一条天皇の蔵人頭とは? わかりやすく解説

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一条天皇の蔵人頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:31 UTC 版)

藤原行成」の記事における「一条天皇の蔵人頭」の解説

長徳元年995年蔵人頭権左中弁源俊賢参議昇進し後任として行成蔵人頭に任ぜられる。これについては、前任源俊賢一条天皇に対して行成推挙したため、地下人から一躍蔵人頭抜擢されたとの逸話がある。実際に殿上であったか、少なくとも長く地下沈淪していた状態ではないと考えられるが、備後介のみを帯びたほぼ散位等し行成登用は、人々驚きの目をもって迎えられたと想定されるまた、この抜擢については源俊賢推挙大きいが、これまで行成積み重ねてきた真面目な努力が、一条天皇をはじめ人々認めるところとなっていたことも背景にあった考えられる。なお、行成蔵人頭になってすぐには弁官になっていないが、さすがに異例抜擢によって蔵人頭になった上に、すぐに弁官兼ねるのは憚られたらしい。しかし、ここで行成力量認められ、翌長徳2年996年4月になって権左中弁任官している。さらに同年8月に正左中弁藤原忠輔右大弁昇ると、後任源相方が任ぜられるが、一条天皇意向で正左中弁源相方権左中弁藤原行成入れ替えられ、行成上﨟相方差し置いて左中弁昇格した長徳4年998年正月これまでの精励ぶりを一条天皇から賞され臨時従四位上叙せられる。7月左大弁源扶義没したため右大弁ポストが空くが、これに対して再び行成源相方競合する源相方右大弁望んでいることを相方縁者でもある左大臣藤原道長から告げられると、行成以下の通り競望不条理に反論し道長もこの反論容認した中弁から大弁への転任は、必ずしも位階によらず任日の前後による場合もある(位階相方の方が上もしくは先叙だが、中弁への任官行成が先)。 自分蔵人頭将来参議を望む官職にある。ここで大弁に任ぜられ、参議昇任後も大弁兼任することを望む(右大弁参議蔵人頭兼任する例が多い)。 現今新制により、受領任期終えて2年以内に官に納める物が未済の者は次の官職任用てはならない相方播磨守在任十分に役目果たさず任期終了後3年にして官へ未済の事が多い。 10月には行成右大弁昇格し日記に「時に27。年未だ30及ばずして大弁任ずるは、貞信公藤原忠平21八条大将藤原保忠)年25のみなり。」と誇らしげ記している。なお、行成後任左中弁には高階信順が任ぜられており、この人事の前に相方病没したとみられるこうした中で、長保元年999年11月藤原道長長女藤原彰子一条天皇後宮入内女御となる。そして12月太皇太后昌子内親王崩御したことをきっかけに、道長第一皇子敦康親王産んでいる中宮藤原定子対抗するために一帝二后となる彰子立后希望行成道長意向受けて一条天皇に対して彰子立后意見具申行った現在の藤原氏出身后妃は、東三条院藤原詮子)・皇太后藤原遵子)・中宮藤原定子)と何れも出家しており神事勤めない后位対する納物には神事用いるべき公費含まれているが、神事が行われず全て私用費やされている。 藤原氏出身皇后所掌する大原野祭について、現在は氏長者藤原道長代行しているが、これも神の本意叶わぬ神事違例」で、行成自身藤原氏末葉の身として氏の祭のことを心配している。 諸司神祇官陰陽寮か)より「神事違例」の卜占出ている。 既に永祚年間に二后並立前例がある(円融皇后藤原遵子一条中宮藤原定子)。 中宮藤原定子)は正妃であるが、既に出家して神事勤めず、(天皇の)私恩によって職号を止めず封戸納めている。従って重ねて彰子皇后立て神事掌るようにさせるのがよいのではないか行成具申に対して一条天皇許諾意向を示す。このことについて道長から「行成蔵人頭として天皇身近に仕えるようになって以来折に触れて自分のために取り計らっていてくれたことは知っていたが、感謝の気持ちを示すことができなかった。今こそこの厚い恩の深さ知った行成自身のことについては勿論何も心配することはなく、お互いに子の代になっても必ずこの恩に報い兄弟のように親しくするように言い含めておく」と感謝言葉受けた。この行成具申論旨に対しては、道長対すへつらいに基づく詭弁曲論とする見方も多い。一方で后位にある者全員神事勤めないことや、出家しながら再び入内して皇子儲けた定子対す批判など当時貴族官人社会の中で納得できる理由並べており、既に彰子立后必然性理解しその大義名分模索していた一条天皇に代わって、その正当性裏付ける議論展開したものとする意見もある。こうして行成尽力もあり、翌長保2年1000年2月彰子立后した。 ところで、同年8月彰子従兄弟にあたる、故関白藤原道兼の娘である藤原尊子女御となる。尊子の母である藤原繁子この女宣下勅旨奉じた行成に纏頭祝儀被物)を贈ろうとするが、行成はこれを察して忌避するために繁子がいる尊子の曹司(暗戸屋曹司)へ行かずに、陣に行って下する。そこで繁子は行成従者渡そうとして失敗すると、執拗に行成邸に下人遣わせ送り置く。行成の妻は次第行成急報すると、行成纏頭取り寄せて子家親交があった権左中弁藤原説孝経由受け取理由がないとして返却した。繁子は怨み思って東三条院道長愁訴するが、行成はこれを「烏滸がましい」と日記記している。このことは行成気位の高さを示している一方で、道兼にとって一時期の関係に過ぎない繁子所生の尊子の女御宣下は、宮廷社会正当なことと認められていなかったと想定され人々纏頭受け取らなかった行成を賞賛面目を失った繁子を嘲笑の目で見ていた様子窺われる同年10月には新造された内裏殿舎・門の書額を行い正四位下叙せられている。長保3年1001年2月参議任官前提とした蔵人頭辞退請う申文奏上するが、認められなかった。蔵人頭務めること5年半に及び右大弁帯びてた行成は参議昇任資格十分にあったが、一条天皇有能な行成側近から手放したくなかったものと想定される。なお、一条天皇行成名文名筆申文秘蔵たかったらしく、この申文書写して献上するように勅している。3月には道長から近衛中将兼任内意を受けるが、行成従兄弟藤原成房譲った。これは、頭弁に更に中将兼帯する意味とは考えにくく、激務疲弊している行成から弁官を解くことで負担軽減し、なお暫く蔵人頭務めさせようとする妥協であった可能性もある。 ところで、かねてより行成は伝領していた平安京北郊一条大路大宮大路末北の大内裏北方(現五辻通北・大宮通西あたり)にあった桃園邸に世尊寺創建しており、同2月天台座主覚慶公卿殿上人多数参加のもと盛大な供養行い3月には世尊寺御願寺として定額寺にすることを奏請して勅許得ている。世尊寺建立行成信仰心に基づく純粋な宿願で、さらに当時世間無常様相影響を受けたもの想定されるが、結果的に供養通じて行成の力を宮廷社会誇示することになりその社会的地位を更に高めることとになった。なお、この寺院呼称が後に行成後裔をして世尊寺家名乗らせる根拠となっている。

※この「一条天皇の蔵人頭」の解説は、「藤原行成」の解説の一部です。
「一条天皇の蔵人頭」を含む「藤原行成」の記事については、「藤原行成」の概要を参照ください。

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