蛤御門の戦いとは? わかりやすく解説

蛤御門の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「蛤御門の戦い」の解説

6月5日池田屋事件が起こる。配下新選組京都大火未然防ぎ、容保の暗殺阻止した。(ただし、京都長年住んでいればこの時期強い風吹かない事は知っていて当然のため、あまりにも無謀な計画であり、志士側の資料にもこの計画について一切記述がないため、本当に計画があったのか疑わしい。) 容保は将軍家人材登用勧め先に賠償金問題で職を引いていた小笠原長行など有能な諸有司の名を挙げ力を合わせるようにと書面にしたためた。「いずれも長ずるところこれある人物に候間、国家の急を重んじ銘々の存意張らず一致一和にて合力致し候よう、直に仰せ付けられたく存じ奉り候」 6月27日長州襲来気配ありとの知らせが入る。容保は隊を従え参内守護し奉るようにと詔をたまい、兵を九条河原まで向かわせた。 6月29日孝明天皇より宸翰守衛総督に伝わる。「昨年八月十八日の議、且つその後申し出件々真実に候。偽勅との風説これあり候えども必々心得違いあるまじきこと。守護職の議、肥後守申し付け候、同人忠誠周旋決し私情をもって致し候にてはこれなく、その旨心得べきこと。長州人の入京決し宜しからざること」 7月6日数日の間撤兵勧告した長州兵は従わず、容保は「長州人の主のために哀訴しようというのは臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵で禁裏に迫るのは実に不臣も甚だしきもの。再び諭して、もし応じなければすみやかに掃蕩すべきである」としたが、慶喜は「おだやかに事を運ぶに越したことはない追討のことはやむをえないという時になってからで遅くはない」と意見割れた。これをみて会津兵と新選組面々が「慶喜卿が優柔不断で大事を誤る」と憤り慶喜屋敷直談判しようと乱入する事件が起こる。これには会津首脳新選組組頭らも鎮撫方法がなく、容保に急使馳せて奉じ、容保が外島義直出して諭し、ようやく事なきを得た7月18日長州兵より送戦状が届く。内容には「肥後守はその性剛腹にて庸劣名分等を相弁えず、神州崩裂の勢を醸しはまったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、国賊を誅除仕り候ほかは御座あるまじく、尋常に天誅請け候よう」とある。 7月18日夜、禁門の変(蛤御門の戦い)が起こる。容保は玉座守護し奉ろうと常御殿廊下まで進み孝明天皇拝謁、そこで天皇へこの騒動至った止むをえぬ事情奉り数刻沈めます。どうかご心配なさらぬよう」と述べた天皇はこれを諒承。容保は小御所の庭に席を設けて宿衛天皇守った。もともとこの半年程前から病にて伏せていた容保は、この日も両肩家臣抱えられながらの戦となり、庭上での露営徹宵すること数夜に及び、病は悪化した7月24日、京の地がようやく静まり幕府方宿衛免じたが、会津の兵は尚も禁門守り朝廷から容保と会津兵へ連日宿衛ねぎらい御饌賜わるまた、この戦において起きた六角獄舎悲劇について、容保は後になってこれを聞き大い憂い厳しく町奉行らを戒めた。 容保はこの時「公武一和基礎作ろうとするならば、戦勝余威乗じて将軍家自ら進発して征長のに当り一挙に長防を破り傾きかけた幕府威信張る如くはない」として関東幕閣建議書を送った

※この「蛤御門の戦い」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「蛤御門の戦い」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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