けん‐りつ【建立】
こん‐りゅう〔‐リフ〕【建立】
建設
(建立 から転送)
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建設(けんせつ、construction コンストラクション)は、建築(architecture)と土木(civil engineering)その他農分野の林業や造園の工事などや、海洋分野やプラント、「電設」という言葉(社団法人日本電設工業協会や住友電設株式会社などでいう電気設備の建設という意味での「電設」)や通信分野のインフラストラクチャーなどの基盤構築の分野の総称。ほか、言葉的には「建設的な意見」などのように積極、能動的なニュアンスが含まれながら使用される。
建立
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源義朝が平治の乱で敗北後、醍醐寺に預けられ僧となった阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建てた。阿野全成は、この地で、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立した。阿野全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、阿野全成と涙ながらに語り合ったといわれる。その後、1203年(建仁3年)阿野全成も2代将軍・源頼家に叛いた疑いで、常陸国に流され首を切られた。大泉寺の阿野全成の墓には首のみ埋葬されており、首掛松の口伝も残っている。3代将軍・源実朝が暗殺された後、1219年(承久元年)阿野全成の息子の、阿野時元が将軍になるべく深山に城を築き準備を進めたが、討ち滅ぼされ、父子の墓が並ぶように埋葬されている。 寺院にはいくつかの古文書が残されており、その内容が『沼津市史資料編 古代・中世』に載っている。そのうち資料番号263、340はそれぞれ1536年(天文5年)と1558年(永禄元年)に今川義元が寺領安堵・諸役免除を保証した判物で、その中に法華院殿祭礼分参石とある。この法華院殿は阿野法橋全成のことである。少なくともこの時代に彼の供養が行われていることがわかる。 大泉寺前の石碑、義経之兄開基の記載あり。(2017年12月撮影) 大泉寺のまつる位牌。左は公暁、中は阿野全成、右は阿野時元。許可を得て撮影。 静岡県沼津市大泉寺敷地内にある一花無残居士の墓。小野寺左京のものと言い伝えがある。
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建立
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伝承によれば、インドの僧シャーンタラクシタが彼の経典中心の仏教を布教した際に寺院建立を最初に計画した。この場所が縁起がよいとして建設を開始するも、必ず途中で寺院は崩れてしまっていた。恐れた建築労働者たちは近くの川の魔物か悪い気がこれを引き起こしていると信じた。 しかしパドマサンバヴァが北インドからここに着くと、寺院建設を妨げている問題のエネルギー(マモ:魔物)を調伏した。ダライラマ5世によれば(Pearlman, 2002: p.18)、パドマサンバヴァはタントラ的なヴァジュラキラヤ(英語版)(プルパ、プルパ金剛と訳す。漢名:普巴金剛、金剛儒童)の修法や踊りをしてティソン・デツェン王の擁護と資金の援助を受け、シャーンタラクシタは実務的な問題を解決してサムイェー寺を建立したという。 この伝承は、なぜタントラ(密教)中心のパドマサンバヴァの教えが、経典(顕教)中心のシャーンタラクシタの教えよりも優勢を得たかということの説明になる。また、サムイェー寺の建立がチベット仏教の独自の派、ニンマ派の始まりとなる。
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建立
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セウ寺院の南約500メートル (450m) に位置するルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、尼: Candi Lumbung)の近郊より、西暦782年のケルラク碑文が発見され、碑文にはマンジュシュリー(文殊師利)像の奉献について記されていた。建立された寺院はルンブン寺院ないしセウ寺院を指すものと考えられるが、1960年にセウ寺院の南西側のプルワラ祠堂 (number 202) の階段の傍より発見された西暦792年のマンジュスリグラ碑文(「文殊師利祠堂」刻文)に、マンジュスリグラ(文殊師利祠堂)の増拡(マウルディ〈梵: mawṛddhi〉)について記されていたことから、782年に文殊師利が奉献されたのはセウ寺院であり、そのセウ寺院の主祠堂が、792年に増拡されたものとする説が有力である。 碑文の記述をセウ寺院であるとすると、セウ寺院は、古マタラム王国(サンジャヤ王統(英語版))の第2代王ラカイ・パナンカラン(英語版)(760-780年頃)の治世が終わる8世紀末に、Śailendravaṃṣatilaka(英: the ornament of the Shailendra dynasty、「シャイレーンドラ王家の装飾」の意)であるシャイレーンドラ朝の王インドラ(ダラニンドラ(英語版))、即位名サングラーマダナンジャヤ(梵: Saṁgrāmadhanaṁjaya、782-812年頃)の命を受けた王師クマーラゴーシャ(梵: Kumāraghoṣa)がマンジュシュリー(文殊師利)像を奉献したことにより建立された。 これによりセウ寺院は、プランバナンの近隣のヒンドゥー教シヴァ派寺院であるプランバナン寺院より50-70年余り前、仏教寺院であるボロブドゥール寺院の当初の着工とほぼ同時代に創建され。マンジュスリグラ碑文により、その後792年に増拡によって改変されたものとされる。セウ寺院はケウ平原(プランバナン平野)の地域において最大の仏教寺院であり、マンジュスリグラ碑文は完成した寺院複合体の尖塔の美しさを讃えている。 セウ寺院の南300メートルに位置するブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、尼: Candi Bubrah)と東300メートルに位置するガナ寺院(チャンディ・ガナ、尼: Candi Gana〈チャンディ・アスゥ、尼: Candi Asu〉)は、おそらくマンジュスリグラ複合体の前衛寺院としての役割を果たし、セウ寺院を囲む東西南北を守護していた。セウ寺院の北250メートルにロル寺院(チャンディ・ロル、尼: Candi Lor、西方にはクロン寺院(チャンディ・クロン、尼: Candi Kulon)の遺構も認められるが、それらの場所にはわずかな石材が残るのみであり、ともにほぼ消失した状態にある。
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建立
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「救世主ハリストス大聖堂」の記事における「建立」の解説
1812年12月25日ロシア皇帝アレクサンドル1世によって、ナポレオン戦争(1812年ロシア戦役、祖国戦争)後、戦勝記念と戦没者慰霊を目的に大聖堂の建立が勅裁された。実際に建設が開始されるまでは時間がかかり、1817年着工された。アレクサンドル・ヴィトベルク(英語版)設計による当初案では、新古典主義を基調とし、建築フォルムに意味を持たせた意欲的なものであった。大聖堂は、モスクワ・雀が丘で起工されたが、ヴィトベルクが経理上の誤りの責任を問われてヴャトカに流刑とされた上、敷地予定地の地質が軟弱であったため、工事は一旦中止に追い込まれた。 その後、アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世の依頼を受けたコンスタンチン・トーンの再設計により、1839年に現在のモスクワ河畔、クレムリンの向かい側に敷地を移して建設工事が再開された。建設に先立ち予定地にあった教会、修道院は移転した上で1839年9月10日礎石が置かれた。 デザインについて概して言えば、中世ロシアで建てられていたビザンティン建築の教会に範をとっているものの、通例みられるビザンティン建築の形状とはかなり異なっている。実際のモデルとしては、モスクワのクレムリンにある生神女就寝大聖堂と聖天使首大聖堂、モスクワのドンスコイ大聖堂、コローメンスコエの主の昇天聖堂などが挙げられる。外観についてはサンクト・ペテルブルクにある聖イサアク大聖堂へのオマージュもみられる。 内装はワシーリー・スリコフ、イワン・クラムスコイ、ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンらロシア国内の芸術家を総動員し、19世紀における技術革新によって可能となった巨大な内部空間に壁画や彫刻を配置した。特にフレスコ画は完成に12年を閲し、この荘厳な大聖堂は完成に44年もの歳月を要した。大聖堂は1883年6月7日(ユリウス暦:5月26日、主の昇天祭)、アレクサンドル3世の戴冠式と同日に成聖された。 なお、成聖の前年(1882年8月20日)には、チャイコフスキーの「序曲1812年」が大聖堂で演奏されている。
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建立
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ロシア皇帝アレクサンドル2世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、次第に反動化していった。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れた。行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤによって指揮された「人民の意志」のテロリストは皇帝を狙って手榴弾を投げた。手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させたが、皇帝は無事であった。しかし現場を見るために御料車を降りた皇帝の足下に別のテロリストが爆弾を転がして爆発させ、瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御した。 教会の建立は、アレクサンドル2世の跡を継いだアレクサンドル3世によって先帝を弔うために行われた。教会はグリボエードフ運河の河畔で、アレクサンドル2世終焉の地に建設された。この地はグリボエードフ運河がモイカ川(Moika)から分流する地点にあり、またさらにモイカ川がフォンタンカ川(Fontanka)から分流する地点にも比較的近い。 建設資金は、帝室であるロマノフ家のほか、広く一般の献金によってまかなわれた。工事は1883年に着工されたがアレクサンドル3世在位中には完成せず、教会の完成を見たのは次のニコライ2世の治世に入って13年目の1907年である。
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建立
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1942年2月15日に英軍が降服してシンガポール攻略戦が終わり、日本軍(第25軍)がシンガポールを占領すると、第25軍司令官の山下奉文中将は、シンガポール最大の激戦地となり、日英双方に多くの犠牲者を出したブキテマ高地を「武威山」と命名、マレー作戦およびシンガポール攻略戦で戦死した3,500柱の英霊を慰めるため、同高地に山下が自ら設計した忠霊塔が建設されることになった。 忠霊塔の建立は、昭南神社と同じく、当初は横山部隊(第15独立工兵連隊)、後に田村部隊(工兵第5連隊)が担当し、1942年5月頃から数週間かけて、連合軍の捕虜を使役して、ブキット・バトク(英語版)の丘の上に至る参道が建設された。ブキテマ街道(英語版)から丘の頂上まで百数十段の石の階段が3段にわたって作られた。 忠霊塔は同年9月に竣工し、9月10日に除幕式が行なわれた。第25軍軍政顧問の徳川義親は、マライ各州のスルタンから忠霊塔建設のための寄付金を徴収し、除幕式の後、同月13日にジョホール州のスルタンから5,000円、翌10月9日にケダ州のスルタンから5,000円を受領した。 忠霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ12メートルの木造の塔だった。塔の北側には高さ約3メートルの十字架標が建てられ、連合軍戦死者の霊を弔った。
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「日本占領時期死難人民記念碑」の記事における「建立」の解説
1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、シンガポールの東海岸一帯で日本軍が占領直後に行った華僑粛清の犠牲者の遺骨とみられる大量の白骨が出土したことをきっかけに、シンガポール中華総商会(英語版)は「日本占領時期死難人民遺骸善後委員会」を組織してシンガポール全島で遺骨の発掘調査を行い、遺骨を埋葬して慰霊碑を建設することになった。 1963年3月には「日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会」が結成され、記念碑建設のための募金が始められた。同年4月にシンガポールで行われた募金運動の開会式では、リー・クアンユー首相が演説をした。 1966年3月に慰霊塔の建設工事が開始され、建設途中の1966年11月に、島内35ヵ所から発掘・収集された遺骸を納めた甕607甕のうち、身元が判明した2甕を除いて605甕が台座の下に収められた。 1967年1月に竣工、竣工後の管理はシンガポール政府に委ねられた。 記念碑の建設費用48.7万シンガポール・ドルは、シンガポール中華総商会などが集めた募金28万シンガポール・ドルと、政府からの拠出金20.7万シンガポール・ドルで賄われた。
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建立
「建立」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は妻をしのんで寺を建立した
- 彼らは記念碑の建立を計画している
- 政府は内戦の退役軍人に対して碑を建立した
- システィナ礼拝堂は、1473年にバティカン宮殿内に建立された壮大な礼拝堂です。
- 私の知る限り、この大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- その大聖堂の建立は中世にもさかのぼる。
- その大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- この壮大な大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- 記念碑建立の議
- 記念碑建立の議あり
- 故人のために墓碑を建立する
- 勇士の霊を祭って記念碑を建立する
- 記念碑を建立して偉人の霊を祀る
- その宮を建立するのに四十年の年月を費やした
- 寺院を建立した貴人
- 氏族が冥福と現世の利益を祈るため建立した寺
- 幕府の建立した寺
- 社寺建立などの勧進のために催す興行
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