大坂冬の陣とは? わかりやすく解説

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おおさか‐ふゆのじん〔おほさかふゆのヂン〕【大坂冬の陣】

読み方:おおさかふゆのじん

慶長19年(1614)冬、京都方広寺鐘銘事件口実徳川家康豊臣氏大坂城攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議結んだ。→大坂夏の陣


大坂冬の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:25 UTC 版)

豊臣秀頼」の記事における「大坂冬の陣」の解説

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}家康も、将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされているが[要出典]、最終的には、慶長19年1614年)に起こった方広寺鐘銘事件口実に秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。 秀頼は福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧大名援軍要請をしたが、大名大坂方に味方した者はなく、その理由として、すでに西国大名徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文出していたことが原因ではないかとする指摘がある。福島正則大坂蔵屋敷にあった米の接収黙認した程度とどまった一方大坂城には真田信繁後藤基次長宗我部盛親毛利勝永明石全登など、関ヶ原の戦い改易された元大名主家西軍与して改易されて浪人していた数万武士入城した浪人衆は士気旺盛ではあったものの寄せ集め統制取りにくく、しかも浪人衆と大野治長淀殿らが対立し最後まで相違解けなかった。例え真田信繁などが京都進撃唱えても、大野治長などが頑強に反対し、大坂城籠城決するということもあった。 緒戦では木津川口博労淵などの大坂城周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城撤収野田福島水上戦でも敗れる。ただ今福や鴫野の戦いでも敗れてはいるが、佐竹義宣軍を一時追い詰める抵抗見せたため、大坂方強しと周知される。 大坂城での戦闘では浪人衆の活躍大坂城防御力により、幕府軍苦戦城内攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方損害を受ける。そこで幕府軍城内心理的圧力をかけるべく、昼夜問わず砲撃加えた本丸まで飛来し一発砲弾淀殿居室着弾し侍女身体粉砕し淀殿震え上がらせたという。淀殿和議賛成した理由このためだとの説もある。 やがて、大坂方・幕府軍双方食糧弾薬尽き始め家康和議提案。秀頼は当初和議反対したといわれているが、淀殿主張などによって和議実現した。[要出典]

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大坂冬の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「大坂冬の陣」の解説

詳細は「大坂の陣#大坂冬の陣」を参照 慶長19年1614年11月15日家康二条城発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍木津川口今福鴫野博労淵などの局地戦勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗喫したとはいえ戦局揺るがすほどの敗戦ではなく徳川軍新たな作戦始動した午後8時、午前0時午前4時一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時午前2時、午前6時大砲石火矢大筒和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦成功し落城恐怖怯えた淀殿和睦することを申し出て家康もそれを了承した強固な城郭武力で落とすことに固執せず、淀殿女官心理的に疲弊させる策略用いることで「本丸残して二の丸三の丸破壊し外堀を埋める」という徳川有利な条件での和睦にもち込んだ和睦締結後徳川方和睦条件反して内堀までも埋め立てたため、結果慶長20年1615年1月中旬までに大坂城本丸だけを残す無防備な裸城となった従来の説では、豊臣方二の丸三の丸破壊形式的なもので済ませ時間稼ぎ狙っていたが、徳川方惣構全ての廓と曲解することで強引に工事参加して豊臣側が行うとされた二の丸破却作業勝手に始め、さらに和議条件反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺しとされる

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大坂冬の陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:16 UTC 版)

真田信繁」の記事における「大坂冬の陣」の解説

慶長19年1614年)の大坂冬の陣では、信繁当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内支配下抑え近江国瀬田現在の滋賀県大津市瀬田川瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康指揮執る軍勢迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成表明する結局受け入れられずに終わる。 大坂城への籠城策が決定すると、信繁大坂城最弱とされる三の丸南側玉造口外真田丸呼ばれる土作り出城築いたが、千田嘉博によると大坂城実際最弱部は、上町台地中央部真田丸の西のあたりであるとされる信繁は、地形高低差少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城真の弱点見逃しやすくしたのである。さらに真田丸背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸築いたのである指摘している。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した。 この戦闘信繁は、寄せ手撃退し初めてその武名天下知らしめることとなる。なお、この真田丸造る際、大野治長始めとする豊臣方他の武将は、これを信繁徳川方寝返るための下準備疑っていた。 詳細は「真田丸の戦い」を参照 冬の陣講和後、この真田丸両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方弱体化謀る家康慶長20年1615年2月に、使者として信繁叔父である真田信尹派遣し、「信州十万石下さるべく候旨」条件提示し承知をするならば、本多正純から誓詞与えると寝返るように説得している 。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け今度は「信濃一国与える」と説得出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」と立腹して対面をしなかったという。

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