いちじょう‐てんのう〔イチデウテンワウ〕【一条天皇】
一条天皇
兼家らの陰謀により花山天皇が退位した後、七歳にして践祚。
同時に当時十一歳だった花山天皇の異母弟居貞親王のちの三条天皇が皇太子となり、外祖父で右大臣の藤原兼家が摂政となった。
兼家一門は栄華を極めた。
初め藤原定子を皇后とし、敦康親王が生まれたが、翌年実権を握った藤原道長の娘彰子を中宮に立て、彰子との間に敦成親王のちの後一条天皇、敦良親王のちの後朱雀天皇が生まれた。
かの紫式部はこの中宮彰子に仕えた女房である。
一条天皇と藤原道長の関係は良好で、在位中は宮廷文化の花が咲き誇り、一条天皇は「寛弘の聖主」と称されるほどであった。
第66代天皇 | |
天皇名 | 一条天皇 |
読み方 | いちじょうてんのう |
名・諱等 | 懐仁親王 |
読み方 | やすひとしんのう |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 986年から1011年 |
生年 | 980 |
没年 | 1011 |
父 | 円融天皇 |
母 | 藤原詮子 |
兄弟 | □□□ |
配偶者 | 藤原定子・彰子 |
皇子女 | 敦成親王・敦良親王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 圓融寺北陵 |
所在地 | 京都市右京区竜安寺朱山 |
一條天皇 圓融寺北陵
(いちじょうてんのう えんゆうじのきたのみささぎ)
一条天皇
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一条天皇 | |
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一条天皇像(真正極楽寺蔵)
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即位礼 | 986年8月29日(寛和2年7月22日) |
大嘗祭 | 986年12月18日(寛和2年11月15日) |
元号 | 寛和 永延 永祚 正暦 長徳 長保 寛弘 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 花山天皇 |
次代 | 三条天皇 |
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誕生 | 980年7月15日(天元3年6月1日)[1] 東三条第 |
崩御 | 1011年7月25日(寛弘8年6月22日)[2] 一条院中殿[2] |
大喪儀 | 1011年8月9日(寛弘8年7月8日) |
陵所 | 円融寺北陵 |
追号 | 一条院 (一条天皇) |
諱 | 懐仁 |
別称 | 永延帝 精進覚・妙覚(法名) |
父親 | 円融天皇 |
母親 | 藤原詮子 |
皇后 | 藤原定子 |
中宮 | 藤原彰子 |
女御 | 藤原義子 藤原元子 藤原尊子 |
子女 | 脩子内親王 敦康親王 媄子内親王 後一条天皇 後朱雀天皇 |
皇居 | 平安宮・一条院・東三条院・枇杷殿 |
一条天皇(いちじょう てんのう、旧字体:一條天皇、980年7月15日〈天元3年6月1日〉- 1011年7月25日〈寛弘8年6月22日〉[2])は、日本の第66代天皇(在位:986年8月1日〈寛和2年6月23日〉- 1011年7月16日〈寛弘8年6月13日〉)。諱は懐仁(やすひと)[注釈 1]。
円融天皇の第1皇子[4]。母は藤原詮子(藤原兼家娘)。兄弟姉妹はおらず、従兄弟に前帝・花山天皇と次帝・三条天皇がいる。
略歴
永観2年(984年)8月27日、花山天皇が皇位を継いだ時、皇嗣に立てられる。寛和2年(986年)6月23日(8月1日)、藤原兼家が孫の懐仁を即位させるため、子息の道兼に花山天皇を出家に誘導させ、道隆と道綱に清涼殿から神璽・宝剣を天皇の許可なく東宮の元に移動させ、それを見届けてから兼家は花山天皇の出家を関白藤原頼忠に報告、花山天皇を退位に追い込んだ(寛和の変)[5]。皇太子には従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に兼家が就任した(後に関白)。ただし、兼家の謀り事により一条天皇に皇位が継承されたため、通常は譲位時に行われる摂政の手続きが出来ず、『円太暦』によれば「先帝の花山がその場にいるかのような儀式を行った」とあり、異例の摂政就任となった[6]。
7月22日、大極殿において即位の義が行われた。この時に大極殿北廂東幔内に摂政が伺候することが確立したとされ、それは天皇と摂関との新たな関係を示すものであった[7]。『大鏡』によると、一条天皇の即位式の日に大極殿の高御座に髪の毛が付いた生首が転がっていた「髪つきたるものの、頭の、血うちつきたる」が置かれていたという説話が見える[8]。実際にこのようなことがあったとは思えないが、一条の即位を快く思わない勢力があったことを窺わせる逸話である[8]。
史上初の四后
永祚2年(990年)正月、太政大臣となった兼家の加冠により11歳で元服が行われるが、程なく兼家は病死する。兼家の死後は長男の藤原道隆が引き続き外戚として関白を務める。同月25日、道隆の長女定子が「添臥(初夜の形式的に行う女性)」を兼ねて入内。。[9]同年5月26日に道隆は摂政に転じるが、同じ天皇につき関白から摂政となるのは異例で初めての事だった。[10] 同年10月5日、道隆は定子の立后を強行する。[11]この時、三后は(太皇太后昌子内親王、皇太后藤原詮子、皇后藤原遵子)で空きはなかったが、道隆は時機を待たず皇后の別称で用いられていた「中宮」を独立させ、三后を四后並立とし定子を強引に立后させた、これが四后の初例である。[12]また、立后の儀は道隆が兼家の喪中に行ったことで、藤原実資の日記『小右記』では「驚奇少なからず」、四后に対して「皇后四人の例、往古聞かざる事也」と非難されている[13]。道隆の弟道長は中宮大夫だったが、道隆の自分勝手なやり方についていけず中宮定子のもとに参らず「気丈なことである」と世間から賞賛を受けた。[14]正暦2年(991年)7月23日、道隆が内大臣を辞し[15]、摂政のみとなったがこれは父兼家にならって太政大臣にならず摂政に権力の掌握を求めた。[16]
一条朝の宮廷文化
一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后・定子に仕える清少納言、中宮・彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、寒い夜にはわざと御直垂を推し脱いでいた。彰子がそのわけを聞くと、一条は「日本国の人民の寒かるらむに、吾、かくて暖かにてたのしく寝たるが不憫なれば」と答えたとされる[17]。いかにも気配りの効く一条らしい説話だが、実はこの話は中国の孝子伝に原拠を持つものである[18]。正暦4年正月、元日朝賀が行われたがこれを最後に廃絶した[19]。
長徳の変
同年4月、道隆が摂政からまた関白に転じた、長徳元年になると病になるが糖尿病だといわれている。3月に道隆は子息の伊周の出世を謀り、関白職を譲ろうとするが一条天皇は許さず、関白道隆が病の間のみ伊周を内覧させるという宣旨が下ったが、伊周はこれを不服とし「病の間」を削除させようとした[20]。道隆の存命時は後宮に定子しかいなかったが、7年ほど子が出来ず皇子を得られないまま道隆が長徳元年(995年)4月10日に没し、同年4月27日、道隆の後に弟の道兼が関白となったが流行病で5月8日に没し 「七日関白」となった(人物叢書『藤原道長』)。5月11日、権大納言の道長に内覧の宣旨が下る(『日本紀略』)。道隆が没してからの伊周・隆家兄弟は荒れており、道長と口論になったり道長の随身が隆家の従者に殺害される事件など起こっていたが、長徳2年(996年)正月16日の夜、伊周と隆家が花山法皇に矢を射るという常識では考えられない事件(長徳の変)」を起こす(『日本紀略』『天皇の歴史3』)、また伊周が一条天皇の母后東三条院詮子を呪詛したこと、天皇のみに許されている太元帥法を行わせているが明らかになり、一条天皇は伊周を太宰府へ、隆家を出雲へ左遷とした(『天皇の歴史3』)。
内覧に留まった道長は『新体系日本史1国家史』によれば「一条天皇とは対立関係になく、権力を行使したこともない。さらに大臣以下の公卿たちと協力して政務にあたったというのが事実に近い」とし、あせらず時期をみてよき政治を行った、謙譲の美徳と考えられている[21]。天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のような親政を志したとされる。道長と天皇は協調し、これにより後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど有為な政治体制が確立した。特に、長保元年7月27日(999年9月9日)に発布された「長保元年令」は、後の新制の基本として公家社会に重んじられ、中世公家法に対しても強い影響を与えていた。
藤原行成の日記『権記』には、晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望んでいたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう天皇に進言したことが記述されている。1220年頃に成立した『愚管抄』には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件があるが、同時代の史料では確認できない。同じ頃に成立した『古事談』にも似たような話が記載されているが、当時の史料からは見えず気にしすぎない方がよいとされており、『御堂関白記』や『権記』などを同時代の一級史料を熟読すれば、道長が一条天皇を不服に思ったことはなくきちんと後見し、一条天皇も道長や中宮彰子を尊重し良好な関係を築いていた様子が伺える[22]。
かねてより譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり[23]、同年6月13日に居貞親王に譲位し太上天皇となり、6月19日に出家するものの、その3日後の6月22日に崩御する。宝算32。生前、定子と同じく土葬を望んでいたが、道長がこれを失念したため、7月8日夜に火葬されたという[24][25]。
辞世の歌は『御堂関白記』によれば「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」。ただし『権記』では「事ぞ悲しき」で結び、初二句は『新古今集』巻第八哀傷歌収録では「秋風の 露の宿りに」となっている。
在位中の重臣一覧
年月日(西暦) | 摂政 | 関白 | 太政大臣 | 左大臣 | 右大臣 | 内大臣 | 准大臣 | 大納言 | 権大納言 | 中納言 | 権中納言 | 参議 |
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寛和2年6月23日 (986年8月1日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原兼家 | 藤原為光・源重信 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原文範・源重光 | 藤原顕光・源保光・藤原為輔 | 藤原公季・源忠清・大江斉光・藤原佐理・源伊陟・藤原時光 | |||
寛和2年7月5日 (986年8月13日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原兼家 | 藤原為光・源重信 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原文範・源重光 | 藤原顕光・源保光・藤原為輔・藤原道隆 | 藤原公季・源忠清・大江斉光・藤原佐理・源伊陟・藤原時光 | |||
寛和2年7月20日 (986年8月28日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原文範・藤原顕光・源重光 | 源保光・藤原為輔・藤原公季 | 源忠清・大江斉光・藤原佐理・源伊陟・藤原時光・藤原道兼 | |||
寛和2年8月27日 (986年10月3日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原文範・藤原顕光・源重光 | 源保光・藤原公季 | 源忠清・大江斉光・藤原佐理・源伊陟・藤原時光・藤原道兼 | |||
寛和2年10月15日 (986年11月19日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原文範・藤原顕光・源重光 | 源保光・藤原公季・藤原道兼 | 源時中・源忠清・大江斉光・藤原佐理・源伊陟・藤原時光 | |||
永延元年11月6日 (987年11月29日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原文範・藤原顕光・源重光 | 源保光・藤原公季・藤原道兼 | 源時中・源忠清・源伊陟・藤原佐理・藤原時光 | |||
永延元年11月11日 (987年11月29日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原文範・藤原顕光・源重光 | 藤原道兼・源保光・藤原公季 | 源時中・源忠清・源伊陟・藤原佐理・藤原時光・藤原安親 | |||
永延2年1月5日 (988年1月26日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原顕光・源重光 | 藤原道兼・源保光・藤原公季 | 源時中・源忠清・源伊陟・藤原佐理・藤原時光・藤原安親 | |||
永延2年1月29日 (988年2月19日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原道兼・藤原公季・藤原道長 | 源時中・源忠清・源伊陟・藤原佐理・藤原時光・藤原安親 | |||
永延2年2月21日 (988年3月11日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原道兼・藤原公季・藤原道長 | 源時中・源伊陟・藤原佐理・藤原時光・藤原安親 | |||
永延2年2月27日 (988年3月11日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道隆 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原道兼・藤原公季・藤原道長 | 源時中・源伊陟・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原誠信 | |||
永延3年2月23日 (989年4月1日) |
藤原兼家 | 藤原頼忠 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原誠信・藤原実資 | ||
永延3年6月26日 (989年7月31日) |
藤原兼家 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原誠信・藤原実資 | |||
永延3年7月13日 (989年8月16日) |
藤原兼家 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原誠信・藤原実資・藤原懐忠 | |||
永祚元年12月20日 (990年1月19日) |
藤原兼家 | 藤原兼家 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原懐忠・藤原誠信・藤原実資 | ||
永祚2年5月5日 (990年5月31日) |
藤原兼家 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原懐忠・藤原誠信・藤原実資 | |||
永祚2年5月8日 (990年6月3日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原懐忠・藤原誠信・藤原実資 | |||
永祚2年5月13日 (990年6月8日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原佐理・藤原時光・藤原安親・藤原懐忠・藤原道頼・藤原実資・藤原誠信 | |||
正暦2年1月27日 (991年2月14日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 藤原為光 | 藤原道隆 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原道頼・藤原実資・藤原伊周・藤原誠信 | |||
正暦2年7月23日 (991年9月4日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 藤原為光 | 源重信・藤原朝光 | 藤原済時・藤原道兼 | 藤原顕光・源重光・源保光 | 藤原公季・源伊陟・藤原道長 | 源時中・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原道頼・藤原実資・藤原伊周・藤原誠信 | ||||
正暦2年9月7日 (991年10月17日) |
藤原道隆 | 藤原為光 | 源雅信 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原朝光・藤原済時 | 源重光・藤原道長 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源伊陟・藤原道頼・藤原伊周 | 源時中・藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原実資・藤原誠信 | ||
正暦3年6月16日 (992年7月18日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原朝光・藤原済時 | 源重光・藤原道長 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源伊陟・藤原道頼・藤原伊周 | 源時中・藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原実資・藤原誠信 | |||
正暦3年8月28日 (992年9月27日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原道長・藤原伊周 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源時中・源伊陟・藤原道頼 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原実資・藤原公任・藤原誠信・平惟仲 | |||
正暦4年4月22日 (993年5月16日) |
藤原道隆 | 源雅信 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原道長・藤原伊周 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源時中・源伊陟・藤原道頼 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原実資・藤原公任・藤原誠信・平惟仲 | |||
正暦4年7月28日 (993年8月18日) |
藤原道隆 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原道長・藤原伊周 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源時中・源伊陟・藤原道頼 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原懐忠・藤原実資・藤原公任・藤原誠信・平惟仲 | ||||
正暦5年8月28日 (994年10月5日) |
藤原道隆 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原道長・藤原道頼 | 藤原顕光・源保光・藤原公季 | 源時中・源伊陟・藤原懐忠 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||
正暦6年1月23日 (995年2月25日) |
藤原道隆 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原朝光・藤原済時 | 藤原道長・藤原道頼 | 藤原顕光・源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||
長徳元年3月20日 (995年4月22日) |
藤原道隆 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原済時 | 藤原道長・藤原道頼 | 藤原顕光・源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||
長徳元年4月6日 (995年5月8日) |
源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原済時 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | ||||
長徳元年4月23日 (995年5月29日) |
源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||
長徳元年4月27日 (995年5月25日) |
藤原道兼 | 源重信 | 藤原道兼 | 藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | ||||
長徳元年5月8日 (995年6月8日) |
藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 源保光・藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||||
長徳元年5月9日 (995年6月9日) |
藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 藤原公季・源伊陟 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||||
長徳元年5月22日 (995年6月22日) |
藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光・藤原道頼 | 藤原公季 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||||
長徳元年6月11日 (995年7月11日) |
藤原伊周 | 藤原道長・藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||||
長徳元年6月19日 (995年7月19日) |
藤原道長 | 藤原伊周 | 藤原顕光・藤原公季 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・藤原実資・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義 | |||||||
長徳元年8月28日 (995年9月25日) |
藤原道長 | 藤原伊周 | 藤原顕光・藤原公季 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原実資 | 藤原道綱・藤原安親・藤原時光・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義・源俊賢 | ||||||
長徳2年3月5日 (996年3月26日) |
藤原道長 | 藤原伊周 | 藤原顕光・藤原公季 | 源時中・藤原懐忠・藤原隆家 | 藤原実資 | 藤原道綱・藤原時光・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義・源俊賢 | ||||||
長徳2年4月24日 (996年5月14日) |
藤原道長 | 藤原顕光・藤原公季 | 源時中・藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・菅原輔正・平惟仲・藤原公任・藤原誠信・源扶義・藤原斉信・源俊賢 | |||||||
長徳2年7月20日 (996年8月6日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季・源時中 | 藤原道綱・藤原懐忠・藤原実資 | 平惟仲 | 藤原時光・菅原輔正・藤原公任・藤原誠信・源扶義・藤原忠輔・藤原斉信・源俊賢 | ||||||
長徳3年7月5日 (997年8月10日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱 | 藤原懐忠 | 藤原時光・藤原実資 | 平惟仲 | 菅原輔正・藤原誠信・藤原公任・源扶義・藤原忠輔・藤原斉信・源俊賢 | ||||
長徳4年1月15日 (998年2月14日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱 | 藤原懐忠 | 藤原時光・藤原実資・平惟仲 | 菅原輔正・藤原誠信・藤原公任・源扶義・藤原忠輔・藤原斉信・源俊賢 | |||||
長徳4年7月25日 (998年8月19日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱 | 藤原懐忠 | 藤原時光・藤原実資・平惟仲 | 菅原輔正・藤原誠信・藤原公任・藤原忠輔・藤原斉信・源俊賢 | |||||
長徳4年10月23日 (998年11月14日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱 | 藤原懐忠 | 藤原時光・藤原実資・平惟仲 | 藤原懐平・菅原輔正・藤原誠信・藤原公任・藤原忠輔・藤原斉信・源俊賢 | |||||
長保3年8月25日 (1001年9月15日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信 | 藤原懐平・菅原輔正・藤原誠信・藤原忠輔・源俊賢・藤原行成 | ||||
長保3年9月3日 (1001年9月27日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信 | 藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・源俊賢・藤原行成 | ||||
長保3年10月3日 (1001年10月22日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 源時中・藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・源俊賢・藤原行成 | ||||
長保3年12月30日 (1002年1月16日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・源俊賢・藤原行成 | ||||
長保4年9月14日 (1002年10月22日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信・藤原隆家 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・源俊賢・藤原行成 | ||||
長保6年1月24日 (1004年2月17日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・藤原行成 | ||||
長保6年2月26日 (1004年3月19日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・平惟仲・藤原公任 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・藤原行成・藤原正光 | ||||
寛弘2年3月14日 (1005年4月25日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・藤原公任 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・藤原行成・藤原正光 | ||||
寛弘2年6月19日 (1005年7月27日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原時光・藤原公任 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原行成・藤原正光・源経房 | ||||
寛弘5年1月16日 (1008年2月25日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原伊周 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原公任・藤原時光 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原行成・藤原懐平・菅原輔正・藤原正光・源経房 | |||
寛弘5年1月28日 (1008年3月8日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原伊周 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原公任・藤原時光 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原行成・藤原懐平・菅原輔正・藤原兼隆・藤原正光・源経房・藤原実成 | |||
寛弘5年2月7日 (1008年3月16日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原伊周 | 藤原道綱・藤原懐忠 | 藤原実資 | 藤原公任・藤原時光 | 藤原斉信・源俊賢・藤原隆家・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原行成・藤原懐平・藤原兼隆・藤原正光・源経房・藤原実成 | |||
寛弘6年3月4日 (1009年4月1日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原伊周 | 藤原道綱・藤原実資 | 藤原斉信・藤原公任 | 藤原隆家・藤原時光 | 藤原行成・源俊賢・藤原頼通・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原懐平・藤原兼隆・藤原正光・源経房・藤原実成・源頼定 | |||
寛弘7年1月29日 (1010年2月15日) |
藤原道長 | 藤原顕光 | 藤原公季 | 藤原道綱・藤原実資 | 藤原斉信・藤原公任 | 藤原隆家・藤原時光 | 藤原行成・源俊賢・藤原頼通・藤原忠輔 | 藤原有国・藤原懐平・藤原兼隆・藤原正光・源経房・藤原実成・源頼定 |
人物
長徳・寛弘年間に日記をつけていたことが判っている[注釈 2]。長徳御記は平安末期にはすでに失われ[27]、寛弘御記は応永の頃まで伝存が知られる[28]。その後、中世の戦乱にまぎれて散失したと思われ、『北山抄』・『柱史抄』・『建武年中行事』・『體源抄』などに逸文が残るのみである[注釈 3]。
大変な愛猫家であり、内裏で生まれた猫のために儀式を執り行い、人間の乳母をつけたという話が『小右記』に記述されている。この猫は「命婦のおとど(おもと)」と名付けられ、叙爵されていた事が『枕草子』に記述されている。
系譜
一条天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
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60 醍醐天皇 |
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61 朱雀天皇 |
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62 村上天皇 |
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兼明親王 |
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源高明 |
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広平親王 |
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63 冷泉天皇 |
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致平親王 |
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為平親王 |
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64 円融天皇 |
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昭平親王 |
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具平親王 |
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65 花山天皇 |
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67 三条天皇 |
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66 一条天皇 |
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源師房 〔村上源氏へ〕 |
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敦明親王 (小一条院) |
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禎子内親王 (陽明門院) |
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68 後一条天皇 |
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69 後朱雀天皇 |
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70 後冷泉天皇 |
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71 後三条天皇 |
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母である藤原詮子は、橘氏を介して弘文天皇とその妻で飛鳥時代の天武天皇の皇女十市皇女の11世孫にあたる。天武天皇の男系皇統は途切れてしまうものの、女系の血は一条天皇を介して徳仁たる現在の皇室及び旧皇族に伝わっている。また、皇后の定子、中宮の彰子、女御の尊子も弘文・十市夫妻の後裔である。[29][30]。一条天皇の乳母で長女脩子内親王の裳着において髪上げ役を務めたのも橘氏の徳子(受領藤原有国の妻)である。
后妃・皇子女
- 皇后:藤原定子(977年 - 1000年:号中宮、のち皇后宮) - 関白藤原道隆長女
- 中宮(皇后):藤原彰子 (988年 - 1074年:号中宮) - 左大臣藤原道長長女
- 女御:藤原義子(974年 - 1053年) - 内大臣藤原公季長女
- 女御:藤原元子(979年? - ?) - 右大臣藤原顕光長女、のち源頼定室
- 女御:藤原尊子(984年 - 1022年) - 関白藤原道兼女、のち藤原通任室
- 御匣殿(985年? - 1002年) - 藤原道隆四女(皇后定子の同母妹)
追号・異名
在位中の里内裏の名称により「一条院」と追号された。崩御後しばらくは「大宮院」とも呼ばれていた[31]。明治以後「〜院」の追号は廃止され「一条天皇」となる。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山 の龍安寺内にある圓融寺北陵(円融寺北陵:えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
天皇は生前、父・円融院の隣に土葬されることを望み、近臣の熟知するところであったが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨は東山の円成寺に安置された。希望どおり円融陵(北山の朱山にある火葬塚か)の側に葬られたのは、9年も経った寛仁4年(1020年)6月16日のことであった。
なお、一条天皇の大喪儀における葬法の誤りについて論じた論文があり、それによれば淳和天皇以降、在位中の天皇の葬儀は土葬、太上天皇の葬儀は火葬という慣例があったが、退位直後に次代の天皇から太上天皇としての称号奉上を受けずに崩御した醍醐天皇は天皇の例として土葬が行われた。一条天皇の場合は天皇の意思だけでなく醍醐天皇の先例に倣えば土葬で行われるべきであるが、道長以下の廷臣は太上天皇の例に倣って火葬を行ったことになる。この誤りが本当に勘違いによるものか意図的なものかは不明であるが、次に在位中に崩御した息子の後一条天皇の際には崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った上で太上天皇として火葬にされ、それ以後在位中の天皇の崩御そのものが隠される慣例が確立されていることから、一条天皇の大喪儀における誤りは天皇の大喪儀における観念の変化(在位中の天皇の崩御ならびにそれを前提とした土葬の否定)の過渡期で発生した出来事とする評価がされている[32]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
- テレビアニメ
脚注
注釈
出典
- ^ 倉本 2003, p. 1.
- ^ a b c 倉本 2003, p. 202.
- ^ 「尊卑分脉」注記
- ^ 倉本 2003, p. 4.
- ^ 佐々木 2018, pp. 116–118.
- ^ 佐々木 2018, pp. 118–119.
- ^ 末松剛「即位式における摂関と母后の登壇」『日本史研究』447号、1999年。
- ^ a b 倉本 2003, p. 14.
- ^ 平安時代 天皇列伝 戎光祥出版 p22
- ^ 天皇の歴史3 天皇と摂政・関白 講談社<学術文庫> p121
- ^ 人物叢書 藤原道長 p10
- ^ 人物叢書 藤原道長 p10
- ^ 人物叢書 藤原道長pp=10-11
- ^ 人物叢書 藤原道長 p11
- ^ 日本紀略
- ^ 人物叢書 藤原道長 p10
- ^ 倉本 2003, p. 235.
- ^ 倉本 2003, p. 236.
- ^ 天皇の歴史3 天皇と摂政・関白 講談社<学術文庫>p123
- ^ 天皇の歴史3 天皇と摂政・関白 講談社<学術文庫>pp=123-124
- ^ 人物叢書 藤原道長 pp=6-8
- ^ 人物叢書 藤原道長 pp=53-54
- ^ 『御堂関白記』寛弘8年5月23日条
- ^ 『栄花物語』「いはかげ」の巻
- ^ 「一条天皇の願いもド忘れ」道長の意外すぎる一面 東洋経済オンライン、2024年10月21日閲覧。
- ^ 『花園天皇宸記』正和二年(1313)2月3日条
- ^ 『台記』
- ^ 『薩戒記』
- ^ 天武天皇から今上天皇までの系譜
- ^ 天武天皇【今上天皇の直系祖先】
- ^ 『小右記』
- ^ 谷川愛「平安時代における天皇・太上天皇の喪葬儀礼」『国史学』169号、1999年。/所収:倉本一宏 編『王朝再読』臨川書店〈王朝時代の実像1〉、2021年。
参考文献
- 倉本一宏『一条天皇』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4-642-05229-1。
- 山本淳子『源氏物語の時代:一条天皇と后たちのものがたり』〈朝日選書〉2007年。 ISBN 978-4-02-259920-9。
- 米田雄介『歴代天皇の記録』八木書店、1992年。 ISBN 4-7971-048-48。
- 佐々木恵介『天皇の歴史3 天皇と摂政・関白』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。
外部リンク
- 『摂関期古記録データベース』国際日本文化研究センター(『一条天皇御記』の読み下し文を公開)
一条天皇(いちじょうてんのう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 17:03 UTC 版)
「暴れん坊少納言」の記事における「一条天皇(いちじょうてんのう)」の解説
時の天皇。やや気弱ではあるがとても温厚なお人柄。中宮定子を寵愛するが、道長の策略によって彰子を女御とする。
※この「一条天皇(いちじょうてんのう)」の解説は、「暴れん坊少納言」の解説の一部です。
「一条天皇(いちじょうてんのう)」を含む「暴れん坊少納言」の記事については、「暴れん坊少納言」の概要を参照ください。
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