後西天皇とは? わかりやすく解説

ごさい‐てんのう〔‐テンワウ〕【後西天皇】

読み方:ごさいてんのう

[1638〜1685]第111天皇在位1655〜1663。後水尾天皇の第7皇子。名は良仁(ながひと)。初め高松宮継いだが、後光明天皇皇嗣がなかったために即位和歌にすぐれ、歌集水日集」、日記後西院御記」がある。


後西天皇

読み方ごさいてんのう

第百十一代天皇後水尾天皇第七皇子。名は良仁、幼名秀宮歌道好み御製集『水日集』(緑洞集)があり、『伊勢物語註』等の御撰もある。また茶湯好み晩年金森宗和召した。書は父後水尾天皇直接指導を受け、中院流優雅な書風受け継ぐ貞享2年(1685)崩御49才。

後西天皇 月輪陵
(ごさいてんのう つきのわのみささぎ))

御陵写真 陵印
代   数 :第111
天 皇 名 :後西天皇
ごさいてんのう
御   父 後水尾天皇
御   母 逢門院藤原
御 陵 名 月輪陵
つきのわみささぎ
陵   形 九重塔
所 在 地 京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺
交通機関等 JR京阪東福寺下車  東へ1.5km又は市バス泉涌寺道下車  東へ1km
陵印保管場所 月輪陵墓監区事務所

後西天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 18:38 UTC 版)

後西天皇(ごさいてんのう、1638年1月1日寛永14年11月16日〉 - 1685年3月26日貞享2年2月22日〉)は、日本の第111代天皇(在位: 1655年1月5日承応3年11月28日〉- 1663年3月5日寛文3年1月26日〉)。良仁(ながひと)。幼名秀宮世襲親王家高松宮有栖川宮)第2代当主。別名は花町宮(はなまちのみや)、花町殿


  1. ^ 久保、1998年、P54.
  2. ^ 野村玄『日本近世国家の確立と天皇』(清文堂出版、2006年)
  3. ^ 菊地浩之 (2019年3月21日). “https://biz-journal.jp/2019/03/post_27062.html”. ビジネスジャーナル. サイゾー. 2019年6月2日閲覧。
  4. ^ 米田雄介 編『歴代天皇・年号事典』(吉川弘文館2003年ISBN 978-4642079228 「後西天皇」P314
  1. ^ 後西天皇は高貴宮が「天子御作法」(天皇として必要な儀式・政務の作法)が出来るようになるまでの中継ぎであるという認識は、後水尾法皇・江戸幕府間の共通認識であった(野村、2006年、P278-282)。また、後西天皇の即位にあたって酒井忠勝ら幕閣の意向を受けて上洛した高家品川高如から後水尾法皇・東福門院に対して、識仁親王が元服したら天皇が譲位するという法皇の方針には同意をするが、後西天皇の行状が良からぬ点があれば東福門院の判断でいつでも譲位を行える(つまり、譲位の判断は後水尾法皇ではなく、徳川将軍家出身の東福門院が行う)ようにとの幕命が伝えられている(久保、1998年、P52-54)。
  2. ^ 間瀬久美子「近世朝廷と寺社の祈祷」『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年、P172-173.(原論文:2018年)は、明暦の大火と翌年正月の江戸大火における朝廷の対応の拙さが原因で幕府から退位を迫られたとする説を採る(明暦の大火ではその被害の大きさにも関わらず災害祈祷が実施されず、翌年の火災を受けて明暦4年3月5日に初めて江戸火災に対する祈祷が行われた)。
  3. ^ 野村玄は『忠利宿禰記』について、その2日前(9月21日条)に武家伝奏勧修寺経広から吉良の派遣は天皇が将軍家綱に内々に譲位の件を申し入れたことに対する返答の使者であることを明言されたことを記載しており、最初に申し入れたのは天皇であると指摘する(野村、2006年、P276-277)。
  4. ^ 辻達也『日本の近世 第2巻〈天皇と将軍〉』「公武融和」(中央公論社、1991年)などがこの説を採る。
  5. ^ 三上参次『尊皇論発達史』(冨山房、1941年)などがこの説を採る。
  6. ^ 滝沢武雄「伊達騒動新考」『史観』第75冊(1967年)所収や久保貴子『近世の朝廷運営 –朝幕関係の展開-』(岩田書院・1998年)P55.などがこの説を採る。
  7. ^ 野村は後西天皇の譲位と災害の関係について、万治4年1月15日の内裏火災以後、仮皇居暮らしにより儀式の多くが縮小・中止されて「天子御作法」が出来ない状況に追い込まれた後西天皇が、寛文3年の新内裏完成を直前に自ら譲位することで、天皇幼少による「天子御作法」の合法的な中断状態を生み出して、新天皇(霊元天皇)が成人するまでの間に新天皇が「天子御作法」が実現できる環境づくりを図ろうとしたと説く(野村、2006年、P282-288)
  8. ^ これ以前にも宇多天皇陽成天皇は院号をおくられている。
  9. ^ その間にも安徳天皇後醍醐天皇などは天皇号を贈られているが、いずれも戦乱に敗れて不幸な末路を辿っているため、通常倣うべき先例ではなかった。
  10. ^ 冷泉天皇冷泉院にちなみ「冷泉院上皇」とされたため院号を適用すると「冷泉院院」となるが院の字の重複は避けられた。天皇号復活後も「冷泉院天皇」と改められず「冷泉天皇」となっている。「後冷泉天皇」も同じである。


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