禁闕騒動
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寛文2年(1662年)12月に元服し、寛文3年(1663年)1月、兄の後西天皇から譲位されて践祚した。なお、この時、朝廷は改元を希望したが幕府がこれを拒否したことが林鵞峯の『改元物語』に記されている。 父の後水尾法皇は践祚直前に葉室頼業・園基福・正親町実豊・東園基賢の4名に新天皇の近侍を命じた。彼らは年寄衆もしくは御側衆と称せられた。彼らは元々法皇の近臣で、特に園と東園は外戚(天皇の母方の伯叔父)であった。また、将軍徳川家綱の了承を得て、幼い天皇に代わって摂政鷹司信房が武家伝奏の飛鳥井雅章と正親町実豊と共に官位叙任を取り決めるように命じ、両伝奏の辞任後は摂関家の九条兼晴と近衛基熈が関与した。しかし、朝廷運営の実質的な主導者は、後光明天皇の遺志を後水尾院に伝えた三条西実教であった。実教は武家伝奏でもなく、年寄衆や当官の公卿ですらなかったが、幕府の信任や奥向への影響力を背景に朝廷内で大きな権力を振るった。 寛文8年(1668年)には、天皇が寵愛していた藤大典侍坊城房子と、実教が推薦した女官・田内小路局(西洞院時良の娘)の二人が懐妊した。実教は田内小路局を女御同様の扱いにしようと画策し、後水尾院が一時的に実教ら関係する五卿の出仕を停止する。霊元天皇は実教を排斥しようと小倉実起を通じて中院通茂に密命を下したが、中院は時節を待つように諫言している。結局寛文9年(1669年)2月と3月に生まれた両者の子はいずれも皇女であり、天皇と近習、中院通茂、京都所司代板倉重矩らの間で起請文が取り交わされ収拾が図られた。幕府は禁裏の奥向を統制する必要に迫られ、関白鷹司房輔の妹の鷹司房子を入内させることとした。しかしこの入内は天皇の本意ではなかったと見られ、8月14日には実教を排斥するよう板倉重矩に要求し、聞き入れなければ譲位すると迫った。これを受けて実教は所司代より蟄居を命じられた。 江戸幕府は鷹司房子が生んだ皇子が次の皇位を継承することを望んでいた。そのため、天皇と房子の関係が上手く言っておらず、反対に寛文11年(1671年)8月に中納言典侍(小倉実起の娘)が皇子(一宮)を生んだことに神経を尖らせ、武家伝奏の中院通茂・日野弘資と幕府から派遣されていた禁裏附は一宮と翌年源内侍(愛宕福子)が生んだ二宮は事実上皇位継承から外すとする合意を取り決めた。加えて、中納言典侍は嫉妬深く、しかも女御である鷹司房子とも不仲であることを理由に後水尾院は出産に先立って中納言典侍を宮中から退出させ、更に彼女の後ろ盾であった先代からの古参女官である大典侍(小倉公根の娘、中納言典侍の大叔母)も鷹司房子や他の女官と対立を深めたために9月に所労を理由に退出することになった。しかし、過去に田内小路局と大典侍を推薦した東福門院は彼女たちの退出に憤って所司代からの後任推薦の要請を拒絶し、武家伝奏の中院通茂も新しい典侍が天皇と関係を持つことを恐れて後任の決定自体に消極的であったため、結果的に典侍の数が減少して奥の業務に支障を来し始めた(元々、典侍は4名いたが、先の禁闕騒動で藤大典侍が退出し、今回小倉家の2名が退出したことで高齢の大納言典侍(四辻季継の娘)1名になってしまった)。中納言典侍と大典侍の退出後、天皇との関係が改善された鷹司房子が懐妊したため、幕府では皇子誕生を期待したが、寛文13年(1673年)8月に生まれたのは皇女であった。その後、房子から今後も皇子が誕生しなかった場合には一宮を皇位継承者とすることになった(『基熙公記』延宝9年9月18日条)。その一方で、典侍の不足問題に所司代も後水尾院も女院も対処しないことに不満を抱いた天皇は、延宝2年(1674年)5月に武家伝奏や禁裏附に無断で松木宗条の娘の宗子を典侍に任じた。しかも、翌年9月には彼女が五宮となる皇子(後の東山天皇)を生んだ。
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