一条天皇の蔵人頭
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長徳元年(995年)蔵人頭権左中弁・源俊賢が参議に昇進し、後任として行成が蔵人頭に任ぜられる。これについては、前任の源俊賢が一条天皇に対して行成を推挙したため、地下人から一躍蔵人頭に抜擢されたとの逸話がある。実際には殿上であったか、少なくとも長く地下に沈淪していた状態ではないと考えられるが、備後介のみを帯びたほぼ散位に等しい行成の登用は、人々に驚きの目をもって迎えられたと想定される。また、この抜擢については源俊賢の推挙が大きいが、これまで行成が積み重ねてきた真面目な努力が、一条天皇をはじめ人々の認めるところとなっていたことも背景にあったと考えられる。なお、行成は蔵人頭になってすぐには弁官になっていないが、さすがに異例の抜擢によって蔵人頭になった上に、すぐに弁官を兼ねるのは憚られたらしい。しかし、ここで行成は力量を認められ、翌長徳2年(996年)4月になって権左中弁に任官している。さらに同年8月に正左中弁の藤原忠輔が右大弁に昇ると、後任に源相方が任ぜられるが、一条天皇の意向で正左中弁・源相方と権左中弁・藤原行成が入れ替えられ、行成は上﨟の相方を差し置いて正左中弁に昇格した。 長徳4年(998年)正月にこれまでの精励ぶりを一条天皇から賞されて臨時に従四位上に叙せられる。7月に左大弁・源扶義が没したため右大弁のポストが空くが、これに対して再び行成と源相方が競合する。源相方が右大弁を望んでいることを相方の縁者でもある左大臣・藤原道長から告げられると、行成は以下の通り競望の不条理に反論し、道長もこの反論を容認した。 中弁から大弁への転任は、必ずしも位階によらず任日の前後による場合もある(位階は相方の方が上もしくは先叙だが、中弁への任官は行成が先)。 自分は蔵人頭で将来は参議を望む官職にある。ここで大弁に任ぜられ、参議昇任後も大弁を兼任することを望む(右大弁は参議や蔵人頭が兼任する例が多い)。 現今の新制により、受領の任期を終えて2年以内に官に納める物が未済の者は次の官職に任用してはならない。相方は播磨守在任中十分に役目を果たさず、任期終了後3年にして官へ未済の事が多い。 10月には行成は右大弁に昇格し、日記に「時に年27。年未だ30に及ばずして大弁に任ずるは、貞信公(藤原忠平)21・八条大将(藤原保忠)年25のみなり。」と誇らしげに記している。なお、行成の後任の左中弁には高階信順が任ぜられており、この人事の前に相方は病没したとみられる。 こうした中で、長保元年(999年)11月に藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇の後宮に入内し女御となる。そして12月に太皇太后・昌子内親王が崩御したことをきっかけに、道長は第一皇子・敦康親王を産んでいる中宮・藤原定子に対抗するために一帝二后となる彰子の立后を希望。行成は道長の意向を受けて一条天皇に対して彰子立后の意見具申を行った。 現在の藤原氏出身の后妃は、東三条院(藤原詮子)・皇太后(藤原遵子)・中宮(藤原定子)と何れも出家しており神事を勤めない。 后位に対する納物には神事に用いるべき公費が含まれているが、神事が行われず全て私用に費やされている。 藤原氏出身の皇后が所掌する大原野祭について、現在は氏長者・藤原道長が代行しているが、これも神の本意に叶わぬ「神事違例」で、行成自身も藤原氏の末葉の身として氏の祭のことを心配している。 諸司(神祇官・陰陽寮か)より「神事違例」の卜占が出ている。 既に永祚年間に二后並立の前例がある(円融皇后・藤原遵子と一条中宮・藤原定子)。 中宮(藤原定子)は正妃であるが、既に出家して神事を勤めず、(天皇の)私恩によって職号を止めず封戸も納めている。従って重ねて彰子を皇后に立て神事を掌るようにさせるのがよいのではないか。 行成の具申に対して一条天皇は許諾の意向を示す。このことについて道長から「行成が蔵人頭として天皇の身近に仕えるようになって以来、折に触れて自分のために取り計らっていてくれたことは知っていたが、感謝の気持ちを示すことができなかった。今こそこの厚い恩の深さを知った。行成自身のことについては勿論何も心配することはなく、お互いに子の代になっても必ずこの恩に報い、兄弟のように親しくするように言い含めておく」と感謝の言葉を受けた。この行成の具申の論旨に対しては、道長に対するへつらいに基づく詭弁や曲論とする見方も多い。一方で、后位にある者全員が神事を勤めないことや、出家しながら再び入内して皇子を儲けた定子に対する批判など、当時の貴族・官人社会の中で納得できる理由を並べており、既に彰子立后の必然性を理解しその大義名分を模索していた一条天皇に代わって、その正当性を裏付ける議論を展開したものとする意見もある。こうして行成の尽力もあり、翌長保2年(1000年)2月に彰子は立后した。 ところで、同年8月に彰子の従兄弟にあたる、故関白・藤原道兼の娘である藤原尊子が女御となる。尊子の母である藤原繁子がこの女御宣下の勅旨を奉じた行成に纏頭(祝儀の被物)を贈ろうとするが、行成はこれを察して忌避するために繁子がいる尊子の曹司(暗戸屋曹司)へ行かずに、陣に行って仰下する。そこで繁子は行成の従者に渡そうとして失敗すると、執拗にも行成邸に下人を遣わせて送り置く。行成の妻は次第を行成に急報すると、行成は纏頭を取り寄せて繁子家と親交があった権左中弁・藤原説孝経由で受け取る理由がないとして返却した。繁子は怨みに思って東三条院や道長に愁訴するが、行成はこれを「烏滸がましい」と日記に記している。このことは行成の気位の高さを示している一方で、道兼にとって一時期の関係に過ぎない繁子所生の尊子の女御宣下は、宮廷社会で正当なことと認められていなかったと想定され、人々は纏頭を受け取らなかった行成を賞賛、面目を失った繁子を嘲笑の目で見ていた様子が窺われる。 同年10月には新造された内裏の殿舎・門の書額を行い、正四位下に叙せられている。長保3年(1001年)2月に参議任官を前提とした蔵人頭の辞退を請うて申文を奏上するが、認められなかった。蔵人頭を務めること5年半に及び右大弁も帯びていた行成は参議昇任の資格は十分にあったが、一条天皇は有能な行成を側近から手放したくなかったものと想定される。なお、一条天皇は行成の名文・名筆の申文を秘蔵したかったらしく、この申文を書写して献上するように勅している。3月には道長から近衛中将兼任の内意を受けるが、行成は従兄弟の藤原成房に譲った。これは、頭弁に更に中将を兼帯する意味とは考えにくく、激務に疲弊している行成から弁官を解くことで負担を軽減し、なお暫く蔵人頭を務めさせようとする妥協策であった可能性もある。 ところで、かねてより行成は伝領していた平安京北郊の一条大路・大宮大路末北の大内裏北方(現五辻通北・大宮通西あたり)にあった桃園邸に世尊寺を創建しており、同2月に天台座主・覚慶や公卿・殿上人多数参加のもと盛大な供養を行い、3月には世尊寺を御願寺として定額寺にすることを奏請して勅許を得ている。世尊寺建立は行成の信仰心に基づく純粋な宿願で、さらに当時の世間無常の様相の影響を受けたものと想定されるが、結果的にの供養を通じて行成の力を宮廷社会に誇示することになりその社会的地位を更に高めることとになった。なお、この寺院の呼称が後に行成の後裔をして世尊寺家を名乗らせる根拠となっている。
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