日本軍の補給とは? わかりやすく解説

日本軍の補給

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:46 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「日本軍の補給」の解説

文禄・慶長の役において、日本初動において16万人対す莫大な輸送量対す補給見事になしとげたが、黄海道経て海路から北京攻略する計画制海権得られずに補給線確保ができなかったことから断念している。また、朝鮮半島陸路海路ともに輸送経路整備されておらず、補給活動損耗が伴うような状態であった朝鮮半島における補給線については、寸断されずに継続していたとされるが、近年韓国歴史学会からは「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が行われている(例・日歴史共同研究報告書第1期)・鄭求福発表論文壬辰倭乱歴史的意味』「李舜臣による海戦勝利によって海路通じた軍糧輸送遮断された。」) 日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐経て対馬厳原到り対馬北端位置する大浦などから釜山着岸し荷を下ろしその後陸上漢城に向かうというものであった。この補給路を朝鮮水軍寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのもの占領奪還するしか方法はなかった。しかし、実際のところ李舜臣釜山海上封鎖行ったことはなく、釜山前洋に現れること自体殆ど無かった閑山島海戦までの李舜臣活動域は加徳島より西方海域であり、釜山近く現れることは殆ど無かった一度だけ釜山現れたのが天正20年8月29日明暦9月1日)の釜山浦海戦であった李舜臣釜山日本本土海上補給路を分断する必要を痛感しており、朝鮮水軍総力をあげて釜山港強硬突入した。しかし、李舜臣釜山占領奪還作戦失敗し、日本軍の補給路を寸断することはな退却した。たった一日数時間出来事であり継続性無くこの後李舜臣釜山の前洋に現れることも二度と無く、日本軍の補給路は堅持され安泰であった。 日本軍の補給の状況を示す資料多数存在する漢城在陣諸将文禄2年3月3日発した連署状には、海路釜山には兵糧運ばれており、4月11日までは漢城兵糧があることが書かれている文禄2年4月日本軍漢城引き払い朝鮮南部に再布陣する。ルイス・フロイスの『日本史』には、朝鮮南部沿海地域兵糧弾薬海路輸送され豊富に備蓄されていたことが書かれている南部への再布陣の後、補給充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢開始し29日朝鮮側最大反抗拠点目され晋州城を攻略した。この晋州城攻略作戦文禄の役始まって以来最大作戦であり、9超える軍勢晋州城とその周辺投入されている。 晋州城の攻略後、ただちに日本軍慶尚道南部沿海部に、現在倭城呼ばれる多数城郭群を構築し長期駐留体制整えたルイス・フロイスの『日本史によれば、これらの城郭には、兵糧弾薬海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達していた。また、この時期上杉景勝伊達政宗佐竹義宣といった増援軍が続々と、海路日本から釜山へと渡海している。 文禄3年5月24日豊臣秀吉発した朱印状には、釜山加徳島東萊竹島金海)等の倭城莫大な量の兵糧備蓄されており、これらが古米化しないように、新し兵糧米との入れ替え指示する内容書かれている沿岸の主要港湾には日本式城郭(倭城)が築かれ要塞化されており、日本軍の補給路は頑強に保持される体制整っていた。日本と明の講和交渉中(1593年2月以降)にも、李舜臣倭城群の攻略為に複数出撃しているが、最初関門である熊川倭城遂に攻略突破することが出来なかったのである慶長の役においても、日本軍の補給路は堅持され安泰であり、制海権撤退まで維持し続けた慶長の役では、漆川梁海戦元均麾下朝鮮水軍壊滅的打撃被った後、李舜臣三道水軍統制使に復帰し朝鮮水軍指揮をとるが、以後一度釜山近郊現れていない鳴梁海戦の後も李舜臣根拠地としていた場所は全羅道西方古今島であったが、そこから東の順天から釜山のおよそ140kmに及ぶ沿岸日本軍制圧下にあり、海岸には多く倭城築かれていた。朝鮮水軍釜山到達することは困難であった李舜臣率い朝鮮水軍は、日本軍占領し倭城築いた地域よりも東へ進出することが出来ず一度釜山の前洋に現れなかった。釜山の日本軍の補給路は寸断されることなく安泰であったのである。 しかし、朝鮮水軍一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。慶長の役初頭文禄の役後の講和交渉進捗日本軍巨済島から撤収していた。この影響で、元均率い朝鮮水軍巨済島停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果挙げる間もなく元均麾下朝鮮水軍漆川梁海戦日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃被り補給線妨害作戦はここに終決した。 慶長3年3月13日豊臣秀吉朝鮮在番諸将発した書状には、「兵糧日本の都へ届けるよりも、その方朝鮮)に届けるほうが容易である」と書かれている秀吉死後五大老命令により、日本軍撤退開始する1598年11月下旬から、諸大名順次釜山から博多帰着した最後まで海上補給路が維持されていたからこそ可能な撤退作戦であった7年亘る戦争の間大軍海上輸送揚陸海岸拠点海上補給路の構築長期間維持という渡海作戦成功収めていたのである

※この「日本軍の補給」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
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