禁門の変とは? わかりやすく解説

きんもん‐の‐へん【禁門の変】

読み方:きんもんのへん

蛤御門(はまぐりごもん)の変


禁門の変

読み方:キンモンノヘン(kinmonnohen)

幕末京都長州藩会津藩薩摩藩との間で起きた戦闘

別名 蛤御門の変


禁門の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:54 UTC 版)

禁門の変[注釈 1](きんもんのへん)は、元治元年7月19日1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 新選組研究家の中村武生により「元治甲子戦争」という名称が提唱されているが、すでに水戸において同年発生の天狗党の乱を「元治甲子の乱」とも呼んでいる。
  2. ^ 藩主父子の官位復旧が認められ、上京が再び許されるのは、王政復古政変前日の慶應3年12月8日(1868年1月2日)である。

出典

  1. ^ 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年4月1日、219-220頁


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禁門の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:21 UTC 版)

来島又兵衛」の記事における「禁門の変」の解説

元治元年1864年)、前回政変失った長州藩失地回復のために激烈に出兵主張し、禁門の変の前に家老福原元僴と共に上洛薩摩藩国父島津久光暗殺計画した失敗。一旦長州戻り藩主毛利敬親改め出兵促した6月福原益田親施国司親相久坂玄瑞らと再度上洛7月19日に変が起こると、又兵衛風折烏帽子先祖伝来の甲冑着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて激戦繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からない悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯命じ、自らで喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した享年48(満47歳)。

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禁門の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:47 UTC 版)

乾正厚」の記事における「禁門の変」の解説

元治元年7月15日(1864年8月16日)、長州兵の入京阻止せんと薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士乾正厚久留米藩士・大塚敬介の3名正親町実徳邸を訪ね従来朝命維持し長州嘆願許可せぬよう」家中を通じて伝える。同日議奏正親町三条実愛邸にも同上3人訪れ長州処置追討外無き」ことを伝えた。 更に翌7月16日(1864年8月17日)、同上3人は尹宮朝彦親王邸を訪れ薩摩藩士・大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸輔久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎らが会し重ねて長州藩士入京阻止せん事を議す。翌7月17日(1864年8月18日)、意見書まとめて連署朝廷建白。その決意求めた(禁門の変)。 長門宰相父子之儀、去年八月以来勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々屯集奉要、天朝候姿無紛候處寛大御仁を以て再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言引拂段甚如何にも存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候方今夷難相迫り不容御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付速か斷然御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分黙止奉存に付三藩在京重役一同申談奉歎願候事。 (元治元年)七月十七日 松平修理大夫吉井幸輔(友實) 松平土佐守乾市郎平(正厚) 有馬中務大輔大塚敬介 右 同 田中紋次郎 これらを受け朝廷は、元治元年7月17日(1864年8月18日)夜、大会議を開く事となり、関白二條斉敬右大臣徳大寺公純中務卿宮、尹宮、有栖川帥宮山階宮内大臣近衛忠房らが参内し徹宵会議行い、ついに長州藩追討する旨を決定したこれにより、翌7月18日(太陽暦8月19日)、大納言正親町三條実愛六條有容柳原光愛野宮定功らは長州藩京都留守居役乃美織江六條家呼び出し、「天龍寺以下、伏見屯集浪士今日中に引拂可申様、若又於相距者、追討被仰出候事」と厳令伝えたまた、公卿一同には、「方今形勢可及戰爭計難候得共、被動玉座候儀、無之旨被仰出候事」と発令した乃美織江は、右の旨を山崎天龍寺屯営急報男山布陣していた益田右衛門介本陣では、長州藩諸将軍議開き入江九一久坂玄瑞らは一旦、退却して再起を図る戦略述べるも、進軍主張する来島又兵衛真木保臣らの意見から遂に諸隊同時に三道から進軍し君家の寃を(そそ)ぐ可し」と決した。よって久坂らはここに水盃をして討死覚悟した追討総督一橋慶喜は、先手となる伏見方面へは、大垣藩をして守らせ彦根藩二番手布陣桃山要害会津桑名の両藩に守らせ丸岡藩小倉藩山崎方面鯖江藩、仁正寺、園部藩豊後橋警固につかせた。 元治元年8月30日(1864年9月30日)、朝彦親王へ『関東風聞書』を奉呈幕府側の情勢伝える。 元治元年9月2日(1864年10月2日)、朝彦親王より将軍徳川家茂の上周旋相談される。正厚は「上の者相談する旨を告げて帰った元治元年9月4日(1864年10月4日)、朝彦親王へ「土佐藩としては将軍徳川家茂の上周旋難しい。この件朝彦親王より会津藩ご相談されますように」と返答朝彦親王は、会津藩士・手代木直右衛門呼びこの旨相談し承諾を得た慶応元年4月19日(1865年5月13日)、朝彦親王紀貫之真蹟刷物献上。 ゆえあって、同年8月23日(1865年10月12日)から9月7日(1865年10月26日)まで謹慎

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禁門の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「禁門の変」の解説

1864(元治元)年3月25日江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂当時18歳)の将軍後見職をしていた徳川慶喜当時27歳)は、禁裏御守衛総督今の皇宮警察長官)へ就任した慶喜水戸徳川家出身だったが、おくにもとにあたる水戸藩尊攘急進派義勇軍天狗党は、慶喜主君頼って鎮圧を図る幕府軍追手抗戦しながら、越前国敦賀まで約千名浪士らを率い進軍してきていた。慶喜はやはり御所へ向け入京求め進軍してくる長州藩尊攘急進派進発勢)の大軍にまず対処しなければならなかった。 御所将軍藩屏をしていた京都守護職会津藩桑名藩侍らの間では、長州進発兵をただちに武力排除する論が盛んだったが、慶喜ははじめ、「朝廷への嘆願」が目的称し入京する者をみだりに武力行使するのは不可能だ固く制止していた。しかし日を経るに従って形勢切迫してくると、7月18日御所から慶喜へすぐ参内するよう二条城に通達があった。9時ころ慶喜衣冠騎馬3人ほどの従者と共に馳せいでると、途中ですでに軍備をしている兵士に会う事がしばしばあり、暴発起きたのかと危惧しながら朝廷着いた関白鷹司輔煕下の重臣慶喜長州藩からの内密の上申書(密疏)を示すと、文章長く全て読み下す暇はなかったが末尾に「会津藩天誅を加える」との字がみられたので、この一句をみれば足りる、と慶喜はただちに座を立ち、会津藩桑名藩諸藩命令下し御所警備兵隊出した19日午前4時頃、伏見砲声がきこえると攻め長州藩兵と守る大垣藩兵とが開戦すると、慶喜菊亭家入って衣冠小具足改め御所周囲巡検した。下舘立売御門あたりで鉄砲狙撃した者がいたため、慶喜やむをえず御台所口から御所内へ引き入ったところ公卿らが衣冠の上にたすきをかけ東奔西走し甲冑をつけ抜き身や刀などを携えた警備兵らが左右に徘徊しており、禁中騒動はすでにただごとではなかった。慶喜この様に乱れていては仕方がないと一旦兵士らを御所内から追い出し新たに部署定め再配置した。そのとき孝明天皇早くも慶喜銃撃されたと聞く酷く心を痛め慶喜勅諚与えた慶喜ご覧のとおり無事な旨を申し上げ、ふたたび戦線もどった慶喜御所塀の外指揮していると、急いでくるよう御所中からしらせがあり、とりあえもどってみると鷹司家潜伏している長州藩兵が塀越し打ち出す銃丸が「カツカツ」と時たま紫宸殿高御座軒端にあたっており、天皇の身に危険が迫っているのはいうまでもなく明らかだった。このとき長加担派の公卿裏松恭光をはじめとする堂上らが、しきりに長州兵と和睦すべきだと主張し、「万一玉体天皇の体)にご異変があれば、禁裏御守衛総督たる職掌立つまいに」などといった。慶喜時勢移れば長州への入京許可朝廷から直接でるかもしれないものの、いまは一大事で、現実天皇を守るに一刻猶予もないと判断し必死の覚悟を決める心中断然とその意見退け、「玉体のご安全は確かに請け合い申し上げます」と述べると、取り急ぎ公卿の前を去って戦線もどった。ちょうど正午ごろだったが、慶喜戦線へもどるとすぐ会津藩桑名藩兵と大砲方へ命じ鷹司家に火を放たせたため、ここに潜んで紫宸殿正面から砲撃してた長州藩兵は死に絶えたり逃れたりしたりし、天皇すぐそこまで迫った直接の危険をようやく除き得たその後慶喜承明門陣所定め御所警備していたが、20日午後3時ころ幕臣糟屋義明が「支配探索方(密偵)が十津川郷士一味秘密会議聴いたところ、今夜鳳輦ほうれん天皇行幸用の晴れの御輿)を奪って天皇誘拐しようとする企てあります」と慶喜秘密報告をした。同時にどこからか「十津川郷士らはすでに御所中に入りこんでいます」と報告した者がいたので、慶喜は大変驚き筑後守から会津桑名両藩へ内々にしらせ、ひそかに衛兵天皇のいる常御殿の塀外へおくりこんだ慶喜はまた関白鷹司輔煕へも十津川郷士勢の天皇誘拐計画伝えておいた。夜が更け慶喜警備御所入ってみると天皇はまだ常御殿にいたが、その縁側にはすでに麻の裃を着た数十人が入り込み天皇誘拐用の1つ御輿担ぎだし、御輿のそばでひざまづいていた。このため慶喜急いで天皇事態上奏する紫宸殿移動してもらい、また会津桑名藩兵を御庭内繰りこませると、郷士らは誘拐失敗したとみて御輿をかつぎ逃げ去った。あとから慶喜がきくところでは、御所の裏門の鍵がねじ切られており、そこから侵入されたように考えられ、また宮中にも彼らを手引きした者がいたと思われる節があった。慶喜はこのときが人生死を覚悟したときの一つだったという。

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禁門の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 14:30 UTC 版)

海老名季昌」の記事における「禁門の変」の解説

藩主松平容保京都守護職就任に伴い海老名幕末の京へ赴く。禁門の変において功を挙げ使番昇進した。さらに大砲組頭進んでいる

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