宮城豊盛
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宮城 豊盛(みやぎ とよもり)は、安土桃山時代の武将、大名。江戸時代初期の旗本。豊臣家の譜代家臣。徳川秀忠の御伽衆。初名は定勝(さだかつ)で[7]、慶長元年(1596年)に豊臣姓を与えられた時も、定勝を名乗っていた[7]。
- ^ a b c d 堀田 1923, p. 324.
- ^ 子孫の宮城和中の系図に長次に名を改めたとある[1]。
- ^ a b 桑田 1971, p. 103.
- ^ 堀田 1923, p. 317.
- ^ 姓は「宮木」とするものもあり[3]、古文書にも宮木長次郎との署名が多いが、『寛政重修諸家譜』では家祖が陸奥国宮城の住人であったことが姓の由来としている[4]ので、略字か。
- ^ 山崎片家の子。豊盛の婿養子。
- ^ a b c d e f g h i j k 高柳 & 松平 1981, p. 244.
- ^ 堀田 1923, p. 318.
- ^ 大日本史料11編14冊74頁。
- ^ 大日本史料11編26冊補遺500頁および11編16冊307頁。
- ^ 大日本史料11編27冊補遺500頁、11編26冊補遺544頁、11編17冊421頁。
- ^ 史料綜覧11編912冊133頁。
- ^ 『寛政重修諸家譜』に慶長4年4月16日とあるのは誤り[7]。
- ^ a b 史料綜覧11編913冊171頁
- ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、746-747頁 。
- ^ 『寛政重修諸家譜』の徳永寿昌の項に、朝鮮行きは五奉行等の命令であり、秀吉の遺命であると言い含められが、寿昌はそのような大命が全うできるか困惑し、家康に上奏してその指示を仰ぎ、家康の指示で現地に詳しい宮城豊盛を連れて行ったとしている[15]。
- ^ 史料綜覧11編913冊236頁。
- ^ 堀田 1923, pp. 324–325.
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