飛び石作戦と第18軍の遊兵化
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「アイタペの戦い」の記事における「飛び石作戦と第18軍の遊兵化」の解説
日本陸軍の第18軍(司令官:安達二十三中将)は、ニューギニア東部のウェワク地区に、指揮下の3個師団全てを初めて集結し、連合軍の進攻を迎撃する態勢を整えつつあった。ところがフィリピンを目指して西進する連合軍は1944年4月、飛び石作戦でウェワクを放置して、ウェワクの西約350Kmのホーランジアに進攻した(ホーランジアの戦い)。同時にホーランジアとウェワクの間のアイタペ(ウェワクの西約200Km)にも連合軍は上陸し、陸軍2000人と海軍200人の日本軍守備隊を壊滅させた。第18軍は、連合軍の後方に取り残され、戦略的な存在価値を失うこととなった。 そこで安達中将は、アイタペを攻撃して連合軍のさらに西への進撃を妨害することを目的とした作戦を計画し、計画は猛作戦(もうさくせん)と命名された。安達の直属上司である第2方面軍司令官の阿南惟幾大将はこの計画を支持した。これに対して大本営や南方軍は第18軍が現地持久によって戦力を温存することを期待しており、6月20日には、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア方面の要域に於いて持久を策し、以って全般の作戦遂行を容易ならしむべし」と命じて、積極行動の停止を促した。ところが、補給の途絶えたウェワク地区では日本軍54000人(インド人部隊などを含む)と現地人15000人という人口を養うことは不可能と判断され、備蓄食料は定量の1/4支給でも2カ月分しかなかった。こうした状況から第18軍は、激しさを増す連合軍の反攻作戦を牽制し、全般的戦局に影響を与えるためにも、絶望的な状況にもかかわらず食料の枯渇する前に敢えてアイタペ攻撃を実行することを決定した。 第18軍は編制上は3個師団を有したが、実戦力ははるかに低く、作戦成功は当初から困難と予想されていた。第51師団はビスマルク海海戦とラエの戦いで、第20師団はフィンシュハーフェンの戦いで損耗し、日常的な空襲と艦砲射撃による消耗もあって、一定の戦闘能力を保持しているのは第41師団の一部のみであった。兵士はみな骨と皮の栄養失調者で、軍服は擦り切れ、軍靴は破れ、加えてほぼ全員がマラリアや赤痢の既往症者であった。
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