アイタペの戦い
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アイタペの戦い(アイタペのたたかい)は、第二次世界大戦中のニューギニア戦線における日本軍対オーストラリア軍とアメリカとの間の戦闘である。パプアニューギニア北岸のアイタペ東方において、1944年7月10日から同年8月上旬まで行われた。オーストラリアとアメリカの連合国軍側が勝利した。
- ^ 陸軍は、第20師団の補充員450人から編成のアイタペ警備隊(2個中隊)ほか、第54兵站地区隊アイタペ支部や第3揚陸隊主力など兵站部隊、航空部隊の地上要員。海軍は第27特別根拠地隊の一部。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1975年)、94-98頁。
- ^ 伊藤(1973年)、250頁。ただしガダルカナル島の戦いの戦訓を生かせば、さらに若干の期間は生存可能と思われていたという。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1975年)、126-129頁。
- ^ ロナルド・ルウィン(著)、白須英子(訳) 『日本の暗号を解読せよ―日米暗号戦史』 草思社、1988年、234頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1975年)、134頁。
- ^ 伊藤(1973年)、253頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1975年)、111-112頁。
- ^ 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(5)』224頁。
- ^ 佐藤清彦 『土壇場における人間の研究』36頁
- ^ (尾川正二『野哭―ニューギニア戦記』)
- ^ a b Campaign history
- ^ 田中利幸『知られざる戦争犯罪』 大月書店、1993年、243-244頁
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1975年)、421頁。
- 1 アイタペの戦いとは
- 2 アイタペの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘経過
- 5 結果
- 6 参考文献
アイタペの戦い
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「ニューギニアの戦い」の記事における「アイタペの戦い」の解説
詳細は「アイタペの戦い」を参照 1944年6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、このとき5万4,000名にまで減少していた。残存部隊も、それまでの戦闘と補給途絶による飢餓と病気で、消耗した状態だった。6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じ、積極行動の停止を促した。 しかし、安達軍司令官は最後の決戦としてアイタペ奪還を命じた。ウェワクを放置して先(西のホーランジアとアイタペ)に進んだ連合軍をそのままにできず、また、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、5万4,000名を養うことは不可能だと判断されたからである。 日本軍は第20師団、第41師団、歩兵第66連隊の計2万人で、200キロ西方のアイタペに向けて出撃した。これに対し、連合軍もアイタペ東方30キロのドリニュモール川(日本軍呼称:坂東川)に防衛線を敷き、アメリカ軍第112騎兵連隊戦闘団、第32歩兵師団、第124連隊戦闘団、第43歩兵師団を順に急派した。投入兵力は双方2個師団半であったが、日本軍の1個師団は実数1個連隊に過ぎなかった。 7月10日夜から日本軍は渡河攻撃を開始し、一時はアメリカ軍を包囲する態勢に入った。しかし、アメリカ軍の増援部隊が到着すると押し戻された。日本軍の後続部隊は、空襲や艦砲射撃に移動を妨害された。 8月4日には日本軍の食糧・弾薬は尽き、各歩兵連隊の兵力は100名以下にまで損耗した。安達軍司令官は攻撃停止を指令し、日本軍は撤退を開始した。日本軍の損害は戦死者だけで1万3,000名に達し、アメリカ軍の死傷者は約3,000名であった。
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