文禄・慶長の役
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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]。
- 1 文禄・慶長の役とは
- 2 文禄・慶長の役の概要
壬辰倭乱
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1592年(宣祖25年)に文禄・慶長の役が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した祖承訓が小西行長の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。 翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である李如松の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、李恒福の後任として右議政となり四道都体察使を兼ねる。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に、食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した全羅道兵馬節度使の李福男を讒言により革職して笞刑に処し、後任に朴晋を任じた(その後、李福男は南原の戦いで戦死)。 1598年(宣祖31年)、稷山の戦いで日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理楊鎬の功績を本国へ知らせる陳奏辨誣使を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の丁応泰が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の李山海らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。1600年に左議政と都体察使に任じられ、1604年(宣祖37年)に扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。一方門下生である許穆に孫娘を与えた。また壬辰倭乱の頃から、李舜臣を評価し、李舜臣が柳成龍を批判する際にも、唯一支持した。
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