大坂周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 05:14 UTC 版)
蔵屋敷が集中する大坂では、文久2年(1862年)頃から米価の高騰が続き、元治元年(1864年)に将軍徳川家茂が大坂城に入って以後、主だった幕閣や諸侯、旗本及びその家臣たちが大坂に集中して急激に人口が増加した。更に禁門の変によって長州藩追討が決定されると、関門海峡を支配する同藩の海上封鎖によって東北・北陸から同海峡・瀬戸内海を経由して大坂に向かう航路の封鎖が確実となり、第2次長州征伐実施のために事実上の幕府軍の拠点となっていた大坂において兵糧米確保が行われた慶応2年には10年前の米価の10倍の水準にまで跳ね上がった。そのため、大坂及びその周辺の住民はその日の米も確保できない状態に陥った。 慶応2年5月1日(旧暦)(1865年)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた一揆は、たちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方ハ一揆おからさる所なし」(『幕末珎事集』)と評された。
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