ソ連の対日参戦とは? わかりやすく解説

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ソ連対日参戦

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 08:30 UTC 版)

ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)は、太平洋戦争の末期から終戦後にかけて日本本土や満洲国朝鮮半島樺太千島列島などで、日ソ中立条約を一方的に破棄して大日本帝国宣戦布告をし侵攻してきたソビエト連邦赤軍とそれぞれの地域を守備する日本軍の守備隊との間で勃発した一連の戦闘である。


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ソ連の対日参戦

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中国残留日本人」の記事における「ソ連の対日参戦」の解説

ソ連対日参戦」、「引揚者」、および「引揚援護庁」も参照 第二次世界大戦末期1945年8月8日に、ソ連日本結んでいた中立条約一方的に破棄して宣戦布告し8月9日未明満州国へ侵攻した関東軍民間人からトラックや車を徴用して列車確保した軍人家族らはその夜のうちに列車満州東部避難できたが、翌日以降侵攻事実知った多く一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩避難するしかなかった。国境付近在留邦人のうち、成人男性関東軍命令により「国境警備軍」を結成してソ連軍対峙したことから、避難民老人婦人子供多数となったソ連侵攻関東軍撤退により、満州における日本支配権とそれに基づく社会秩序崩壊した内陸部への入植者らの帰国は困難を極め避難混乱の中で家族離れ離れになったり、命を落とした者も少なくなかった遼東半島ソ連軍到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多く人々は、日本人収容所数年収容され帰国足止めされた。1946年春まで帰国許可されず、収容所での越冬中に寒波栄養失調病気命を落とす者が続出し家族離散死別悲劇生まれた。この避難最中身寄りなくなった日本人は、幼児縁故または人身売買により中国人養子として「残留孤児」に、女性中国人の妻として「残留婦人」になり命脈つないだ一方で樺太では、樺太庁長官大津敏男尽力により残留孤児問題発生しなかった。 満州からの集団引揚げ1946年春から一時期中断含めて実施され葫蘆島などの港から100万人以上の日本人帰国したが、国共内戦再開するにつれ、中華民国軍中国共産党軍徴兵されたり労働者として徴用された。日本人対す過酷な支配によって通化事件などの虐殺発生した日本国政府は、のちに中国大陸成立した中華人民共和国国交結ばず1953年に「未帰還者留守家族等援護法」を制定し1958年集団引揚げ終了し1959年に「未帰還者に関する特別措置法」を制定し残留孤児らの戸籍を「戦時死亡宣告」で抹消した日中国交正常化機に帰国していた肉親らは中華人民共和国残留させた子供兄弟消息求めて長岳寺住職山本慈昭周恩来書簡送り中華人民共和国でも残留孤児探し開始されたが文化大革命周恩来死去日中両国政府緩慢さなどから、1981年3月初めて「残留孤児訪日調査団47人が、以降1999年11月まで30回で2116人が、肉親との血縁関係確認訪日した

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ソ連の対日参戦

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北方領土問題」の記事における「ソ連の対日参戦」の解説

1945年8月ソ連による対日宣戦布告8月8日モスクワ時間午後5時(日本時間午後11時)、ソ連外相モロトフは、クレムリンに駐ソ連日本大使の佐藤尚武招致し、「翌8月9日から日本戦争状態になる」ことを通告し宣戦布告したソ連対日宣戦布告受けた佐藤モスクワから日本国外務省打電したが、ソ連モスクワ中央電信局妨害によって日本国内へは宣戦布告情報伝達されなかった。 1時間後のモスクワ時間午後6時日本時間:翌9日午前0時)、ソ連日本との国交断絶し日本侵攻するための進軍開始した日ソ中立条約当時まだ有効期間であった8月9日日本時間午前4時モスクワ時間:前8日午後10時)、いまだに宣戦布告日本伝達されていなかったが、ソ連米国などのマスメディアソ連宣戦布告報道していた。日本はその報道によってようやくソ連の参戦把握し日本の外務省各国在外日本公館参戦告げ電報送った。すでにソ連軍侵攻開始から4時間が経過していた。同日午前11時に日本長崎市原子爆弾投下されるなど過酷な状況でもあった。 8月10日日本時間午前1115分、ソ連駐日大使ヤコフ・マリク日本外相東郷茂徳訪問し、公式な宣戦布告文書通知した。すでにソ連軍侵攻開始から35時間経過していた。なお、日本からソ連への宣戦布告最後まで行われなかった。このことから、日本側は「日本軍によるソ連軍への戦闘行為は、現場日本兵たちがソ連軍からの攻撃直面したことによる防衛行動であった」としている。 8月10日午後10時ソ連赤軍第2極東戦線第16軍向けて8月11日樺太国境を越境し、北太平洋艦隊連携して8月25日までに南樺太占領せよ」との命令行ったが、ソ連側各兵科部隊準備不足から任務に至らなかった。

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ソ連の対日参戦

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北方領土問題」の記事における「ソ連の対日参戦」の解説

詳細は「ソ連対日参戦」を参照 8月8日 ソ連対日宣戦布告8月10日 ポツダム宣言受諾連合国通告8月11日 ソ連中立条約侵犯し[出典無効]南樺太侵攻8月14日 ポツダム宣言受諾決定。在スイス加瀬公使、在スウェーデン岡本公使通じ米・英・ソ・中にポツダム宣言無条件受諾通告する8月15日 日本国民向けて玉音放送8月18日8月31日 ソ連カムチャツカ半島方面から千島列島侵入する占守島の戦い)。以後得撫島以北北千島占領8月25日 南樺太占領8月28日9月 1日 択捉国後色丹島占領9月 2日 日本連合国への降伏文書調印一般命令第一号発令本命令により、南樺太千島列島日本軍赤軍極東戦線最高司令官降伏することが義務付けられた)。 9月 3日9月 5日 赤軍歯舞群島占領南樺太千島列島ソ連軍占領連合軍一般命令第一号(陸、海軍)」に従って行われたトルーマンの「一般命令第一号原案では、千島列島日本軍ソ連降伏する記載されてなかったため、スターリンヤルタ協定に基づき赤軍対し降伏させるようトルーマン要求トルーマンスターリン要求受け入れた。しかし、同時にスターリン要求した北海道東北部占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した他方米国側はソ連対し千島列島中部一島米軍基地設置させるよう要求したが、スターリン拒否された。 翌1946年1月連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、琉球千島歯舞群島色丹島南樺太などの地域における行政権行使を、正式に中止させられた。その直後ソ連占領地自国厳密にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の領土編入している。サンフランシスコ平和条約調印していないソ連占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。

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