第2方面軍司令官
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1942年7月、第2方面軍司令官としてチチハルに赴任、同じ満州の第1方面軍司令官は阿南と陸軍士官学校の同期で、マレー作戦で名声を博していた「マレーの虎」こと山下が同日に着任し、勇将2名が軍司令官となった満州では「東の山下、北の阿南」と言われ、関東軍の士気は大いに高まったという。 1943年5月陸軍大将に昇進、第2方面軍は南方の戦局不振に伴い、1943年10月30日、豪北方面(オーストラリアの北方に位置するオランダ領東インド東部)に転用された。司令部はミンダナオ島のダバオに置かれ第19軍と新設の第2軍を指揮することになり、豪北からニューギニア西部の広い戦域を担当することとなった。やがてラバウルの第8方面軍の指揮下で悪戦苦闘してきた第18軍と第4航空軍も指揮下に入ったが、敗走続きで多くの戦力を失い疲弊しきった軍は、ダグラス・マッカーサー大将率いる西太平洋連合軍の飛び石作戦に対抗できなくなっていた。阿南は要衝のウェワクを防衛するため第18軍主力に移動を命じたが、悪路で輸送手段もない第18軍が苦労して移動している途中に、マッカーサー率いる連合軍はウェワクを飛び越して、良好な港湾があり日本軍の補給基地となっていたホーランジアと日本軍の飛行場があるアイタペに上陸して占領してしまった。 阿南はホーランジアの奪還を主張し、サルミにあった第36師団主力を奪還作戦に投入しようとしたが、大本営や南方軍に制止された。阿南は度々ニューギニア戦線で全力を集中した反撃作戦を提案したが、そのたびに大本営から「消耗戦にひきずりこまれる」と制止され続けて「戦闘に勝てなくて、戦略に勝てるはずがない。いわんや戦争をや」と歯がしみすることとなった。第2方面軍は1944年4月15日に大本営直轄から南方軍の指揮下に入り、阿南の作戦指揮はさらに制約を受けることとなった。 やがて連合軍はきたるマリアナ諸島攻略支援のためニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要と見られていた。阿南も、常々「ビアク島は空母10隻に値する」と主張しており、自らビアク島の地形を確認して、地の利を活かした陣地構築の指示を行っている。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。阿南の指示によって、巧みに海岸を見下ろす台地に構築された洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした。第41歩兵師団師団長ホレース・フラー少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで海軍に対して恥をかくと考えたマッカーサーはクルーガーを通じてフラーを急かした。 阿南はビアク島が攻撃を受けたときの増援として、前々から計画していた海上機動第2旅団のビアク島への海上輸送を海軍に要請、海軍もビアク島の価値を認めて、6月2日に左近允尚正少将率いる輸送艦隊と護衛艦隊からなる渾部隊でビアク島に増援を送る渾作戦が開始された。日本艦隊の接近を知ったマッカーサーは、既に空母15隻を基幹とする機動部隊はマリアナに向かっていたため、手元にあった重巡洋艦が主力の艦隊で迎え撃つこととしたが、連合艦隊司令部は、渾部隊がB-24に発見され追尾されていたことで航空攻撃を懸念したこと、また出撃してきた連合軍艦隊をアメリカ海軍の空母機動部隊と誤認したことで、6月3日夜に作戦を中止して渾部隊にソロンへ向かうよう命じた。 作戦の順調な進行を聞いて成功を疑わなかった阿南はまさかの作戦中止の報告を受けると激昂して「渾作戦中止は3日11時頃B24に発見されし為と」「煮湯を呑まされし感あり」とその日の日記に記述している。 その後も阿南の求めで渾作戦は継続されたが、規模を縮小されたあげく輸送に失敗し、最後はマリアナに接近するアメリカ軍機動部隊を発見した連合艦隊があ号作戦の好機と考えて渾作戦を中止した。阿南は海軍から渾作戦中止の連絡を受けると「統帥乱れて麻の如し」と憤慨したが、最終的には「大局的にやむを得ない」と諦めて、独力でビアク島を救援しようと一個大隊を増援に送っている。ビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、クルーガーの命で早期攻略のため、日本軍陣地を正面攻撃していた上陸部隊に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーは、マッカーサーの意を受けたクルーガーから上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長まで解任されることとなった。アメリカ軍がビアク島の飛行場を全て利用できるようになったのは8月に入ってからであり、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかった。しかし、ビアク守備隊敢闘の甲斐なく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった。阿南はビアク守備隊指揮官葛目の戦死の報告を受けると「惜みても余りあり。真実ならん」「謹みて非凡なる奮闘勇戦を感謝し、冥福を祈る」と日記に書いている。 その後マリアナも奪われ、9月15日には、セレベス島マナドに前進していた第2方面軍司令部の目と鼻の先にあるモロタイ島にもマッカーサー率いる連合軍が侵攻しモロタイ島の戦いが始まった。この戦域を護る第32師団の主力はハルマヘラ島にあり、モロタイ島には1個大隊程度の戦力しか置いておらず、たちまち島の主要部は占領され、天然の良港と急遽整備した飛行場によって連合軍レイテ作戦の前線基地となった。阿南はたびたびハルマヘラ島から逆上陸部隊を送り込んで、モロタイ島基地の使用妨害を行ったが、戦況に大きな影響はなく、マッカーサーはレイテ島に上陸し、戦局の中心はフィリピンに移った。阿南らが護る西部ニューギニアや豪北方面は中央から見捨てられて、局地的な戦闘が続いているが、戦局の挽回などは全く望めないような状況となっていった。 阿南は、海上輸送路が断絶して補給が滞るなかで、前線の将兵の栄養状況を少しでも改善しようと、現地の植物や魚介類の加工を研究させたりと努力をしていたが、前線の飢餓や疫病は阿南の努力程度ではどうにもならない状況に陥っており、終戦までに多くの餓死者や病死者を出している。
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