてデスプレーンズ川、イリノイ川、ミシシッピ川を下り、ルイジアナ州アルジャースのトッド・ジョンソン造船所に到着後、残る乗組員が乗艦し、1943年10月1日に艦長E・A・マイケル・ジュニア少佐の指揮下就役した。 バミューダ沖での整調後、リッチは第19護衛艦隊に加わり1944年2月末まで沿岸護衛、偵察任務に従事した。当時の第19護衛艦隊はリッチ、ブル (USS Bull, DE-693) 、バンチ (USS Bunch, DE-694) 、ベイツ (USS Bates, DE-68) 、アムスベリー (USS Amesbury, DE-66) 、ブレスマン (USS Blessman, DE-69) から構成された。その後、大西洋横断の護衛任務に配属されたリッチは、5月までに3度の往復を行う。1944年5月10日にリッチはニューヨークを出航したが、これが最後の北大西洋横断となった。 5月23日に北アイルランドのロンドンデリーに到着し、アメリカ合衆国に帰国する船団の護衛任務を待っていたリッチは、ノルマンディー上陸作戦への参加を命じられた。リッチは海軍のノルマンディー侵攻作戦であるネプチューン作戦の準備を始める。6月4日にプリマスに到着し、戦艦ネバダ (USS Nevada, BB-36) の護衛として配属された。 作戦スケジュールは悪天候のため24時間遅れとなり、「U」部隊は6月5日にフランスに向けて出航した。リッチは姉妹艦のベイツと共に第125任務部隊の砲撃グループの護衛として参加した。同部隊は戦艦ネバダ、重巡洋艦クインシー (USS Quincy, CA-71) 、タスカルーサ (USS Tuscaloosa, CA-37) 、軽巡洋艦ブラック・プリンス (HMS Black Prince, 81) から構成された。6月6日から8日まで部隊はカランタン河口北西部のユタ・ビーチに上陸する部隊への支援射撃を行い、リッチは部隊の護衛に従事した。6月6日にリッチは煙幕を張ってドイツのSボートによる攻撃を防いだ。 6月8日の08:45、リッチはタスカルーザに乗る第125.8任務群の指揮官から、第3火力支援エリアのサン・マルコフ諸島北西部で触雷した駆逐艦グレノン (USS Glennon, DD-620) の支援を命じられた。リッチは全速力で同エリアに急行し、2隻の掃海艇と共にグレノンの援護を行った。リッチは低速で航行し、乗員は敵機および機雷に警戒した。 09:20頃、リッチはグレノンの曳航準備を行う掃海艇の乗員から300ヤードの海上にあったが、右舷50ヤードで機雷が爆発した。この爆発でリッチのブレーカーが落ち照明が切れ、艦は大きく揺れ乗員は立っていられないほどであったが、船体構造に損害は生じなかった。1分以内に機関室から「全てのベルに応答する準備完了」の報告が行われたが、3分後に別の機雷が艦の下方で爆発した。艦後方、第130フレームから後ろの28mm4連装機銃基部を含む50フィートが吹き飛んだ。船尾区画は炎上したが、生存者は残骸にしがみついた。船尾はたちまち沈んだ。主甲板には3フィートのたるみが生じ、2発の魚雷が発射管の中で熱せられた。3個目の感応機雷が2分後に製氷室前方で爆発した。艦の前方は大きく破壊され、露天艦橋は倒壊し、前方火器管制室は大きく損傷しマストは崩れ落ちた。救命筏による退艦と、艦の放棄が命じられた。ジョン・D・バルクリー少佐指揮するPTボート戦隊がリッチに近寄り乗員の救助を開始した。この間、ドイツ軍の沿岸砲台は砲撃を継続していた。数分後、リッチは北緯49度31分 西経1度10.6分 / 北緯49.517度 西経1.1767度 / 49.517; -1.1767、40フィートの海底に沈没した。この戦闘で27名が死亡し73名が負傷、62名が行方不明となり、負傷などでその後合計91名が死亡した。リッチはノルマンディーで失われた唯一のアメリカ軍護衛駆逐艦であった。艦長のマイケル少佐は戦闘で脚を骨折したが、その功績で海軍十字章を受章した。 リッチは第二次世界大戦中の戦功で1個の従軍星章を受章した。 その後リッチの残骸から機器類、砲、弾薬、その他の装備品が引き揚げられた。戦後リッチの残骸は朽ち果て、装備の一部はD-デイ博物館に展示されている。スクリューの一つは博物館の前に展示されている。
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艦歴
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「S-36 (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
S-36は1918年12月10日にカリフォルニア州サンフランシスコのベスレヘム造船株式会社で起工した。1919年6月3日にヘレン・ラッセルによって命名、進水し、1923年4月4日に艦長レオン・C・アルフォード中尉の指揮下就役した。 公試後 S-36は西海岸沿いに作戦活動に従事し、1923年6月にはアラスカ水域での演習、1924年の冬にはカリブ海での艦隊演習に参加、翌年の夏までカリブ海で活動した。その後アジア艦隊に配属され、9月半ばに西に移動、フィリピン、カヴィテの潜水艦基地に11月4日到着した。 続く16年に渡って S-36は西太平洋に留まり、演習および偵察を行う。冬期間はフィリピンでオーバーホールが行われ、夏は中国沿岸、青島沖での作戦活動に従事した。中国大陸での軍事的緊張が高まると夏期間の配備は短縮され、個々の哨戒はフィリピン各所、南シナ海で実施、1938年にはオランダ領東インド諸島へと拡張された。 1940年4月から6月まで S-36は中国での最後の配備が行われ、その後1年半をフィリピン水域で過ごした。1941年12月までに艦隊は日本軍による攻撃の可能性を警戒した。6月2日、S-36は定期オーバーホールが取り消され、北方への偵察を命じられた。 飲料水、物資および魚雷が搭載され、6月3日の01:00に S-36は出航した。その日の午後遅く、ボリナオ岬近くに到達する。ここで S-36はマニラに向かう揚子江パトロール砲艦数隻を追い越した。19:30にボリナオ湾に入港し、翌週まで警戒態勢を取る。12月8日、S-36は真珠湾が攻撃されたという報せを受け取った。 数時間後、S-36は敵機に対する警戒を始めた。同日午後、ボリナオ岬とサンフェルナンドの間の巡回任務に就く。12月9日、艦の空気漏れが発見されたが、偵察任務は継続された。12月10日、乗組員はカヴィテが日本軍によって爆撃されたとの通信を受け取る。攻撃後通信士はステーションとの連絡を取ろうとしたが、通信はできなかった。12月12日、電動操舵装置が故障する。S-36は未だカヴィテと連絡が取れなかった。13日に排気バルブの空気漏れが発見され、14日には位置を知らせよとの緊急通信を受け取った。S-36の発した通信はいずれも届いていなかった。2日後、可能ならばマリベレスへの帰還を命じられた。 S-36は帰還の途に就いたが、未だ送信が不可能であり、空気および海水の漏れは悪化していた。4日後マリベレス沖に投錨する。月末までに修理は行われ、物資は補充された。S-36はフィリピン海域における最後の哨戒を行い、その後西インド諸島に集結する連合軍艦隊に合流した。 12月30日にマリベレス湾を出航し、S-36は直ちにヴェルデ島航路の偵察を行う。1月1日、S-36はバタンガス湾の北方および東方の海岸を踏査した。その後ヴェルデ島の西および南へ移動した。午後半ばに S-36 はミンドロ島のカラパンで護岸堤に係留された小型貨物船を発見、魚雷を発射しこれを沈めた。 その後7日間、S-36はヴェルデ島航路での偵察を継続した。1月8日に左舷エンジンのエアコンプレッサーが故障し、また、バッテリー溶液が消費され、東インド諸島までは持たないと判断されたため、進路を南へ変える。1月10日に右舷エンジンのエアコンプレッサーも不調となる。1月12日に S-36はスールー海で探索を行う。翌13日に左舷エンジンは使用不能となる。14日もスールー海での探索を継続した。 1月15日の朝、シブツ-マカッサル間とダバオータラカン間の交点に近い海域での右舷エンジンへの給油が行われたが失敗し、潜航が遅れた。S-36は日本軍駆逐艦によって発見されることとなる。 給油失敗の修正も行わず、1機のエンジンが不調のまま S-36は潜航し、数分以内に攻撃の準備を行った。しかしながら駆逐艦はより迅速に行動し、S-36が魚雷発射可能となる前に7個の爆雷を投下、爆雷は S-36の両舷で爆発した。 艦の損傷はバウ・プレーン上の電源制御装置の損失、ジャイロコンパスの故障、右舷照明回路のヒューズが吹き飛び、機関室の照明の破損などが含まれた。S-36は150フィート (46m) の深度に達し、ジャイロコンパスの機能が回復したため、ゆっくりと右舷に方向を変えた。駆逐艦は後方に留まっていた。 S-36は3分の1の低速で、深度および平衡の調整は不良のままであった。まもなくモーターが煙を上げ始め、潤滑油はスプレーガンによって吹き付けられた。06:30頃、敵との接触からおよそ1時間半後、S-36 は深度のコントロールを完全に失う。平衡ポンプは停止した。230フィート (70m) で第2主バラストが排出され、艦は上昇を始める。以前の過程とは逆をたどり、排気および排水が行われた。S-36は90フィート (27m) で停止した。 駆逐艦は探索を続け、S-36は100フィートから200フィートの間を揺れ動き続けた。救命胴衣および脱出用の呼吸装置が準備された。07:00に艦のコントロールが回復し、07:05に駆逐艦による最後の探索音を聞く。いまだ平衡および推進は危険な状態にあったが、S-36は同海域を脱出し正午頃には左舷モーターの修理を始めた。20:30までにモーターは「どうやら」作動する様になる。しかしながら6時間以内に煙を吹き出すこととなった。バッテリーの充電は完了したが、1月16日の03:20に右舷エンジンの潤滑油の供給が再び不良となる。 夜明けと共に S-36は潜航を行った。2時間後、スラウェシ海岸を観測した。正午、主モーターの補助循環ポンプで火災が生じたがすぐに鎮火した。19:00に浮上し、23:08にノース・ウォッチャー島を通過した。 1月17日に S-36はスラバヤへの航行を命じられた。左右両舷の推進軸はその日1日動作不良で、乗員の1人が熱で倒れた。しかしながら主モーターの潤滑油ポンプは修理された。1月18日は「1月8日以来機関部の大半が動作しなかった初めての日」となった。S-36はマカッサル海峡の通過を継続した。 1月20日の早朝、04:04に S-36はタカ・バカン・リーフで座礁する。乗組員は丸1日以上復旧のために苦闘した。しかしながら浸水した前部バッテリーから塩素ガスが発生し、向かい波と潮の流れが艦に立ちはだかった。救助要請が送られ、1月21日の朝にオランダのランチ、アッテラ (Attla) がマカッサル市から急送された。その日の正午までにアッテラは S-36の士官、兵員を収容した。13:30にS-36は放棄された。最後の乗員は艦を自沈させるため最後まで留まった。 乗組員はシブロート (SS Siberote) に移乗させられ、マカッサル市に送り届けられた。その後スラバヤに移動し、彼らは再任された。 S-36は第二次世界大戦中の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「S-26 (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
S-26は1919年11月7日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・シップビルディング株式会社で起工した。1922年8月22日にカルロス・ビーン夫人によって命名、進水し、1923年10月15日に艦長エドマンド・W・バーロウ中尉の指揮下就役した。 就役後は1923年から25年までコネチカット州ニューロンドンを拠点として作戦活動に従事する。1924年1月から4月までセント・トーマス島とトリニダードを訪問し、4月27日から1925年5月30日までハワイを訪れた。カリフォルニア州の様々な港、主にメア・アイランド、サンディエゴ、サンペドロから、S-26は1927年から30年まで毎年夏にハワイを訪れた。1927年5月および1929年2月にはパナマ運河地帯を訪れている。1930年12月1日にサンディエゴを出航し、12月12日に真珠湾に到着する。その後1938年まで真珠湾で任務に従事し、1938年10月15日に帰還、1939年3月25日にニューロンドンに到着した。4月15日に限定就役状態となり、1949年7月1日に完全就役状態に復帰した。 ニューロンドンでの任務およびワシントンD.C.での水素テスト後、S-26は1941年12月10日にニューロンドンを出航し、12月19日にパナマのココ・ソロに到着した。1942年1月24日の夜、パナマ湾で駆潜艇 PC-460 が衝突し、S-26は46名の乗組員と共に沈没した。3名が生き残り、S-26の船体は引き揚げられなかった。
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艦歴
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「S-27 (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
S-27は1919年4月11日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム造船株式会社で起工した。1922年10月18日にコネチカット州グロトンでフランク・ボールドウィン夫人によって命名、進水し、1924年1月22日に艦長セオドア・ワルトシュミット中尉の指揮下就役した。 1924年までコネチカット州ニューロンドンを拠点として活動した S-27は1925年に太平洋へ配属となる。同年春はハワイ諸島での訓練に従事し、6月に新たな母港のカリフォルニア州サンディエゴに到着した。続く10年にわたってカリフォルニア南部で活動し、艦隊演習を除いて西海岸から作戦活動に従事した。艦隊演習および訓練では S-27 はパナマ運河地帯やカリブ海、ハワイへ巡航した。1931年にハワイへ配属となり、2月23日に真珠湾に到着、その後1939年半ばまで同地で活動する。1939年6月16日に東へ向けて出航し、6月27日にサンディエゴに到着、南カリフォルニアでの任務を再開した。 続く2年半の間、S-27は訓練および水中音響訓練学校のための試験に従事した。1941年11月後半、メア・アイランド海軍工廠に向かい、アメリカが第二次世界大戦に参加したときにはオーバーホールの途中にあった。 1942年1月23日、S-27はサンフランシスコ湾を出航し南へ移動した。3日後サンディエゴに帰還し音響学校の任務を再開、春まで従事した。その後5月20日にアリューシャン列島への派遣を命じられサンディエゴを出校する。ワシントン州ポート・アンジェルスを経由し、6月12日にダッチハーバーに到着、燃料および物資の補給後、クルク湾の偵察およびアムチトカ島のコンスタンチン湾の踏査を命じられ西へ向かった。6月16日から17日にかけての夜に、キスカ島への派遣を命じられる。6月18日、コンスタンチン湾を踏査したが撤退した村からは敵の活動の様子を発見することはできず、島の南端を回ってキスカ島へ向かった。午後には東の岬を一周し、その夜は浮上を行う。霧が発生しS-27はその位置が不明確になった。両機関を停止した S-27はおよぼ5マイル漂流し、霧のためその位置ははっきりしなかった。深夜に1基のエンジンによりゆっくり航行を開始したが、6月19日の00:43に、艦前方およそ25ヤードに暗礁が発見された。「緊急後退」が命じられたが、S-27はセント・マカリウス・ポイントで座礁した。 荒波が猛烈にS-27を揺らし、両舷それぞれ10度から15度の角度で傾いた。S-27はモーターで後退の努力を継続したが、水中の岩礁に固定され移動できなかった。燃料は放出され、後退の努力は継続された。S-27の船体は軽くなったにもかかわらず、岩に固定された船体は波に激しく揺られた。右舷スクリューは岩にぶつかり使用不能となった。前進する努力が行われたが、約20フィートしか前進できなかった。警告音が鳴らされたが、通過する船もなく、03:30までに海の荒れは激しくなり、S-27から大半の乗組員が離れる計画が作成された。状況報告の無電は01:15に発信されたが、その後も継続され、全部で6回行われた。そのうちの1つはダッチハーバーで受信されたが、S-27の位置は判明しなかった。 S-27と海岸とをロープとゴムボートで結ぶ仕組みが作られた。乗組員、糧食、衣類、銃および医薬品は無事に運ばれた。11:00までに、艦長のH・L・ジュークス中尉と5名を除いて全員が上陸した。S-27の全ての設備が破壊され、機密書類は燃やされた。15:30に3名が上陸した。艦側面の鋼板が緩み、魚雷室は氾濫していた。15:50に通信士、副長および艦長がS-27を離れた。 6月19日および20日の夜は覆いのない入り江で過ごした。6月20日、一行はコンスタンチン湾で、日本軍の爆撃から生き残った建物と暖房を使用した。翌21日に部隊は構成され、歩哨と警戒活動を含む行動計画が策定された。入り江からの偵察は3日間継続した。部隊は21日と22日にS-27から物資を運び出したが、その後塩素ガスが発生したためS-27に乗り込んで物資を運び出すことはできなくなった。 6月24日、定期飛行中のPBY カタリナがコンスタンチン湾でS-27の生存者を発見し、15名を救助した。翌25日、3機の飛行機が送られ、残る生存者を救助した。S-27に搭載されていた砲は引き揚げられ全て破壊された。放棄された船体および缶詰、毛布、冬物衣料以外は残されなかった。
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艦歴
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「S-28 (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
S-28は1919年4月16日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム造船株式会社で起工した。1922年9月20日にウィリアム・R・モンロー夫人によって命名、進水し、1923年12月13日に艦長ケンプ・C・クリスチャン大尉の指揮下就役した。 ニューイングランド南部での整調後訓練を終えると、S-28は1924年3月に南方へ移動し、第11潜水戦隊 (SubDiv 11) に加わる。その冬の最後の艦隊演習はカリブ海で行われた。4月にコネチカット州ニューロンドンに戻り、同年末まで部隊と共に沿岸での訓練に従事した。1925年の冬、再び南方へ移動しパナマ運河を通過、演習 Fleet Problem V に参加しグアダルーペ島で活動する。その後ハワイ諸島に到着し一ヶ月を過ごす。6月にカリフォルニア州サンディエゴへ移動し、同地でアジア艦隊に配属された。 S-28は1931年まで南カリフォルニアで艦隊演習に従事する。1926年と29年はパナマ運河地帯で活動し、1927年、30年の夏はハワイ海域で活動した。期間を通じて定期的にメア・アイランド海軍造船所においてオーバーホールが行われた。 1931年2月半ばに西海岸を出航、ハワイへ向かい、2月23日に真珠湾に到着、同地で S-28は8年半を過ごす。1939年半ばに再びサンディエゴに帰還し、同地を拠点としている間にアメリカ合衆国は第二次世界大戦に参加した。 真珠湾攻撃当日の1941年12月7日、第41潜水戦隊に所属していた S-28はメア・アイランドでオーバーホールの途中であった。1942年1月22日に作業は完了し、S-28はサンディエゴに帰還、水中音響訓練学校での訓練任務を再開した。S-28はその任務を春まで続け、その後アリューシャン列島への派遣を命じられる。アラスカの島々の防衛力強化の一端を担うこととなった。 5月20日に S-28は部隊の他の艦と共にサンディエゴを出航した。5日後、艦隊はワシントン州ポートアンジェルスで水雷訓練を行い、その後ダッチハーバーに新設された潜水艦基地へ向かった。しかしながら5月29日、Sボートはダッチハーバーを回避して直接ステーションに向かう様指示された。 6月1日の朝、左舷主モーターから出火し小規模の損傷を受ける。同夜 S-28は姉妹艦および護衛艦と合流し、翌日指定された哨戒海域に到着、アラスカ半島先端のコールド・ベイ入り口を偵察する。6月3日、日本軍はダッチハーバーを爆撃しアリューシャン列島での戦闘が始まる。一週間以内に日本軍はキスカ島とアッツ島を占領した。6月12日、S-28はダッチハーバーに到着し、給油および糧食補給後西方に向けて哨戒を再開した。 6月15日、 S-28は日付変更線を横断した。2日間の嵐の後、キスカ島を観測し同島とアッツ島間の敵船団航路で待機した。18日に S-28 は敵艦に対して最初の攻撃を行う。敵駆逐艦は反撃し、8時間後、探索音は南へと消えていった。S-28は日本軍の対潜水艦戦術と遭遇して初めて切り抜けた。 間もなく天候は悪化し、S-28がステーションに留まる時間の大半を嵐が吹き荒れた。6月28日、ダッチハーバーに係留され修理が始められた。7月15日、再びキスカ島に向けて出航する。18日にセミソポクノイ島を踏査し、続いてセグラ島に向かう。日本軍の痕跡は発見できず、西への巡航を続けた。7月20日に S-28 は、22日の日の出前にシリウス・ポイントから85マイルの円弧上でステーション艦として停泊することを命じられる。22日にはキスカ島の敵施設に対して砲撃が行われる予定であった。砲撃は遅れ、S-28は7月30日まで停泊を続け、その後キスカ島海域へ戻ることを命じられた。哨戒の後半は敵目標に対して接近することもできず、8月18日にダッチハーバーに帰還した。 第3の哨戒は9月16日から10月10日にかけて行われた。S-28はキスカ島海域に戻り、島の北方で10月25日まで活動する。その後ベガ湾のガートルード港に敵の進出を確認し、S-28は島の南岸へ移動する。10月6日から7日にかけての晩にウナラスカ島の方に移動し、10月10日の朝、未確認船に対して雷撃準備を行う間に、火器管制回路の故障で1番発射管で暴発を起こした。 その日の午後、 S-28はダッチハーバーに戻り、続いて帰路に就いた。10月23日にサンディエゴに到着し、10月26日から11月13日まで西海岸音響学校および揚陸部隊訓練グループの支援を行う。続いてオーバーホールに入り、S-28は音響測定器、クラインシュミット蒸留装置、SJレーダーが装備された。12月9日に再び北に向けて出航する。12月16日、無線で第8.5任務群に報告を行い、12月21日にダッチハーバーに戻った。 6日後、S-28は第4の哨戒に出撃した。1943年1月3日に日付変更線を横断し、1月5日に哨戒海域の千島列島北方に入る。幌筵島の沿岸を下ってオンネコタン海峡を哨戒し、続いて再び北に向かい、1月20日に占守島を通過、アリューシャン列島に向かった。 第5の哨戒は2月6日から28日にかけて行われ、S-28はアリューシャン列島西方に留まり、アッツ島、ブルディア島、シリウス・ポイントで哨戒を行い、アッツ島沿岸、ホルツ湾沖、チチャゴフ湾、サラナ湾沖でも行った。しかしながら悪天候および低速によって S-28は目立った戦果を挙げることはなかった。 S-28はダッチハーバーに帰還すると、南方への派遣を命じられる。3月4日にブリティッシュコロンビアのエスクワイモルトに向けて出航し、同地で3月15日から4月15日まで音響試験およびカナダ海軍、空軍と共に対潜演習を行った。その後ピュージェット・サウンド海軍工廠においてオーバーホールと上部構造の改良が行われた。6月27日、S-28はアラスカに戻り、7月13日にダッチハーバーを出航、北千島列島での第6の哨戒に向かった。 S-28は再び幌筵島沖を哨戒し、同島の北方および南方の海峡を巡航する。しかしながら悪天候および旧式の装備、機械的な故障によって哨戒は難航した。8月14日に S-28は東へ向かい、8月16日にアッツ島のマッサカー湾に停泊、修理を始めた。 ダッチハーバーからの必要な補修部品の到着は遅れ、S-28の任務復帰は遅れることとなった。しかしながら9月8日にS-28は出航し、北千島列島へ向かった。9月13日に哨戒海域に到着する。9月15日に左舷主電動機から火花と煙が生じ、修理に14時間を費やす。9月16日、Mushiru 海峡を通過し、9月19日の午後に阿頼度島沖で護衛のない貨物船と遭遇する。S-28の魚雷は外れ、数分後に貨物船は転回し2発の爆雷を投下、10分間の攻撃を行った。敵艦は同海域を1時間ほど探索し、その後離脱した。 S-28は魚雷を装填し、哨戒を継続した。19:16に護衛のない別の敵艦と接触する。19:43に4発の魚雷を放射状に発射する。19:44にそのうちの2発が爆発した。標的は30度傾斜し、19:46に艦首を先にし、艦尾が垂直になって沈没した。沈没後水面下で5回の激しい爆発が生じた。 10月に入ると S-28は阿頼度島北方、カムチャツカ半島沖で探索を行った。10月5日にオンネコタン海峡を通過し、千島列島の太平洋側で哨戒を継続する。しかしながら10月10日に乗組員の1人が重度の盲腸炎となる。S-28は予定を変更してアッツ島に向かった。 10月13日、S-28はアッツ島に停泊した。翌日アラスカ州のダッチハーバーに向けて出航する。11月にハワイに向けて出航し月の半ば頃真珠湾に到着、オーバーホール後訓練任務に就く。続く7ヶ月に渡ってハワイ海域に留まり、訓練任務に従事した。その後1944年7月3日に沿岸警備隊のカッター、レライアンス (USCGC Reliance, WSC-150) と共にオアフ島沖で訓練を始める。対潜水艦戦訓練は翌日も続き、17:30にその日の最後の訓練が始まった。2隻の間の通信は散発的になり、18:20の通信が最後となる。その後、S-28への通信の試みは全て失敗した。 救援が真珠湾から到着したが、徹底的な探索にもかかわらずS-28を発見することはできなかった。2日後、ディーゼルエンジンの潤滑油が浮かび上がったが、同海域の深さは大きく、使用可能な設備が存在しなかった。調査委員会は S-28喪失の原因を断定することはできなかった。 S-28は第二次世界大戦中の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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「LST-472 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-472は1942年10月31日にワシントン州バンクーバーのカイザー社で起工する。1942年12月7日にフランク・C・ハントゥーン夫人によって進水し、1943年3月13日に就役した。 第二次世界大戦の間、LST-472はアジア-太平洋戦線に配備され、以下の作戦に参加した。 ソロモン諸島南部の強化(1943年6月) ニュージョージア島・レンドバ島・ヴァングヌ島占領(1943年7月) タロキナ岬占領と防衛(1943年11月から12月) グリーン諸島上陸(1944年2月) ホーランジア作戦(1944年4月) トエム・ワクデ・サルミ地域の作戦(1944年5月) ビアク島作戦(1944年6月) ナムフォア島作戦(1944年7月) サンサポール岬作戦(1944年8月) モロタイ島上陸(1944年9月) ミンドロ島上陸(1944年12月) 1944年12月21日、ミンドロ島沖での戦闘で特攻機の攻撃を受け沈没。1945年1月19日に除籍された。 LST-472は第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章と1個の海軍殊勲部隊章を受章した。
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「LST-353 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
LST-353は1942年7月15日にチャールストン海軍工廠で起工する。1942年10月12日にエステレ・ライネット・カッシュマン夫人によって進水し、1942年11月27日にL・E・レイノルズ・ジュニア予備役大尉の指揮下就役した。 就役後はソロモン諸島での作戦に従事し、以下の作戦に参加した。 ソロモン諸島南部の強化(1943年6月) ニュージョージア島・レンドバ島・ヴァングヌ島占領(1943年7月) ベララベラ島占領(1943年8月) タロキナ岬の占領と防衛(1943年11月)
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1944年5月26日、日立造船株式会社桜島造船所で起工。8月15日、進水。25日、久米と命名され御蔵型に分類されて同級の12番艦に定められる。9月25日、竣工した。本籍を佐世保鎮守府、役務を佐世保鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育にあたる。 11月2日、呉を出港し、3日1500に佐世保に到着。同日、海上護衛総司令部第一海上護衛隊に編入。4日から7日まで佐世保海軍工廠で主機械の修理。7日2300、佐世保を出港し、8日に門司に到着。9日、大鷹型航空母艦神鷹(元ドイツ貨客船シャルンホルスト号)を護衛して門司を出港。2隻は同日中に反転して門司に到着。13日0945、海防艦択捉、対馬と共に門司を出港し、同日1700に伊万里湾に到着する。 詳細は「ヒ81船団」を参照 伊万里湾に到着した久米はヒ81船団に加わる。ヒ81船団部隊は第八護衛船団指令佐藤勉少将を指揮官とし、護衛艦(空母神鷹、駆逐艦樫、海防艦対馬、択捉、昭南、久米、大東)で加入船舶11隻を護衛した。この船団は石油輸送と共に、レイテ島地上戦にともなう日本陸軍第23師団のフィリピン輸送の任務を負っていた。11月14日、ヒ81船団部隊は門司を出撃、中国大陸沿岸航路をたどるべく東シナ海を横断した。11月15日、ヒ81船団部隊はアメリカ潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の襲撃をうけ、陸軍特殊船あきつ丸が被雷沈没する。11月17日夕刻、アメリカ潜水艦ピクーダ (USS Picuda, SS-382) の雷撃により、陸軍特殊船摩耶山丸が沈没した。午後11時頃、アメリカ潜水艦スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) の雷撃により、神鷹が沈没した。ヒ81船団部隊は空母1隻・陸軍特殊船2隻を喪失し、陸海軍将兵合計6,000名以上が戦死する結果となった。神鷹の戦死者も1,100名を上回り、久米が19名を、樫が42名を救助したにすぎなかった。大損害を出した船団は舟山列島の泗礁山泊地、馬公を経由し、12月4日にシンガポールに到着した。シンガポール停泊中の10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に改編され、久米も同部隊の麾下となった。 12月12日、久米は海防艦択捉、昭南、第9号海防艦、第19号海防艦と共に「ヒ82船団」を護衛してシンガポールを出港した。17日、船団はカムラン湾に到着する。同地で駆逐艦潮(第7駆逐隊)を加えた船団は、19日にカムラン湾を出港し、ベトナム沿岸を北上した。12月21日の朝、船団はアメリカ潜水艦フラッシャー (USS Flasher, SS-249) に発見される。フラッシャーは船団を追跡 し、徐々に護衛の薄い方向に回りこんで攻撃態勢に入る。同日、第19号海防艦がシンガポールに向かう特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船、10,020トン)の護衛のため船団から分離し、反転してカムラン湾に向かう。翌22日0500頃、久米を含む護衛艦5隻全てが船団の近くから離れてしまい、船団は一時的に護衛なしの状態となる。フラッシャーはこの好機を逃さず、北緯15度02分 東経109度08分 / 北緯15.033度 東経109.133度 / 15.033; 109.133の地点で攻撃を開始した。0550、フラッシャーは艦尾魚雷発射管から魚雷を4本発射。タンカー音羽山丸(三井船舶、9,204トン)の船尾と中央部に魚雷が1本ずつ命中する。音羽山丸は航空機用ガソリン17,000トンを積んでおり、数百メートルの火柱を上げて炎上しながら、左舷に倒れて船尾から沈没していった。直後の0551には2TL型戦時標準タンカーありた丸(石原汽船、10,238トン)の左舷油槽に魚雷が1本命中。ありた丸も搭載していた航空機用ガソリン16,000トンが誘爆。火達磨となって0622に沈没していった。0630ごろには、フラッシャーは特設運送船(給油船)御室山丸(三井船舶、9,204トン)に対して魚雷を4本発射し、御室山丸の船尾機関室前部に魚雷1本が命中する。重油16,000トンを積んでいた御室山丸は黒煙を上げながら沈没した。日本側は機雷敷設区域に入り込んだと考えたため、フラッシャーへの反撃を行わなかった。24日0900、船団は高雄に到着した。ここで1TL型戦時標準タンカー橋立丸(日本水産、10,021トン)が、積んでいた航空機用ガソリン17,000トンを台湾の守備隊用に回すことになったため船団から分離した。翌25日、航空機用ガソリン8,800トン、錫2,000トン、生ゴム1,000トンを積んだ逓信省標準TM型タンカーぱれんばん丸(三菱汽船、5,237トン)のみとなった船団を護衛して高雄を出港する。26日、船団は基隆に寄港する。同地で第9号海防艦が船団から分離し、海防艦笠戸が加入する。同日、基隆を出港した船団は中国沿岸を北上し、舟山に寄港。1945年(昭和20年)1月1日0900に舟山を出港し、3日に泗礁山泊地に到着。4日0830に泗礁山泊地を出港し、9日1804に船団は六連に到着した。同日、久米は六連を出港し、9日1500に佐世保に到着。10日から23日まで佐世保海軍工廠で機関修理を受ける。修理中の20日、第一護衛艦隊隷下に新編された第百三戦隊に編入。 1月24日、海防艦昭南と共に佐世保を出港し、25日に門司に到着。26日0800、貨客船吉林丸(大阪商船、6,783トン)、2TL型戦時標準タンカー東城丸(大連汽船、10,045トン)、特設運送艦讃岐丸(日本郵船、9,246トン)他輸送船1隻からなるヒ91船団を駆逐艦野風(第1駆逐隊)、駆逐艦神風(第1駆逐隊)、海防艦昭南、第25号海防艦、第53号海防艦と共に護衛して門司を出港。1月28日、船団は米潜水艦スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) 、ポンポン (USS Pompon, SS-267) に発見される。この2隻はアトゥル (USS Atule, SS-403) 、ジャラオ (USS Jallao, SS-368) とウルフパック "Underwood's Urchins" を組んでおり、スペードフィッシュは先のヒ81船団で空母神鷹を撃沈した潜水艦だった。"Underwood's Urchins" のうち、ジャラオ以外の3隻が船団を確認する。スペードフィッシュは久米、タンカー永洋丸(日本油槽船、8,673トン)、讃岐丸に対して魚雷を発射した。0232、讃岐丸の右舷に魚雷が命中し沈没。0235、久米の右舷機関室中央部に魚雷が命中し炎上。0530に総員退去となり、0750に沈没した。同じく狙われた永洋丸は間一髪回避した。ポンポンは2隻の護衛艦に阻止されて攻撃できず、アトゥルは爆発音を確認したものの距離が遠くて攻撃ができなかった。他の3隻の護衛艦がスペードフィッシュの方に向かってきたが、スペードフィッシュも首尾よく逃げた。 機関長以下乗員141名が戦死し、海防艦長の二瓶甲少佐以下負傷者9名を含む生存者が神風に救助された。 3月10日、久米は御蔵型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。
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「メレディス (DD-726)」の記事における「艦歴」の解説
メレディスは1943年7月26日にメイン州バスのバス鉄工所で起工した。1943年12月21日にウィリアム・ケッパー夫人によって命名、進水し、1944年3月14日に艦長ジョージ・ニュープファー中佐の指揮下就役した。 バミューダでの整調後、メレディスは船団護衛として1944年5月8日にボストンを出港し、5月27日にイングランドのプリマスに到着した。6月5日から6日にかけてメレディスはノルマンディー上陸作戦に参加する輸送船団の護衛を担当した。6日にはユタ・ビーチの上陸部隊に対する支援射撃を行った。翌朝早く、防御艦として沖合を航行中に機雷に接触する。爆発により7名が死亡、50名以上が負傷および行方不明となった、メレディスは大きく損傷し、浮揚のためセーヌ湾に曳航され投錨した。しかしながら9日の朝、敵機の攻撃により裂け目が大きく開き、2つに分断、沈没した。護衛駆逐艦ベイツ (USS Bates, DE-68) が生存者163名を救助した。 1960年8月5日、メレディスの船体はフランスの St. Française de Recherches 社に売却された。船体は1960年9月に引き揚げられ、スクラップとして廃棄された。 メレディスは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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「LST-6 (戦車揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
1942年7月20日にアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグのドラヴォ・コーポレーションが起工し、10月21日に進水、1943年1月30日にベンジャミン・J・フランクリン海軍大尉指揮の下アメリカ海軍へ就役した。 第二次世界大戦ではヨーロッパ戦線に従事し、1943年7月のハスキー作戦、9月のアヴァランチ作戦、そして1944年6月のノルマンディー上陸作戦などに参加した。 しかし1944年11月17日、フランス・ルーアンからイギリス・ポートランドへ向かっていたLST-6は機雷に接触し沈没した。そのため12月22日にアメリカ海軍から除籍された。 第二次世界大戦時の功績を称え、従軍星章3個が贈られている。
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「コーヴィナ (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
コーヴィナはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。ラルフ・W・クリスティー(英語版)少将の夫人の後援により1943年5月9日に進水した。1943年8月6日にロデリック・S・ルーニー中佐(アナポリス1929年組)が艦長として着任し、任務についた。就役後はコネチカット州ニューロンドンを1943年9月18日に出港し、真珠湾に10月14日に到着した。
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「ラガート (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
ラガートは1944年1月12日にウィスコンシン州マニトワックのマニトワック造船で起工した。1944年5月28日にエミリー・タフト・ダグラス(英語版)(イリノイ州選出下院議員)によって命名、進水し、10月14日に艦長フランク・D・ラタ少佐(アナポリス1932年組)の指揮下就役する。ラタはナーワル (USS Narwhal, SS-167) の艦長として9度の哨戒を経験し、海軍十字章の受章者であった。
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「フレデリック・C・デイヴィス (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
フレデリック・C・デイヴィスは1942年11月9日にテキサス州オレンジのコンソリデイティッド・スチールで起工する。1943年1月24日にドロシー・H・ロビンズ夫人によって命名、進水し、1943年7月14日に艦長O・W・ゴプナー少佐の指揮下就役した。フレデリック・C・デイヴィスは1943年10月7日にノーフォークを出航し、アルジェへの船団警護につく。北アフリカの港およびナポリ間の船団護衛任務を命じられ、11月6日には初めての敵機による攻撃を受ける。魚雷と爆弾の波状攻撃により船団の3隻の船が損傷したが、護衛部隊の対空射撃で敵機は撃退された。11月26日に再び空襲を受けるが、フレデリック・C・デイヴィスは少なくとも敵機2機を撃墜している。 その後も地中海西部で船団護衛任務を継続し、1943年12月16日にはドイツ潜水艦 U-73 への攻撃に参加している。1944年1月21日にフレデリック・C・デイヴィスはナポリを出航、アンツィオ上陸作戦に参加する。同作戦での功績によりフレデリック・C・デイヴィスは殊勲部隊章を受章した。翌22日には支援艦砲射撃を行う艦艇に対する潜水艦や航空機の攻撃を防御する任務に従事した。その後はナポリでの短期間の補給以外は、包囲された上陸拠点からの偵察を6ヶ月間継続した。フレデリック・C・デイヴィスはドイツ軍の無線誘導爆弾を妨害するための機材を搭載し、多くの敵機による空襲を退け、陸上部隊に対する補給の支援を行った。この苦しい戦いの中、敵の沿岸砲台からの砲撃を受けたフレデリック・C・デイヴィスは、わずかな損傷を受け、1名が負傷した。 1944年6月および7月には地中海での船団護衛任務に帰還し、8月9日にナポリを出航、コルシカ島に向かい南フランスへの攻撃地点に移動した。ここでも再び無線妨害の特殊任務に従事し、作戦の指令艦であるカトクティン (USS Catoctin, AGC-5) を護衛した。その後も攻撃水域に留まり対潜哨戒および海上輸送指揮を9月19日まで行い、任務を完了するとオーバーホールのためニューヨーク海軍工廠へ向かった。オーバーホールの完了後、1945年初めに西大西洋での任務に復帰する。フレデリック・C・デイヴィスは沿岸での護衛任務と対潜哨戒を4月半ばまで特別海上護衛部隊と共に行い、シュノーケルを装備したUボートの脅威から船団を護衛した。 1945年4月24日、フレデリック・C・デイヴィスは U-546 と遭遇する。護衛駆逐艦が攻撃態勢に入る前に、敵潜水艦は魚雷を発射しそれは左舷前方に命中した。5分後に船体は分断した。船体後部が損害は少なく、乗組員は浮力を維持しようとしたがそれは失敗した。115名が戦死し、生存者は艦を放棄した。彼らは3時間以内に救助された。U-546 はフレデリック・C・デイヴィスの僚艦により撃沈された。 フレデリック・C・デイヴィスは第二次世界大戦の戦功で殊勲部隊章および4個の従軍星章を受章した。
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「R-12 (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
R-12は1918年3月28日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工した。1919年8月15日にヘレン・マックによって命名、進水し、1919年9月23日にボストンで艦長F・J・カンニーン中尉の指揮下就役した。 R-12は3月11日にコネチカット州ニューロンドンに向けて出航し、5月末まで作戦活動に従事した。その後パナマ南方で活動を続け、6月末にパナマ運河を通過、7月にカリフォルニア州サンペドロに到着した。サンペドロで船体番号 SS-89 が与えられ、8月末に真珠湾に向けて出港した。1920年9月6日に到着し、ハワイ水域での活動に入る。その後西海岸およびジョンストン島沖での訓練を行い、1930年12月12日に東海岸に向けて出航、1931年2月9日にニューロンドンに到着した。その後春まで偵察部隊の駆逐艦戦隊と共に訓練を行い、オーバーホールに続いて潜水艦学校の訓練生の訓練を行う。R-12は1932年9月27日にニューロンドンを出航しペンシルベニア州フィラデルフィアに向かい、1932年12月7日に退役、他のR級潜水艦と共に予備役艦隊で保管された。 7年半後の1940年7月12日にR-12は再就役する。完全就役のためニューロンドンに移動し、10月16日に完全就役すると12月10日にパナマに向けて出航、12月23日に到着する。パナマ運河近海の偵察任務を1941年10月まで続け、10月31日にニューロンドンに帰還、続く3ヶ月間はニューイングランド沖で作戦活動に従事する。1942年2月に南方の哨戒を開始し、翌年にはグアンタナモ湾およびキーウェストで活動した。1943年3月から4月までニューロンドンに帰還し、5月にキーウェストに戻る。その後は潜水艦乗組員に対する訓練に従事した。 1943年6月12日の正午過ぎ、R-12は水雷訓練のため潜水警報を鳴らした。潜水の準備を終えたと共に、前方バッテリー室が氾濫し始める。衝突警報が鳴らされ、バッテリー室の氾濫が報告された。メイン・バラストのブローが命じられたが浸水の方が早く、約15秒で、42名の乗組員とブラジル海軍のオブザーバーを乗せたままR-12は沈没した。生還したのは艦長、士官一名、兵士3人のみであった。R-12は1943年7月6日に除籍された。 2011年の潜水調査でR-12の残骸が発見されたが、沈没原因はいまだに不明である。
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艦歴
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「ウィンダム・ベイ (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
ウィンダム・ベイは1944年1月5日に海事委任契約の下ワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で起工する。1944年3月29日にヘンリー・M・クーパー夫人によって進水し、1944年5月3日にチャールズ・W・オークスル艦長の指揮下就役した。
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「まきしま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「まきしま」は、平成4年度計画掃海艇377号艇として、日立造船神奈川工場で1993年5月12日に起工され、1994年5月26日に進水、1994年12月12日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第23掃海隊に「くめじま」とともに編入された。定係港は呉。 1997年3月19日、隊番号の改正により第23掃海隊が第3掃海隊に改称。 1999年3月16日、佐世保地方隊下関基地隊第43掃海隊に編成替え。 2008年3月11日、呉地方隊阪神基地隊第42掃海隊に編成替え。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による東日本大震災に対し、災害派遣される。 2014年4月2日、除籍。就役期間中の総航程は190,283海里(地球約8.8周分)、総航海時間数は26648時間49分、掃海処理回数21回、航空救難2回、災害派遣3回。
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「くめじま (掃海艇)」の記事における「艦歴」の解説
「くめじま」は、平成4年度計画掃海艇376号艇として、日本鋼管鶴見製作所で1993年2月17日に起工され、1993年12月9日に進水、1994年12月12日に就役し、同日付で第1掃海隊群隷下に新編された第23掃海隊に「まきしま」とともに編入された。定係港は呉。 1997年3月19日、隊番号の改正により第23掃海隊が第3掃海隊に改称。 2000年3月13日、呉地方隊阪神基地隊第42掃海隊に編成替え。 2011年3月11日、発生した東日本大震災の災害派遣に参加。 2013年6月20日から6月29日、硫黄島周辺海域で平成25年度実機雷処分訓練に参加。 2014年5月16日、掃海管制艇に種別変更され、船籍番号がMCL-730に変更。所属も掃海隊群第101掃海隊に編成替えとなり、定係港が呉に転籍。 2018年3月27日、除籍。
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艦歴
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「エセックス (強襲揚陸艦)」の記事における「艦歴」の解説
エセックスは、ミシシッピ州パスカグーラのインガルス造船所で建造され、1992年10月17日に就役した。就役式典ではディック・チェイニー国防長官がスピーチを行った。1994年10月に最初の配備がなされ、1995年1月にはソマリアからの多国籍軍撤退を支援するユナイテッド・シールド作戦に参加する。砲火の下、撤退作戦は成功裡に終了し、1995年4月25日にサンディエゴに帰港した。 短いメンテナンス期間の後に、7ヶ国海軍による環太平洋合同演習「リムパック'96」に参加する。1996年10月10日に二度目の西太平洋配備となる。配備期間中にカタール、オマーン、クウェートとの合同軍事演習「タンデム・トラスト'97」に参加する。同演習は28,000名以上の将兵、250機の航空機および40隻の艦艇が参加した。 1997年4月に帰港し、短期メンテナンスに入る。その後、三度目の太平洋配属となり、1998年6月22日に出港した。 2000年7月26日、アメリカ海軍史上最大規模のシップ・スワップを行う。その後、タラワ級強襲揚陸艦「ベロー・ウッド」に代わって佐世保に配備された。 2008年5月には、ミャンマーでのサイクロン災害の緊急援助支援のため、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「マスティン」、クリーブランド級ドック型輸送揚陸艦「ジュノー」、ハーパーズ・フェリー級ドック型揚陸艦「ハーパーズ・フェリー」、ヘンリー・J・カイザー級給油艦「ウォルター・S・ディール」と共にアンダマン海に展開し、米国民保護のためミャンマー政府の許可を得るため待機した。しかし、許可は得られなかったため、6月上旬に通常任務に復帰した[リンク切れ]。 8月31日には東京都が行った首都直下型地震を想定した防災訓練に参加。葛西臨海公園沖でLCAC 63号を用いた避難民収容訓練を行い、石原慎太郎東京都知事やケリー在日アメリカ軍司令官らが視察した。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う日本国政府の要請を受け、救援活動「トモダチ作戦」に派遣された。津波でフェリーや港湾施設が破壊され孤立した大島 (宮城県気仙沼市)への救援に当たった。当時乗り組んでいたアメリカ合衆国海兵隊アンドリュー・マクマニス大佐の回想によると、演習後にマレーシア寄港中だった「エセックス」は、東北地方日本海側へ向かうよう指示され、3月18日に秋田県沖に到着した。マクマニスは当初から被害が大きい太平洋側へ向かうことを繰り返し意見具申した。津軽海峡を経由して、青森県八戸市沖から救援物資を運んだ後、3月27日に大島へ先遣隊を上陸させた。島に電源車や給水車などを運び入れる一方、島民から食料の差し入れを受け、4月7日の引き揚げ時には島民が手づくりの星条旗や感謝の言葉を記した横断幕で見送った。 2011年8月19日、2012年春に同型6番艦「ボノム・リシャール」とのシップ・スワップを行うことが発表された。 2012年4月23日、「ボノム・リシャール」との交代式を行い、佐世保の配備を離れた。 2018年9月27日、エセックスから発艦した複数のF-35Bがターリバーン攻撃に参加。F-35の初の実戦投入となった。
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艦歴
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「トリニダード (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
1938年4月21日にデヴォンポート造船所で起工。1940年3月21日に進水し、1941年10月14日に竣工した。 就役後本国艦隊に加わった。 1942年1月PQ8船団およびQP6船団の護衛に従事。 3月22日、「トリニダード」はPQ13船団護衛のためアイスランドのSeidisfiordから出撃。29日、ドイツ駆逐艦「Z24」、「Z25」、「Z26」と交戦した。砲撃で2隻に損害を与えたが、「Z26」に発射した3本の魚雷のうち1本が故障のため自艦に命中し損傷。30日、目的地のムルマンスクに到着し応急修理を受けた。 5月13日、「トリニダード」は駆逐艦「ソマリ」、「マッチレス」、「フォアサイト」、「フォレスター」に護衛されて、イギリス本国へ向けムルマンスクから出航した。14日、バレンツ海でドイツ軍機の空襲により被弾し火災が発生。15日、火災が消火不能となり駆逐艦「マッチレス」から魚雷3本が打ち込まれ処分された。
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艦歴
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「アトランタ (防護巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
アトランタは1883年11月8日にペンシルベニア州チェスターのジョン・ローチ・アンド・サンズ社で起工した。1884年10月9日にジェシー・リンカーン(ロバート・トッド・リンカーン陸軍長官の娘およびエイブラハム・リンカーン大統領の孫娘)によって命名、進水し、1886年7月19日にニューヨーク海軍工廠で艦長フランシス・M・バンス大佐の指揮下就役した。 アトランタは1887年7月までニューヨーク海軍工廠に留まり艤装および修正が行われ、その後北大西洋戦隊に加わった。2年ほどの間、大西洋岸、メキシコ湾および西インド諸島を巡航し、1889年9月30日に発展艦隊 (Squadron of Evolution) に配属され、その年の冬はヨーロッパと地中海を巡航した。帰還の途中にブラジルへの親善訪問を行い、1890年7月末にニューヨークに帰還した。ニューヨークを拠点として東海岸沿いおよび西インド諸島での任務を再開する。1891年2月から4月にかけてメキシコ湾を巡航している。5月から10月にかけて大西洋岸での作戦活動に従事し、ボストンおよびニューヨークでの艦隊演習に参加、海軍民兵の訓練も行った。1891年10月から1892年7月まで東海岸沿い、西インド諸島および南米海域での任務を成功裡に完了した。 1892年9月2日、アトランタは発展艦隊から北大西洋戦隊に再配属された。1892年12月から1893年2月までの間にアトランタはアメリカ合衆国の権益保護のため西インド諸島で活動した。3月から5月にかけてバージニア州ハンプトン・ローズで行われた観閲式に参加し、5月および6月にはメキシコ湾で活動した。1893年7月18日、アトランタはバージニア州ノーフォークで予備役となる。同地で保管され、1894年4月2日に再就役した。続く17ヶ月間、北大西洋ステーションでの任務に従事した。この配備の間の1895年3月8日、政情不安になったコロンビアで、アメリカ人の生命および財産保護のためボカ・デル・トロに陸上部隊を上陸させる。9月、アトランタはニューヨーク海軍工廠で予備役となり、その後5年間保管された。 1900年9月15日、アトランタは艦長E・C・ペンドルトン中佐の指揮下再就役した。10月後半に出航し、ブラジル沖で南大西洋戦隊に加わる。1902年11月まで同海域で活動し、その後カリブ海戦隊に転属となった。カリブ海での任務ではアメリカ人保護のため1903年4月にサントドミンゴに陸上部隊を上陸させ、12月にはパナマのポルト・ベロにも上陸させた。1904年には地中海への巡航を行い、アフリカ西海岸およびケープタウンを経由して10月に南大西洋ステーションに帰還した。12月26日にハンプトン・ローズに到着し、1905年1月にメリーランド州アナポリスに移動、1月12日に予備役となる。5月8日まで不活性状態で保管された後、任務に復帰、海軍兵学校生の訓練任務に参加した。 1905年11月、アトランタはノーフォークに移動し水雷小艦隊の水兵のためのバラック船として1909年まで使用された。その後サウスカロライナ州チャールストンへ移動し、同地でもバラック船として使用される。1912年3月23日、アトランタは任務を解かれ1ヶ月後の1912年4月24日に除籍された。アトランタは1912年6月10日にチャールストンの Frank Rijsdyk's Scheepsslooperij 社に売却された。
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艦歴
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1942年3月18日 呉海軍工廠で起工 1943年9月18日 竣工、訓練に従事12月29日 横須賀出港 1944年1月14日 トラック出港1月19日 ラバウル入港 1月25日 スルミへ物資輸送、陸軍兵8名収容 1月31日 ラバウル出港、陸軍将校3名便乗 2月3日 ブイン着、物資輸送 2月20日 二度目のブイン輸送を成功させる 3月15日 ラバウル近海にて潜水艦に雷撃されるも回避。 3月25日 トラック入港 4月7日 三度目のブイン輸送を行う。73名を収容 5月12日 ニューギニア周辺海域の索敵任務に就く 6月15日 あ号作戦発動。散開線に向かい、潜航待機 6月22日 グアム島残留搭乗員の救出を命じられる。 6月24日 グアム島アプラ港沖着、包囲下にあった搭乗員を含む106名を収容 6月30日 大分着 10月19日 捷一号作戦により呉を出港し、フィリピン東の扇型区域(第一散開配備)に向かう 11月3日 伊53潜が発見を報じた機動部隊を捕捉し、米海軍アトランタ級軽巡洋艦リノ(USS Reno, CL/CLAA-96)に損傷を与える 11月18日 米護衛空母アンツィオ(USS Anzio, ACV/CVE-57)の艦載機に発見され、ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦ローレンス・C・テイラー(英語版)(USS Lawrence C.Taylor, DE-415)によって撃沈された
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艦歴
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「ローレンス (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ローレンスは1958年10月27日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工する。1960年2月27日にローレンス大佐の曾孫、ファーニー・C・ハバード夫人によって進水し、1962年1月6日に就役した。 五大湖での整調巡航の後、ローレンスはノーフォーク海軍基地に移動し大西洋艦隊での任務に就く。1962年10月のキューバ危機に際して直ちに展開し、続いてローレンスは第136.1任務群に配備された。部隊はキャンベラ (USS Canberra, CAG-2) 、ニューポート・ニューズ (USS Newport News, CA-148) 、ローレンスと3隻のミサイル艦、12隻の護衛艦艇から構成された。部隊は10月24日にキューバ北方の封鎖海域に到着し、二日間の任務に就いた。26日の金曜日、ローレンスはマクドノー (MacDonough, DLG-8) と共にキューバにミサイルを持ち込もうとしたグロズヌイ (Grozny) を追い始めた。翌日、ソ連は危機の沈静化に同意した。そして米ソはお互いに退き始めた。 1962年12月6日にノーフォークに帰還した後、ローレンスは1963年2月6日に最初の地中海巡航に赴く。大西洋を横断しヨーロッパ海域で第6艦隊に合流、7月1日まで作戦活動に従事した。2度目の地中海巡航は1964年4月から8月にかけて行われ、配備完了後ノーフォークで最初の拡張オーバーホールが行われた。就役から10年までに、もう4度の巡航を行う:1965年の第6艦隊配備(8月24日から12月17日)、1966年の北大西洋におけるNATO演習(8月3日から9月5日)、1966年から67年にかけての地中海巡航(9月27日から2月1日)、1968年、3度目の第6艦隊配備(1月10日から5月4日)。ローレンスの4度目の第6艦隊配備では、クレタ島沖で沈没した商船、ニュー・メドウ (New Meadow) の乗組員を救助した。 その後も2度、1969年から70年にかけてと1971年に地中海に展開し、1972年から73年にかけてはベトナム戦争に参加、西太平洋において艦砲射撃による地上部隊の支援を行い、空母の作戦活動では航空機支援任務に従事した。その後も1977年から78年および1979年に地中海に展開し、黒海を短期間訪問している。ローレンスはまたインド洋およびペルシャ湾(1974-75、1980、1983-84)に展開した際に地中海を通過している。 ローレンスはまた母港に近い海域、西大西洋およびカリブ海での任務も頻繁に行い、しばしば他の海域も訪問した。1986年にはオペレーション・ユニタス XVII の一部として南米を周航し、ラテンアメリカ諸国の海軍と演習を行い、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、チリ、ウルグアイ、ブラジルの港を訪問した、 ローレンスは1990年3月30日に退役し、1990年5月16日に除籍、1994年4月15日にスクラップとして売却された。スクラップの契約は1996年10月1日に終了し、1999年2月10日に転売された。
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「クレムソン (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
クレムソンは1918年5月11日にバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工する。1918年9月5日にM・C・ダニエルによって進水し、1919年12月29日に初代艦長G・C・ディックマン少佐の指揮下就役する。 クレムソンは1930年6月13日に50%の兵員でノーフォーク海軍造船所で予備役となるまで、東海岸及びキューバ海域で巡航を続けた。ノーフォークで係留後サウスカロライナ州チャールストンおよびボストン海軍工廠に移動し、その後フィラデルフィア海軍工廠で1922年6月30日に退役する。 1939年11月15日に AVP-17 (小型水上機母艦)に艦種変更され、クレムソンは1940年7月12日に再就役する。8月6日に AVD-4 (駆逐艦改造水上機母艦)に再変更され、8月18日にバージニア州ノーフォークで大西洋艦隊航空偵察部隊に配属される。1940年8月29日から1941年11月28日までクレムソンはカリブ海およびガラパゴス諸島で哨戒機母艦任務に就く。12月6日にブラジルのレシフェに到着し、1942年1月22日までブラジルの海岸に留まり、その後再びガラパゴス諸島に向かう。翌年はガラパゴス諸島とカリブ海を任務に応じて往復し、1943年3月2日にノーフォークに帰還、その後チャールストンに移動し1943年12月1日に再び DD-186 (駆逐艦)に艦種変更される。 1943年5月30日にクレムソンは護衛空母ボーグ (USS Bogue, CVE-9) を中心とした対潜水艦攻撃部隊に加わる。クレムソンは部隊と共に8度の戦闘偵察巡航を行い、その間に8隻のドイツ潜水艦の撃沈に貢献した。12月13日には北緯26°19’、西経29°58’の海域で僚艦と共に U-175 を撃沈している。1944年初頭にニューヨークでオーバーホールを行い、戦線復帰後は1月25日から3月9日までカサブランカで船団護衛に従事した。クレムソンは1944年3月7日にチャールストン海軍工廠で APD-31 (マンリー級高速輸送艦)に艦種変更される。 クレムソンはボーグ対潜部隊での戦功で殊勲部隊章を受章した。 1944年5月1日にチャールストンを出航し、5月24日に真珠湾に到着、クレムソンは第6水中破壊部隊を乗艦させる。クレムソンは西方に移動し、水中破壊部隊の母艦としてサイパン、グアム、ペリリュー、レイテ、ルソンで部隊侵攻前の海岸で活動した。1945年1月5日にリンガエン湾で日本軍による攻撃を受ける。その後クレムソンはウルシー環礁、サイパン、沖縄で船団護衛を行い、7月6日にカリフォルニア州サンペドロに帰還、1月17日に再び DD-186 に艦種変更される。クレムソンは第二次世界大戦が終了するまで転換作業が行われ、その後1945年10月12日に退役、1946年11月21日に売却された。 クレムソンは第二次世界大戦中の戦功で9個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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1923年(大正12年)4月2日 - 三菱神戸造船所で起工。当初の艦名は第八十四潜水艦。 1924年(大正13年)1月24日 - 進水11月1日 - 呂号第六十三潜水艦に改名。 12月20日 - 竣工。 1925年(大正14年)4月30日 - 呂64と共に第24潜水隊を編制。 1929年(昭和4年)3月10日 - 予備艦となる。 1932年(昭和7年)12月1日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正。 1939年(昭和14年)11月15日 - 第33潜水隊に編入。潜水学校練習艦となる。 1941年(昭和16年)12月8日 - 第7潜水戦隊第33潜水隊所属として、クェゼリンを出航12月14日 - ハウランド島方面における監視任務に従事。 12月19日 - クェゼリン着。 1942年(昭和17年)1月7日 - クェゼリン出航。トラックを経由して、ラバウル攻略戦において、セント・ジョージ岬南方の哨戒任務に従事。1月29日 - トラック着。 2月18日 - トラック出航。マーシャル諸島方面で活動。 2月23日 - ポナペ着。 2月24日 - ポナペ出航。横舵が故障し、ビキニへ航行。 3月1日 - ビキニ出航。再び横舵が故障。 4月3日 - 舞鶴着。 6月5日 - 舞鶴出航。サイパン、トラック方面で活動。 7月4日 - 横須賀着。 7月14日 - 第5艦隊に編入。 7月24日 - 北方に派遣となり横須賀を出港。 8月4日 - キスカ島に到着。以後、9月まで同方面で活動。 10月5日 - 舞鶴着。 11月6日 - 舞鶴を出港。8日、呉着。練習艦となる。 1945年(昭和20年)4月10日 - 佐世保を出港。奄美大島において特殊潜航艇「蛟竜」の母艦となる。8月15日 - 終戦時は舞鶴に所在。 11月20日 - 除籍 1946年(昭和21年)5月 - 米軍により伊予灘にて海没処分。
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艦歴
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「アルバカーキ (哨戒フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
アルバカーキは海事委任契約(船体番号1425)の下1943年7月20日にカリフォルニア州リッチモンドのカイザー・カーゴ社で起工する。1943年9月14日にB・L・リヴィングストン夫人によって命名、進水し、1943年12月20日に艦長ウェイン・L・ゴフ沿岸警備隊少佐の指揮下就役した。 艤装および整調訓練後、アルバカーキはカリフォルニア州のトレジャー・アイランドを1944年3月24日に出航しワシントン州シアトルに向かう。2日後に到着、そのまま同地に留まり、4月5日にアラスカ行きの船団護衛任務で出航する。船団は4月16日にアラスカ州のダッチハーバーに到着し、アルバカーキは第27護衛分艦隊に配属される。1944年の残りおよび1945年前半をアルバカーキはアラスカ州各地の港における船団護衛、アリューシャン列島、ベーリング海での偵察任務に費やした。1945年6月5日から7月14日までダッチハーバーとシアトル間の往復巡航任務を行い、その後も船団護衛と偵察任務を継続、8月16日にコールド・ベイで退役し、翌日レンドリース法に基づきソ連海軍に貸与された。 ソ連海軍で EK-16 として4年以上勤務した後、アルバカーキは1949年11月15日に横須賀でアメリカ海軍に返還された。修理および更新作業の後、1950年10月3日に艦長クロード・O・ロウ少佐の指揮下横須賀で再就役した。続く10ヶ月間をアルバカーキは横須賀と香港、シンガポール間の船団護衛および偵察任務に費やした。1951年8月には横須賀とフィリピンのスービック湾の間で作戦活動に従事し、9月10日に横須賀を出航、佐世保を経由して15日に朝鮮半島東部での護衛および偵察任務に入る。太平洋艦隊駆逐艦小艦隊、第5護衛分艦隊の1隻としてアルバカーキは9月の残りと10月の大半を韓国沿岸で活動した。 アルバカーキは任務を継続し、1951年10月26日に佐世保を出航、香港に向かった。香港には9月30日に到着し、翌年3月までステーション艦としての任務に従事した。1952年3月6日、香港を出港しフィリピンに向かう。ルソン島のスービック湾から日本に向かい、5月16日に佐世保に帰還した。佐世保を拠点としてアルバカーキは韓国の東海岸沿いに偵察および船団護衛任務を再開した。任務は6週間継続し、7月に再びスービック湾を訪れ、26日に香港に戻る。その後11月中旬に最後の香港への巡航を行い、スービック湾を訪れた後12月3日に佐世保に帰還、再び韓国東海岸での任務を再開した。 1953年2月28日にアルバカーキは横須賀で退役した。1953年11月30日、日米船舶貸与協定に基づき第10回貸与艦として警備隊(後の海上自衛隊)に貸与され、「とち (PF-16)」として就役し、横須賀地方隊に編入された。同年12月23日、「けやき」、「しい」、「まき」とともに第3船隊を新編。1954年4月10日、第3船隊は第2船隊群(後の第2護衛隊群)に編入された。1957年9月1日に艦籍番号がPF-296に変更された。1962年3月15日、舞鶴地方隊に編入された。なお、「とち」は1961年12月1日にアメリカ海軍から除籍、1962年8月28日には貸与から供与に変更された。1965年3月31日、保管船(YAC-15)に区分変更され舞鶴教育隊の実習艦として使用された。1971年7月9日、アメリカ海軍に返還。なお、返還後、実艦標的として使用されることとなり、1972年8月22日、23日の両日、舞鶴北方海面で護衛艦による艦砲射撃、航空機による攻撃の後、潜水艦による魚雷攻撃により撃沈されている。 アルバカーキは朝鮮戦争の戦功で3個の従軍星章を受章した。
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艦歴
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「グラットン (モニター)」の記事における「艦歴」の解説
1913年5月13日起工。1914年8月8日進水。1918年8月31日就役。 1918年9月11日にドーバーに到着。9月16日18時17分、ドーバー港内に停泊していたグラットンで爆発が生じ、火災が発生した。弾薬庫誘爆のおそれが高まったため、駆逐艦コサックが魚雷でグラットンを沈めるよう命じられた。コサックの1本目の魚雷は航走距離が短すぎたために爆発せず、2本目は爆発したもののグラットンは沈まなかった。これでコサックの魚雷は無くなったため、次は駆逐艦ミングスが雷撃を命じられた。20時15分、ミングスの魚雷2本が命中し、グラットンは横転着底した。こうして、グラットンの火災は鎮火し誘爆の危険は無くなった。この事故で77人が犠牲となった。 ドーバー港内で航行の障害となっていたグラットンの船体は1926年に移動され、現在は埋め立てられてフェリーターミナルとなっている。
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艦歴
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「チャンドラー (ミサイル駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
当初はイラン王国によってアンドゥシールワーン (Andushirvan:ホスロー1世) の艦名で発注されたが、1979年のイラン革命でキャンセルとなった。 その後強力な空気浄化機能、フィルターによる防砂機能、生物化学兵器戦への対応能力を持つ本艦はアメリカ海軍によってペルシャ湾と地中海での作戦行動に適任と認められ、採用されることとなった。 チャンドラーは1999年に退役した。
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艦歴
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「ブルワーク (戦艦)」の記事における「艦歴」の解説
デヴォンポート工廠で建造。1902年3月11日竣工。 第一次世界大戦中の1914年11月26日午前7時50分、シェアネス近くのKethole Reachに停泊していたブルワークは爆発を起こした。この爆発でブルワークは破壊され、乗員の大半が死亡した。爆発の原因は不明であるが、高温でコルダイトが自然発火し、それによって弾薬が爆発したことによる可能性が高い。
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艦歴
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「マッカンドレス (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
マッカンドレスはルイジアナ州ウェストウィーゴーのエイボンデール造船所で1970年6月4日に起工する。1971年3月20日に進水し、1972年3月18日に就役した。 1994年5月6日に退役したマッカンドレスは防衛援助計画に基づき2002年2月2日にトルコへ移管された。トルコ海軍ではトラキア (TCG Trakya, F-254) の艦名で就役した。
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艦歴
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「ロイヤリスト (軽巡洋艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
1940年3月21日起工。1942年5月30日進水。1943年9月10日竣工。 1944年4月、空母搭載機によるドイツ戦艦「ティルピッツ」に対する攻撃作戦(タングステン作戦)に参加。 1944年8月、地中海で南フランスへの上陸作戦(ドラグーン作戦)に参加。続いてエーゲ海へ向かう。1944年9月15日、「ロイヤリスト」と駆逐艦「ティーザー」はクレタ島Spatha岬沖でドイツの砲艦「KT26/Erpel」と駆潜艇「UJ2171」(または輸送船「KT4」と「KT26」)を撃沈した。 1945年になるとインド洋に移り、日本の支配地域への攻撃に参加した。「ロイヤリスト」はラングーン付近への上陸作戦(ドラキュラ作戦、1945年4月)、日本海軍の重巡洋艦「羽黒」攻撃のための出撃(1945年5月)、スマトラ島の日本軍飛行場などの攻撃(バルサム作戦を行う空母の護衛(1945年6月)などに参加した。 1946年、予備艦となる。1956年7月9日にニュージーランド海軍所属となり、1966年6月4日に退役。1967年11月スクラップとして売却後、日本で解体された。
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艦歴
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「タイドスプリング (給油艦・2代)」の記事における「艦歴」の解説
「タイドスプリング」は、タイド型給油艦1番艦として、2012年2月22日に韓国の大宇造船海洋に発注され、11月13日に命名された。 2014年12月22日に大宇造船海洋巨済造船所で起工し、2015年4月25日に進水、2016年3月29日から7月1日まで海上公試を実施。 2017年2月5日にイギリスへの回航のため韓国を出港、日本の横須賀港、アメリカ合衆国ハワイ州の真珠湾に寄港後、中米のパナマ運河を経由して大西洋に入り、3月31日にイギリス南西部のファルマスに到着した。8月31日、最終評価試験のためプリマスサウンド(英語版)を出港し、10月6日にはヘリコプターの着艦試験、10月17日にジブラルタル寄港、11月13日に給油艦「ウェーブ・ナイト(英語版)」、11月14日にフリゲート「サザランド(英語版)」と洋上補給(英語版)を実施、11月27日にポーツマス海軍基地でイギリス海軍補助艦隊に引き渡された。 2018年4月、スコットランド沖で実施された北大西洋条約機構(英: The North Atlantic Treaty Organization、略称:NATO)のジョイント・ウォーリア演習(英語版)に参加、2020年にはバレンツ海でデンマーク海軍、ノルウェー海軍、アメリカ海軍との共同訓練に参加した。 2021年5月22日、クイーン・エリザベス空母打撃群(英語版)構成艦としてポーツマス海軍基地を出港した。
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艦歴
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「伊号第百六十五潜水艦」の記事における「艦歴」の解説
1929年(昭和4年)12月19日 - 呉海軍工廠で起工。 1931年(昭和6年)6月2日 - 進水 1932年(昭和7年)12月1日 - 竣工。佐世保鎮守府籍となり第30潜水隊に編入。 1934年(昭和9年)11月15日 - 予備艦となる。 1938年(昭和13年)3月19日 - 予備艦となる。 6月1日 - 艦型名を伊六十五型に改正。 1939年(昭和14年)7月5日 - 佐世保で第三予備艦となる。 1941年(昭和16年)12月5日 - 第5潜水戦隊第30潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦。12月9日 - 二隻の英戦艦北上を発見報告。 12月27日 - カムラン湾に到着。 1942年(昭和17年)1月5日 - カムラン湾を出航し、ジャワ海方面で活動。1月9日 - 南緯04度50分 東経112度50分 / 南緯4.833度 東経112.833度 / -4.833; 112.833のジャワ海でマドゥラ島スメネプからチェリボンへ航行中の蘭貨物船ベンコーレン(Benkoelen、1,003トン)を砲雷撃により撃沈。 1月15日0217 - 南緯00度12分 東経97度00分 / 南緯0.200度 東経97.000度 / -0.200; 97.000のムンタワイ諸島西方沖合のインド洋で、シンガポールからカルカッタへ航行中の印貨物船ジャララジャン(Jalarajan、5,102トン)を雷撃により撃沈。 1月20日 - ペナン着。 2月5日 - ペナンを出航し、セイロン島方面で活動。 2月9日 - 北緯06度13分 東経82度25分 / 北緯6.217度 東経82.417度 / 6.217; 82.417のセイロン島南東45浬地点付近で、船団に加わってコロンボからトリンコマリーへ航行中の英貨物船ラオメドン(Laomedon、6,693トン)を雷撃により撃破。 2月15日1850 - 北緯09度04分 東経75度58分 / 北緯9.067度 東経75.967度 / 9.067; 75.967のコーチン西方40浬地点付近で、アキャブからコーチンへ航行中の英貨物船ゴハン・ジャストセン(Johanne Justesen、4,681トン)を雷撃により撃沈。 2月20日 - 北緯07度47分 東経73度31分 / 北緯7.783度 東経73.517度 / 7.783; 73.517のインド西方沖で英貨物船ブヒマ(Bhima、5,280トン)を雷撃により撃沈。 3月15日 - ペナン出航。 3月28日 - 佐世保入港。 5月14日 - 呉出航。 5月20日 - 伊号第百六十五潜水艦に改名。 5月26日 - ミッドウェー海戦に参加。 6月26日 - 佐世保入港。 7月10日 - 第30潜水隊は南西方面艦隊に編入。 7月22日 - 佐世保出航。 8月11日 - ペナンを出航し、インド洋交通破壊戦に参加。 8月25日 - 北緯01度42分 東経77度27分 / 北緯1.700度 東経77.450度 / 1.700; 77.450のモルディブ諸島東方沖合で、カルカッタからトリンコマリー、ロレンソ・マルケス経由でアメリカへ航行中の英貨物船ハーモナイデス(Harmonides、5,237トン)を雷撃により撃沈。 9月24日 - 北緯08度06分 東経74度23分 / 北緯8.100度 東経74.383度 / 8.100; 74.383の地点で、ポートサイドからコロンボへ航行中の米貨物船ロスマー(Losmar、5,549トン)を雷撃により撃沈。 1943年(昭和18年)3月5日 - 佐世保入港。訓練と整備を実施。8月26日 - 呉を出航。 10月24日 - ペナンを出航し、インド洋方面で活動。 1944年(昭和19年)1月16日1145 - 北緯12度00分 東経80度14分 / 北緯12.000度 東経80.233度 / 12.000; 80.233のベンガル湾で、政治的製品2,800トン、軍需品500トンを積んでリヴァプールからトリンコマリー経由でカルカッタへ航行中の英貨客船ペルセウス(Perseus、10,286トン)を発見し、雷撃。魚雷1本がペルセウスの左舷9番船倉付近に命中し、同船は船尾から沈み始める。 1205 - 3番発射管から魚雷1本をペルセウスへ向けて発射。これにより同船は沈没。 3月18日 - 北緯02度14分 東経78度25分 / 北緯2.233度 東経78.417度 / 2.233; 78.417のコロンボ南西沖合で、石炭を積んでダーバンからコロンボへ航行中の英貨物船船ナンシー・モラー(Nancy Moller、3,916トン)を雷撃。左舷に魚雷2本が命中したナンシー・モラーは急速に沈没。 3月25日 - 第8潜水戦隊に編入。 5月25日 - スラバヤを出航しオーストラリア北西方面で活動。 7月24日 - スラバヤを出航しビアク島への輸送作戦に従事するも中止。 9月15日 - スラバヤを出航し、シンガポールを経て香港で修理後、10月17日、佐世保入港。 12月15日 - 呉潜水戦隊第19潜水隊に編入。練習潜水艦となる。 1945年(昭和20年)4月1日 - 第6艦隊第34潜水隊に編入。6月15日 - 光基地を回天2基を搭載して出航。轟隊としてマリアナ東方海面で活動。 6月27日 - サイパン島の東方(北緯15度28分 東経153度39分 / 北緯15.467度 東経153.650度 / 15.467; 153.650)において米哨戒爆撃機の攻撃を受け戦没。大野艦長以下106名全員が戦死。 7月29日 - マリアナ方面で亡失と認定。 撃沈総数8隻、計41,054トン。撃沈隻数では帝国海軍潜水艦の中では伊20と並んで第5位を誇る(撃沈トン数の5位は47,942トンを撃沈した伊37)。撃破総数1隻、撃破トン数6,693トン。
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艦歴
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1939年(昭和14年)の第四次海軍補充計画(マル4計画)によって建造が決定され、1940年(昭和15年)12月7日、呉海軍工廠で起工。1941年(昭和16年)10月22日に進水。1943年(昭和18年)3月10日に竣工した。竣工と同時に呉鎮守府籍となり、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。 4月1日、呉潜水戦隊は第11潜水戦隊に改編され、第一艦隊所属となる。 5月23日、第六艦隊第8潜水戦隊第14潜水隊に編入。 25日、伊37は呉を出港し、6月4日にペナンに到着。8日、ペナンを出港し、インド洋に進出。16日、南緯09度18分 東経80度20分 / 南緯9.300度 東経80.333度 / -9.300; 80.333のチャゴス諸島南東沖で、空船でシドニーからアーバーダーンへ単独航行中の英タンカーサン・エルネスト(San Ernesto、8,078トン)を発見し、雷撃によりこれを撃破。総員退去となった後の同船を砲撃したが、沈めることはできなかった。サン・エルネストは漂流し、28日後にニアス島西岸に座礁し、全損となった。19日1850、北緯01度00分 東経71度15分 / 北緯1.000度 東経71.250度 / 1.000; 71.250のモルディブ南西沖で、ソ連向けの戦闘機と戦車、爆薬、計8,200トンを搭載してフリーマントルからバンダレ・シャープールへ向け単独航行中の米リバティ船ヘンリー・ノックス(Henry Knox、7,176トン)を発見し、雷撃。うち1本がヘンリー・ノックスの左舷に命中し、3番船倉に積まれていた爆薬が誘爆し、破片が船全体に降り注ぎ炎上。まもなく沈み始めたため、ヘンリー・ノックスは1907に放棄された後、数回ほど爆発を起こしながら2200に船首から沈没した。伊37は浮上した後救命ボートに横付けし、生存者に積荷、出発地、目的地、および近隣で遭遇した連合国の船について尋問し、衣服と救命ボートの帆、地図、食糧、懐中電灯を没収。衣服の一部とマッチ、酒を生存者に渡し、現場を離れた。7月9日、ペルシア湾を偵察。8月17日にペナンに到着した。22日、ペナンを出港し、シンガポールに移動した。 9月5日、伊37はシンガポールを出港し、ペナンに移動。その後ペナンを出港してインド洋に向かうが、出港後まもなく乗員1名が虫垂炎により倒れたため、ペナンに戻った。20日、ペナンを出港し、モザンビーク海峡に進出。10月11日、ディエゴ・スアレスを航空偵察し、警戒が厳重であることを報告。23日、マダガスカル島北西沖でギリシャ貨物船ファネロメニ(Faneromeni、3,404トン)を雷撃により撃沈。11月4日午前、ペンバ島南東沖でノルウェー貨物船エルボーグ(Hallbyørg、2,850トン)を発見し、魚雷1本を発射するも命中しなかった。5日午後、ペンバ島南東沖で輸送船1隻を発見して魚雷1本を発射するも、命中しなかった。17日、モンサバ港を航空偵察。27日1240、南緯03度00分 東経69度08分 / 南緯3.000度 東経69.133度 / -3.000; 69.133のアッドゥ環礁南西沖で、ディーゼル燃料を搭載してバーレーンからメルボルンに向かっていたPB64船団に参加中、後落したノルウェータンカースコティア(Scotia、9,972トン)を発見し雷撃。魚雷1本が右舷船尾に命中したスコティアは15度傾斜して操舵不能となり、沈み始めた。まもなく、スコティアは救難信号を発信して放棄された。1255、未だ浮いていたスコティアへ向け再度雷撃。魚雷1本が右舷機関室に命中したスコティアは船体が分断され、船尾側がすぐに沈没。伊37は浮上し、浮いていた船首側を砲撃して撃沈し、船長を捕虜とした。この時、救命ボートを機銃掃射しており、船員及び軍人8名が死亡した。12月5日、ペナンに到着。12日にペナンを出港し、13日にシンガポールに到着して整備を受ける。15日、第14潜水隊の解隊に伴い、第8潜水戦隊直卒となった。 1944年(昭和19年)1月12日、伊37はシンガポールを出港し、15日にペナンに到着。2月10日、ペナンを出港してマダガスカル島周辺海域に進出。14日0030、セイロン島南方沖で輸送船1隻を発見し、翌15日0100まで追尾したが、相手が16ノット以上で航行しているらしく、攻撃できなかった。15日1030、南緯00度50分 東経68度00分 / 南緯0.833度 東経68.000度 / -0.833; 68.000のアッドゥ環礁南西沖で、空船でメルボルンからアーバーダーンへ向け単独航行中の英タンカーブリティッシュ・シバルリー(British Chivalry、7,118トン)を発見し、雷撃。魚雷2本が右舷に命中したブリティッシュ・シバルリーは航行不能となった。伊37は放棄されたブリティッシュ・シバルリーから600m離れた位置で浮上して主砲弾17発を発射し、同船を撃沈した。その後生存者を尋問してダイヤモンドとサファイア50個が入ったブリーフケースを没収し、船長を捕虜とした。その後生存者へ向け銃撃を行った。この銃撃でブリティッシュ・シバルリーの船員13名が死亡し、5名が負傷した。26日、南緯08度00分 東経70度00分 / 南緯8.000度 東経70.000度 / -8.000; 70.000のディエゴガルシア島西方200浬地点付近で、リン酸塩と郵便物、合計9,700トンを搭載してアル・クセイルからフリーマントルに向かう輸送船団に参加中、後落して単独航行中の英貨物船サトレジ(Sutlej、5,189トン)を発見。伊37は2000mの距離で魚雷2本を発射。うち1本がサトレジの左舷1番船倉と2番船倉の間に命中し、4分で沈没した。伊37は浮上して周辺を探照灯で照らし、生存者を確認して尋問を行い、船長が戦死したこと、目的地と積荷についてを把握した後、生存者へ向け銃撃を行った。29日1130、南緯05度00分 東経63度00分 / 南緯5.000度 東経63.000度 / -5.000; 63.000のディエゴスアレス北西800浬地点付近で、9,000トンの一般貨物を搭載してカルカッタからポートルイスに向かっていた英貨物船アスコット(Ascot、7,005トン)を発見し、魚雷2本を発射。うち1本がアスコットの機関室に命中し、沈み始めた。伊37は放棄されたアスコットの右舷側に浮上し、船長と船の幹部の所在を聞いたところ、全員戦死したとの答えが返ってきたため、警告射撃を行った。その結果船長他1名が名乗り出たため尋問を行った後解放し、アスコットを砲撃で沈めた後、救命ボートを銃撃。救命ボートに乗っていた生存者45名が死亡し、救命ボートも全て撃沈された。3月3日、チャゴス諸島を飛行偵察。この時、搭載機には60kg爆弾2発が搭載されており、敵艦船を見つけ次第空爆する予定だったが、目標が見つからなかったため、搭載機は爆弾を海上に投棄して帰還した。9日2300、コロンボからケープタウンに向かっていたインド船籍のジャンクを発見し、停船させて調べたが、ジャンクには女性と子供約100人が乗っており、怪しいところもなかったため解放した。14日1700、ディエゴスアレス北東150浬地点付近で、駆逐艦の推進器音を探知。15日夜、ディエゴスアレスを航空偵察し、空母1、重巡2、駆逐艦3の在泊を報告。18日と22日、4月2日にそれぞれ単独航行中の輸送船を発見するが、自艦の位置の露見を防ぐため攻撃はしなかった。5日午後、ペンバ島東方50浬地点付近に到達したが、荒天による時化で航空機の発進が難しく、夜になるにつれてますます天候が荒れてきたことから偵察を延期。7日、悪天候の中モンサバ港を航空偵察し、輸送船60隻以上の在泊を報告。20日0430、ペナンに到着。27日0500、ペナンを出港。0800、ペナン南方20浬地点付近で、左舷艦首前方100mの位置で突然機雷が爆発。伊37は激しく揺さぶられ、艦内の照明が消え、電気の短絡も起きたが、それ以上の損傷はなかった。伊37は浅瀬の海底に沈座した後、翌28日朝にペナンに到着。検査の結果、左舷のバラストタンク2つのバルブが損傷していることがわかった。5月3日、ペナンを出港し、5日にシンガポールに到着。セレター軍港で修理を受ける。 修理完了後、伊37はリンガ泊地に移動。7月21日、0900から1330まで第二艦隊の対潜訓練の目標艦として使用された。その後は呉に向けリンガ泊地を出港。9月9日に呉に到着して整備を受ける。この時、後部主砲が撤去され、回天4基を搭載できるよう改装された。12日、第15潜水隊に編入。
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艦歴
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「ジャーヴィス (DD-38)」の記事における「艦歴」の解説
ジャーヴィスは1911年7月1日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工した。1912年4月4日にジーン・キング夫人によって命名、進水し、1912年10月22日に艦長D・P・マニックス少佐の指揮下就役する。 キューバ沖での整調後、ジャーヴィスはバージニア州ノーフォーク沖からカリブ海での作戦活動でその年を過ごした。1914年4月20日にフロリダ州ペンサコーラを出航し、ベラクルス占領の間、タンピコおよびベラクルス沖で哨戒を行った。6月16日にノーフォークに帰還し、ジャーヴィスは大西洋で活動、1917年5月26日にニューヨークを出航しウィリアム・シムス中将指揮下のヨーロッパ派遣軍に加わり活動した。 フランスのサン=ナゼールを経由してアイルランドのクイーンズタウンに6月11日に到着し、ジャーヴィスはアイルランドおよびイングランドの沿岸で船団護衛任務に従事した。ジャーヴィスを始めとする駆逐艦隊の活動はドイツ潜水艦の脅威の克服に大いに貢献した。ジャーヴィスは潜水艦を沈めることはなかったものの、雷撃された船の生存者を2度救助した。6月19日にアイルランド沖でバトウム (SS Batoum) の生存者41名を救助し、7月25日には北海でイギリス商船パーリー (Purley) の生存者22名を救助している。バトウムの生存者を救助した後、ジャーヴィスはUボートの攻撃の可能性にもかかわらず、メカニシャン (SS Mechanician) を雷撃から守るため敵との間に割り込んで商船を守った。 ジャーヴィスはクイーンズタウンを拠点としての活動を継続し、1918年2月15日にフランスのブレストに移動、フランス沿岸で連合軍の船団を護衛した。ブレスト沖での哨戒は12月28日まで行われ、その後帰国の途に就く。1919年1月12日にペンシルベニア州フィラデルフィアに到着し、大西洋沿岸での活動を再開した。7月21日にフィラデルフィアに帰還し、11月26日に退役する。ロンドン海軍軍縮条約に従ってジャーヴィスはスクラップとして解体され、鋼材は1935年4月23日に売却された。 ジャーヴィスの艦名は、バッグレイ級駆逐艦のDD-393(英語版)とフレッチャー級駆逐艦のDD-799(英語版)に受け継がれた。
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艦歴
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「ポーター (DD-59)」の記事における「艦歴」の解説
ポーターは1914年2月24日にペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船所で起工した。1915年8月26日にジョージアナ・ポーター・カサックスによって命名、進水し、1916年4月17日に艦長ワード・K・ウォートマン少佐の指揮下就役する。 カリブ海での整調後、ポーターは1917年4月24日に出航、アメリカ軍の最初のヨーロッパ派遣部隊を護衛する。5月4日にアイルランドのクイーンズタウンに到着、第一次世界大戦の間同地を拠点とし、アメリカからの船団が交戦地帯に入る前に合流、護衛を行った。多忙な任務が続く1918年4月28日、ポーターは船団を攻撃しようとしていたドイツの潜水艦U-108を攻撃、これを大きく損傷させた。6月14日以降はブレストを拠点とし、戦争が終わると本国へ帰還した。 第一次世界大戦後、ポーターは東海岸沖で作戦活動に従事し、1922年6月23日に退役した。1924年6月7日に沿岸警備隊へ移管され、ラム・パトロールの一隻として密造酒の取り締まりを行う。その後1933年6月30日に海軍に返却、ロンドン海軍軍縮条約に従って翌年廃棄処分となる。ポーターは1934年7月5日に除籍され、その鋼材は1934年8月22日に売却された。
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「ローワン (DD-64)」の記事における「艦歴」の解説
ローワンは1915年5月10日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工する。1916年3月23日にルイーズ・マクレアーズ(ローワン中将の曾孫姪)によって命名、進水し、1916年8月22日にマサチューセッツ州ボストンで艦長ウィリアム・R・パーネル大尉の指揮下就役した。 就役後ローワンはロードアイランド州ニューポートを拠点として1916年秋まで大西洋岸沿いで作戦活動に従事し、冬はカリブ海およびメキシコ湾での冬季演習に参加した。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦したときは、バージニア州ノーフォークで活動中であり、ヨーク川河口部分の偵察を行っていた。その後ニューヨークで修理を受け、1917年5月7日にボストンを出航、アイルランドに向かう。5月27日に第7分艦隊とともにクイーンズタウンに到着した。 その後は戦争の終わりまで、対潜哨戒およびイギリス、フランスの港での船団護衛任務に従事した。1918年5月28日にローワンは他の2隻の駆逐艦と共にUボートを攻撃し、14発の爆雷を投下した。戦闘後、海面には大量の油膜が浮上した。 ローワンは1918年12月26日にクイーンズタウンを出航し、1919年1月8日にニューヨークに到着した。夏になると東海岸およびカリブ海での演習を行う。8月29日にローワンはフィラデルフィア海軍工廠に入渠し、予備役となる。 翌年夏に DD-64 と艦番号が指定されたローワンは、1921年3月に大西洋艦隊との任務を再開、1922年3月まで任務を継続した。その後フィラデルフィアに帰還し、同地で1922年6月19日に退役した。予備役状態でリーグ島で保管された後、1936年1月7日に除籍される。船体は1939年4月20日にスクラップとして売却された。
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「ブルック (フリゲート)」の記事における「艦歴」の解説
ブルックは1962年12月19日にワシントン州シアトルのロッキード・シップビルディング社で起工する。1963年7月19日に進水し、1966年3月12日に就役した。当初は DEG-1 (ミサイル護衛艦)と指定されたが、1975年に FFG-1 (ミサイルフリゲート)に艦種変更された。 就役後は太平洋艦隊に所属し、カリフォルニア州サンディエゴを母港とした。 ブルックは1988年に退役し、1989年2月1日にパキスタン海軍に移管された。カイバル (Khaibar) と改名され活動した後、1993年11月14日にアメリカ海軍に返還され、1994年3月29日にスクラップとして売却された。
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「ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
ミネアポリスは1931年6月27日にフィラデルフィア海軍造船所で起工した。1933年9月6日にグレース・L・ニュートンによって命名、進水し、1934年5月19日に艦長ゴードン・W・ヘインズ大佐の指揮下就役した。 1934年7月から9月にかけてヨーロッパ水域で行われた整調後、ミネアポリスはフィラデルフィア海軍工廠で修理と変更が行われ、1935年4月4日に出航、パナマ運河を経由して4月18日にサンディエゴに到着、偵察部隊の第7巡洋艦分艦隊に合流した。ミネアポリスは西海岸沿いに作戦活動に従事し、1939年の初めにはカリブ海へ巡航、1940年に真珠湾に到着した。
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「ナトマ・ベイ (護衛空母)」の記事における「艦歴」の解説
ナトマ・ベイは1943年1月17日にワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で貨物船ベガム (Begum, MC hull 1099) として起工する。1943年1月22日に海事委員会が空母ナトマ・ベイへの改装を決定し、1943年7月20日に駐米イギリス大使夫人レディ・ハリファックスによって命名、進水し1943年10月14日にハロルド・L・ミードゥ艦長の指揮下就役する。
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「デッカー (護衛駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
デッカーは1942年4月1日にペンシルベニア州フィラデルフィア海軍工廠で起工。1942年7月24日に進水し、1943年3月4日に就役した。元々はBDE-47としてイギリスにレンドリースされる予定だった。 デッカーは1943年8月から1945年8月まで北米から地中海に至る航路で船団護衛の任務に就き、1944年5月のUGS-40船団(旗艦:巡視船キャンベル)の護衛任務ではドイツ空軍の爆撃機及びUボート(U967、U616)の攻撃から船団を護衛することに成功した。 第二次世界大戦終結直後の1945年8月28日に中華民国にエヴァーツ級護衛駆逐艦ワイフェルスとともに貸与(後に譲渡)、太平(DE-22)(タイピン)に改名。1946年に永興(旧アメリカ海軍PCE-842級警備艇)、中業及び中建(旧アメリカ海軍LST型揚陸艦)を率いて南沙諸島及び西沙諸島への進駐を行い、南沙諸島のイツアバ島は同艦にちなんで太平島と命名された。 1949年10月25日から27日の古寧頭戦役では金門島沖に駆けつけ、守備隊とともに侵攻してきた人民解放軍を殲滅する活躍を見せ、1951年2月13日には八重山諸島沖で海上封鎖任務中に中国大陸に向うノルウェー船籍の貨物船ホイ・フーを拿捕・拘束した。1954年4月初頭にチェコ船籍のユリウス・フチーク号が中国大陸が向うという情報を得て駆逐艦丹陽(旧日本海軍駆逐艦雪風)とともに拿捕のために出撃したが発見できず空振りに終わった。1954年4月27日に大康(旧ワイフェルス)とともに台湾海峡を航行中に人民解放海軍の広州(旧英キャッスル級コルベット・ボーマンヴィル)、開封(旧英フラワー級コルベット・クローバー)、南昌(旧日本海軍砲艦宇治)、長沙(旧日本海軍海防艦第118号)と遭遇し交戦した。 1954年11月14日午前1時半に大陳島沖において哨戒中に人民解放軍海軍の魚雷艇155号、156号、157号、158号の魚雷攻撃を受け撃沈された。艦首部に命中したので犠牲者は28名と少なかった。撃沈後、中国青年反共救国団によって「建艦復仇運動」として代わりの艦艇の献納運動が行われ、日本製魚雷艇2隻を購入した。 太平号の乗組員(1946年8月) 太平島へ進駐した太平号の上陸部隊(1946年12月)
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「ジャマイカ (軽巡洋艦)」の記事における「艦歴」の解説
1939年4月28日、ヴィッカース・アームストロング社バーロー造船所にて起工。 1940年11月16日、進水。 1942年6月29日に竣工、本国艦隊に所属し、第二次世界大戦に参加。11月にはトーチ作戦を支援し、12月にはシェフィールド (HMS Sheffield, C24) と R部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。ロバート・L・バーネット少将はシェフィールドで指揮を執り、JW51B船団の護衛を担当した。船団はドイツ艦隊の攻撃を受けたが撃退に成功する。 1943年7~9月にはポーツマスで改装を行う。同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将指揮下戦艦デューク・オブ・ヨークとフォース2を編成し、ドイツの巡洋戦艦シャルンホルストの撃沈に参与した。 1944年2~3月にはJW57・JW58・RA58船団の護衛に参加、更に戦艦ティルピッツを攻撃する空母数隻を支援する。1945年4月に近代化改装を受け、この時X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強、レーダーの新式化が行われた。同年9月には第5巡洋艦戦隊に参加し、インド洋方面へ展開する。大戦終結後の1948年8月には第8巡洋艦戦隊に参加そ、北アメリカ・西インド諸島方面へ展開した。 1950年7月には朝鮮戦争に参加し、支援砲撃や魚雷艇・ヤク戦闘機と交戦。1952年本国に帰還し予備役に置かれる。 1953~54年地中海艦隊に転属したものの、1957年11月20日に除籍。保管船となる。 1960年12月20日に解体開始され、1963年8月15日に解体が完了した。
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「スレッシャー (潜水艦)」の記事における「艦歴」の解説
スレッシャーはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工した。1940年3月27日にクロード・A・ジョーンズ夫人によって命名、進水し、1940年8月27日に艦長ウィリアム・ラベット・アンダーソン少佐(アナポリス1926年組)の指揮下就役する。
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「フォアサイト (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
フォアサイトは1933年7月21日にバーケンヘッドのキャメル・レアード社(英語版)で起工した。1934年6月29日に進水し、1935年5月15日に就役する。 1941年6月18日、スペイン西方で姉妹艦フォークナー (HMS Faulknor, H62)、フィアレス (HMS Fearless, H67)、フォレスター (HMS Forester, H74)、フォックスハウンド (HMS Foxhound, H69)と共にドイツ潜水艦 U-138 を攻撃し、これを撃沈した。 1942年4月6日にスカパ・フローを出航、PQ14船団を護衛し通常の哨戒任務に向かった。24隻から成る船団のうち、16隻は季節外れの氷と悪天候のためアイスランドへの帰還を余儀なくされた。残りの船はUボートの攻撃を受け撃沈された。残った7隻の船と共に、フォアサイトは4月19日にムルマンスクに到着した。 その後4月29日に出航、帰還するQP11船団の護衛を担当した。4月30日、コラ半島から帰還途中、ドイツ潜水艦 U-456 (マックス・マルティン・テイヒェルト中尉指揮)が軽巡洋艦エディンバラ (HMS Edinburgh, C16) の右舷に対して魚雷を命中させた。エディンバラは大きく傾いたものの沈没はしなかった。 間もなく U-456 からの2発目の魚雷が艦尾部分に命中、操舵装置を破壊されたエディンバラは航行不能となった。ムルマンスクに曳航されたが、絶えずドイツ軍機の攻撃に悩まされた。 5月2日、エディンバラはベア島沖でヘルマン・シェーマン (Z7 Hermann Schömann) を含む3隻のドイツ駆逐艦による攻撃を受け被雷。エディンバラは放棄され、乗員はフォアサイトを始めとする随伴艦に救助された。フォアサイトはエディンバラの海没処分を命じられ、雷撃を行った。 1942年8月に行われたマルタ島への補給作戦であるペデスタル作戦では、フォアサイトは掃海艇として活動していたが、イタリア軍のサヴォイア・マルケッティ SM.79による雷撃を受け艦尾部分を喪失した。 駆逐艦ターター (HMS Tartar, F43) が到着、航行不能になったフォアサイトを曳航しようとしたが無駄に終わった。フォアサイトは乗員が退艦した後、雷撃により海没処分された。 表 話 編 歴 F級駆逐艦 (2代)フォークナー | フェイム | フィアレス | ファイアドレーク | フォレスター | フォアサイト | フォーチュン | フォックスハウンド | フューリー 前級:E級 次級:G級 イギリス海軍の駆逐艦 イギリス海軍艦艇一覧 カナダ海軍艦艇一覧 ドミニカ共和国海軍艦艇一覧
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「ギアリング (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ギアリングは1944年8月10日にニュージャージー州カーニーのフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で起工する。1945年2月18日にトーマス・M・フォーリー夫人(ギアリング中佐の娘)によって進水し、1945年5月3日に艦長T・H・コープマン中佐の指揮下就役する。 キューバ沖での整調後、ギアリングは1945年7月22日にノーフォークに到着、他の駆逐艦に乗艦予定の乗員の訓練を行い、10月5日にメイン州カスコ湾に入港した。10月26日から19日までコネチカット州ニューロンドンで海軍記念日を祝う催しが開かれ、総計5,000名の市民がギアリングに乗艦した。その後11月4日にフロリダ州ペンサコラに入港、空母レンジャー (USS Ranger, CV-4) の護衛に従事した。 1946年3月21日にノーフォークに帰還し、ギアリングは平時の作戦活動を北米および南米の大西洋岸、カリブ海で行い、モンテビデオ、ウルグアイ、ブラジルのリオデジャネイロを訪問した。1947年11月10日に最初の地中海巡航に出航し、アルジェリア、マルタ、イタリア、フランスを訪問し、1948年3月11日にノーフォークに帰還した。その後1949年1月4日から5月23日まで再びヨーロッパ海域に展開した。 1949年の秋、ギアリングはフロストバイト作戦、北極圏への巡航および寒冷地での技術および装備開発に参加した。その後も東海岸沖およびカリブ海で1950年末まで作戦活動を続ける。1951年1月10日から5月17日まで地中海配備に就き、その年の残りは北はハリファックスから南はキューバまでの海域で訓練巡航を行った。 1960年代まで続く平時活動のパターンが確立され、年に一度の地中海巡航、大西洋およびカリブ海での演習が繰り返された。活動の継続で有事即応性が保たれることとなった。1961年後半から62年始めまでボストンで近代化およびオーバーホールが行われた。 1962年10月のキューバ危機に際し、ギアリングはキューバの封鎖に参加した。11月1日にノーフォークに帰還、その年の残りは大西洋での作戦活動に費やされた。 1963年初めにスプリングボード-63作戦に参加し、3月に地中海に展開、夏を第6艦隊との任務で過ごす。9月にニューポートに帰還すると、「FRAM I」オーバーホールが行われた。1964年の春から夏にかけてカリブ海および北大西洋で活動した後、10月4日に地中海入りし、再び第6艦隊に加わる。1965年始めに母港に帰還し、1967年まで大西洋艦隊との作戦活動に従事した。 ギアリングは1973年に退役し、1973年7月1日に除籍、1974年11月6日にスクラップとして売却された。
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「ジョン・S・マケイン (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
当初は DD-928 (駆逐艦)として指定されたジョン・S・マケインは1949年10月24日にメイン州バスのバス鉄工所で起工した。1951年に DL-3 (嚮導駆逐艦)に艦種変更され、1952年7月12日にジョン・S・マケイン・ジュニア夫人(マケイン提督の義理の娘)によって命名、進水し、1953年10月12日にボストン海軍工廠で艦長E・R・キング中佐の指揮下就役した。 ジョン・S・マケインの就役初年度は大西洋およびカリブ海での海上公試、整調訓練に費やされた。ジョン・S・マケインは最新の兵装を装備し、船体の設計および構築には最新技術が導入された。1955年6月19日にノーフォークに到着、戦術開発部隊と共に新型装備の試験および戦術開発に従事した。1956年11月5日までノーフォーク沖で活動し、その後ハンプトン・ローズを出航、パナマ運河およびサンディエゴに向かった。1956年12月4日に到着すると、カリフォルニア海域で5ヶ月間の艦隊演習に従事した。 ジョン・S・マケインは1957年4月11日に最初の極東巡航に出航し、オーストラリアを訪問した後中華人民共和国と中華民国の軍事衝突を防ぐため台湾巡航に参加した。任務完了後1957年9月29日にサンディエゴに帰還した。 1958年前半に母港が真珠湾へ変更され、続く8ヶ月間を艦隊演習および対潜水艦戦訓練に費やす。9月初めにジョン・S・マケインは台湾周辺から南シナ海で第7艦隊と共に、中国人民解放軍の金門島および馬祖島への侵攻に対する防御を支援した。その後も同海域に留まり、1959年3月1日に真珠湾に帰還した。 ジョン・S・マケインは1959年秋に3度目の極東展開を行う。9月8日に出航し、緊張高まるラオスの沿岸に向かった。10月はインドのコルカタ沖で活動し、洪水の被災者に対して医薬品や食糧の援助を行った。1960年1月、南シナ海で嵐の中日本の貨物船 Shinwa Maru の乗組員41名を救助した。2月25日に真珠湾に帰還し、オーバーホールと乗員の訓練期間を過ごした。 1961年3月7日、再び第7艦隊配備のため出航する。6ヶ月をラオス、ベトナム沖で過ごし、9月25日に真珠湾に帰還すると、ソ連による大気圏内核実験の再開に伴い、ハワイ海域での活動を再開した。数カ月後にアメリカ合衆国も太平洋における自身の実験を開始し、ジョン・S・マケインも実験に参加するため1962年4月27日にジョンストン島に向けて出航した。続く6ヶ月にわたってジョン・S・マケインはハワイとジョンストン島間で作戦活動に従事し、1962年11月28日に極東に向けて出航した。南シナ海およびトンキン湾での哨戒を行い、ベトコンと対峙する南ベトナム政府を支援した。更に台湾海峡での哨戒を行い、1963年6月16日に真珠湾に帰還した。対潜水艦戦演習の後、1964年3月23日に再び日本およびフィリピン海域での対潜哨戒グループ任務に赴く。この巡航の間に、ジョン・S・マケインはSEATO諸国海軍および第7艦隊と共に演習を行った。8月11日に真珠湾に帰還し、その後1965年の春までハワイ海域で活動する。1965年4月15日に DDG-36 (ミサイル駆逐艦)に艦種変更され、西海岸へ帰還した。8月に再び真珠湾に戻り、6ヶ月の西太平洋配備に就く。秋にジョン・S・マケインは南ベトナム沖に移動し、11月24日にベトコンの拠点に対して砲撃を行った。2日後に香港へ移動し、その年の年末は日本で過ごした。 1966年初めに東洋においてさらなる作戦活動に従事し、その後ジョン・S・マケインは東海岸へ帰還した。 ジョン・S・マケインはフィラデルフィア海軍工廠でミサイル駆逐艦への改修が行われ、1967年3月15日に DDG-36 (ミサイル駆逐艦)に艦種変更された。その後1978年4月29日に退役、同日除籍され、1980年1月にスクラップとして売却された。
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「ミッチャー (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
当初は DD-927 (駆逐艦)として指定されたミッチャーは1949年10月3日にメイン州バスのバス鉄工所で起工した。1951年2月2日に DL-2 (嚮導駆逐艦)に艦種変更され、1952年1月26日にミッチャー夫人(ミッチャー提督の未亡人)によって命名、進水し、1953年5月15日に艦長テレル・H・W・コナー中佐の指揮下就役した。 キューバ沖での初期整調訓練の後、グアンタナモ湾での整調巡航を1954年8月31日に完了して、ミッチャーはさらなる改修のためボストンに帰還した。その後ロードアイランド州ニューポートを母港に指定され、1956年1月3日まで東海岸沿いに訓練に従事し、イギリス、ドイツ、フランスへの親善訪問に向かう。母港には2月10日に帰還した。その5年にわたって東海岸沿いの作戦活動に従事し、NATOの演習で毎年北部もしくは東部大西洋へ展開した。 1961年2月9日、ミッチャーは新たな母港のサウスカロライナ州チャールストンを出港し、最初の半年間の地中海配備に向かった。同様の配備は続く4年にわたって行われ、第6艦隊との演習およびNATOの演習に参加した。地中海配備中の1964年8月、アメリカ人脱出支援のためキプロス島沖で活動し、その後スエズ運河を通過、紅海およびペルシャ湾で哨戒を行った。 1966年3月2日、ミッチャーはフィラデルフィア海軍工廠に向けてニューポートを出航した。同工廠でミサイル駆逐艦への改修が1966年3月18日から1968年6月29日までかけて行われ、DDG-35 (ミサイル駆逐艦)へ艦種変更された。ミッチャーは1978年6月1日に退役し、同日除籍された。その後1980年7月にスクラップとして売却された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/15 15:51 UTC 版)
「ウィルキンソン (駆逐艦)」の記事における「艦歴」の解説
ウィルキンソンはマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール、フォアリバー造船所で1950年2月1日に起工する。1951年2月9日に DL-5 (嚮導駆逐艦)に艦種変更され、1952年4月23日にキャサリン・ムーア(ウィルキンソン中将の元夫人)によって進水、1954年8月3日に就役した。 グアンタナモ湾での整調訓練および整調後信頼性試験の後、ウィルキンソンは母港のロードアイランド州ニューポートを1955年2月21日に出航した。艦には大西洋艦隊駆逐艦隊司令艦であるアーレイ・バーク少将とそのスタッフが座乗し、視察巡航でプエルトリコのサンフアン、ヴァージン諸島のセント・トーマス島、キューバのグアンタナモ湾、ハバナ、フロリダ州キーウェストを訪問した。任務から帰還するとウィルキンソンは大西洋艦隊対潜水艦部隊第2駆逐小艦隊の旗艦となる。その後3ヶ月間を対潜水艦戦演習に従事した。 7月11日、ウィルキンソンは70名の士官候補生を乗せ訓練巡航のため東海岸を出航した。この巡航でスコットランドのエジンバラ、デンマークのコペンハーゲン、グアンタナモ湾を訪問し、9月2日に帰国した。 1955年10月24日、第6駆逐小艦隊司令を乗せウィルキンソンは母港を出航、メキシコ湾での防空演習に向かった。この巡航でニューオーリンズとハバナを訪問し、11月18日にニューポートに帰還した。12月2日にボストン海軍造船所に入渠し、5ヶ月間のオーバーホールが行われる。新型の70口径3インチ対空砲が装備され、海上公試を終えるとグアンタナモ湾で訓練を行う。その後ハイチのポルトープランス、サウスカロライナ州チャールストン、バージニア州ノーフォークを訪問し、6月に大規模対潜水艦戦演習に参加した。1956年会計年度の功績でウィルキンソンは戦闘効率賞を受賞した。 1956年7月、ウィルキンソンはニューポートを出航し太平洋艦隊との任務のため新たな母港のカリフォルニア州サンディエゴに向かった。途中ハバナ、パナマ運河地帯のバルボア、コロンビアのブエナ・ヴェンチュラを訪問し、その後第17